会津若松の観光名所、飯盛山に行けば、ガイドによって、今も相変わらず
白虎隊の悲劇が語られる。それは「白虎隊ただ一人の生き残り、飯沼定吉
の証言に基づき、小説などで定番となっているもの。
だが、この飯沼貞吉の話には、私は子供の頃から疑問を感じていた。
それは「飯沼貞吉」は「たった一人の生き残りではない」ということ。
他に多くの白虎隊士は、隊長日向内記とともに、城に帰還しているのである。
飯沼貞吉は、会津戦争の事を一切語らず、明治になって一度も会津に
帰っていない。飯沼貞吉は何か 重大な事を隠していると直感していた。
昭和30年頃、飯盛山の旧家の屋根裏から、驚くべき書類が出てきた。
それは、「自分は、飯沼貞吉を助け、官軍に見つからないように裏山に
匿って、毎日食料を届け介抱したが、そのことについて飯沼貞吉からは
一言の感謝の声もない。農民に救われたことが恥と思っているのか。
悔しいが、この話は末代まで秘密にしておくべし」
というような内容だったかと記憶している。
その記事が新聞に掲載されたのだが、それから半世紀も、会津では、
この記事は無視され、相変わらず、飯沼貞吉が一度だけ語ったという
内容を訂正もせずに語り継いできた。それは
「足軽、印出新蔵の妻ハツに助けられ、塩川まで行き、そこの旅館に
匿われた」というもの。
しかし、首を切った重症の身で、印出新蔵の妻に背負われて、一晩で
塩川まで行けるわけがないというのが私の推理。また印出新蔵の妻も
塩川の旅館も 実在は確認されていないという記事も見た。
そして、飯沼貞吉は、一度も会津に帰らなかったことが謎だった。
その訳が、ついに判った。衝撃の事実。
飯沼貞吉は、なんと、長州藩士の楢崎頼三に連れられて、長州(現在の山口県
美祢市)に行っていたという。楢崎氏は飯沼貞吉を庇護し、その事を貞吉の母に
だけ知らせた。彼を匿っていることは、会津の人にとっても長州人にとっても
騒ぎになるので、内密にと。
飯沼貞吉は何度か自殺しようとしたが、楢崎頼三に「おまえは、死に損なったの
じゃない、生かされたのだ」と諭され、勉学に励むようになったという。
その後の貞吉
その後、貞吉は貞雄と改名し、明治3年(1870年)静岡の林三郎の塾に入り、
翌年藤沢(志摩守)次謙の書生となり、明治5年(1872年)東京の工部省技術教場
(東京)に入所、電信技師となり、同年10月5日には赤間関(山口県下関市)に赴任。
その後、国内各地での勤務を経て、1885年(明治18年)に工部省が逓信省に変わった時
には新潟に勤務。1891年(明治24年)、広島電信建築区電信建築長に就任、
2年後には東京郵便電信局勤務となり、翌1894年(明治27年)には日清戦争のため、
大本営付となり技術部総督(階級は陸軍歩兵大尉)として出征。
1905年(明治38年)、札幌郵便局工務課長となり、1910年(明治43年)に
仙台逓信管理局工務部長に就任、日本の電信電話の発展に貢献した。
飯沼貞吉が長州人に引き取られていたということこそ、会津と長州の友好の美談として
もっと喧伝されるべきなのに、いまだに、それを封印しようとする、会津人の
閉鎖的狭量的な資質には、がっかりである。