「熱田神宮」は尾張の国の三宮でした。
尾張国の一宮は一宮市の「真清田神社」、二宮は犬山市の「大縣(おおあがた)神社」。熱田神宮は尾張の三ノ宮でした。中央から派遣される国司が最初に詣でるのが一宮。熱田は尾張氏が祀る社にすぎなかったので格下の熱田神社でした。明治以降、三種の神器を奉戴するのであるから、伊勢神宮と同格にとの働きかけを行ったが認められず、熱田神宮となります。
尾張氏とは
尾張氏は海部(海人)氏の一族で南方から渡って来た海洋民族。当初長崎の五島列島に上陸、日本海沿いに出雲に移った。出雲は銅剣の大量生産地であり、また鉄の発祥地。「八岐大蛇」の伝説は、尾張氏が出雲の先住民と戦い鉄剣?を手にした時の話ではないか。その後尾張氏は越前に移住します。
第26代 継体天皇((507年~531)は越前の出。継体天皇の妃は尾張連草香の娘目子姫(メノコヒメ)。尾張氏は継体天皇に着いて大和に移住、その東の現岐阜県・愛知県一帯を支配した。「おわり」とは大和朝廷の支配の及ぶ終わりの地とも読める。
継体天皇と、その子 第28代宣化天皇(母は尾張氏目子姫)即位の儀式に「神剣」を奉じたとある。これが三種の神器の初出。この剣が尾張氏の所有する「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」だったと考えられる。
第26代 継体天皇 上宮記 |
悪行の多かった武烈天皇の後、後継者が無く、皇統断絶の危機となる。
15代応神天皇の5世の孫継体天皇が越前から大和へはいり継承する。
大伴金村に推されて越の国を出、大和を目指すが、即位まで20年を要した。
507年2月樟葉宮にて58歳で即位
511年10月樟葉宮から筒城宮へ遷都
518年3月筒城宮から弟国宮へ遷都
526年9月即位後20年たって漸く大和磐余玉穂宮へはいる。
24代仁賢天皇の娘手白香皇女を妃とし、入り婿の形で皇位を継承する
その子が29代欽明天皇となるが、その前に尾張草香の娘目子媛(メノコヒメ)が産んだ子が27代安閑天皇、28代宣化天皇となる。
欽明と安閑、宣化は異母兄弟。「上宮聖徳法王帝説」では、欽明は532年、継体の崩御後即、即位したことになっており、仲が悪かったか。二朝並立していたか。
継体天皇の治世、九州の磐井の乱を平定する。
671年 壬申の乱
天智天皇の弟大海人王子が天智天皇の子大友皇子を滅ぼし、第40代天武天皇 (在位 673〜686)となる。
この時、大海人皇子(後の天武天皇)の乳母は、尾張郡海部郷の首長尾張大海の娘で、大海人皇子は幼少の頃ここで育てられた。それで「大海人」である。大海皇子は吉野を脱出し伊勢へと抜け出た際、尾張氏の一族の助けを受けた。乳兄弟の尾張大隅は傘下の鍛冶伊福部を派遣して、大海人の本拠美濃での刀槍の生産に協力し、皇子は美濃・尾張の兵を主力として、不破の関を越えて瀬田の唐橋を目指し、大友皇子に戦いを挑んだのである。
尾張氏は天武天皇に味方し功績をあげた。天智天皇の時、熱田神宮から神剣が盗まれ、御所に置かれていたため、天武に味方したとも考えられる。
この剣は、天武天皇が病に倒れ、それは「剣の祟り」ということになって急遽熱田に返還される。
しかし、壬申の乱に功績があった割には尾張氏は中央政権に加えられなかった。
それは、天武天皇が皇族中心で政権を固め、豪族を大臣からはずし、中央集権化を図ったからである。
『日本書紀』の編者は天武天皇の子「舎人親王」。
天武天皇は都を飛鳥浄御原に移す。戦勝を祈願した伊勢神宮の格をあげ、皇女の大伯皇女(おおくのひめみこ)を斎宮として遣わした。
尾張氏としては「熱田神宮も伊勢神宮同様に扱ってもらいたい」という意図をもって「日本武尊(ヤマトタケル)と草薙の剣」の伝説を創作し、『日本書紀』に盛り込ませたのではないだろうか。