現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

最後のごぜ 小林ハルさん

2020-01-31 09:09:35 | 盲人の世界

「最後のごぜ小林ハル」。今そのCDを聞きながらこのブログを書いている。小林ハル96歳の時の録音。96歳とは思えない、若々しく活き活きした声での絶唱。

この人の生涯は、NHKのドキュメンタリーで見た。本も読んだ。冬の雪の日毎日、河原での稽古。先輩について村々を回っても「小さい娘はおねしょをするからダメ」だと、家に入れてもらえず、戸外で一晩明かしたことも何度か。先輩ごぜにいじめられ、子供を産めないからだに。養子として迎えた娘夫婦にも裏切られ、その生涯は凄絶だ。

そんな不幸な生涯、苦労の数々を、愚痴ることもなく、誰を恨むでなく、心は澄み切って、100歳を越え、目は見えなくとも、実に美しい容貌をしていた。だがその唄声は“地の叫び”だ。聞く者の魂を激しく
揺さぶる。

「よい人と歩けば祭り 悪い人と歩けば修行」



一休は77歳で、森女(しんにょ)という盲目の女性を愛した。森女は、鼓を打って仏教説話を語る、いわばごぜの元祖だ。
その森女を一休は「そなたは、その不自由なからだを少しも厭わず、この世をのろうこともなく、神仏を恨まず、清らかな心で仏の功徳を歌っている。そなたこそ真にわが仏じゃ」と、88歳までの10年、森女を慈しみ、仲睦まじく暮らす。

森女と小林ハル、私の中で重ね合わさるのだ。
最後の瞽女(ごぜ)小林ハルさんが三味線を弾いている姿

 


盲人に道を教えられる

2020-01-31 09:07:56 | 盲人の世界

何ヶ月か前、高道町の老人会にボランティアで行った際、
声を掛けてくれたMさん。箏、三絃を弾かれるとのこと。
その方から「戦争で障碍を負った方たちの集いに箏、三絃を
弾くので尺八を」と頼まれた。
昨日、その下合わせに、私の稽古場にみえた。

そこで初めて気がついた。盲目なのだ。先日会った時は
全く気がつかなかった。さて、選曲で『黒髪』『秋の言の葉』
『嵯峨の秋』と候補を挙げ、とりあえず合わせてみましょうと
いうことになった。盲人は楽譜無しで弾ける。私はそうはいか
ない。楽譜探しで大あわて。古曲だけでない。『川の流れの
ように』『涙そうそう』も弾いて歌うという。全部暗譜なのだ。

お茶を出しても、普通の人と同じように茶碗をとって飲まれる。
曲順もすぐ覚える。私など曲順すら覚えられない。会場の
場所についても、「大須駅でおりて、歩道橋を渡って」と、
道順をしっかり説明される。唖然。


宮城道雄  盲人とはいえ

2020-01-31 09:06:16 | 盲人の世界

宮城道雄氏もふだんのしぐさは建常人と同じで、盲人と
思わせなかったという。和歌山県の白浜に、宮城道雄
作曲の『浜木綿(はまゆう)』に因んで、「浜木綿の碑」
が建てられた。

昭和31年6月4日、その除幕式に、宮城道雄と姪の喜代子、
数江も列席した。幕を引いて現れたのは、等身大の
宮城道雄?の像。顔をゆがめ、壁を探すように手を差し
伸べている。いかにも盲人とわかる像に、喜代子、数江は
不快感を顕わにした。「宮城先生は、歩かれる時も
普通の人と同じです。こんなぶざまな格好はしません!」と、
作り変えを要求したそうな。その後どうなったかは知らない。
まったく目明きが考える盲人の像と、実際の姿は乖離がある。

この20日後、宮城道雄は再び東海道線に乗って関西に向かった。
そして、6月25日、刈谷駅手前で、列車から転落して亡くなった。
いかに盲人とはいえ、列車のドアとトイレのドアとを間違える
はずはない。というのが事故説を否定する理由のひとつ。
さすれば、自殺か他殺!

「宮城道雄 浜木綿の像」の画像検索結果

 


宮城道雄 壮絶な半生

2020-01-28 21:35:00 | 筝尺八演奏家

宮城道雄のエッセイ「私の若い頃」より

 

九歳の年の六月一日に、兵庫の中島検校の許へ弟子入りをした。
師匠はきびしく、「盲人は記憶力が肝腎である、一度習ったことを忘れたら、二度とは教えてやらない」と常に言われた。
私が三味線の「青柳」と言う曲を忘れた時、ひどく叱られて、曲を思い出す迄は、御飯も食べさせない、家へも帰らせないと、留めおきをくった。不思議なことに、お腹がすいてくると頭がさえて、忘れたのもつい想い出すのである。
 また寒稽古といって、寒中に戸障子を明け放して、寒い方へ向って百篇とか、千篇とか繰返して弾く。そして手が冷たくなると、手を水をつけてまた弾きだす。しまいには指から血が出るようなこともあった。
 師匠がきびしかったおかげで、私は十三歳の年に、師匠の免状を許された。しかし私としては、これから本当の勉強をしたかったのであるが、もともと家が裕福でない上に、父が事業に失敗して朝鮮へ渡って行ったが、また運悪く賊に襲われて、重傷を受けた。私は、已むを得ず十四の年に朝鮮へ行くことになった。

仁川へ行って見ると、父の身体がまだはっきりしないので、結局私の細腕で箏の師匠をして、一家を支えなければならなくなった。

(中略)

人は一心にやっておれば、また恵まれる時も来るもので、私は大正六年に機会を得て、宿望の東京へやっと出て来たが、東京へ来てからも、またいろいろの方面で困った。
 それが少し楽になりかけた頃に、東京の大震災に会った。その後少しよくなったと思うと、今度は戦災で家や、楽器や、その他とりかえしのつかない物も焼けてしまい、また一から出直すことになったが、私の人生は芸の旅で、命ある限り修業である。
 

9歳で入門、4年で師範。箏で一家を支えねばならなかったという。

ところで、宮城道雄の家族についての記述はほとんどない。母親は道雄が幼い時に生き別れ、祖母に育てられた。「家族が多くて、養うのが大変だった」というが、兄弟姉妹は、その後どうなったのか、全くわからない。


「宮城道雄」 絶望の時

2020-01-27 19:09:54 | 筝尺八演奏家

宮城道雄「音の世界に生きる」  

 
    幸ありて  

 昨年の暮、一寸風邪をひいて欧氏管(おうしかん)を悪くした。普通の人ならたいして問題にすまいこのことが、九つの年に失明を宣言されたその時の悲しみにも増して、私の心を暗くした。もし耳がこのまま聞こえなくなったら、その時は自殺するよりほかはないと思った。音の世界にのみ生きて来た私が、いま耳を奪われたとしたら、どうして一日の生活にも耐え得られようかと思った。幸い何のこともなく全治したが、兎に角今の私には、耳のあることが一番嬉しくまた有難い。  


9歳で完全に失明した時は、あきらめ、開き直り、箏の道で生きる決心を

したが、耳が聞こえなくなったら 「 もう 自殺するよりほかはない」と。

「絶望名言」の頭木弘樹さんも、この点に注目。人は絶望して死にたいと

思う時はどういう時なのか。失恋した時?事業に失敗した時?夢や希望、

望みが閉ざされた時?。

 

宮城道雄は、ヘレンケラーが来日した時、面会し、大変感動したという。

ヘレンケラーは目も見えない、耳も聞こえない、口もきけないの三重苦で、

立派に生き、世界中の人に勇気と希望を与えていると。

また、ベートーベンは、耳が聞こえなくなってから 「運命」など 優れた

楽曲を作曲した。

手、足、目、耳、口が不自由でも、目だけで パソコンを使って意思表示が

できる時代になった。できることをやればいいと頭木氏。彼も難病で、

ベッドに横たわったままで、こうして、本を何冊も出版し、時の人となっている。


宮城道雄 耳で見える

2020-01-27 19:09:27 | 筝尺八演奏家

宮城道雄「音の世界に生きる」  

  今日では、年も取ったせいであろうが、眼の見えぬことを苦にしなくなった。時々自分が眼の悪いということを忘れていることさえある。「ああ、そうそう、自分は眼が見えなかったんだな」と気がつくようなことがしばしばある。

 私は、眼で見る力を失ったかわりに、耳で聞くことが、殊更鋭敏になった。普通の人には聞こえぬような遠い音も、またかすかな音も聞きとることができる。そして、そこに複雑にして微妙な音の世界が展開されるので、光や色に触れぬ淋しさを充分に満足させることができる。そこに私の住む音の世界を見出して、安住しているのである。  

    声を見る  

 音声によって その人の職業を判断して滅多に誤ることがない。 


 弁護士の声、お医者さんの声、坊さんの声、学校の先生の声、各々その生活の色が声音の中ににじみ出てくる。偉い人の声と普通の人の声とは響きが違う。やはり大将とか大臣とかいうような人の声は、どこか重味がある。

  年齢もだが、その人の性格なども大抵声と一致しているもので、穏やかな人は穏やかな声を出す。ははあ、この人は神経衰弱に罹っているなとか、この人は頭脳のいい人だなというようなことも直ぐわかる。概して頭を使う人の声は濁るようである。それは心がらだとか不純だとかいうのでなく、つまり疲れの現れとでもいうべきもので、思索的な学者の講演に判りよいのが少く、何か言語不明瞭なのが多いのがこの為ではないかと思う。

  同じ人でも、何か心配事のある時、何か心境に変化のある時には、声が曇ってくるから表面いかに快活に話していても直ぐにそれとわかる。初めてのお客であっても、一言か二言きけば、この人は何の用事で来たか、いい話を持って来たのかそれとも悪い話を持って来たか、何か苦いことをいいに来たかというようなことはよくわかるものである。また肥った人か痩せた人かの判断も、その声によって容易である。例えば高く優しくとも肥った人の声は、やはりどこかに力があるものだ。 

 声ばかりではない、歩く足音でそれが誰であるかということがよくわかる。家の者が外出から帰って来たのか、客であるか、弟子であるか、弟子の誰であるか、大抵その足音でわかる。道を歩いていても、それが男であるか女であるかは勿論、その女は美人であるかどうかもやはり足音でわかる。殊に神楽坂などという粋な筋を通っていると、その下駄の音であれは半玉だな、ということまでわかる。それは不思議なくらいよくわかる。  

 

私のところに尺八を習いにきている全盲のSさんも、同じことをいっている。

「山口百恵は目がすわってますね」と。

「なんでわかるの?」と問う私に「声でわかりますよ」と。

美人かどうかもわかるという。


宮城道雄 「音の世界に生きる者の悟り」とは

2020-01-27 19:08:47 | 筝尺八演奏家

宮城道雄「音の世界に生きる」  

 

   音に生きる  

 私は子供の時には非常に負けず嫌いで、喧嘩しても議論しても負けるのが何より厭だった。それがこうして音の世界に生きるようになってからは、不思議に気持が落著いて来て、負け嫌いどころか、負けることが好きなくらいになった。大概のことは人に勝たしてあげたいと思うのである。  


 決して人と争わぬ。人の意見に反対しない。若い頃には直ぐ怒ったものであるが、この頃は腹が立たなくなった。

 芸に就いても、かつては他流の人とでも弾く時には、何か一種の競争意識というか、戦闘気分といったようなものに支配されたものであるが、今はそうでない。誰とやっても静かな気持である。先ず人を立ててその中に自分自らも生きようと希う気持だけである。



 それでよく弟子達に、「先生は誰にでも頭を下げるから威厳がない」と叱られたりするが、しかし私は自分の値打を自分で拵えて人に見せようというような気持にはなれない。 

 これは何も私が修養が出来ているかのように仄かすのではない。およそ音の世界に生きる者のすべてが自然に持つ、一つの悟りとでもいうべき心境であろう。有難いと思う。私はいま別に信仰というものはないが、強いていえば、私にとって音楽は一つの宗教である。 

 

これは、今の私も全く同感。つい数年前までは、ささいな事にも腹を立てていたが、今は全く腹が立たなくなった。「人と競わない。他人と比較しない」それこそ普化宗の唯一の教義である。

最近では、私のことを 「こんなに偉い先生なのに」「私達とは口もきいてもらえない方なのに」などと云ってくださる方がいる。「虚無僧はタダの乞食」と笑って答える私。自分が最低の人間と思うと、えらぶる心も、人を見下す心も失せるものである。これが虚無僧としての修行だったかと最近ようやく気付く。

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福沢桃介とマダム貞奴の愛の巣「双葉館」

2020-01-25 21:11:03 | 虚無僧日記

今日は、東区にある「双葉館」を案内することに。

ここは、電力王と呼ばれた福沢桃介と日本の女優第一号「マダム貞奴」の邸宅。

福沢桃介は、埼玉県の農家岩崎紀一の次男として、1868年に生まれる。

慶応から明治に変わった年。

慶應義塾に入学、運動会で、福沢諭吉の次女「お房(ふさ)」さんに見初められ、

結婚。「結婚したら男性側の姓を名乗らなければならないというのはおかしい」と

云う福沢諭吉の言によって、養子ではないが「福沢」姓となる。

ヨーロッパ留学後、木曽川の電源開発事業に取り組み、「日本の電力王」となる。

病床にあった時、株の売買を研究し、莫大な財産を築く。

桃介が名古屋を拠点とした中部地方の事業に関わるようになったのは、明治42年、

慶應出身の矢田績(やだせき)(三井銀行名古屋支店長)の勧めで、

名古屋電燈の株を買い占めて筆頭株主になったことからである。

桃介が関わった中部地方の企業は大同特殊鋼など22に上る。

名古屋電燈本社のあった所は、現在中部電力による「でんきの科学館」

(名古屋地下鉄伏見駅下車すぐ)となっている。コンサートホールもあり、

私も何度か使わせてもらっている。

その四階の片隅に「でんき資料室」があり、大理石の桃介胸像や

桃介の書「水然而火」(水燃えて火となす)など、桃介関係の資料が

いくつか陳列されているが、気に留める人は全くいない。

大正6年の賤母(しずも)発電所起工を皮切りに、7年大桑発電所、10年須原発電所、大井発電所、読書(よみかき)発電所、11年桃山発電所、13年落合発電所を起工し、木曽川に七つの発電所を完成させた。以上のような経緯があって、桃介は本拠地を名古屋に移し、貞奴やっこと同居するようになった。その昔、14歳の貞奴と十七歳の桃介は偶然出会い、お互い淡い恋心を持つようになっていたが、貞奴は芸者として伊藤博文を始め明治の元勲の贔屓(ひいき)となり、明治24年に川上音二郎と結婚し、女優として一世を風靡した。音二郎が明治44年逝去してから、桃介の援助を受けるようになっていたが、女優を引退して桃介との同居に至った。

大正九年ごろには、名古屋市東区東二葉町(現白壁三丁目九・十・十三)、台地の北端にあって遠く御嶽山を望む二千坪という広大な敷地に「二葉(ふたば)御殿」と呼ばれるほどの豪邸を建てた。表札には「川上貞」と記され、名義も貞奴のものであったが、資金は桃介が調達した。木曽川電源開発を進める上で大切な政治家や財界人を招き、その接待に貞奴が当たるという場にふさわしく、大広間は円形のソファーがあり、ステンドグラスで装飾され、螺旋階段で二階へ上がるという優雅な雰囲気を醸し出している。昭和13年に売却されてから、敷地は分割され、建物も一部取り壊されたが、平成十二年建物が名古屋市に寄贈され、平成17年2月、東区橦木町(しゅもくちょう)三丁目に移築・復元が完成し、「文化のみち二葉館」として公開されている。

 

 

旧島原藩黒門 (慶應義塾福澤研究センター所蔵)
 
二葉館

 木曽川電源開発の現地監督用別荘としては、大正8年、南木曽(なぎそ)駅から木曽川を渡った地に大洞山荘(大同電力一号社宅)を建設した。洒落た総二階建ての洋館の山荘に、桃介は貞奴を連れて滞在し、発電所建設の陣頭指揮に当たった。昭和35年に火災で二階を焼失したが、貞奴、音二郎、桃介を描いたNHK大河ドラマ「春の波顰」の放映に合わせて、昭和60年に「福澤桃介記念館」として公開され、平成9年に当初の二階建ての姿に復元された。

 

 この山荘から程近いところに、読書発電所の建設資材運搬用として木曽川に架けられた全長247mのつり橋がある。「桃之橋」と命名されたが、「桃介橋」という呼称で定着してしまった。昭和53年には老朽化のため、通行不能となってしまったが、平成5年復元工事が完成し、通行可能になった。そして、桃介橋、読書発電所、そして読書発電所への導水路の柿其水路橋が国の重要文化財(近代化遺産)に指定されている。読書発電所の建物は、半円の窓や屋上に突き出た明かり窓、飾り壁などアールデコ調のデザインになっているが、桃介が手懸けた7つの発電所は、現代の発電所に見られる無機質なデザインでなく、どの発電所にも特徴的な意匠が加えられ、個性あるものになっている。

 


10/31 文化の道「双葉館」

2020-01-25 20:46:07 | 虚無僧日記

今日は、東区のある集りで、「双葉館」をご案内することに。

「双葉館」は、日本最初の女優「マダム貞奴」と、
そのパトロン、福沢諭吉の娘婿で、電力王と言わ
れた福沢桃介の邸宅。今は、名古屋市が管理し、
公開されている。

福沢桃介の東京広尾の邸宅は、戦後、千代田生命が
買取り、研修センターとなっていた。
私は、そこに勤務していた。

福沢桃介は、明治元年(1868年)6月25日埼玉県吉見町で生まれ、幼少の頃埼玉県川越市に一家で移住しています。慶応義塾に入塾したのが縁で、天性の明敏かつ努力家の桃介は福沢諭吉に見込まれ養子となり、アメリカに留学しています。明治40年代から名古屋を中心とする実業界で活躍し、幾多の事業を手掛けています。電気事業に関係するようになったのは明治41年からで、木曽川水力発電の開発に特に情熱を注ぎました。大正8年に賤母発電所を築き、大正12年の読書発電所竢工の頃が彼の絶頂期だと言えます。電力王とも呼ばれ、日本近代産業の振興に大きな足跡を残し、昭和13年(1938年)2月15日に69才の生涯を閉じました。

川上貞奴は東京に生まれ、長ずるに及んで芸姑となり、明治顕官らの贔屓ひいきを受けましたが、明治23年に川上音二郎と結婚し、以後、新派演劇の発展に尽力しました。日本で最初の女優とうたわれました。
 桃介は、木曽川水系に多くの発電所を建設しましたが、その現地の宿舎として、風光明媚な三留野の地に別荘をもうけ現場の指導にあたりました。その際、しばしば貞奴を伴って、避暑のために長期逗留しました。貞奴が三留野駅(現南木曽駅)に降り立つたびに、高名な女優を一目見ようと、黒山の人だかりだったといいます。
 電力王桃介と女優貞奴のロマンスは、当時地元の人々の間でも注目の的でした。
内部一階展示室
 

 


南京虐殺はあったのか

2020-01-25 20:16:12 | 太平洋戦争

中国慰問団を調べていて、『最後の殿様 徳川義親自伝』
「中国侵略軍を慰問する」という一文にゆき当たった。
徳川義親は、尾張徳川家の第19代当主。

「南京虐殺」について、吉本の芸人たちで構成された「わら
わし隊」でも触れられているが、徳川義親の伝記にも、こう
書かれていた。


「"あれを撃て"
 ぼくが慰問を終えて帰国の途についた数日後のことだが、
 日本軍が南京で大殺戮を行なった。今日では、南京虐殺は、
 まぼろしの事件ではなかろうか、といわれるが、当時ぼくが
 聞いたのは、数万人の中国民衆を殺傷したということである。
 しかもその張本人が松井石根軍団長の幕僚であった長勇中佐で
 あるということを、藤田くんが語っていた。 長くんとは僕も
 親しい。

 藤田君は、僕が中国を去った後も、まだ上海に留まっていた。
 麻薬の後始末や軍と青幇との交渉などをしていたときに、
 南京から長勇中佐が上海特務機関にきて、藤田くんに会った。

 二人は同郷の福岡の関係でいっそう親しい。その親しさに口が
 ほぐれたのか、長中佐は藤田君にこう語ったという。

 日本軍に包囲された南京城の一方から、揚子江沿いに女、子どもを
 混じえた市民の大群が怒濤のように逃げていく。その中に多数の
 中国兵がまぎれこんでいる。中国兵をそのまま逃がしたのでは、
 後で戦力に影響する。そこで、前線で機関銃をすえている兵士に
 長中佐は、「あれを撃て」と命令した。中国兵がまぎれているとは
 いえ、逃げているのは市民であるから、さすがに兵士は躊躇して
 撃たなかった。それで長中佐は激怒して「人を殺すのはこうするん
 じゃ」と、軍刀でその兵士を袈裟がけに切り殺した。驚いた他の
 兵隊が、一斉に機関銃を発射し、大殺戮となったという。

 長中佐が白慢気にこの話を藤田君にしたので、藤田君は驚いて、
「長、その話だけは誰にもするなよ」 と厳重に口どめしたという。


最後にこんな一文がある。

「ぼくは東京に帰りついた。 橋本欣五郎くんから軍用葉書が
 きていた。  (中略)
 橋本くんは満州事変の謀略に参画したが、山海関から先へ、
 長城をこえて中国本土には絶対に侵入しない。すれば日本の
 敗北である、と確信し、公言もし、僕にも語っていた。

  すでにこのとき、日本の敗北を予想していたのだろう。
 橋本くんはかねてから、『近い将来に、マッチ箱ほどの大きさの
 爆弾で、何万人、何十万人と殺裁できる時代がくる。だから
 決して、戦争はしてはならない』、といっていた」と。

南京事件の年の事だから、昭和12年である。その時すでに原爆開発
の噂は流れていたのだ。