15日㈪、夜は綾部市斎場にて、森永豊さんの通夜に参列した。
森永さんは綾部政経懇話会の役員として、父の選挙をずっと応援していただき、私も引き続いて大変お世話になった。カラオケやお話が好きで、政経懇話会の親睦旅行ではいつも賑やかな輪の中心におられた。
91才という大往生を果たされ、最後までご家族に見守られた良い生涯を送られたと思う。ご生前のご支援に感謝し、心からご冥福をお祈り申し上げます。
15日㈪、夜は綾部市斎場にて、森永豊さんの通夜に参列した。
森永さんは綾部政経懇話会の役員として、父の選挙をずっと応援していただき、私も引き続いて大変お世話になった。カラオケやお話が好きで、政経懇話会の親睦旅行ではいつも賑やかな輪の中心におられた。
91才という大往生を果たされ、最後までご家族に見守られた良い生涯を送られたと思う。ご生前のご支援に感謝し、心からご冥福をお祈り申し上げます。
8日㈬、午前中は黒田實さんの葬儀に参列。
今から17年前に「げんたろう新聞」の発行を始めた時、最初は川糸町内は貴田清さんに配っていただいていた。貴田さんが病気で配れなくなった後は黒田さんに引き継いでいただき、今年の1月まで配っていただいていた。
今年の2月頃に「本人は自分が配ると言って聞かないんですが、先日も配りながら何回もこけて、とても無理なんです…」と親戚の方が申し訳なさそうに電話をしてこられた。体調の変化に気がついておらず、本当に申し訳なかったと思い、御礼とお詫びのハガキを書いてから、まだ3ヵ月ほど。急逝の報を聞いて驚いた。
10年以上前に「ほろにがクラブ」に入った時は会計をしておられて、いつも美味しそうにビールを飲んでおられたし、釣り竿や畑仕事の道具を自転車に載せて颯爽と走っておられた姿が懐かしい。
大変お世話になり、本当にありがとうございました。心からご冥福をお祈り申し上げます。
NPO法人北近畿みらい(四方八洲男理事長)では今年度、北近畿みらい塾を数年ぶりに再開され、「祈る、聴く、食べる」と題して「奥京都国宝(重文)十箇寺巡り」(各回参加費は8,000円~9,000円、昼食付)を計画されている。
第1回(5月10日)の観音寺(福知山市)、光明寺(綾部市)で昼食(あやべ温泉)は、すでに〆切を過ぎているが、第2回(6月14日)は松尾寺(舞鶴市)、多禰寺(舞鶴市)で昼食は「ふるるファーム」となっており、第5回(11月29日)まで開催される。
各回ともに、出発は綾部駅北口から貸切バス利用で、〆切は10日目まで。
申し込みは北近畿みらい 電話0773-40-2211、FAX0773-40-2244、メールinfo★k-mirai.net(★を@に変えて下さい)にどうぞ。
9日㈭、午前中は中丹東土木事務所の細井浩一所長らと続いて、中丹広域振興局の大槻督昭農林商工部長らが来られて、今年度の京都府の土木・農林事業の箇所決定の説明を受けた。
午後は北陸新幹線の敦賀以西ルートに関して、石川県の県紙である北國新聞の記者の方がわざわざ金沢から取材に来られた。
北陸の人にとっては「由良川の源流」や「京都大学の芦生演習林」のことはあまりご存知なく、なぜ京都府民が現行ルートに懸念を示し、南丹市美山町田歌地区の住民の方々が環境アセスメントにも反対しているのかが理解できていなかったようだが、お話すると「それは推進するのは、なかなか難しそうですね」とおっしゃっていた。
「京都府北部にとっては現行ルートの推進にデメリットがあることはよく分かりましたが、如いてメリットがあるとすれば?」と質問されたので、「トンネルの残土を運び出す運搬業者の仕事ができることでしょうか」と言ったら「それだけでは寂しい話ですね」と言っておられた。
夜は綾部中学校PTAの第2回運営委員会に出席し、今週末の総会に向けての議案審議などを行う。
10日㈪、10時から正暦寺名誉住職、第十九世正信住職の葬儀を行った。福知山の観音寺の小藪實英住職に導師をお世話になり、たくさんの僧侶の方々にお参りいただいた。
昨夜の通夜も含め、ほとんど雨に降られず、無事に終わってホッとした。多くの檀信徒、住職のご友人などの大きな助けに心から感謝申し上げます。
葬儀では筆頭総代として、弔辞を読み上げた。
弔辞
正暦寺前住職、故玉川正信様のご霊前に、正暦寺檀信徒を代表して、謹んでお別れの言葉を捧げます。
今年の一月、不動明王大祭を数年ぶりに元の形に戻して催行しました。その様子を家の中から見ておられた御姿を遠くから拝見したのが最後になってしまったこと、本当に残念でなりません。
おじゅっさん、八年前に住職を退かれてもなお、私にとって、おじゅっさんと言えば、前住職でございました。私の祖父と父も正暦寺の筆頭総代を務め、長年にわたり、本当にお世話になりましたし、私も物心つく前からかわいがっていただきました。檀信徒の皆様もおそらく同じ気持ちではないかと思います。先週の日曜日には、今日のための草刈りを前日の急な呼びかけにもかかわらず、多くの皆さんに蒸し暑い中、作業をしていただきました。一昨日朝からの会場準備にも、たくさんの方にお越しいただきました。それも、おじゅっさんの人徳あればこそだと感じました。
玉川正信前住職は昭和13年6月に長崎県平戸市にある阿弥陀寺の住職であった玉川光月(こうげつ)、歌香(うたか)夫妻の次男として誕生。高校三年で神戸の大龍寺に弟子入りされ、高野山高校、高野山大学を卒業した後は教師として、大阪の履正社高校にお勤めであったとお聞きしております。
昭和38年、25才の時に正暦寺の先々代住職の娘さんである滋子夫人と結婚され、この正暦寺に来られました。三男一女の四人のお子さんを育てるため、結婚後も教師の仕事を続けられ、網野高校、福知山高校、綾部高校で53才まで教鞭を執られました。
昭和52年、39才で正暦寺第十九世住職にご就任され、平成27年に引退されるまでの38年間、正暦寺の護持・発展に尽くしていただきました。その間には、不動堂、水子堂、水子地蔵、位牌堂、大師堂、庫裏、地蔵堂の建立や改修を進められ、その功績には大なるものがあります。
前住職は旅行が大好きで、国内はもとより、中国や東南アジアの仏教史跡を中心に、海外にもよく行かれていました。私も檀信徒の親睦団体である真和会の旅行で昼神温泉にご一緒したり、吉野・高野・熊野を訪ねる旅では高野山の松長有慶管長の法話を一緒に聴かせていただくなど、共に旅した楽しい思い出がたくさんあります。
特に印象に残っているのは、前住職の故郷、長崎県平戸市の阿弥陀寺を訪ねた旅です。阿弥陀寺は平戸島の南端に位置し、弘法大師もここから中国に渡ったと伝わる最果ての地でした。
行きの新幹線の中で自分の生い立ちを語ってくださいました。前住職はわずか4才でお父様を亡くされたそうです。昭和17年、数十名の檀家さんと戦勝祈願に向かわれた際、船長の不手際で船が転覆し、多くの方が犠牲になられました。お父様は一緒に乗っていた奥様や数名の檀家の方々を助けた後、死んでお詫びを、と思われたのか、自ら海に沈み、帰らぬ人となられたそうです。
たった4才で父親を亡くした前住職のご苦労は想像に難くありません。戦中・戦後の厳しい時代、お兄様と二人、お母様を支えて阿弥陀寺を守られ、中学生の頃には一人で葬儀のお勤めをこなされていたそうです。お兄様が学校を卒業して寺に戻られると、自らは神戸の寺に修行に出る道を選ばれました。
それを私に話した後、「だから、僕は説法をしないんや」と口をへの字に結んでおっしゃいました。お父様が責任をとって自ら命を絶ったこと、生きていてほしかった、その死の意味がどうしても自分の心の中で整理がつかなかった、そのままで何もかも分かったように他人に説法できないという意味だと私は感じました。
どんなことがあっても生きる、そして生きている今を楽しむ、それがおじゅっさんの人生をかけた説法だったのではないかと今、感じています。
おじゅっさんは喜怒哀楽を表に出される方でした。檀信徒の前でも、喜び、怒り、楽しむ、そうした姿を隠されませんでした。しかし、喜怒哀楽の「哀」、私がおじゅっさんの哀しみを見たのは、この話をされた時だけでした。
数日前、弘信住職と二人、横たわるおじゅっさんの傍らで話をしました。「亡くなられたことは悲しいけれども、正暦寺のためにも、自分や家族のためにも、やり尽くして生き抜かれた。もう何も思い残すことはないでしょう。まさに天寿を全うされたと思います」と声をかけました。
住職は「何年か前、萩まつりで親父の趣味の日本酒ラベルコレクションを展示したんやけど、親父は住職の時には絶対展示せんかったんや。酒飲みやと檀家さんに思われたくないからと。そんなんバレとるのにね」とおっしゃっていました。親子はよく率直に物を言い合っておられて、口論になることもあり、私たちは傍でどうしていいか戸惑うことがありましたが、互いの長所短所をわきまえ、互いに尊敬していることがよく分かる親子関係、師弟関係であったと思います。
また、大好きだったカラオケでおじゅっさんがよく歌っておられたのは五木ひろしの「由良川慕情」でした。正暦寺の眼下を流れる由良川を思い、また故郷・平戸への思いも重ねておられたのかもしれません。「由良川慕情」にこんな一節があります。
里山の茶畑掠め
渡る風 飛ぶつばめ
丹波綾部の 山坂越えて
どこまで旅する 倖せ求め
由良川に 願い托して
笹舟浮かべ 祈るひと
泣くんじゃないよ 我慢しな
どこの誰やら 我慢しな
これからはツバメのように自由な身となり、どこにでも行くことができるでしょう。平戸の阿弥陀寺にも、ここ正暦寺にも、高野山にも。
おじゅっさんは私と話をすると、いつも決まって「弘と一緒に正暦寺を盛り立てていって下さいね」とおっしゃいました。
それはもちろん、お約束いたします。3年後に迫る33年に一度の御本尊の御開帳に合わせた本堂の屋根修理に今、取り組んでいる最中でもあり、今後もお寺の護持に務めると共に、弘信住職が目指されている「困った時に頼れるお寺」「悲しみ事だけでなく、楽しい事でも集まれるお寺」になるよう、私も努力いたします。
おじゅっさん、後のことはご心配なく、どうか安らかにお眠りください。そして、いつも何も言わず、おじゅっさんを信じて支えられた最愛の奥様、ご家族、そして正暦寺のことを守ってください。
長い間、正暦寺のために働いて下さり、本当にありがとうございました。そして、本当にお疲れさまでした。
ここに、正暦寺第十九世、正信住職のご冥福をお祈りし、弔辞とさせていただきます。
令和五年七月十日
正暦寺 筆頭総代 四方源太郎
(写真は阿弥陀寺を訪ねた旅にて)
葬儀の後は中澤勝司総代と共に斎場まで行き、最後のお別れをさせてもらった。
(写真は晋山退山式の様子)
準備、通夜、葬儀共に大雨の予報だったが、ほとんど雨が降らず、出棺の時に急に雨が降ってきた。それは、おじゅっさんの「演出」のような気がした。
また、一昨日、小源太が財布を落としたと言ってきたそうで、お金はもちろん、マイナンバーカードや保険証やキャッシュカードやいろいろなものが入っていて、なくすと再発行になるので、妻が「この忙しい時に!」と嘆いていた。
東京でどこで落としたのかも分からず、当然、返ってこないだろうと諦めていたところ、葬儀の直前に小源太から「警視庁から電話があって、お金も中身もそのまま入っていた」という連絡があった。これもおじゅっさんが探して戻してくれたのかもしれないなと思った。
12日㈭、11時から上田松治さんの葬儀に参列。上田さんには、あやべ福祉フロンティアの中上林支部を立ち上げた頃から運転ボランティアをしていただいていたのと「げんたろう新聞」を配っていただいてもいた。
フロンティアの中上林支部はフロンティア設立の翌年だったか2000年頃に発足した。歴代支部長の川北貞二さん、阪田恵一さん、福井三良さんには本当にお世話になったし、今は森井俊明さんが支部長を務めていただいている。
2005年頃の運転ボランティア名簿には黒川泰信さん、石原経雄さん、上田松治さん、横川勤さん、古和田輝二さん、稲住幸雄さん、福井進さん、福井のり子さん、温井勇夫さん、小阪鉄男さん、杉尾三好さん、井関治さん、森井亮さん、引原幸子さん、井関祐さんといったお名前がある。その方々とは年に一度は森本屋で懇親会があり、曽根理事長と一緒にいつも招かれていた。福井英一さん、川北雄一さんも2000年の頃には中心メンバーであってよく話をした。当時、綾部の福祉について、あれやこれやと厳しくもやさしく、話をしていただいていたのが本当に懐かしい。
上田松治さんの遺影を拝見しながら、「あの頃、みんな元気だったなあ」と森本屋でのあの元気で明るい宴会を思い出していた。
午後は来客や打ち合わせなど。
筆頭総代を務めている那智山正暦寺(玉川弘信住職)では1月29日㈰に「不動明王大祭」を行います。ここ数年、コロナによって縮小開催をしてきましたが、今年は通常に戻す予定です。
お祭りは10時開会、護摩焚きは11時からです。ぜひ、皆さんお参りください。
護摩焚きの護摩木は四方源太郎事務所でも預かっています。個人(300円)、自動車(1,000円)で自動車には「交通安全お守り」が付きます。護摩木は当日、会場でも受け付けますが、事前にも書いていただけますので、ぜひこちらもご利用ください。
大根炊きの無料接待もありますので、そちらもご賞味ください。
16日㈯、10時から上林川を美しくする会(井上信治会長)の総会に出席した。東綾小学校の子ども達が川のことを調べて発表された後、開会挨拶が行われ、来賓の挨拶、来賓紹介と続いた。
13時からは、NPO法人あやべ福祉フロンティア(玉川弘信理事長)の前理事長である曽根庸行さんの葬儀に参列。
5月末から入院され、6月1日付のあやべ市民新聞で自らがガンであることを公表され、治療に努められましたが、6月10日過ぎからLINEなどでの連絡がなくなり、どうしておられるのか?抗ガン剤治療で苦しんでおられるのか?と心配していたところ、いったん退院されることになっていた7月13日の朝4時過ぎに容態が急変し、お亡くなりになった。
23年前の設立総会において理事長、副理事長に選任され、二人でフロンティア草創期から現在までを築いた関係でもあり、弔辞を読ませていただくことになった。曽根さんへの感謝の想いは、すべて弔辞の中に込め、お別れをした。
棺の中の曽根さんは生前とあまり変わらず、眠っているような穏やかな顔をしておられた。
(写真は2015年9月14日、弟・豊さんの個展:ギャラリーカフェ日々)
弔辞
故曽根庸行様のご霊前に謹んでお別れの言葉を捧げます。
曽根さん、いまだに信じられない思いで、ここに立っております。今でも電話をかければ、「おーい」と出られるのではないかと思ってしまいます。
23年前、二人で「あやべ福祉フロンティア」を立ち上げた時、私はまだ25才、曽根さんも59才という年齢でした。
体が不自由だった弟の豊さんとの約束で、定年の2年前に会社を退職され、「これまで我慢させた分、これからは弟を行きたいところに連れて行ってやるんだ」と話しておられました。しかし、私とフロンティアを立ち上げたことによって、結局、弟さんとの約束は果たせなくなりましたが、綾部の高齢者や障害者に寄り添って、その方々の「心の杖」となり、「足」となり、福祉の向上に尽くされた後半生を送られました。
口筆画家だった豊さんが亡くなられる直前には夢だった「自宅での個展」の開催に奔走され、「兄ちゃん、僕は世界で一番の幸せ者だね」と笑顔で逝かれた豊さんを兄として立派に支えられた人生でもありました。
曽根さんは私の父と同級生で、幼い頃からの無二の親友でした。若い頃からよくうちの家に来ておられて、私もずいぶん可愛がってもらいました。まさに親子の年齢差があったため、いずれはこうして見送る日が来るとは思っていましたが、ついこないだまで元気で話をしていたのに、こんなに早く、こんなに突然に、この場に立つことになるとは思いませんでした。
曽根さんが人を巻き込む力は人並み外れていました。野球や仕事、遊びを通して培った人間関係は広く、面倒見が良くて、言葉より行動を重んじる、心の優しい人でした。無口で静かな人ですが、いつの間にか傍に来て、懐に入り込むという不思議な人でもありました。
フロンティアを立ち上げ、その仕組みを作り上げた時も、私の考えを全て認めて、自由にやらせてくれました。
今朝も入院の二日前に曽根さんと会って話したという方からお悔やみのメールがあり、「いつも源ちゃんが、源ちゃんが、とニコニコ様子を話しておられましたよ。私から見れば曽根さんと源太郎さんはいつも一緒で、いろいろな意味で同志だと感じてきました。源太郎さん、大丈夫ですか?」と書いてありました。
曽根さんがフロンティアのことを説明する時には、「これからの綾部にはこういった事業が必要だと源ちゃんが考えてくれた」と常に私を前に立てるように話していただきました。
しかし、当然、曽根さんがおられなければ、今のフロンティアがあるはずはありません。
私に自由に力を発揮させ、自らは縁の下を支えた曽根さんあったればこそ、フロンティアは日本一の活動回数を誇る福祉移送団体に成長しました。
「あやべ福祉フロンティア」という団体名を考える時に、他にもいくつかの候補がありました。当時の役員で「あやべ福祉フロンティア」と「あやべボランティアクラブ」の2つに絞り、最後は曽根さんが「あやべ福祉フロンティア」と決められました。
「フロンティア」には「開拓者」という意味があり、「綾部の福祉の開拓者になる!」という決意を込めました。新しいことが好きだった曽根さんはこの「開拓者」という言葉を気に入っておられたように思います。それゆえ、フロンティアの活動は、今では福祉移送にとどまらず、清山荘の運営や病院ボランティアなど、様々な方向に広がっています。
私たちは一部の人が苦しむことで成り立つ従来からの「福祉」や「ボランティア」ではなく、「喜ばれる喜びをエネルギーとして、みんなが参加する、参加できる新しい福祉を創りたい」とよく夢を語り合っていました。
後継者ができずに困っている福祉団体が多い中で、フロンティアは後継者を作って、永遠に継続できる組織にしましょう!そんなことができるのは僕と曽根さんだけですよとも話していました。
2年前、私が先にフロンティアの副理事長を退任し、先月の総会で曽根さんも理事長を退かれて、玉川弘信新理事長に引き継がれました。
設立当時、6名いた理事と2名の監事は、曽根さんを最後に全員が退任し、フロンティアは新しい道を歩き始めました。
私たちの目標は達成し、肩の荷が半分降りたと思っていた矢先の訃報でした。誠に残念ですが、野球の名選手、名監督であった曽根さんらしい絶妙のタイミングだとも思います。
私は曽根さんと一緒にフロンティアを立ち上げ、同じ志を持って綾部の福祉のために活動できて本当に良かった。今は曽根さんへの感謝の想いで一杯です。
国交省、京都府、綾部市、税務署、国税不服審判所、厚労省など、いろんなところに二人で無謀な闘いを挑みにも行きましたね。
喋るのはほとんど私でしたが、曽根さんはどこへでも一緒に行ってくれ、役所の冷たさや理不尽さに一緒に憤ってくれました。曽根さんが時々、発言する内容が、たとえ的を得ていなくても、曽根さんはずっと私の味方でした。
互いに分かり合い、共に闘った同志でした。百歳まで元気でいると言っていた曽根さんとは、まだまだ一緒に、次の新しいことに挑戦できると思っていました。
曽根さんとの思い出を語ると終わりがありませんが、お別れしなければなりません。曽根さんもゆっくりしたいでしょう。今はもう携帯の着信を気にすることなく、どうか安らかにお眠りください。
曽根さんが、綾部市民のために、また綾部の福祉に遺された功績は、私が死ぬまで語り続けます。
この上は、最愛の奥様やご家族、そしてふるさと綾部市のことをいつまでも天国から守ってください。
別れたくないけれども、お別れします。曽根さん、ありがとうございました。本当にお疲れさまでした。
故曽根庸行様のご冥福を心からお祈りし、弔辞とさせていただきます。
令和四年七月十六日
京都府議会議員 四方源太郎
(写真は2013年6月29日、あやべ福祉フロンティア総会:亀甲家)
6日㈪、夕方に舞鶴の本田太郎事務所に北部の自民党府議が集まり、選挙に向けての会議を行った。
7日㈫、夜に西村敏雄さんの通夜に参列。西村さんには、父の後援会役員としてお世話になり、私の後援会の役員としても、最後までお世話になった。
施設に入られ、げんたろう新聞の配達ができなくなったとお聞きしたのが2年ほど前だったか、それからお目にかかる機会はなかったが、実直な方で変わらず支えていただいた。心からご冥福をお祈り申し上げます。
8日㈬、朝から京都へ。12時半から議員団会議、13時半から府議会のペーパレス研修に出席した。これからタブレットを使って紙資料を減らしていく取り組みを行っていく。
9日㈭、10時から、オンラインとアナログを組み合わせて、「綾部MBTプロジェクト」の会議を行った。
人口減少や高齢化が進むことで生じている綾部市の様々な地域課題を民間企業、NPO、政治、行政が連携して解決する仕組みの構築に1年ほど前から取り組んでおり、そのうちの一つ「綾部MBTプロジェクト(医学を基礎としたまちづくり)」ではまずは取っ掛かりとして「買い物支援を入口にした健康・医療のまちづくり」の仕組みの構築を進めている。
置き薬の企業である竹内薬品㈱(丹波市)、置き雑貨の販売システムを提供しているママタイム㈱(姫路市)、それらの企業を取りまとめる㈱enlink(港区)の協力を得て、今日は事業の進捗状況をお聴きして意見交換を行った。
すでに1ヵ月前から竹内薬品が綾部市内でも「置き雑貨」事業をスタートしていただいており、綾部市民の生活を豊かにしていくために、今後どう展開していくかについて、有意義な話し合いができた。
コロナの感染状況を見ながら、年内には綾部市民の皆さんに事業概要を説明する場を作っていきたいと思っている。
オフラインで会議に参加してもらった竹内薬品の竹内秀介社長、弟さんの竹内常務とNPO法人ふきのとうの小林勝事務局長とで、綾部ふれあい牧場で昼食を食べながら、さらに懇談した。いろいろアイデアが出てくるので、面白くなってくると思う。
最近、丹波市の峠道に出没していたニワトリが突然姿を消したと話題になっていたそうだが、実は綾部市の企業のトラックに乗り込んできて、運転手がそのまま連れ帰り、今は綾部ふれあい牧場で飼われている。
綾部市と丹波市がこんなところでも繋がっていると感じた。
このエピソードは丹波市、篠山市をエリアとする丹波新聞でも大きく取り上げられているようだ。
【丹波新聞2021年9月1日付】ニワトリいずこへ 住民と心温まる交流 突然の珍客を交代で見守る/兵庫・丹波市
【丹波新聞2021年9月5日付】「元気にしているよ」 山中にいたニワトリ まさかの”ヒッチハイク”で保護、牧場で生活/兵庫・丹波市
12日㈯午後、葬儀に参列。同じ並松町自治会の藤田正巳さんが亡くなられた。
自治会の副会長もしていただいたし、正暦寺でも役員や境内の手入れなどで大変お世話になった。物静かに着実に仕事を進めていかれる方だった。
心からご冥福をお祈り申し上げます。
その後は事務所で事務仕事。今年の自民党綾部支部総会はコロナのために「書面決議」とした。返信はFAXで送っていただいている。今日もたくさん返ってきていた。
13日㈰、午前中は熊野新宮神社の6月例祭の準備、掃除、祭礼、片づけへ。
神社には本殿の他に「小宮さん」と呼ばれる産土総社、金比羅神社、厄除神社、恵比須神社の四つの神社がある。このうちの産土総社というのは、全国の産土神(土地の神様)の「総社」となっているが、これは大本と熊野新宮神社の関係によるものだそうだ。
来月28日には、熊野新宮神社の最大の行事である水無月大祭が行われる。本来なら花火大会もあるのだが、今年はコロナのために中止が決まっている。
13日㈫、夕方、大相撲の元麒麟児、北陣親方が3月1日に亡くなっておられたというニュースが流れた。本当に残念だ。
大相撲・綾部場所ができたのも、それが京都場所につながったのも、すべて北陣親方のおかげだった。やわらかい物腰、丁寧な物言い、明晰な頭脳、ああいう親方がおられなければ、とてもできることではなかっただろう。
うちの父が飛び込みで両国国技館を訪れた要請にすぐに応じて、綾部の上杉の体育館を観に来られて、「ここなら大丈夫!できます!」と太鼓判を押していただき、自分が担当していた徳島場所の見学にもお招きいただいた。
話も大変お上手で、入門当時の苦労話、富士桜や輪島との取り組みの裏話など、様々な話を飽きさせずに聴かせていただいた。
二度とお目にかかれないということを本当にさみしく思います。心からご冥福をお祈りいたします。
14日㈬、議員団会議に出席するために、朝から府議会へ。16日に4月臨時議会が開催されることが報告された。
20日㈯、午後は事務所に相談での来客。
また別の訪問先でたまたま最近、綾部工業団地に立地していただいた㈱ファーストダウンの白井雄樹社長にお目にかかり、挨拶させていただいた。
まだ34歳と若く、新進気鋭の経営者だった。カット野菜の加工販売の事業をしておられるが、他にも農業に関する様々な事業に関心をお持ちとのことで、京都府の農林水産部長をご紹介することにした。
夕方には、綾部移住に関心を持っておられるご夫婦が泊まりで綾部見学に来られたのをお迎えし、夜は宿で懇談。
ご主人は二度目、奥様は綾部が初めてのため、綾部市の地域性などを説明した。
21日㈰、朝から夕方まで、ご夫婦を綾部案内した。最初は綾部特産館を観てもらい、その後は上林の物件見学へ。口上林で2件、中上林でも何か所かご覧いただいた。
前回、ご主人が気に入られた上林城の風景を奥様にも観てもらい、城山に上がって、中上林地区を一望していただいた。ここは戦国時代までは豪族・上林氏が居城とし、織田信長の勢力に上林氏が滅ぼされた後、江戸時代になって旗本・藤懸氏が陣屋を置いた。
あやべ温泉で別の移住希望者とも落ち合い、仁王門へ。足元が悪かったが、国宝をご覧いただいた。深い山の中であり、無防備に国宝が建っていることに皆さん驚いておられた。
その後は一路、綾部市の西部地域へ向かい、豊里地区で1件見てもらった後、三豊さんのイチゴのハウスを見学し、最後はJA京都にのくにの野菜直売所で買い物していただいた。
ご夫婦が帰られた後、さらに1時間くらい、後から合流された移住希望のご夫婦に綾部の状況等を事務所で説明した。
コロナ以降、綾部に関心を持たれる方が増えており、歴史や風土の説明をしながら案内することが多くなった。
夜は元綾部市議会議長の川北淳さんの通夜式に参列。
川北さんは農協を退職された後、23年前の平成10年の市議選で初当選され、3期12年、綾部市議を務められた。平成18年から2年間は市議会議長を務められた。
自民党綾部支部では過去に副支部長を務めていただき、現在も相談役としてお世話になっていた。
14年前の私の最初の府議選の際には、現職市議として、雪の深い上林を一軒一軒、あいさつ回りに連れて回っていただいた。
その後も、ずっとお世話になっており、ご病気になられて話すのが不自由になられてからも、家を訪ねると「上がれ、上がれ」とおっしゃっていただいてお話したり、お酒がお好きで会合にもよくご出席いただいていた。
夕食前に仏壇にお茶を供えた後、そのまま仏壇の前で座り込んで亡くなっておられたそうだ。通夜でお顔を拝見したら、ただ眠っておられるだけのようなお顔だった。
心からご冥福をお祈り申し上げます。ありがとうございました。
※写真は平成21年12月20日に開催した自民党綾部支部主催「政治経済懇談会」にて、川北淳副支部長(当時、前列右から3人目)と谷垣禎一総裁(当時)と中上林支部の皆さん
28日㈯午後、朝倉文芳さんの葬儀に参列した。
朝倉さんは高橋輝市議と少年野球等での縁があり、最初の選挙から高橋市議を応援され、引き続いて、私の選挙も応援していただいた。
特に落選してから当選するまでの間、なかなか同じ自治会の中で協力していただける方がない中、一人で自治会全域を「げんたろう新聞」を配って、歩いていただいた。
毎年末に高橋市議と挨拶に行っては、缶コーヒーを飲ませてもらって、作業小屋で1時間くらい政治のことなどを話すのが常だった。「ゲンちゃん、これはアカンやろ」と政治や自民党への批判もたくさんいただいたが、「新聞は配らせてもらう」と毎年、優しくおっしゃっていただいていた。
数年前に病気で倒れられ、ここ数年は寝たきりでかわいそうだったが、何回か家に帰っておられて出会えた時には、奥様や子どもさん方の献身的な介護を受け、ご本人は幸せそうだった。
ここ数年、話ができなかったのは残念だが、話ができたら今の政治について、いろいろ意見をしてくださったことと思う。
本当にありがとうございました。ご冥福をお祈り申し上げます。
事務所に戻り、並松商工会の忘年会のお知らせを作って、配って回った。
夜は渡辺弘造市議のお招きで、中上林公民館での「ミュージックフェスタ」(中上林地域振興協議会主催)へ。
山崎市長や二胡奏者の陳曼麗さん、アマチュアバンドの方々が演奏を披露され、コロナで何もかも中止になる中、元気が出る時間が過ごせた。
29日㈰、午前中から、移住先を探しておられる京都の知人を案内して綾部を回った。良いご縁になると、綾部にとっても大きなプラスとなる方だと思っている。
西部、東部と様々なパターンの物件を見ていただいた。知り合いになって綾部を意識されたのは、まだ数週間前のことで、すぐには決められないと思う。ゆっくりと考えていただければと思っている。
少し遅めの昼食をふれあい牧場で焼き肉。犬同伴でも食事ができるふれあい牧場は貴重な存在だと感じた。天気も良く、賑わっていた。
その後、安国寺をご案内し、紫水ヶ丘公園から綾部の市街地を見ていただいた。
安国寺では茅葺屋根の葺き替えが出来上がっていた。
9日㈪、午前中、あやべ福祉フロンティアの曽根庸行理事長が来られて、先日の「MBT(医学を基礎とするまちづくり)セミナー」の感想と今後の進め方について、意見交換。
綾部でも認知症高齢者が「待ったなし」の状況で増えており、離れたところで暮らす子どもさん方が見守りの仕組みを待ち望んでおられるとのこと。
セミナーを取材していただいたあやべ市民新聞でも、今日付けの1面トップで大きく掲載していただいた。
18時から、了円寺(西町)の中山昭夫住職の通夜式に参列した。93歳の大往生であった。生前には長年、保護司をお務めでもあったし、顕本法華宗の本山・妙満寺で管長も務められた方であった。
中山住職は寺の役員でもある安藤和明市議の強力な後援者であり、私の選挙の際にも応援弁士をしていただいたことがある。大変お世話になった。
以前、西町商店街で「夜の市」が開催されていた時には、寺でも鬼子母神大祭の朝顔市をしておられ、立ち寄ると水無月の菓子と抹茶をいただいて、いろんな話を聴かせていただいた。心からご冥福をお祈り申し上げます。
20時から、舞鶴港のLNG基地プロジェクトに関して、現在までの進行状況や課題についての説明を聴いた。
京都府も本気で「舞鶴港が重要」だと言うのなら、もっとお金を投じて基盤整備を進める必要があると感じた。
17日㈮は午前中、午後と複数の来客。NPO法人運営、学校支援、補助金申請の相談、周年事業の案内などなど。
自民党綾部支部で、60歳ちょっとあたりから下の年齢の青壮年党員の方々に声をかけ、交流会をしようと考え、その日程調整のため、種清喜之幹事長にも来てもらった。
総会等に青壮年党員に参加していただけていないので、少しずつでも参加が増えるように、何か仕掛けないといけないと前から考えており、種清幹事長にはそういう企画をしてほしいと頼んでいた。
夜は綾部の30代の青年二人と会食し、今後の事業やまちづくりの夢についての話を聴かせてもらった。
自分ではまだ46歳で若いつもりだが、すぐに年も取る。37歳で府議になり、委員長、副委員長等をいくつか経験して、10年目になって、ようやく京都府との話もしやすくなってきたように思う。仕事をしようと思うと、準備や修業の期間がどうしても10年くらいはかかってしまう。
綾部の未来にとっては、20代30代といった次の世代との交流も重要で「声をかけてもらったら、いつでも時間を作るから」と約束した。
18日㈯、午前中は葬儀に参列。祖母の実家を継がれた四方憲治さんがお亡くなりなられ、満100歳の大往生だった。
府議に初当選した10年前頃には後援会の会合等に顔を出していただいていたが、その後は高齢のために施設に入られたりしてご無沙汰していた。
仕事とお酒の好きな方だった。心からご冥福をお祈り申し上げます。
俳優の三浦春馬が亡くなったというニュースが流れた。30歳だったらしい。
傍から見ると、順風満帆で何も悩むことなどないように思うが、彼は彼なりに相当な苦しみがあったのだろう。
周りからは分からないことがあるのだろうと思うと同時に、周りからの方が分かることもあったのではないか、とも感じた。自分と周りとの間に、ある瞬間、大きなクレバスが突然生まれ、そこにうっかりと滑り込んでしまったのだろうか。
若い才能が失われたことは、本当に残念。心からご冥福をお祈り申し上げます。
19日㈰、昼前から京都に。電車の中で、三浦春馬が出演している「コンフィデンスマンJP プリンセス編」を観ながら行った。
13時半から、自民党京都府連(西田昌司会長)の役員総会に出席した。今年はコロナの影響で、府連大会も縮小して開催された。さびしい雰囲気の総会となった。
この秋、一気に「解散風」が吹き始めるのではないかと思っている。
早ければ早いほど、自民党にとっては選挙の不利が小さく収まるのではないかと思うからだ。しかし、それもコロナが今後どれほど拡大するのか、その対応策がどれだけ功を奏するのかしないのか、自然災害の発生状況等によっても変わってくる。
まさに「常在戦場」であり、野党の合流ペースも加速しているように感じる。
昨夜、元市議の村上静史さんが急逝されたとの報せを種清喜之市議から聞き、茫然とした。
23日㈯、午前中に静史さんのご自宅を弔問し、ご遺族にご挨拶し、静史さんのお顔を拝見した。ゴルフのラウンド中に急性心筋梗塞で倒れられたとのことで、眠っておられるような全くいつもと変わらないお顔だった。半年ぶりのゴルフで、楽しみに出掛けられたそうだ。
静史さんには私が落選中に市議に出馬していただき、私のためにずいぶんご尽力いただいた。物部地区での演説会等の動員力はいつも群を抜いていた。
また府議になってからも、物部地区の様々な課題箇所をご案内いただいたり、農業のことや地域のこと、いろんなことを語り合ってきた。
市議としては1期だけだったが、後任に種清市議を立てられ、立派に引き継がれた。現地現場の声をいかにして市政に届けるかに重点を置いて活動されていた。
市政報告会をこまめに開催されており、私もいつもお招きいただいてきた。
70代半ば、まだまだお若かかった。つい先日も私の事務所に立ち寄っていただき、農業のこれからのことを話していたばかりだったので、早いお別れがつくづくと悔やまれる。
しかし、静史さんは病気で臥せることなく、元気なままで旅立てたことを自分では喜んで笑っておられるのではないかと思う。最後に事務所で小一時間、お話できたことも本当に良かった。
24日㈰にはお通夜に参列した。「天王院顕示静笑居士」という良い戒名をいただかれていた。
お別れは本当に残念だが、心からのご冥福をお祈りし、私は今後も物部地区や農業の振興発展のために努力することを静史さんにお約束いたします。安らかにお眠りください。
25日㈪は朝から京都へ。10時半から自民党府議団の商工労働観光部会、12時半から議員団会議、13時半から文教常任委員会に出席した。
新型コロナウイルスも、今日でようやく全国の緊急事態宣言が解除された。早く元の生活に戻すようにしていかなければならない。
24日㈫、予定はコロナウィルスの関係でほぼないが、人事異動の季節であり、退任、新任の挨拶に順番にお越しいただく。
東京オリンピックも一年延期で検討されることになったが、コロナウィルスは人間社会に大きな「変化」を創り出すかもしれない。
日本でも、産業の「国内回帰」の動きが高まるだろう。工場を海外移転させたり、部品の全世界調達は難しくなるのではないだろうか?
また、これまでは人口密度が「高い」地域が「発展」しているところで、人口密度が「低い」地域は過疎化して「衰退」しているところと評価されていたが、これも逆転するのではないか。
地価が低い地方では、同じお金でも都市部より大きな家が建てられて、家族同士での感染が広がりにくく、家庭内での隔離もしやすい。
これまではいかに「人がたくさん集まるところの近くに住むかの競争」だったが、これからはいかに「人ごみを避けて暮らすのかの競争」になるのではないだろうか?
日本が誇る「国民皆保険制度」や「高い道徳観」こそが、「生き残りのための知恵」なのだろう。「我良し」から「皆良し」へ、世の中の転換点を迎えている。
夜は綾部青年会議所(大槻浩一理事長)と綾部商工会議所青年部(平野孝会長)からのお誘いにより、紫水ヶ丘公園での桜のライトアップ点灯式に出席した。
山崎清吾副市長、高橋輝市議会議長、塩田展康商工会議所会頭、山下信幸商工会議所副会頭、高崎忍あやべ市民新聞社長が来賓として共に出席した。
点灯式の後は、両団体が進めている「#縁助意(えんじょい)あやべ」の一環として、綾部の料理屋さんの仕出し弁当を一緒に食べた。
「自粛ムード」で飲食店が大変困っている。それを助けようと両団体が呼びかけ、企業でも社員弁当に使うところがあったり、各種団体や家族等での宴会をしてもらおうという企画だ。こういう時こそ、「我良し」ではなく「皆良し」で助け合う必要があり、こういう事業が青年団体ですぐに企画されるところに、綾部の未来への希望を感じる。
25日㈬、親戚でもある亀甲家の前社長である上田暁さんが亡くなられ、朝から葬儀に参列。
上田さんは祖父・源太郎の甥にあたり、四方家から上田家に婿養子に入られた。料理旅館業に加え、モラロジーや了圓寺の役員としても大きな貢献をされた。
90歳を超える高齢のため、最近は体調を崩しておられたが、家族の皆さんのお世話で穏やかな晩年を送られたそうだ。
骨上げ、初七日までお参りさせていただいた。きっと天国でご両親、親族と再会され、積もる話をされることだろう。朝、うちの仏壇にもお参りし、祖父母に「もうすぐ暁さんが、そちらに行かれます」と報告した。心からのご冥福をお祈り申し上げます。
22日㈪、10時半から景徳山安国寺の前住職であった藤本政秀和尚の葬儀に参列した。山崎市長はじめ、綾部市内の教育、観光団体の代表者、檀信徒の皆さん、地元の方々など数多く参列されていた。
安国寺は室町幕府を開いた足利尊氏生誕の寺としても有名で、境内には尊氏と妻・登子、母・清子の3人の墓があり、尊氏やその息子で二代将軍・義詮ゆかりの書状等が残されている。
アニメ「一休さん」に描かれている「安国寺」のモデルにもなったと言われている。
度重なる災害で境内や裏山が崩落する被害を受けられ、藤本和尚はずいぶんご心労があり、それが病気につながってしまったのではないかと拝察している。心からお悔やみを申し上げます。
室町幕府の将軍の庇護を受けた大変格式の高いお寺であり、葬儀の導師は臨済宗東福寺派の原田融道管長猊下がお勤めになり、30名を超えるであろうたくさんの高僧、僧侶が参列されていた。
夜は綾部商工会議所青年部(平野孝会長)の定時総会に出席し、乾杯の発声をさせていただいた。
2年後には近畿ブロック大会という大きな事業を綾部で開催される予定だそうで、数年がかりで準備をしておられる。平野会長を中心に、今年度の活躍にも期待しています!