3月11日㈭、東日本大震災から10年が経ちました。震災やその後の原発事故、苦しい避難生活等によって犠牲になられた方々のご冥福を心からお祈りします。
また家や会社を失い、いまだ生活再建途上にある皆様、原発事故による避難でいまだに元の家に戻れていない皆様の一日も早い帰還、復旧復興をお祈りいたします。
地震のあった時、私は府議選の直前で、豊里の小西町を挨拶に回っていました。
訪ねる先々の家で「大変なことになった!これからどうなるんや?」と皆さん、慌てておられたので、急いで車のラジオをつけると、「家が、家が押し流されていきます。人がいます、人が…」とアナウンサーが涙交じりで叫んでおられたことをよく覚えています。挨拶回りは急きょ取りやめ、事務所に戻りました。
翌4月に府議に初当選した後、1年目に防災危機管理・地球温暖化対策特別委員会に所属し、8月にあった最初の管内視察で福島県の被災地に入りました。
福島市にあった避難所には、原発事故で町ごと避難を余儀なくされた自治体の「仮役場」が置かれていました。
海岸沿いは津波で甚大な被害を受けており、強い衝撃に言葉を失いました。
その視察で一番強く感じたのは、放射能の恐ろしさでした。
立入禁止区域の手前までも視察しましたが、福島原発から30キロ以上離れている福島市でも高い放射線量が検出された地域があったり、距離だけでは測れないものがあるのと、「見えない」恐怖を強く感じました。
福島市から南相馬市に向かう途中、飯館村を通りました。この村も30キロ圏の外にありますが、放射線量が高く、全村避難を余儀なくされていました。まだ人の気配が残る住宅や街並みがガラーンとしていて、若狭の原発群に近い綾部市でも事故が起きれば同じことになるのかもしれないと思いました。
小学校のグラウンドでは重機で土をすくい取り、除染作業が行われていました。これを村全体でやるというのは途方もない作業だと感じました。
飯館村には荒涼とした農地が広がっていましたが、ふと「8月なら、例年はこの農地に稲が青々と茂っていたのかもしれない」と思い、田植え前に避難せざるを得なかった農民の皆さんのことを思い、綾部市民も他人事ではないと強く感じました。
国策で進められた原発の事故が原因で、全村避難を余儀なくされたこの飯館村に政府がどのように支援して復興させるのか?それをしっかり見て、今後も原発を推進できるのか、自分の考えを決めようと思いました。
翌年、2012年6月に自民党京都府連青年局で宮城県女川町や石巻市を視察に行きました。女川町長が町長になる前は自民党県議で青年局のメンバーであったことから、その激励の意味もあったと思います。震災の傷跡まだまだ癒えず、という状況でした。
女川町ではガレキの分別作業を見学して、これも途方もない作業だと感じました。
石巻市では市民ガイドのお世話になって門脇小学校と大川小学校なども視察し、避難をどうするか、とっさの判断の難しさを感じました。
大川小学校で犠牲になった児童と先生、ご遺族の無念さを思うと、今でも胸が張り裂ける思いがします。大川小学校は河口から5キロほど離れており、ここまで津波が押し寄せるとは経験がなければ分からないとも思いました。
それから4年後の2016年10月、府議二期目となり、自民党京都府連青年局では幹事長を務め、「第15期きょうと青年政治大学校」の第一講座の講師として、河野太郎代議士を招きました。そして「原子力核燃料サイクル」の講義を聴きました。
それを聴いて「原発には未来がない」と腑に落ちました。河野代議士は講義後の受講生との交流会にも残って、話をしてくださいました。
その翌年の2017年10月、綾部市の中上林地区公民館である観光センター(八津合町)で行われた原発の住民説明会に参加し、「質問は一人一回で、手短に」などという事前の説明を無視して、質問タイムの冒頭で手を挙げ、資源エネルギー庁や原子力規制庁、関西電力の幹部に対して、「原発から30キロにある綾部市の上林地区住民の避難路整備等の要望にはこれまでほとんど応えていない。危険だけ押し付けて、何かあっても知らん顔では我々は協力できない」と強く異論を述べました。私に続いて、上林地区住民の方も数名、疑問や異論を述べられました。
「原発で働く人は特別な資格を持っていたり、特別な研修を受けているということはあるのか?」との住民の方からの質問に、原子力規制庁の職員が「まあ、それなりに」と答え、「そんないい加減な」と憤りを覚えました。
事前の説明では「発言はビデオで記録され、公開されます」と断りがあったのに、我々の質問部分の映像が一切公開されなかったので、「話が違う」と綾部市に文句を言って、少しだけ文字記録で公開してもらいましたが、今ではネットで検索してもどこにあるのか、出てきませんでした。
その翌月、府議会の府民生活・厚生常任委員会で、南相馬市などへ復興状況の視察に行きました。
東日本大震災から6年半が経ち、住宅移転や土地のかさ上げ、防潮堤建設などの工事は進んでおり、震災を記憶や記録にとどめるためのモニュメントや施設も整備されていました。
一番気になっていたのは、飯館村の状況でした。すでに全村避難は解除されており、村には人が戻り、新しい商業施設も作られて賑わっていましたが、市街地の店舗の多くが閉まったままでした。当時は学校再開される前で、子どもの姿はほとんどありませんでした。
荒れていた農地がどうなっているのか?最も関心がありました。
驚いたのは、除染された土が積み上げられ、ビニールシートで覆われた「仮置き場」が村を覆いつくしていたことです。
綾部がこんなことになってはたまらない。原発事故が起きても、国の役人にとっては「他人事」でしかないことは先月の説明会で感じており、綾部市民の命や土地、自然、文化、歴史をその人たちの保身のために犠牲にできないと強く感じました。
ちょうど、そのころ、舞鶴港でのLNG基地建設や舞鶴~三田パイプラインの敷設、LNG火力発電所開設の計画について、それに取り組もうとする方々から初めて説明を受けていました。
石油や石炭、原子力に比べて、CO2排出が少なくコスト面でも強いLNGの優位性を知ったことで、今はまずLNG火力発電を増やして現在のエネルギー需要に対応し、それをしている間に再生可能エネルギー等の新しい発電技術や省エネ技術の開発を進めることが、日本にとって「最も現実的」だとの結論に至りました。
2019年9月には共同通信によるスクープ記事で、関西電力の会長、社長をはじめ多くの幹部役員が不正に金品受領していたという事実が明るみに出て、「こんな体質の企業に、危険な原発の運用を任せられない」と改めて強く思いました。
自然災害は完全に防ぐことはできませんが、原発事故は防ぐことができる。日本政府が原発をやめる決断をすれば、今は実用的でない他のエネルギー技術も飛躍的に進歩するのではないかと思います。
地下資源に乏しい日本だからこそ、世界をリードする新しいエネルギー技術を生み出す必要があるし、その「新エネルギー開発センター」は東北に置いて、被災地にとって実のある復興を進めていくべきだ。
10年の節目にあたり、被災者の多大なる犠牲を未来への希望の光に変えるために、政府は原発に依存するエネルギー確保の方針を見直すべきだ。
小泉純一郎元総理が訴えておられるのも、そういうことなのだと思う。