虚無僧が始祖と仰ぐ「普化(フケ)」は、尺八は吹けなかった。
毎日、鐸(鈴の一種)を鳴らしては、「明頭来明頭打 暗頭
来暗頭打」とだけ唱えて、人々を行化していた。経典も教義も
いらない、釈迦も仏もない。
中日新聞連載の五木寛之の『親鸞』も、「どれほど経典を
読み、教義を学んでも、それが一体なんなのだ」と悩み
苦しむ。そして、法然に惹かれていく。法然も、比叡山一
の秀才といわれ、あらゆる経典や教義を学ぶが、「南無
阿弥陀仏」の6文字を唱えれば救われると「念仏三昧」を
説くに至る。
同じ仏教で、ただ念仏を唱えれば救われるという「他力本願」
の「念仏宗」と、厳しく自己をみつめる「自力本願」の「禅宗」
は、まったく相対するものと思っていた。
先日、『パイパース』の取材を受けて、「普化宗の教義は
『明頭来明頭打 暗頭来暗頭打』 だけ」と説明すると、
「念仏ですね」と返ってきた。一瞬絶句した。「禅と念仏は
相反するもの」と思い込んでいた私である。普化宗が「念仏」
とは、頭を叩き割られた思いがした。そうか「禅も念仏も同じ
仏教の道」とようやく思えるようになった。
「尺八と一休語りの虚無僧一路」のホームページも見てください。
「一休と虚無僧」で別にブログを開いています。
毎日、鐸(鈴の一種)を鳴らしては、「明頭来明頭打 暗頭
来暗頭打」とだけ唱えて、人々を行化していた。経典も教義も
いらない、釈迦も仏もない。
中日新聞連載の五木寛之の『親鸞』も、「どれほど経典を
読み、教義を学んでも、それが一体なんなのだ」と悩み
苦しむ。そして、法然に惹かれていく。法然も、比叡山一
の秀才といわれ、あらゆる経典や教義を学ぶが、「南無
阿弥陀仏」の6文字を唱えれば救われると「念仏三昧」を
説くに至る。
同じ仏教で、ただ念仏を唱えれば救われるという「他力本願」
の「念仏宗」と、厳しく自己をみつめる「自力本願」の「禅宗」
は、まったく相対するものと思っていた。
先日、『パイパース』の取材を受けて、「普化宗の教義は
『明頭来明頭打 暗頭来暗頭打』 だけ」と説明すると、
「念仏ですね」と返ってきた。一瞬絶句した。「禅と念仏は
相反するもの」と思い込んでいた私である。普化宗が「念仏」
とは、頭を叩き割られた思いがした。そうか「禅も念仏も同じ
仏教の道」とようやく思えるようになった。
「尺八と一休語りの虚無僧一路」のホームページも見てください。
「一休と虚無僧」で別にブログを開いています。