現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

虚無僧のルーツ

2016-11-16 17:56:58 | 虚無僧って?

ネットを開けば、なんでもすぐに調べることができる。
すごいことだ。だが虚無僧に関してはデタラメばかり。

まず、日本に普化宗=尺八禅を伝えたのは「東福寺の僧 覚心」、
あるいは「臨済宗の覚心」などと書かれている。困ったものだ。

今でこそ、東福寺の塔頭のひとつ善慧院に間借りして「宗教法人
普化正宗明暗教会」があるが、東福寺との関係ができたのは
明治になってからのこと。鎌倉時代の覚心は高野山(真言宗)の
僧で、唐に渡り、帰国後は和歌山県由良の西方寺の開山となった。

当初、真言宗の西方寺だったのが、臨済宗の興国寺と改められる
のは、南北朝のことなのである。

そして虚無僧のルーツは、高野聖や、全国を遊行した時宗
(じしゅう=時衆=後の遊行宗)に求められる。高野山は真言
密教だが、高野聖や時宗は、諸国を遊行する「念仏宗」なのだ。

虚無僧が それ以前「慕論字(ほろんじ)、暮露(ぼろ)」と
呼ばれていたのは、「一字金輪仏」の呪(じゅ)「のーまく
さんまんだ、ぼたなんボロン、ぼたなんボロン」と唱える
念仏集団だった。


それが、念仏が尺八に代わり、虚無僧が禅宗の一派と
みなされるようになるのは江戸時代で、それは一休の
影響だと私は考えている。


「虚無僧」の前身は「薦僧(こもそう)」

2016-11-16 17:56:32 | 虚無僧って?

「虚無僧」の発祥は、はっきりしません。その前身は
「薦蓆(こもむしろ)と尺八」を持って、諸国を往来し、
夜は寺の軒下などで、「薦蓆」を敷いて寝た「薦僧」と
言われます。

では、文献上では、「薦僧」はいつ頃まで遡れるので
しょうか。現存する史料の最古のものは、山口県下関市の
「市立長府博物館」に所蔵されている『大内氏壁書』です。


『大内氏壁書』というのは、室町時代に山口を支配して
いた大内氏の法令集で、大内持世・教弘・政弘・義興の
時代、1439年から1496年までの法令80編が収められています。

(ただし、当時の原本ではなく、桃山時代から江戸時代
初期に書き写されたものとのこと)

その「文明18年(1486)4月20日付禁制」で、

『第90条 薦僧・放下・猿引の事』として
 一、薦僧、放下、猿引事、可払 当所并近里事

と書かれてありました。

薦僧が 曲芸師の放下僧や 猿回しと同様の旅芸人として扱われ、
「当所(山口の城下)並びに近在の里でも払うべきこと」。
つまり「追い払え」といっているのです。

旅芸人としての扱いですから、薦僧は尺八を吹いて門付けした
のでしょう。一休が88歳で歿したのが 文明13年(1481年)ですから、
それから5年後の事です。

「薦僧」は 西国山口まで往来し、不審者として追い払われる
べき存在でしたから、一休の時代には すでに「薦僧」がいたと
考えられます。


ただし、所持しているのは「尺八と薦」だけで、「天蓋」や
「げ箱」「袈裟」は持っていません。

文明18年から6年後の明応3年(1494)に書かれた『三十二番職人歌合』にも
「薦僧」として、薦を腰に、尺八を吹く男の絵が描かれています。
「薦僧」が職業の一つとして認められていたことになります。


『洛外名所遊楽図』 宇治平等院に薦僧

2016-11-16 17:54:51 | 虚無僧って?

狩野永徳の『洛外名所遊楽図』。新発見本
その中に、宇治平等院で休息する四人の男。一人が尺八を吹いている。
一人の腰には「薦(こも)」が描かれているので「薦僧」に
違いない。天蓋、袈裟は付けていない。

狩野永徳は1543~1590年の人。上杉本『洛中洛外図』を
描いた画家。1600年以前の虚無僧を描いた貴重な図だ。

解説では、「四人組で門付けをする芸能者」とあり、「一人が
尺八を吹き、他の3人は唄を歌う」とある。

虚無僧の図といえば、二人で連れ立って尺八を吹くのが
多い。四人で一人だけが尺八を吹くのは稀。
同じものが、『上杉本』でも三十三間堂に「四人組み」で
描かれているとか。

室町、戦国時代まで、薦僧は時衆の仲間で「念仏踊り」に
関係していたのではいかと私は考えているが、それを証明
するような図である。

ところで、宇治平等院と三十三間堂。いずれも虚無僧と関係がある。


「虚無僧」の特異性

2016-11-16 17:53:15 | 虚無僧って?

『洛中洛外図屏風』を見ていて、考えました。

「虚無僧」は当て字で、本来は「薦(こも)僧」。
「薦」を身につけて旅をし、夜は「薦」にくるまって
野宿する「僧」だから「薦僧」。托鉢僧は「薦」を
持たない。

「薦」を持っているのは「巡礼」と「虚無僧」だけ。
「薦」を持って旅をするが、尺八を吹くのが「虚無僧」。
吹かないのが「巡礼」。

その昔、乞食のことを「おこも(薦)さん」と呼んでいましたが、
『洛中洛外図屏風』では、「乞食」は「薦」を持っていません。

仏の功徳を説く「高野聖」も「薦」は持たない。仏の
功徳を説くが「僧」ではなく「聖(ひじり)」と呼ばれる。

「虚無僧」は、元「侍」で「僧」ではないのに「虚無“僧”」と
呼ばれる。

虚無僧は尺八を吹く。琵琶法師や鐘叩き、ササラや鐘を打って
「説教節」などを歌う旅芸人・遊芸人と同じようですが、
虚無僧は「芸人」とは一線を画しています。

尺八を吹くのに「芸人」ではない。「僧」ではないのに
「僧」と呼ばれる。巡礼と虚無僧だけが「薦」を敷いて
野宿する。琵琶法師は「薦」を持たない。

まとめると、
托鉢僧と同じく門付をするので「虚無“僧”」となった。
托鉢僧は「薦」を持たない。「薦」は虚無僧のシンボルだった?。
野宿はしても「乞食」でなく、修行の一環と思われたのか。
また、尺八を吹くが「大道芸人」ではなく、尺八は宗教的な
祈り=「お経」の一種と見られた。
ここに「虚無僧」の特殊性があります。


服部英雄著『河原ノ者・非人・秀吉』

2016-11-16 17:52:19 | 虚無僧って?

以前『週刊朝日』が 橋下大阪市長のルーツを「出身」と
報じたことで、朝日新聞社長が辞任する騒ぎに発展しました。

大阪といえば「豊臣秀吉」。秀吉も「の出」とする
論考が出ました。服部英雄著『河原ノ者・・秀吉』。
こちらは、「毎日出版文化賞」に輝いています。

たしかに、秀吉の出自は不明で、「子供の頃、矢作川の
“橋の上”で寝ていたところを野武士の棟梁、蜂須賀小六に
拾われた」といいます。ストリートチルドレンだったことは
“間違いない”。でも「橋の上で寝ていた」というのは不自然。
“橋の下” だったかも。

私の興味は、猿曳き(猿回し)や歌舞伎・能・狂言・文楽をはじめ
とする古典芸能のルーツである「猿楽士」たちが“”だった
こと。秀吉も「猿」面で、「猿まね」芸で身を立てていたこと。    

虚無僧も、一般には「大道芸」と同じ類に見られていたようなの
だが、虚無僧は「四姓の上、武士の端くれ」と大見得を切って、
実態は「乞食」でありながら「乞食」に落ちずに、独自の地位を
保ち得られたことが不思議です。

秀吉が「」から身を起こし「天下人」にまで立身出世した
ことと「虚無僧」になんらかのつながりがないか。

そういえば、徳川家康も「」の出で、それを秘するために
被差別を作って、自らの出自を封印したという説もあり
ました。



虚無僧が賎民にならなかったのは?

2016-11-16 17:52:00 | 虚無僧って?

秀吉も家康も最下層の出身だった。その周辺には
「猿曳き」「連雀商人」「ささら者」「時宗の徒」と
いった“諸国往来自由”の職業集団がいた。

この二人が、戦国の世にのし上がっていけたのは、
彼等を通じて、土地の事情、民意に通じた情報を
得ていたからともいう。

この二人は「賎民」の出身だったから、その過去を
封印するために「被差別」を作って隔離した
という説もある。

「、」について語るのはタブーだからか、
Wikipediaでは「」については出てきません。

「」は、心中のしそこない等で、人間としての
権利を剥奪された者。「溜り」に集められ、
「車善七」の支配下にあって、死罪になった者の
処理などに従事していた。親戚縁者に金を出して
もらって「庶民」に戻ることもできた。

「(エタ)」は、仏教では「肉や血」を穢れとするので、
牛馬の、皮製品の製作に関わる人。

その他「雑種賎民」といわれる職種がたくさんあり、
意外なのは「猿引」、いわゆる「猿回し」。猿を
使って芸をする人だが、「猿」というのは「密偵」
を意味することだったとか。

「」に次いで多いのが「茶筅」というのも意外。
「の類」の8人に1人は「茶筅」とのこと。
「茶筅」に限らず、竹細工職人が「雑種賎民」とは
驚き。虚無僧が、尺八を作るついでに、茶筅を
作って売っていたので、幕府から詰問されたことが
あった。「茶筌」づくりはの所業だったのだ。

竹に関係があるのが「ささら者」。
「ささら」とは竹や細い板などを束ねて作った道具。
洗浄用の器具のほか、楽器や民族舞踊の際の道具と
して使われる。「こきりこ節」の「こきりこ」も「ささら」の
一種。「ささら」を振って踊りながら「説教節」を歌うのが
「放下僧」。

これに似たのが「暮露(ぼろ)」で、大きな傘を持ち
その柄を叩きながら、「一字金輪仏」の真言「のうまく
さんまんだぼたなんボロン」と唱えていたので「ボロ」
と呼ばれた。これが虚無僧の前身という説もある。

この他、座頭、神事舞、田楽法師、放下僧、猿楽師、
獅子舞、越後獅子、傀儡師、願人僧、俳優、浄瑠璃芝居、
陰陽師、壁塗、土鍋師、鋳物師、辻目睡、石切、土師師、
笠縫、渡し守、山守、青屋、坪立、筆結、墨師、関守、
傾城屋、釟扣、鏡内、梓巫女、遊女、白拍子、傀儡女、
飯盛女、観物師、舌耕、術者、弦売僧、高野聖、事触、
偽造師、狙公、堂免、俑具師、刑殺人、青楼、肝煎、
勧進比丘尼、犬神、神結、伯楽、盲目、放免、浄瑠璃語り、
妖曲歌、浮浪、行乞、乞食、伎丐、丐頭、難渋町、番太、
熅房。

これでは、「河原乞食」といわれた歌舞音曲の芸人から、
ごく一般の職人まで、多くが「賎民」の範疇にはいる。
その数2~3百万人、江戸時代の人口約3千万の1割近く。

さて、この中に「虚無僧」がはいっていないのが謎である。
虚無僧は、室町時代は「薦(こも)を持ち歩くので薦僧」。
「お薦さん=乞食」、あるいは「ボロ」で、「放下僧」や
「願人坊主」また、琵琶法師の「座頭」と同類に見られては
いたが、雑種賎民に含まれなかった。

それは、「元は侍(さらい)で、今は浪人、再仕官までの
仮の姿」という自己主張が、効いたためでだろうか。
中身は「乞食同然」で、一般には「同類」と見られて
いたのだが。


東福寺内にある明暗寺

2016-11-16 17:41:03 | 虚無僧って?

虚無僧の宗旨は“普化宗”。中国唐代、臨済と同門の
普化禅師を開祖とする。しかし、普化の法を継ぐ者は
無く、中国では普化宗などは存在しなかった。
普化の名を日本で広めたのは、一休である。
一休は、“瘋癲(ふうてん)”と呼ばれ奇行の多かった
普化を真似て、「狂雲子」と名乗り“風狂”を演じた。
こうした一休の言動に感化されて、江戸時代、浪人の
仮の姿である虚無僧どもが、「普化宗」なるものを
創設した。と私は考えている。

虚無僧は得度受戒していない半僧半俗であるから、
虚無僧寺の主は“住職”ではなく“看首(主)”と呼ぶ。

現在、臨済宗東福寺の塔頭善慧院(ぜんねいん)内に
寄宿するカタチで「普化正宗明暗寺」として宗教法人
登記されているが、住職は善慧院のご住職平住仰山師。
平住師は臨済宗の僧侶であって、尺八は吹かれない。
そして「明暗寺看首」として児島抱庵師がおられる。
児島師は、明暗寺に常住されているわけではなく、
滋賀県の医師である。

現在、明暗教会としての会員は200名ほど。琴古流、
都山流の会員もいるが、むしろ、竹保流、上田流、
西園流の諸師が中心となってたばねている。
古典尺八をかたくなに守る人達の集まりなのだが、
上田流の祖上田芳憧も菊水湖風も、多孔尺八の
研究家であった。さらには竹保流家元の酒井竹保師
も、諸井誠作曲の『竹頼五章』のみごとな演奏で、
現代音楽の第一人者とされている。


常不軽菩薩

2016-11-16 17:31:03 | 虚無僧って?

「常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)」とは、『法華経』に
登場する菩薩です。

「常不軽菩薩」は、道で会うすべての人に手を合わせ、
「あなた様は 必ずや 仏となられましょう」と言って
礼拝した。しかし、そう言われた人々は、不興になり、
彼を狂人扱いして、杖や木の棒で叩き、瓦石を投げて、
彼を迫害した。

「常不軽菩薩」は、誹謗され、迫害されても、他人を
責めず、恨むことはなかった。そして、成仏した後、
釈迦となってこの世に生まれ変わった。つまり「釈迦の
前世」の菩薩だったというのです。


“ちょっと待って”。こうした考えは、初期の仏教には
ありませんでした。「仏」は「釈迦」一人だったのですが、
釈迦の入滅後 500年、1000年を経て、「釈迦の前にも何万もの
仏が居た」とされ、「悪人も卑しき人も誰でも皆“仏”に
なれる」という『法華経』の教義が中国、日本で広まります。
これが大乗仏教です。タイやスリランカなどの小乗仏教には
ありません。

日本では、平安時代の末、法然、親鸞によって広められ
ますが、奈良や比叡山の古い仏教の僧侶たちからは
猛反発を喰らいます。誰でも皆成仏できるなら、厳しい
修行や、経典の学習など必要ないことになります。

「常不軽菩薩」に石を投げた人々も同じ気持ちだった
のでしょう。また、「あなたは仏になる人です」なんて
言われるのは、かえって不快に感じるものです。バカか
アホかと思うのも当然です。

でも この話は ある一面を突いています。「万象我が師」、
すべての人を敬い、「仏になる」とは、己れを低くし、
「バカになる」ことでもありましょう。“バカになりきれ
ない”のは、自我に執着する心です。

虚無僧もまた“我(が)”を捨てバカになる修行です。
他人から見たらアホでしょう。子供も虚無僧を見て
「何あれ、変なのかぶって、あははは」と笑います。
笑われる存在なのです。





「町中諸事御仕置帳」

2016-11-16 15:30:44 | 虚無僧日記

「名古屋叢書」第3巻 法制編(2)

p.372 「町中諸事御仕置き帳」 慶安5年(1652) 正月吉日

一 徒者、ならびに かまひ之れ有る者、総じて 何者によらず

   不審なる者、町中(まちなか)に隠し置くべからず。もし隠し置き候者

   之れ有るに於いては、後々に成りても知れ候はば、当人は勿論、

   その町の年寄り、十人組まで 曲事と為すべく候

  注  「徒者(いたずらもの)」=ならず者、落ちぶれた者、みだらな遊び人、怠け者

     「かまひ」=お構い=所払い、追放  

     「曲事」=(くせごと)= 法に背く、違法として処罰する

 

一 座頭、ごぜ、貧人 町中(まちなか)を通り候に、子供寄り合い、

  つぶてを打ちなぶり候間、能くよく申しつけ、なぶらせ申すまじく候

 

一 出家、俗によらず、仏道を勧め申す者、他国より町中へ参り

  之れ有り候はば、注進申すべき事

 

一 町中にて 世を捨て 道心者に罷成候者有之候はば、何の仔細にて

  世を捨て候かと ねんごろに相尋ね、書付け、この方へ申し来りべく候

 

( 他、細事にわたり、100項目ほども羅列されている)


後小松天皇に、一休の他にも後落胤が

2016-11-16 15:27:17 | 虚無僧日記

『名古屋叢書』 第18巻 随筆編 (1) 

p.47 「塩尻拾遺」巻10 

 「渡辺右馬允(初め源次と号す)満綱は 後小松院の御子。

太政大臣足利義満将軍に仕え、諱(いみな)の字を賜り、

武者所に補せらる。其の子「源次元綱」、その子「右馬允頼綱」、

その子「源左衛門安綱」、その子「源次道綱」初めて三州額田郡

浦辺村に住せしより、子孫かの国に広まる。

然れば、この流れ実は「後小松源氏」といふべし。

甲州武田家に仕えし「渡辺源五郎守綱」の17世「源二縄」の子。

後に織田信長公に仕え、また神君(家康)に属せし。

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後小松天皇の子には  「実仁親王(101代 称光天皇)」の他に

「小川宮」、そして「一休」 が いたが、いずれも史実はあいまい。

さらに もう一人 居たということになる。