現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

藤吉郎「槍の長短試合」

2013-01-31 11:21:07 | 戦国武将と城
「スパルタ教育」がいいか、「ほめ育てがいいか」。藤吉郎が
まだ信長に仕えたばかりの「草履取り」だった時のこと。

槍術指南の某が「短い槍の方が、機敏に動け有利」と主張するのに対し、
藤吉郎が「長い槍の方が勝つに決っている」と いちゃもんをつけた。
「長短どちらが有利か」。双方50人ずつの足軽を宛がわれ、一週間後に、
信長公の御前で試合をすることとなった。

その一週間の間、槍術指南は 足軽たちに 徹底的に槍の扱い方を
教えようとした。毎日、はげしい稽古で みな傷だらけ、足腰立たぬ
ほどフラフラになりながらも猛特訓した。

一方の藤吉郎は、足軽たちに連日 酒ご馳走をふるまい、50名を
二組にわけ、半数は長い槍を上下に振って、敵の頭を、半数は
左右に振って、敵の足を払うよう、それだけ練習させた。その上で、
「敵の槍を奪った者には百文、敵を捕らえた者には二百文、大将
(槍術指南)を捕らえたら五貫文の褒美をやる」と宣言する。

いざ 御前試合となり、藤吉郎の方は「三間槍(5.4mの長い柄の槍)」。
一旦引き下がって、槍襖(やりぶすま)を築く。そして 二組に分け、
半数は長い槍を上下に、半数は左右に振る。相手は、連日の猛特訓で
怪我だらけ、足腰もフラフラ。槍を振り回し、必死に突いても
槍が短いので届かない。体力を消耗して自滅してしまった。

勝負は藤吉郎の勝ち。信長から「足軽大将」に抜擢される。

この話、槍術指南の名前が「上島主水」だったり「鈴木主水」だったり
「片桐孫四郎」だったり、ネットでいろいろ出てくる。出典が不明。
どうせ 江戸時代に創られた講談のようだ。

子供の頃『常山奇談』で読んだ気がするが、この話は、ずっと
今日まで私の脳裏にある。「体力勝負」より、「知力勝負だと。

1ヶ月の籠城に耐えた「鶴ヶ城」

2013-01-26 18:05:47 | 戦国武将と城
『八重の桜』で出てくる会津若松の鶴ヶ城。
「赤紫」の屋根瓦がめずらしい。正に、鶴の
頭の赤色を象徴しているようだ。

天守閣の土台が、建物より大きいのも風変わり。
これは、伊達政宗の後、太閤殿下の威光で入封した
蒲生氏郷が、1593年(文禄2年)に建てた天守閣は
7層だった。その後、江戸時代に地震で倒壊した後、
幕府の禁令で「7層」は建てられず、一回り小さく
「5層」にしたためと考えられる。

なお、NHK大河ドラマ『独眼流政宗』で「若松城」と
言っていたが、「「若松」の地名は、蒲生氏郷が
伊勢松阪から移封してきて 付けた名。「鶴ケ城」も
蒲生の「鶴」の紋所に由来するもののようだ。
それまでは「黒川城」だった。

「蒲生氏郷」の後「氏郷の子・蒲生秀行」、「上杉景勝」。
関が原の後、再度「蒲生秀行」が再び入城したが、1627年(寛永4年)
嫡男の忠郷に嗣子がなく没し、秀行の次男・忠知が後嗣となり、
伊予国松山に移封された。代わって伊予松山より「加藤嘉明」が入封。

子の「加藤明成」の時、1611年(慶長16年)に起きた地震で倒壊。
5層の天守に組みなおさせた。

1643年(寛永20年)、家老「堀 主水」との内輪もめで、
「加藤明成」は改易され、3代将軍徳川家光の弟「保科正之」が
出羽から入封。以後、明治維新まで会津(保科)松平家の居城と
なった。

平山城で、南東1,600mのところにある小田山からは大砲の弾が
届く距離。1868年(慶応4年)会津戦争では、連日、頭上から
雨霰のごとく、2,000発もの砲弾を受けたのですが、1カ月も
持ちこたえたのでした。


歴史の必然

2010-08-08 04:03:48 | 戦国武将と城
暑苦しい夏、広島・長崎のことを学ぶ一週間だった。

もともと私は東京なので、「東京も空襲で10万人以上が
亡くなっている。それなのになぜ、広島・長崎ばかりが」
という思いはあった。原爆投下に携わったアメリカ人たち
も「東京空襲は非難されずに、なんで俺たちばかりが
責められるのか」と開き直っている。

一連の原爆関連の記事を見て思うのは、東京空襲で
日本はもう壊滅していた。その時点で、ポツダム宣言を
受け入れれば、広島・長崎の悲劇は無かった。

しかし、アメリカは、科学者等が原爆の実験をした
がっていた。ソ連に対抗して原爆をいち早く完成させ
たことを誇示する必要もあった。

一方日本では、「本土決戦を主張する抗戦派」を封じ
込める“爆弾”が必要だった。日本とアメリカの双方の
思惑が合致したのだ。すべては歴史の必然。歴史に
“もしも”ま“たら、れば”も無い。


日本国家にとっては原爆は“必要悪”。広島・長崎
市民にとっては、この上ない迷惑。国の犠牲にされた
ことへの怨嗟の念は、想像に絶する。

江戸幕府が無血開城し、明治新政府の世となった
ことは、日本にとっては良かったのだろうが、そのため
会津は生贄とされた。新政府の力を誇示する必要が
あったからだ。

広島・長崎もその構図に似ている。会津人は「終戦で
明治以来の薩長閥の政府が滅びた」と喜んだもので
ある。

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歴史は書き換えられる

2010-08-02 10:51:12 | 戦国武将と城
来年のNHK大河ドラマ は『お江』。

戦国時代は「織田が餅突き、秀吉がこね、家康が喰う」と
しか見てこなかったが、最近は、浅井長政に嫁いだ信長の
妹お市の執念「浅井の血が天下をとる」という切り口で
描かれるようになってきた。

お市の長女「淀」は、秀吉の側室となり、秀頼を生んで
一時的にせよ天下人となった。その妹「お江」は、徳川
秀忠に嫁ぎ、その子家光が3代将軍に、娘和子は入内して、
その娘は明正天皇になっているのだ。まさに「浅井の血は、
将軍と天皇にまでなった」のだ。

ひと昔前の歴史小説では「戦国の世に犠牲となる女性」と
いった憐れむべき存在として描かれていた女性が、今は
実にあざやかに 男をあやつり 翻弄してきたか の視点で
描かれるようになった。

女性が歴史の表舞台に踊り出てきたのだ。


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歴史は夜作られる

2010-08-02 09:47:56 | 戦国武将と城
『歴史は夜つくられる』そんなタイトルのアメリカ映画が
あり、時々冗談まじりに使われる。たしかに云いえている。

重要な「御前会議」などは、たいてい深夜に行われていた。

日本の合戦は「夜討ち朝駆け」が多い。信長の桶狭間も、
川中島も、関が原も、赤穂浪士の討入も、新撰組の名場面も、
夜のシーンが決め手となっている。

「夜つくられる」という もうひとつの意味は、妻方や娘の
嫁ぎ先などの女系のつながりが、歴史を動かしていることだ。
まさに「事件の影に女あり」だ。

徳川二代将軍秀忠は恐妻家で、妻の「お江」の云うなりだった。
側室も持てなかったが、一度だけ女中「お静」に手をつけて
懐妊させてしまった。妻の「お江」にバレては大変と、穴山梅雪
の妻に託し、さらにその子は信州高遠の保科正光に預けられた。
正光の妻は真田昌幸の娘だ。
こうして、女共の働きで「会津保科松平家」が誕生した。

おかげで正光の嫡子となっていた弟の正貞は廃嫡となり、諸国を
流浪の末、飯野藩主となる。もう一人の弟正重は、松平忠頼に
預けられ、後北条氏の後を継ぐ。そんな数奇な運命の影には、
桑名藩主、久松 松平定勝の母(家康の生母於大)の存在もあった。

そこで思うのは、徳川家康もそうだが、各大名や、旗本、家臣の
家族構成、縁戚関係まで知り尽くし、世継ぎの決定、次男三男の
処遇、養子縁組、娘の嫁ぎ先まで、口出ししているのだから驚く。

幕末、千葉富津の小藩 飯尾藩が会津保科と関わりのあること
まで、誕生したばかりの明治政府の役人が、よく知っていたと
感心するのだ。



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於大と多却姫

2010-07-31 22:46:29 | 戦国武将と城
初代桑名藩主「松平定勝」(1560年-1624年)の母は、
家康の生母「伝通院(於大の方)」。於大は、刈谷の
城主水野忠政の娘で、松平広忠に嫁ぎ、竹千代(家康)
を産むが、忠政の死後、於大の兄水野信元が織田家に
ついたため、於大は離縁され、後、阿久比の城主 久松
俊勝に再嫁し、定勝を生んだ。

というわけで、家康と桑名藩主 久松(松平)定勝は異父
同母の兄弟である。

多却姫は、家康の父広忠が、於大を離縁した後、平原正次
の娘に生ませた子とも、於大と久松俊勝との間に生まれた
娘ともいわれている。となると、定勝の姉か妹となる。

そして、多却姫は初め桜井松平家の忠正に嫁して、家広を
産む。忠正が若くして亡くなったので、その弟忠吉と再婚
するが、忠吉も若死にする。前夫の間に家広、忠吉との間に
忠頼が生まれた。最初「家広」が家を継ぐが、これも早世し、
異父同母弟の「忠頼」が桜井松平家当主となった。

そして多却は、家康の命で、信州高遠の保科正直に再々嫁し
正光と、(後に北条家を継いだ)正重の2男と2女を生んだ。

吾が家の祖が最初に仕えた松平忠頼の母と、最後に仕えた
保科正之の義祖母が同じ、多却姫だったということになる。
不思議な縁を感じる。


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宮本昌孝 『青嵐の馬』

2010-07-31 21:34:58 | 戦国武将と城
「松平忠頼」で検索していたら、こんな小説にめぐり合った。

宮本昌孝 『青嵐の馬』

内容
 松平忠頼は、関が原の後、遠州浜松五万石を与えられ、
 同時に、徳川家康から、異父弟の保科久太郎を預かれと
 命ぜられた。
 保科久太郎は手のつけられぬ悪たれだった。

 松平忠頼が江戸で殺され、松平家は改易となると、久太郎は
 駿府へ向かい、家康に「お家再興」を願い出る。

 すると、久太郎は、「北条氏勝の養子になって、後北条家を
 継ぐように」と命ぜられる。なにゆえ?。
 久太郎には、出生の秘密があった。

 久太郎は、信州高遠の保科正直の四男で、忠頼と生母を同じく
 する13歳下の弟で、兄弟の生母の多劫(たけ)は、家康の
 異父妹だった…。


驚いた。小説だが、確かな出典はあるのだろうか。

保科 正直(1542年-1601年)の第一子が「正光」。
久太郎はその弟ということになる。
久太郎は、1595年の生まれ、北条氏重となって、
下総国岩富、下野国富田、遠江国久野、下総国関宿、
駿河国田中、そして最期は、遠江国掛川藩主と転籍。

5人の娘がおり、その一人は大岡忠高に嫁ぎ、大岡忠相
の生母となっている。しかし男子なく、氏重の後は断絶。

保科家の方は、兄正光のもとに、秀忠の落胤「正之」
が養子としてはいり、会津保科松平家の祖となる。

わが先祖は、会津保科松平家ができた時、紀州家から
会津松平家に移籍するのである。


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松平忠頼

2010-07-31 20:33:00 | 戦国武将と城
当家の系図には「先祖は『三州松平荘牧の原』の出で、
浜松、松平忠頼に仕え、町奉行格 500石」とある。

「松平忠頼」は、天正10年(1582年)松平忠吉の次男として
生まれ。叔父・松平家広の後を継いで、武蔵松山藩の藩主と
なり、さらに、美濃金山を経て、慶長6年(1601年)浜松
五万石の大名となる。

ところが、慶長14年(1609年)、従弟の水野忠胤の江戸屋敷に
招かれた折、久米左平次と服部半八郎が囲碁の勝敗をめぐって
喧嘩となり、仲裁に入った忠頼が、逆上した久米左平次に刺殺
されてしまった。享年28。

事件の経緯から、桜井松平家は改易となった。当家の先祖も
ここで浪人となるが、忠頼の後、浜松城主となった水野重仲
に仕官し、水野氏が紀州徳川頼宣の御附家老となって新宮に
移封されるに従って、和歌山に移った。

今日、ネットで調べていて判ったが、紀州家には、松平忠頼の
三男、松平忠勝が1000石で召抱えられていた。忠勝は、父忠頼が
殺され、お家断絶となったため、叔父で桑名藩主、久松松平家の
定勝に引き取られ養子となっていた。

牧原の祖にしてみれば、旧藩主の遺児との再会である。



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古城の風景 2

2010-07-31 19:40:49 | 戦国武将と城
宮城谷昌光 『古城の風景 2』 は、松平一族の城として、
形原、岩津、安祥など 12 の城を紹介している。私も
このうちの幾つかは周った。『松平記』などで調べ尽くした
つもりだが、宮城谷氏は、どこから調べたのか、恐ろしく
詳しい。

そもそも、「 18 松平家」と言われるほど、松平姓は多い
のだが、一族が一枚岩で結束しているわけではない。

徳川家康は、天下を獲って江戸幕府を開いたが、松平一族
だからといって優遇はしなかった。本家である「太郎左衛門家」
でさえ、豊田市の東、松平郷にわずか 500石の小名のままだった。

500石なら、わが牧原家の家禄と同じだ。
私の先祖は「桜井松平忠頼」に仕えていた。桜井松平家の城は
現安城市にある。桜井松平家は、7代忠頼が28歳で横死し、
改易となった。

形原松平家の本拠地、蒲郡市には「牧原姓」が300軒もある。
こんなことをいろいろ調べるため、私は虚無僧で周っている。
私の虚無僧の旅は、実は“先祖探し”の旅なのだ。


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古城の風景 1

2010-07-31 15:24:44 | 戦国武将と城
最近「城」ブームなのだろうか。ラジオなどでも
たびたび「城めぐり」の話を耳にする。
名の知れた「城」だけでなく、戦国時代の豪族の館
程度の「城跡」を訪ねる話も多い。

名古屋城では今「本丸御殿」の再建が進められている。
名古屋城は、幕藩体制が固まりつつあった慶長15年
(1610)から数年かけて築城された。

それ以前、戦国時代の城(館)跡は、名古屋市内だけで
93もあるそうだ。因みに私の住んでる近くに「五反城」
という地名があるが、ここは「城跡」としては記録されて
いない。

宮城谷昌光の『古城の風景』は、東三河の城として
12の城を詳細に紹介している。野田城や新城、長篠
などは、歴史好きな人なら知っている城だ。その他は、
土地の者でなければ興味が無いであろうが、私にとって
は、先祖を探る貴重な資料となった。

豊橋市では、「郷土の三英傑」というと「牧野古白、酒井
忠次、池田輝政だそうだ。豊橋に城を築いたのが牧野古白。
1500年前後のこと。その当時、豊橋は「今橋城」と呼ばれ
ていた。

牧野氏の系譜はいくつかあり、豊橋と豊川(牛久保)一帯に
勢力を広げていたようだが、今川と徳川の間に挟まれて
浮沈を繰り返しながら、命脈を保った。越後(新潟)長岡藩
の牧野氏も、この流れだ。

豊川市内に「牧野町」があり、ここが牧野氏の発祥の地と
されている。「牧の原」ではない。


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