現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

裏千家 前家元 千玄室宗匠

2018-11-19 20:24:38 | 虚無僧日記

 





利休居士第15代
前家元


鵬雲斎 千 玄室
  

立正佼成会中村教会で行われた「開祖(庭野日敬師)生誕会」に招かれて

行ってきました。本部からの衛星中継映像で法要の後、裏千家の前家元

「千 玄宗」宗匠の献茶式が流れました。そのお点前の美しさに目を見張り、

献茶の儀式の後のご挨拶も、感動の涙こぼれました。

 

宗玄室宗匠は大正12年のお生まれ。私の母と同じ、御年94歳。

背も高く、背筋もスッと伸び、お顔も、姿、たたずまいも美しい。

昭和18年、同志社大学3年の時、学徒出陣。海軍特攻隊に志願し、

647柱の同僚を見送り、自分は生き残った。その忸怩たる思いから

「一碗からピースフルネスを」の理念を提唱し、道・学・実をもって

世界60数か国を300回以上歴訪し、茶道文化の浸透・発展と世界平和の

実現に向けた活動を展開してこられた、とのこと。

衛星中継が終わり、中村教会の教会長のお話し。

「千玄室宗匠のお点前、見てどう思われましたか、立ち居ふるまい

みごとでしたね。感動でした。毎日毎日お茶をたてる。それが行です。

私たちの行は? お経をあげることですね。あなたは一人で読経してますか?

あなたの読経を聞いて、家族は一緒に読経されませんか。

読経の時、窓を閉めてこっそりやってませんか。

あなたの読経の声を聞いて、姿を見て、どれほどの人が感動してくれますか。

開祖は亡くなられて19年、それでも毎年、こうして誕生日に大勢の方が

集まってお祝いする。あなたはどうですか?

 

たしかに、どれほど多くの信奉者を得られるか、それが仏に近づく修行と知る。

 


この世は愛を育む修行の場

2018-11-19 19:53:01 | 虚無僧日記
真言密教系の信仰宗教「真如苑」、日蓮宗系の在家教団「立正佼成会」
キリスト系の「世界平和家庭連合(統一教会)」、「実践倫理宏正会
(朝起会)」。
それがしは、節操の無い拙僧でござる。それぞれに顔を出しています。
 
それぞれに共通するのは、「家庭の愛和をもっとも重視し、家庭の愛和が
社会の平和、そして世界の平和につながる」という教え。そして全世界の
宗教団体の和合を目指していることです。他の宗教を排斥しません。
世間ではいろいろとり沙汰されてますが、会員の皆様、本当に良い人ばかり。
 
人は結婚して子供が生まれると、妻は子育て、夫は仕事に忙しくなり
夫婦関係が冷え切って、夫婦の愛和ができなくなる。
それを解決するのが一番難しい。
 
統一教会ではこのように教えています。
 
天国の天は「二人」と書きますね。天国は夫婦二人で永遠の愛を実現する所。
離婚したり、再婚したら、天国には入れません。
この世では サタンが夫婦の仲を裂こうと、いろいろ試練をあたえてくる。
それに打ち勝って、愛を育む修行の場と。
 
離婚してしまった私としては、立つ瀬もありませんが、
反面教師として、夫婦愛和の大切さを切に説いています。
 

観客1000人!

2018-11-19 19:21:05 | 虚無僧日記

長年「一休」について研究を続けて来、漸く完成。

10月14日は 名古屋能楽堂で公演、来場者 498名。

11月14日は ウィル愛知での「シルバーカレッジ講演会」で、来場者 890名。

11月18日  ローズコートホテルでの「平塚晃山氏・会創立85周年を祝う会」で演奏 90名。

11月23日は 名古屋市民会館での「技能功労者表彰式」のオープニングで 尺八独奏

河村市長はじめ、来賓、受賞者 家族で500名とのこと

その他、揚輝荘・庭園での演奏、城西病院でのボランティア演奏などなど

合計2000人の方に 私の尺八を聞いていだいたことになります。

70歳にして、吹き方を変え、ますますパワーアップ。自分でも驚く音量です。

太陽は沈む間際が一番輝くとか。いよいよ、終末期に近づいて参りました。

 

 


ブログ ランキング 495位に

2018-11-19 19:13:01 | ブログ

昨日 11月18日(日)私のブログにアクセスしていただいた方が

831人で 285万件中 495位に 浮上しました。

今までで最高! 理由は何故かさっぱりわかません。

いろいろ試行錯誤して、テーマを変えていますが、このところは

虚無僧のことばかり。

「邦楽ジャーナル」に「虚無僧曼荼羅」として寄稿、連載しており

その下書きのつもりで、このブログに書いています。

虚無僧に関心のある方が 831人も居られるとは思いませんので、

他の記事は カテゴリーで選択してください。

今後ともよろしく、ご支援のほどお願い申し上げます。


虚無僧寺は風呂屋だった

2018-11-17 20:56:35 | 虚無僧って?

宇都宮城の前にあった虚無僧寺は、蒲生氏の時代、
風呂屋を経営していた。城内の侍も入りに来ていた。
しかし、本多上野介が入封すると「城前に胡乱(うろん)
なる虚無僧寺があるのは、けしからん」と、立ち退きを
命じられた。虚無僧寺が風呂屋を営んでいたという
例は、いくつかある。虚無僧寺は別名「風呂寺」とも
呼ばれていたのだ。

なるほど、尺八は「火吹き竹」を連想する。
虚無僧=乞食、風呂寺=浮浪児 なんか似ている。
一昔前まで、銭湯といえば、入口が唐破風(からはふ)
で寺院造りだったのも、虚無僧寺の名残りとか。



「慶長の虚無僧・御定書」

2018-11-17 20:55:39 | 虚無僧って?

虚無僧は、「家康公のお墨付」があると主張して、特権を振りかざそう
とした。しかし、「御定書」なるものは存在せず、「原本は火事で
消失した。その写しならある」というのだが、この「写し」が また
何種類もある。その一例。

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『御入国の砌(みぎり)仰せ渡され候御掟書 控』

一 虚無僧の儀は、勇士浪人一時の隠れ家として、不入守護の宗門。
  よって天下の家臣諸士の席、定むべきの条、その意を得べきこと。
一 虚無僧取立の儀は、諸士のほか、一向坊主、百姓、町人、下賤の者、
  これを取立つべからざること。 
一 虚無僧諸国行脚の節、疑はしき者見掛け候時は、早速召し捕え、
  その所に留め置き、国領はその所役人へ相渡し、地頭、代官所は
  その村役人へ相渡し申すべきこと。
一 虚無僧の儀は、勇士兼帯のため、自然 敵など相尋ね候旅行ふ。
  よって、諸国の者、虚無僧に対し慮外の品または托鉢に障りむづかしき儀
  出来し候節は、その子細を相改め、本寺まで申し達すべし。
  本寺において済まざる儀は、早速江戸奉行所まで告げ来るべきこと。
一 虚無僧止宿は、諸寺院あるいは駅宿村々役所に旅宿いたすべきこと。
一 虚無僧、法閑(天蓋か?)猥りに取るべからざるものと、万端心得べきこと。
一 尋ねもの申し付け候節は、宗門諸派丹誠を抽んずべきこと。
  虚無僧敵討申したき者これあるにおいては、吟味を遂げ、かねて
  本寺に断り、本寺より訴へ出づべきこと。
一 諸士、血刀を提げ寺内へ駆け込み依頼のもの、その起本を問ひ、
  抱え置くべし。もし弁舌を以て申し掠むる者これあるにおいては、
  早速訴え出づべきこと。
一 虚無僧、常に木刀、懐剣等心掛け所持いたすべきこと。
一 本寺より宗法出し置き、その段油断なく相守らせ、宗法に相背く者
  これあるにおいては、急度きっと宗法に行うべきこと。

右の条々堅く相守り、武門の正道を失はず、武者修行の宗門と心得べきものなり。
そのため日本国中往来自由差免し置くところの決定、件の如し。


   慶長十九年甲寅年 正月   本田上野介(正純) 印
                 板倉伊賀守(勝重) 印
                 本田佐渡守(正信) 印
     虚無僧寺へ


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表題に「御入国のみぎり」とあるのは、秀吉によって小田原北条氏が
滅びた後、徳川家康が関東に入国した年。それは「天正18年(1590)」
なのだが、最後に「慶長19年(1613)」となっている。「慶長19年」は
「大阪冬の陣」が起きた年。「天正」と「慶長」を混同していることからも
後世の偽書とされる。



京都明暗寺と甲斐の明暗寺の関係は?

2018-11-17 20:52:52 | 虚無僧って?

京都の明暗寺は、板倉重宗が京都所司代の時に、妙法院門跡の
敷地内に45坪ほどを借り上げてできたのであるから、
1619年~1654年のことだった。しかし当初は「妙安寺」と
書いていた。

虚無僧が普化の偈「明頭来明頭打、暗頭来暗頭来」を
唯一の教義として「明暗宗」などと呼ばれるのはもっと
後のことと思われる。

ところが、甲斐乙黒には、万治3年(1660)には「明暗寺」が
あった。これはどう考えればいいのだろうか。


京都とほぼ同時期に同名の寺が建ったことになる。


偽書 『虚鐸伝記国字解』

2018-11-16 21:08:00 | 虚無僧って?

『虚鐸伝記国字解』というのは、普化宗と虚無僧の由緒に
ついて書かれた書。江戸時代の後半に刊行されたもの。

「虚鐸」とは「尺八」のこと。中国・唐の時代に「普化」
という風変わりな禅僧がいて、鐸を振り、「明頭来明頭打、
暗頭来暗頭打」と唱えて市中を托鉢していた。張伯という
者が普化を慕って入門を請うたが、許されず、普化は鐸を
振りながら去っていってしまった。それで張伯は普化の
鐸の音を模して笛を吹くことにした。それで、その笛を
「虚鐸」という。その張伯から16代目の「張参」の時、
日本から「覚心」という僧が留学してき、「張参」から
「普化宗」と「虚鐸」を学び、「宝伏・国佐・理正・憎怒」の
四名の居士を連れて帰朝した。

覚心は、帰朝後、紀州由良の興国寺の開祖となり、没後、
「法燈国師」と諡された。覚心の高弟「寄竹」は、京都
白河に「虚霊山明暗寺」の祖となり、また覚心と共に来朝した
「宝伏」の門人「金先(斬詮)」は下総小金の「一月寺」の
祖となった。

南北朝の時代、南朝の忠臣「楠正勝」は「虚風」から尺八を
習い、「虚無」と号して、天蓋を被り東国に落ち延び、
筑波山に籠もって「古通寺」を開いた。それで「正勝」が
「虚無僧の始まり」となった。

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虚無僧尺八愛好家には根強く信奉されているストーリーだが、
どう考えてもデタラメ。めちゃくちゃな内容。

まず「普化禅師」は「鐸」を振っていたのであって、尺八は
吹けなかった。

「張伯」は、笛吹きであって「普化」に入門を断られたので
あるから「普化宗」の僧ではない。

それから16代も続いたことになっているが、中国に「普化宗」
などは存在しなかった。

それなのに、虚無僧たちは「法燈国師覚心」を「普化宗」の
開祖と勝手に祭り上げた。

「法燈国師覚心」の正式な史料では「普化」のことも「尺八」の
ことも全く書かれていない。それで「法燈国師覚心」は、中国から
4人の尺八吹きを連れてきただけで、本人は尺八は吹かなかったと
修正する話も伝承されている。京都明暗寺の開祖とされる「虚竹」
については、中国から連れてこられた四居士の一人とする説と、
居士から「普化禅と尺八」を習った日本人とする説がある。

いずれも辻褄を合わせるための修正だが、年代など全く無視した
内容で、ますます辻褄が合わなくなっている。


明治になって「中塚竹禅」氏が、由良の興国寺で資料を調査した
ところ、覚心の日記・書簡等に、「普化宗」や「尺八」の事は
一言も記されていないし、宝伏等四名の居士も「寄竹(虚竹)」の
ことも全く確認できなかった。

「由良の興国寺」は、戦後「臨済宗大本山妙心寺派」の末寺に置かれ、
住職は「妙心寺」から派遣?されており、寺を訪れても「虚無僧とは
関係ありません」と冷たい。虚無僧側の全くの“片思い”なのである。


『虚鐸伝記国字解』は『虚鐸伝記』と言う漢文の書籍があって、
それを和文に書き改め解説した書という意味だが、その原本が
存在しない。

「楠正勝」は正史では実在が疑われている。「正勝」が尺八を
吹いたという史料も他には見当たらない。

というわけで『虚鐸伝記国字解』は「全くの偽書であるから、
信用出来ない」と言うのが、今日の定説である。

しかし、しかしである。「火の無いところに煙は立たず」。
なぜ「普化禅師」が虚無僧の教義上の宗祖となり、その日本開山に
紀州由良「興国寺」の開山「法燈国師覚心」が選ばれたのか、
という謎に私は大変関心があり、虚無僧研究会の会誌『一音成仏』でも
縷々述べてきた。今年、いよいよ集大成してみたい。


尺八は侠客の喧嘩道具?

2018-11-15 22:08:58 | 虚無僧って?

 以前クイズ番組で「尺八は、なぜゴロ節を残してあるのか」という問題で、

正解は「喧嘩道具に用いるため」と。これには私も驚き、そのTV番組に

クレーム入れましたが、なしのつぶてでした。ま、たしかに、浮世絵では、

喧嘩道具ではありました。この絵は「侠客、唐犬権兵衛」とあります。 


虚無僧は公儀隠密?

2018-11-15 22:06:24 | 虚無僧って?

中日新聞夕刊に連載されていた『遊女(ゆめ)のあと』(諸田
玲子作、深井国画)で、たびたび登場してきた不審な虚無僧
が名古屋城内で殺された。幕府の公儀隠密だった。
虚無僧というと「公儀隠密」という説が、まことしやかに流布
されているが、そのような史実は無い。隠密するには、あの
虚無僧姿は目立ちすぎる。「他所者の不審者です」と公言して
歩いているようなものだ。塀や石垣を越えるのに天蓋や偈箱は
邪魔になる。刀はどこに隠し持っていたのか。虚無僧で隠密
活動をするのは無理があるだ。

一方「赤旗」の日曜版に連載されていた『くじら組』(山本
一力作、西のぼる絵)は、土佐藩の鯨漁をする漁師が、沖合
いを通過する黒船を目撃し、幕府に知らせるいきさつだが、
それぞれの登場人物の一挙手一投足に到るまで克明に表現
されて、読んでいても、その場に居合わせているかのような
迫真の描写である。土佐藩にも幕府の隠密が送りこまれて
いるが、漁師や代官の下僕となっていて、絶対に本性を表わ
さない。何代にも亘って、おそらく、山内一豊が土佐に入った
時から送り込まれていて、すっかり土佐っぽになりきっている
から、シッポを捕まえられないのだ。土佐藩も公儀隠密が入り
込んでいることを承知の上で、あえて詮議したりしない。
もし捕らえて処刑したら、幕府への反逆となる。うまく泳が
せて、情報を幕府に送られせているのだ。そのリアリティに、
感嘆する歴史小説であった。