30日㈬、15時から北部産業創造センターにて、全国足利氏ゆかりの会(会長:早川尚秀足利市長)主催の講演会で、帝塚山大学文学部の花田卓司准教授から「足利尊氏をめぐる人々~父貞氏・母清子・弟直義」の講演を聴いた。
足利氏は平安時代に河内源氏の3代目、源八幡太郎義家の三男・源義国が下野国足利荘(栃木県足利市)を領地として、その次男の源義康以降の子孫は「足利」を称するようになった。
足利氏は源氏の名門であるが、鎌倉時代には執権北条氏の一族との縁組を重ねて、鎌倉幕府の要職に就いていたようだ。尊氏の妻の登子も北条一門の赤橋家の出身である。尊氏の父・貞氏も最初は北条一門の金沢氏の娘である釈迦堂殿を妻として長男・高義ができたが、その高義が21才で亡くなったために尊氏が足利氏を継ぐことになったそうだ。本来、足利氏の嫡男は「三郎」を名乗るそうだが、尊氏は「又太郎」であった。
尊氏から五代前の足利義氏の時代に特に勢力を広げ、義氏の父・義兼の弟である足利義清(仁木氏、細川氏の祖)が「八田判官代」として文書に出てくることから、この頃から足利氏は丹波国八田郷(今の綾部市の八田地区)を領有していたとされる。
尊氏の母である上杉清子の祖父・藤原勧修寺重房が宗尊親王に従って鎌倉に下向した功績で上杉荘を賜り、「上杉」と名乗るようになったと「上杉系図」には記されているそうだが、上杉荘という荘園は存在しないようで定かではない。八田郷に「上杉」の地名はあり、今でも綾部市上杉町として残っている。
尊氏の父である足利貞氏の時代の文書には八田郷、漢部郷が足利氏の所領と記されており、足利氏の被官(家来)として「上杉三郎入道(上杉頼重、上杉清子の父)」の名が出てくることから、上杉氏は足利氏に仕え、おそらく八田郷の上杉に拠点を置いていたとのこと。
尊氏の母・清子は自ら、綾部市の安国寺(光福寺)を「産まれ育ったところ」と書いているため、清子の出生地が綾部市であることは明らかなようだ。
尊氏も綾部で出生したと伝えられており、清子が安産を祈願したとされる地蔵菩薩像や産湯を使ったとされる井戸も残っているが、そのハッキリした証拠はない。
また、清子と尊氏の文字はよく似ており、尊氏は清子によって直接養育されて親密な親子関係だったのではないかと推測されるとのこと。
これまで足利氏の歴史をここまで深く学んだことはなかったので、良い機会となった。
17時からは、あやテラスにて懇親会。オープニングは綾部太鼓と陳曼麗さんの二胡演奏で始まった。
懇親会の冒頭には全国足利氏ゆかりの会の会長である早川尚秀足利市長が挨拶された。お父さんが元足利市長で、栃木県議を五期務めて、3年前に現職を破って市長になられたそうだ。
懇親会では徳島県阿南市と神奈川県鎌倉市の副市長さんと席が隣りになった。鎌倉市の副市長さんは菅義偉元総理の第一秘書を務めておられたそうだ。
徳島県阿南市は室町幕府11代将軍である足利義澄の次男である足利義維(後に義冬と改名)が「阿波(平島)公方」として移った土地であり、義維の息子義栄は14代将軍となった。
足利氏はさすが源氏の名門であって、全国にゆかりの地が数多くあり、来年は栃木県さくら市で総会が開催されるそうだ。