現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

若き志士たち

2016-07-15 12:18:32 | 山口県と虚無僧

橋本左内 『獄中の作』 

   二十六年 夢の如く過ぐ  顧みて平昔を思えば 感滋多し

  天祥の大節 嘗て心折す  天祥の大節 嘗て心折す

 橋本左内は 越前(福井)藩の医師の倅だったが、攘夷を論じ、

安政の大獄で斬首させた。時に 数えで26歳(満25)。 

吉田松陰も 29歳で没したと知って、維新の志士の没年を調べてみた。

橋本左内   25  安政の大獄による処刑
吉田松陰    29  安政の大獄による処刑
頼三樹三郎  34  安政の大獄による処刑

井伊直弼   45  水戸浪士による暗殺

姉小路公知  24  田中新兵衛による暗殺?
清河八郎    33  佐々木只三郎による暗殺
芹沢 鴨     36  新撰組による暗殺
吉村寅太郎  26  天誅組の乱において大和にて自刃

入江九一   27  禁門の変にて自刃
久坂玄瑞   25  禁門の変にて自刃
国司信濃   22  自刃
中山忠光   20  長州藩恭順派による暗殺?

岡田以蔵   27  処刑
武市半平太  36  自刃
藤田小四郎  23  処刑
山南敬助   32  自刃

伊東甲子太郎  32  新撰組による暗殺
藤堂平助    23  新撰組による暗殺
坂本竜馬    33  見廻組による暗殺
中岡慎太郎   30  見廻組による暗殺
高杉晋作    28  肺結核による病死

世良修蔵   33  仙台藩士による暗殺
沢村惣之丞  24  自刃
神保修理   30  自刃
近藤 勇    34  板橋の刑場にて処刑
相楽総三   28  「偽官軍」として新政府により処刑
山本帯刀   23  官軍による処刑
沖田総司   27  肺結核のため病死
佐々木只三郎  35  鳥羽伏見で負傷し、紀州に逃れて死
原田左之助  28  上野戦争にて戦死

土方歳三   34  箱館五稜郭にて戦死

あの厳(いか)つい顔の近藤勇でさえ、京に上った時は29歳。
会津藩主松平容保が京都守護職に就いた時は 26歳。
その弟で桑名藩主松平容敬は、京都所司代になった時 17歳。

現代では信じられぬ。歴史に名を残した人たちは、みな20代で
ヒーローだったからか、最近のアニメやゲームソフトで描かれる
武将の顔はみなイケメンだ。それが“歴女”ブームになっている。
いいことだ。

私はもう 2.5倍生きた。「人生50 功無きを恥ず」(細川頼之)の心境



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錦帯橋と宇野千代の生家

2016-06-11 03:37:24 | 山口県と虚無僧

2009年に書いた記事の再掲です。

萩からの帰途、岩国に立ち寄り、錦帯橋を見てきた。
岩国は基地の町だから繁華街にあるものと思っていたら、
山あいの、京都嵐山のような風情だった。両岸には武家
屋敷の名残りを留める家が並び、ここも萩と同様、時代に
取り残されたような町だ。

近くに宇野千代さんの生家があると知って、立ち寄った。
生家は、岩国市が買い上げ、NPO法人で維持管理されていた。
案内役のご婦人が、温かく虚無僧を迎えいれてくれ、「何か
お話をたまわりたい」との言葉に、「明も暗も心の内よ」
とのたまえば、なんと宇野千代の言葉にも
 
「幸せは遠くにあるものでもなければ、人が運んできてくれる
ものでもない。自分自身の心の中にある」と。

明治30年生まれながら、自由奔放な男性遍歴。『徹子の部屋』で
黒柳徹子が、「こんなに、誰々と寝た寝たという人初めて」と
笑いこけていたとか。

私が記憶しているのは、94歳頃の新聞記事だ。記者が「若い時は
ほんとうにおきれいだったんですね」と言ったら、眼鏡の奥の目が
キラッと光り「今が一番きれいです」と言われたと。

過去にとらわれない。過去を振り返らない。美しく老いる。いや
老いて ますます輝き、「100歳まで生きる」と言っていたが、
目前の98歳で亡くなられた。

つい8月18日にも、「衝撃!女たちは目撃者『歴史サスペンス劇場』
で「誰も真似できない女のスゴイ生き方、宇野千代」として 取り上げ
られていた。「こんな女性もいたんだ」と知る人ぞ知るの人である。



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山口県と虚無僧 その1

2016-06-11 03:35:41 | 山口県と虚無僧

現存史料の中で「虚無僧」の最古の記録は、『大内氏壁紙』と
言われている。今回の旅で、山口県下関市長府にある『長府
博物館』で現物を見てきた。

文明18年(1486)の禁制に「薦僧、放下、猿引の事、当所併
近里を払う可き事」とあり、「虚無僧」ではなく「薦僧」で
あった。これは 1530年頃書かれた『三十二番職人歌合せ』
の「こも僧」と同じで、それより50年ほど前の記録となる。

室町時代、応仁の乱で都も荒れ果て、足利8代将軍義政は
政治から逃避し、銀閣寺を建てて引き籠もっていた頃。
西国では大内氏が周防、長門、豊前、筑前の四カ国を支配
していたが、世情不安で、よそ者の入国を厳しく禁じていた
のである。

尚、文明13年(1481)に一休は 88歳で亡くなっている。山口で
薦僧の入国を禁止していたということは、一休の時代には
薦僧が全国的に回遊していたことになる。その身分は放下や
猿回しと同じ遊芸人に近いものだった。

「薦(こも)むしろ」を腰に付け、野山に止宿するので「こも僧」
だった。それが「虚無僧」になるのは江戸時代なのだ。江戸時代
でも「薦僧、虚妄僧」と書かれていた。40年前、私が新潟を旅した
時「おこもさん」と呼ばれたことを記憶している。「お薦さん」は
「乞食」の別称であることを、その当時は知らなかった。



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山口県と虚無僧 その2

2016-06-11 03:35:38 | 山口県と虚無僧

江戸時代、中国地方に虚無僧寺は、石見銀山で知られる
島根県大田市大森町銀山に「西岸寺」が1カ寺在ったのみ。
それも江戸時代半ばには「無住」となっていた。

山口、広島、岡山には虚無僧寺は無かったので、虚無僧は
居なかったと思われるのだが、今回の旅で大発見。

下関から19号線を海沿いに萩へ向かう途中、川棚温泉駅を
右に折れ、車で15分ほど、下関市豊浦町中小野に「虚無僧墓」
というバス停があった。道路脇に、屋根つきのしっかりした
お堂があり、中に虚無僧を祀った墓がある。天保(1830~1834)
の頃、どこから来たのか一人の虚無僧がやってきて住みついた。
その虚無僧は、大酒飲みで、村人たちは敬遠していた。
ところがある時、村の娘が山賊に襲われた時、救ってくれた
のが件の虚無僧。弘化3年(1864)虚無僧は頭を患って死んだ
ので、村人たちが供養のお堂を建てて祀ったとか。弘化3年
は、「幕府による虚無僧の取り締まり」が厳しくなった年だ。
これも虚無僧の霊に呼び寄せられたか。一曲手向ける。

なんと、その近くには「小野の小町」の墓も。小町も諸国
流浪の末、ここに流れてきて没した。それで村名を「小野」
というとか。ただし、小町の墓は全国に28カ所もあるそうな。



山口県と虚無僧 その3

2016-06-11 03:34:51 | 山口県と虚無僧

「虚無僧は幕府の隠密」などとよく言われるが、
そのような事実は無い。わずかに越後村上藩で、
“岡引き”や“目明し”のように、役人に情報を
売ることがあった程度。

「虚無僧が幕府の隠密」ということが知れ渡って
いたのでは、あの目立つ格好で他藩に侵入したら
すぐ捕らえられてしまう。幕府の隠密どころか、
幕末、京都明暗寺は、勤皇派だったのである。

京都明暗寺の役僧「素行」は膳所藩士の子で、脱藩
して虚無僧となっていた。勤皇の志篤く、文久3年
(1863)大和の天誅組の義挙に呼応して、兵庫県生野で
農民を扇動し決起している。生野には銀山があり、
幕府の代官所があった。この「生野騒動」には、長州
の奇兵隊も加わっていたが、不発に終わり、素行は
捕らえられ、京都の六角獄に送られて、翌元治元年
(1864)禁門の変が起きると、平野国臣らとともに斬首
された。

この禁門の変の時の、京都明暗寺の33世看主「玄堂
観妙」は、元長州藩士だった。であるから、禁門の
変で敗れた長州の敗残兵を匿い、その咎で捕縛され、
六角の獄に入れられた。その直前には素行が投獄され
ていて、斬首されたのである。

玄堂は、後 許されて出獄しているが、慶応3年(1867)
明治になる直前、大阪で歿している。

明暗寺の最後の看主は「明暗昨非」である。この明暗
昨非は、明治4年の「太政官布・普化宗廃止令」に
よって、明暗寺の本尊「虚竹禅師像」他 什物を、懇意
にしていた東福寺善慧院に預けて出奔し、日蓮宗系の
本門佛立宗に改宗した。東福寺善慧院内に虚無僧本山の
明暗寺が置かれているのはこのためである。




山口と愛知

2009-12-06 08:07:34 | 山口県と虚無僧
11/ 4 山口から帰り、名古屋駅に着く。すごい人だ。

コンコースで、年配の男性がニコニコ顔で近寄ってきて、
「なつかしいねぇ、昔よくみかけたよ。子供の頃、後を
追っかけしておった。神社などで休んでいたりね」と。

さらに、アラサー(30歳前後)の女性から声を掛けられる。
「写真撮っていいですか」と。「どうぞどうぞ」で、
駅員の目を気にしながら、尺八を吹くポーズで 写メに
おさまる。すると「はい、とってもよく撮れましたよ」
と、画面を見せてくれた。若い女性とこんな対話が
楽しめるなんて、“なごやか名古屋”、名古屋はいい。
ほっとする。

萩の松陰神社でのこと。観光客が社殿の前で、2礼2拍手
1礼の参拝しない人が少なからずいた。年配者でもだ。

名古屋ではありえない。熱田神宮の正月3カ日の初詣客は
260万人と、名古屋市の人口 220万を上回る。伊勢神宮より
多いのだ。

さらに、毎月朔日(1日)と15日には“必ず氏神様に詣でる”と
いう人も少なくない。また、鳥居をくぐる時、入る時も帰る時も
振り返って一礼する。これは他ではみられない。

名古屋人は信仰深い。そういう風土だから、虚無僧にも布施
される人が多いのだろう。


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吉田松陰

2009-12-05 20:00:34 | 山口県と虚無僧
長州と会津は元治元年(1864) の「禁門(蛤御門)の変」以来の
仇敵である。戊辰戦争(1868)から120年の1988年、山口県側から
仲直りの申し出があったが、当時の会津若松市長高瀬喜左衛門は、
それを拒否し話題となった。高瀬喜左衛門の夫人は私の従兄姉に
あたる。司馬遼太郎の『街道を往く』(白河編)でも紹介されている。

それから早20年、戊辰140年を経て、私の心の中にもようやく
呪縛が融けてきた。一昨年は鹿児島に行き、今年も暮れに
なって、意を決して長州に行ってきたのだ。

萩で、吉田松陰の松陰神社に詣で、境内にある松下村塾を
見てきた。簡素な民家だった。

画像でみる吉田松陰の顔は、4~50代の年寄り顔だが、
松陰が武蔵野の野辺に散った時、まだ29歳。松下村塾で
伊藤博士、高杉晋作ら維新の志士を教導した時は、27、8歳
だったと知って驚く。

吉田家は、会津出身の兵学者 山鹿素行の「山鹿流兵学」師範
の家だった。松陰は11歳で、山鹿素行の『武教全書』の一章を
藩主に講義している。おそるべし。

そして、23歳の時に藩に無断で奥州へ旅し、会津にも立ち寄って
いる。会津では井深茂松(ソニーの創業者井深家の先祖)と会って
いる。藩校日新館も見学し、会津の軍制は長州と同じ「長沼流」。
会津には長州と共通する親近感を抱いたようだ。

松陰はさらに青森の突端から九州まで旅をし、ロシアが来ると
聞けば長崎に、ペリーが来た時は下田に行って密航を企てる。
知識欲旺盛でフットワークが軽く、東奔西走の上、危険人物と
して度々投獄された。故に、松下村塾で後人の育成教導にあたった
のはわずか1年余。

20代の青年が、わずか1年余の講義で、江戸幕府を瓦解させた
とは、原爆なみのすごさだ。松陰の薫陶を受けた若者たちが
その遺志を継いで倒幕を決起した。キリストも処刑されたから
こそ、信仰の対象となったように、松陰も安政の大獄で処刑
されたればこそ、名を残したか。坂本龍馬もまた然り。


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長州ファイブ

2009-12-05 19:59:57 | 山口県と虚無僧
萩の宿で、DVD『長州ファイブ』を観た。幕末に長州藩から英国に
派遣された5人の若者のストーリー。2006年に制作された映画との
ことだが知らなかった。

長州ファイブ(五傑)とは、後に総理大臣になった伊藤博文。外務大臣の
井上聞多(馨)、造幣局長の遠藤謹助、鉄道を敷設した井上勝(野村弥吉)。
造船工学を学び、東京大学工学部の礎を築いた山尾庸三の五人。

過激な攘夷論者だった彼等が、佐久間象山の「まず敵を知れ」の言葉で、
渡航を決意。幕府に見つかれば死罪の世、藩主の黙認のもと、藩から
5千両もの金を借りて密航する。4ヶ月船乗りとしてこきつかわれ、
大変な思いをしてイギリスに渡る。そこで見たものはイギリスの工業力
による繁栄と、街裏にうごめく貧民の姿。

ロンドンで、「長州藩が、外国船を攻撃し、4カ国連合艦隊から攻め
られ、幕府からも征長の兵を向けられる」というニュースを知って、
伊藤利助(後の博文)は急遽帰国し、高杉晋作とともに、和議の談判に
あたる。

それもこれも、保守的な藩の要職の抵抗を斥けて藩主を説得するのは
大変なことだった。内にも外にも敵ばかり。正に内憂外患。

薩摩藩も、藩費で秘かに19人もの留学生を送っていた。薩摩と長州の
留学生がロンドンでおち合う。薩長は禁門の変以来の仇敵だったが、
外国で、より高い見地から友情を深めあう。薩長同盟はひと足先に
ロンドンで芽生えていたのだ。

幕末から明治維新は、薩長土と会桑等幕藩側との藩と藩の戦いと
思っていたが、薩長土の中でも、ごく一部の若い下級武士たちが、
藩内の旧勢力と対決して、明治維新を推し進めたということを
あらためて認識する。


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下関赤間神宮

2009-12-04 22:54:57 | 山口県と虚無僧
2,3,4と、下関~萩~岩国と山口県を旅してきました。
その間、ブログ更新していないにもかかわらず、毎日
200件余の方にアクセスしていただき、ありがとう
ございました。

さてさて、この時期ですので、どこも観光客はマバラ、
閑散としていました。

まずは、赤間神宮参拝。来年10月11日、名古屋能楽堂で
琵琶の糸井藍水さんと『耳なし芳一』を演奏しますので、
その成功祈願です。芳一の像に詣で、その傍にある
平家一門の墓石群には、特に懇ろに祈ってきました。


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