現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

ネプチューン海山の前世は虚無僧!?

2018-09-27 09:01:47 | 虚無僧日記

https://www.youtube.com/watch?v=OYLJeQP2rYc&feature=player_embedded 

私の尺八の師は、「堀井小二朗」師と、

「ジョン海山ネプチューン」師。

その ネプチューン氏のインタビュー記事から

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ネプチューンさんの音楽には「一音成仏」の心も込められている。

「母は、僕が尺八に呼び寄せられたと思ってるんです。『たぶん、

あなたは、昔は虚無僧で、尺八を音楽としていろいろやりたかったけれど、

虚無僧のような世界ではできないから、アメリカ人として生まれ変わり、

外から入ったことで、 いろいろ自由にできたんじゃない?』と」

さすがに母親の洞察は深い。

19歳で初めて尺八という楽器を知り、音を聞いて魅せられて、

そして頑張ろうと思った。外国に住んで、音楽を通して 文化

あるいは生き方を見るのもいいな、と思い、日本に来た。

尺八の可能性を広げながら、様々な試みを重ねてきた。

 

ある年配の先生が、『ネプチューンさんは ずっと日本にいて、

新しいテクニックを見つけて 次の世代に教えていかなければ

ならない。あなたのおかげで尺八が生きている』と言ってくれた。

自分の世界を確立しているから心が広い。うれしいですね」

 

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「ある年配の先生」って、“私“ のことか? そうか、私は彼を

師と仰いでいたが、彼は私よりずっと年下だった。

ま、ほんとに彼のおかげで、尺八の可能性が 飛躍的に広がった。

私は彼のおかげで、尺八食べていけている。

ありがとう、ネプチューンさん。


目黒不動と平井(白井)権八

2018-09-27 08:59:13 | 虚無僧って?

子供の頃よく遊んだ目黒不動の傍らに 虚無僧寺の
「東昌寺」があったとは知らなかった。
虚無僧寺の跡には「平井権八」と、彼を慕って後追い
自殺した「小紫」の墓碑「比翼塚」がある。

「平井権八」は、鳥取藩(池田家)の家臣 平井正右衛門の子で、
父が同僚の本庄助太夫に侮辱されたため、怒って助太夫を
切り殺して出奔。江戸に出て、辻斬りをしながら、奪った
金で吉原通いをし、遊女小紫(コムラサキ)と深い仲となる。

しかし、追われる身であり、目黒不動の側の虚無僧寺
「東昌寺」に逃げ込み、虚無僧となった。そして、前非を
悔い改め、両親に一目会いたいと虚無僧になって郷里に
帰ったが、両親はすでに他界していたため、観念して
江戸に戻り自首。鈴ヶ森刑場に晒された。

「平井権八」の「ひらい」が 江戸弁では「しらい」と
発音されるので、歌舞伎では「白井権八」になったとか。

「鈴が森の段」で「白井権八」が雲助どもを切り殺し、
「キジも鳴かずば切られまじ…」と言い捨てて立ち去ろう
とすると、一部始終を見ていた「幡随院長兵衛」に
呼び止められる場面の名セリフ。

「お若ぇの お待ちなせえやし」「待てとおとどめなされしは
拙者がことでござるかな」などは、歌舞伎を観たことが
なくとも、子供の頃から知っていた。

「白井権八」と「幡随院長兵衛」は 時代も異なり、
二人の話はすべてフィクションだそうで、さまざまに
尾ひれがついて脚色されていく。

「平井権八」すら 実在したかは疑わしいそうな。
「平井権八」が改心して虚無僧になり、故郷の鳥取まで
帰ったという話もあれば、咎人(とがにん)であり、
虚無僧寺といえども、入れてもらえず、自首して
獄門になったという話もある。

辻斬り強盗の「平井権八」だが、「美剣士」として
ヒーローにしてしまう日本人の感性が面白い。

この「白井権八」の歌舞伎のおかげで、「虚無僧になれば、
人殺しの罪も許される」というような まやかしが広まって
いるようだが、現実には不可だった。

「仙石騒動」で「神谷転(うたた)」が虚無僧寺に逃げ込んだが
南町奉行所の役人に捕らえられる。「虚無僧本寺」を自称する
「一月寺」が「虚無僧寺は寺社奉行の管轄」と抗議するが、
「虚無僧寺」は「寺」としても 認められていなかったのだ。


名古屋本に「虚無僧」

2018-09-27 08:50:34 | 虚無僧って?

『名古屋叢書』 第14巻 文学編(1)

「名古屋けん物 四編の綴足」后編 上冊

文化12年正月 東花下成作

P286

「お江戸では どないな 役まわりで あったな」

「まづ、忠臣蔵で。塩谷若狭之助、加古川由良之助二タ役。

しゃしたが、若狭之助が切腹。由良之助が虚無僧の姿で

山科へ来てのはたらき。中々歌右衛門も おされるほどの

大入りさ」

「はて、おもしろい名の忠臣蔵でやな。そりゃ作り替へかいな」

「マァ聞きなせへ。その時の貰ひ物が 幟(のぼり) 五本と

幕を七まく。熊野へ三度。

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虚無僧姿で、山科に大星由良之助を尋ねたのは加古川本蔵。

ごちゃまぜになっているのが面白い。

 

P.398 「狂歌 秋の花」 寛延2年(1749)

「ひとよぎり と読みて送りし歌口も 今は根堀りの 夫婦とぞなる」

 

p.407「並戸安買作 仮名詩祭禮 撰者 椒芽田楽」

 虚無僧 

 十年あまり寒暑いとわず 稽古に妙を得たる尺八

 師匠の蔭でけふぞ晴れする 小唄長唄所望次第に

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これは「年代不詳、寛政末か」という。「祭礼」とあるから

「東照宮の祭礼で、呉服町、常盤町の町人が、虚無僧の

格好で流行り歌などを吹いたことを、詩に詠んでいる。

師匠の吹く蔭で、「尺八で小唄、長唄所望次第に」という。

 

江戸時代、「虚無僧以外の者が尺八を吹くことを禁じ、

虚無僧が外曲(小唄・長唄・俗曲)を吹くことは禁じられていた」

などというが、名古屋では一般の町人が虚無僧の格好をして

俗曲などを吹いていた。名古屋には虚無僧寺が無かったから

取り締まられなかった。


祇王と仏御前と一休

2018-09-08 16:55:07 | 虚無僧日記

一休は25歳の時、琵琶法師が語る「平家物語」の一節
『祇王と仏御前』を聞いて、悟りを開いた。

「平清盛の寵愛を受けていた祇王は、年若い仏御前の
出現で、清盛の寵を失い捨てられる。そして山里に庵を
結び、毎日念仏を唱えて暮らしていると、そこへ仏御前が
訪ねてくる。仏御前は、明日はわが身と悟り、祇王に
詫びを入れて、祇王と共に仏に仕える身となるのだった。
京都の祇王寺には 祇王と妹と母、そして仏御前の4人の
像が祀られている。

さて、この話のどこに一休は涙し、悟ったのだろうか。
自分の母も帝から捨てられ、都を追われた身。祇王に母の
姿を重ねて泣いたのだろうか。どうももっと深い意味が
ありそうだ。

そもそも、祇王のライバルの名がなぜ「仏」なのか。

そこに注目してみると、この「平家物語」の主役は
祇王ではなく、若い仏御前なのだ。「娑婆の栄華は
夢の夢」と悟って訪ねてきた仏御前に祇王は「自分は
尼になって念仏を唱えてはいても、世を恨み、身の
不幸を嘆いていては極楽往生できなかった。あなたは
17歳の若さで、恨みも嘆きもなく、この世の穢土を厭い、
浄土を願って仏門にはいる覚悟を決めたとは、すごい
こと」と誉め讃えるのだ。

ライバルへの嫉妬や恨み心を引きずっている祇王に
とって、すべてを捨ててきた「仏御前」の方が格が
上となっているのだ。だから「仏御前」という名を
冠しているのである。

「平家物語」の前段で語られるこの「祇王と仏御前」の
話は、「平家物語」を貫く「諸行無常、盛者必衰」の
エッセンスだったのだ。

さて、一休は「祇王と仏」の話から何を悟ったのか。
この時、一休は師から「洞山三頓棒」の公案を与えられ
ていた。まさに「人はどこから来てどこへ行くのか」と
いう問いだ。父が天皇、母は楠木の血筋ゆえに都を
追われたという自分の出自。そして自分の将来に
一休は悩み苦しんでいた。20歳の時には瀬田川に
身を投げたこともあった。

そんな自分の出生にこだわる思いを断ち切ったのだ。







『名古屋叢書』 第6巻 地理編 (1)

2018-09-07 19:45:55 | 虚無僧日記

『名古屋叢書』 第6巻 地理編 (1)

p.432 「金鱗九十九之塵 巻第22」

【呉服町】 七間町の東に在り 

当町は 往昔 清洲越の町にこれあり。清洲において町名を「ごふく町」と唱ふ。

然るに慶長の年中、那古野の此の地へ引越し来たり、旧号を用ひ「呉服町」と申し候。

家数64軒。

東照宮祭礼の警固 普化僧12人 紫衣を着た大領2人

 

【常盤町】 呉服町の南に在り

当町は 往昔 清洲にありし時、町内に竹を商うもの多く住居しける故に

「竹屋町」と呼びにけるよし。清洲より名古屋の此の地へ引越し来たりても

かの旧号を用ひ、「竹屋町」と称しける。然るに、元禄の頃、市中度々

出火せしかば、「たけや」を逆に読むと「焼けた」となり、忌み嫌って、

竹は常盤なるによって「常盤町」と改めるべく願い出て、元禄14年より

「常盤町」となる。

家数58軒 

東照宮祭礼の警固 頼朝 八幡詣10人出 

元は呉服町立合いにて 普化僧の練り物なりしが、天和・貞享(1681~)の

年間に、今の警固に変わる。

 

然るに慶長の年中、那古野の此の地へ引越し来たり、旧号を用ひ「呉服町」と申し候。

家数64軒。


大高源吾の尺八

2018-09-07 19:43:20 | 虚無僧日記

赤穂浪士の一人「大高源吾」は俳人としても名が知られ、
風流人だった。その「大高源吾の尺八」というのが、
虚無僧研究会の会報第7号に掲載されている。
紹介者は岩井省法氏。所有者は高松の水原明鏡氏。

原惣右衛門の尺八は室町時代の「一節切」だったのに
対し、こちらは2尺の藤巻き、黒光りする見事な尺八。
「元禄戌五年政重」の朱塗り銘と、「尺八随一の名人」
といわれた『春谷』の刻印がある貴重なもの。

これによって、元禄時代(1700年前後)には、すでに2尺
もの長い尺八が在ったことがわかる。
「大高源吾の尺八」とされる伝来の由緒が明らかにされ
ていないのが残念。



赤穂浪士原惣右衛門の尺八

2018-09-07 19:38:30 | 虚無僧日記

高輪泉岳寺の「記念館」に「原惣右衛門の笛」というのがある。
「一節切」だった。すっかり褪色し、色つやの無い灰色で、
割れていた。

原惣右衛門は足軽頭だが、300石取りで、47士の中では、
大石内蔵助(1500石)、片岡源五右衛門(350石)に
ついで、第3位の高禄。刃傷事件の後、屋敷の引き払いを
迅速に進め、その日のうちに早駕籠に乗って出立。赤穂に
「浅野内匠頭切腹」の報を告げた人物。

討ち入りの時の年齢は56歳と高齢。吉良邸の塀を乗越え
た際 足を挫き、泉岳寺へは駕籠に乗せられて行った。

その原惣右衛門と「一節切」を結びつけるような史料は
見当たらない。まさか、上野介を見つけたときの呼笛は
「一節切」ではあるまい。


『名古屋叢書』 第15巻 文学編

2018-09-02 09:45:41 | 虚無僧日記

『名古屋叢書』 第15巻 文学編 P218

「葉至茂里」 「俳諧 橋守 第一」

山本荷〇の撰 元禄10年(1697) 京都の井筒屋から上梓

(山本荷〇は 芭蕉を批判し、芭蕉門下から排斥された俳人)

巻第四 に 尺八の句

 「 尺八の下手は ねふたし かんこ鳥」

 

P244 「俳諧古渡集」 秋陽堂冬央が享保18年に撰集。

「門松や 迷途の旅の一里塚」 作者不知

 

一休の逸話として名高いこの句が「作者知らず」となって

いることが不思議。


海童道道祖

2018-09-02 09:45:04 | 虚無僧って?

「海童道道祖」については海」「尺八修理工房・幻海」氏の
HPに紹介されていましたので、転記させていただきます。

「海童道道祖」

1911年11月~1992年12月14日没。福岡県生まれ、本名は
田中賢三。元普化宗管長。

海童道開祖ほか、海童道杖、日本今様などの各種家元を兼ねる。
かなりの奇人変人であったとも、稀有の大僧正であったとも、

初め「海童道宗祖」と名乗っていたが、1972年に渡米した際に
「海童道祖」の名を贈られる。

禅・哲学の思想を取り入れた古典的あるいは前衛的な考えは、
古今東西を問わず多くの芸術家・音楽家、まったく尺八を
知らないような一般人にまで大きな影響を与えた(※1)。

しかし、極端に取材や写真を取られたりするのを嫌い、
その音や考えは わずかに残るレコードやCDなどからしか
うかがい知れない。

海童道において、尺八は法竹(ホッチク)または定具(吹定道具)、
道具(物に執着しない為の名)と呼ばれ、楽理は哲理または道理と
呼ばれ、音楽論というよりは宗教論・思想論に近い。

使用している楽器(法竹)は、物干し竿に使用していたような竹を
無造作に切って、子供が孔を開けたものと解説されている。
(ただし、彼の弟子の横山勝也はかなり尺八をいじくり回す人
だったので、師匠である海童道祖もいじくり回していた可能性は
ある)。

演奏のことは、吹定(スイジョウ)といわれ、直(ジキ)・合(アイ)・
切(キリ)・中(チュウ)・回(カイ)・刻(コク)・複息(マタイキ)
などの呼吸法を複雑に組み合わせて奏される。


注※1 武満徹やジョン・ケージにも影響を与え、のちに世界中に
    尺八を知らしめる大作「ノヴェンバー・ステップス」創作の
    遠因にもなった。