現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

「桜は八分咲き、明日は見ごろ」

2014-03-31 15:54:08 | 虚無僧日記
名古屋でも「染井吉野」が 咲きました。さて土日まで
もつでしょうか。桜が咲くたびに、この話を思いだします。

もう何十年も前に聞いた話です。

○○新聞社の入社試験。「一枚の桜の写真を見せ、記事を
書け」という出題。

受験者は「桜」に関する、持てる知識をひねりだして、
あれこれ作文に四苦八苦。その中、試験開始から
わずか1分で出ていった輩がいた。みな「試験放棄か」と
思った。
ところが、合格したのは、一番に出て行った彼だった。
彼の「答案」は「桜は八分咲き、明日は見ごろ」の
たった一行だった。

その人の名は「草柳大蔵」。
(だったと思うのですが、記憶は確かではありません)

戦後を代表するジャーナリスト「草柳大蔵」氏の名言に

「優れたライターほど、データを捨てる技術に長けている」

というのがありました。

昭和60年(1985)NHK開局60周年を記念して行われた
「全国ビデオコンテスト」で、応募作品 1,160本の中から、
私の作品『あつ~い一日』が「ドキュメンタリー大賞」に
選ばれました。その時の審査員の一人が「草柳大蔵」氏。

氏からのアドバイスは「(ビデオ)編集とは、捨てることです」と。
私の作品は、規定の10分ぎりぎりでしたが、NHKで
公開された時は、わずか4分にカットされていました。
でも、その方が、緊張感と迫力が増して、感動も倍。
驚きでしたね。



真宗と戦争

2014-03-23 04:03:06 | 虚無僧日記
名古屋の「東別院」で「戦争と平和展」をやっていましたので
ついでに見てきました。

日清、日露から日中戦争まで、「浄土真宗」は、軍部に協力して、
戦争、侵略を「聖戦」とし、仏法の下に若者を戦地に駆り立て、
また朝鮮、台湾で布教することによって植民地化を推進。
中国でも、仏法によって慰撫し「親日政策」に加担して
きたのでした。その写真と資料が展示されていました。

浄土真宗の僧で、反戦を唱えた「竹中彰元」は、投獄され、
浄土真宗からも僧籍を剥奪されます。

法主みずから、伊勢神宮、靖国神社を参拝し、外地に
「別院」を次々に建て、信徒を増やし、戦死した日本兵と
敵国兵双方の弔いを行って、「浄土真宗」の普及に努めた
のでした。

今、「浄土真宗」大谷派では、戦争に加担した行為を反省し、
「反戦」「憲法改悪反対」の立場に立っていることを
アッピールするものでした。

帰りがけ、寺の境内にある「洗心道場」を覗いてきました。
実は、この道場。剣舞のリハーサルなどにお借りしたことが
あります。

平和宣言の寺の境内に、剣道と居合の道場があるのです。
幼い子供が竹刀を振り回していました。これって戦争鼓舞の
遺産では? でも、道場の名は「洗心」。剣をもって心を洗う
道場です。


親鸞の浄土真宗

2014-03-22 20:46:46 | 虚無僧日記
昨日は天台宗の寺、今日は浄土真宗の寺へと、節操の無い私。

浄土真宗は法然上人の弟子「親鸞」を開祖とする宗派。
中日新聞に連載中の五木寛之の『親鸞』。いいですね。
親鸞のことがよくわかります。それまでは、浄土真宗
なんて“知んらん”かった。

浄土真宗は、他の宗派、禅宗、真言宗、天台宗などとは
えらく違います。まず、僧侶はほとんど剃髪していない。
有髪です。浄土真宗の僧は“坊主”ではないのです。

髪を剃らないのは、親鸞が、比叡山(天台宗)に上った時、
正式の「学僧」ではなかった。そして、法然上人門下に
走ったけれども、念仏宗が弾圧され、越後に配流と
なった時、僧籍を剥奪された。以来、親鸞は「非僧非俗 
(僧に非ず、俗に非ず)」を貫いた、という意味あいが
あるようです。

そして、「なもあみだぶつ」と 念ずれば救われる
のですから、厳しい修行をすることも、座禅をする
こともない。「位牌」も無い。「阿弥陀仏」か
「南無阿弥陀仏」の六字の名号以外、他の仏像
(釈迦如来、薬師如来など、さまさざまな如来、
菩薩の像)は一切ない。「般若心経」も読まない。
お彼岸やお盆にお墓参りをすることもない。

超、省略。そのシンプルさが、中部地方に深く根を
降ろした一因でしょうか。愛知県では、各家々で、
故人の月命日には、檀家寺の住職に来ていただいて、
お経をあげていただくことになっています。
「今日は、ほっす様(おす様)が来ますので」というのを
よく耳にします。

毎日(毎月)の墓参り、月命日の法要をきちんとして
いれば、彼岸やお盆にだけ墓参りといった、ことさら
特別のことをしなくても良いというのが、この地方の
「浄土真宗」です。

檀家廻りが、寺の住職の結構な収入源になります。
他宗、浄土真宗でも他県の寺では、檀家に出向いて
いってお経をあげるという風習はないようで、
愛知県の浄土真宗のお寺さんは、うらやましがられて
います。


「姜尚中」の講演を聴きに

2014-03-22 20:31:25 | 虚無僧日記
3/22 名古屋の「東別院」で「姜尚中(カンサンジュン)」の
講演があるというので、行ってきました。

「東別院」というのは「浄土真宗大谷派」(京都の「東本願寺」)
の「名古屋別院」です。元禄3年(1690年)尾張藩の第2代藩主・
「徳川光友」より、織田信秀の居城「古渡城」の跡地 約1万坪の
寄進を受けて建立されたもので、名古屋市内では最大のお寺です。
本堂は、昭和20年の名古屋空襲で焼け、昭和41年(1966年)
再建。外陣だけでも450畳の広さ。

行って驚きました。今日は、名古屋教区の第20組の主催。
第20組は「中村区内の37カ寺」の集まりというのですが、
広い堂内にぎっしり、1,000人以上です。

「仏教離れ」などと言われますが、どうしてどうして、名古屋は
真宗王国であることを見せつけられました。しかし、平均年齢は
70歳以上でしょう。

さて、講師は、今をときめく「姜尚中(カンサンジョン)」氏。
といっても、私は名前しか知りませんでした。今日お集まりの
方々の多くが、たぶん「姜尚中」の本など読まれていないで
しょう。ですから「姜尚中の名前に魅かれて」ではなく、
ひとえに「真宗」の組織力でしょう。

「姜尚中」氏については、在日二世という偏見と差別からか、
悪い評判ばかり耳にはいってきます。いや、ネットで目にします。
しかも、4月からは、キリスト教の大学の学長に就任します。
それだけに、なぜ「講師」として招いたのかが興味のあるところ
でした。

講演のテーマは「心」。「姜」氏は、息子が26歳で自殺(病死とも)
という悲しみ。東日本大震災で亡くなった多くの方々、その遺族の
方々と接して、『心』という小説を執筆、刊行されたとか。
その本を執筆するに至ったお話。1,000人もの人を前に、もの静かに、
よどみなく話される、その力量はさすが。


「メール」 あきらめ~る?

2014-03-22 12:17:58 | 虚無僧日記
パソコン音痴の私。
メールは「 goo3360_february@mail.goo.ne.jp 」という長い
アドレスです。“最初はグー”というわけで、Gooで申し込んだら、
“お勧め”がこれだったのです。もっと短くカンタンなもので
良かったんでね。

さて、その「Gooメール」。「3月から有料になります。
月200円」というのです。また「UFJ三菱東海銀行」を
かたるニセメールのたぐいかと、半信半疑ながら、「手続きを
しないと、今までの履歴も、登録されている他人のアドレスも
すべて消えます」というので、一応、現金引き落としの
手続きをしました。

ホントに有料なんですかね。知人に聞くと「無料のメールなんか
いくらでもある。変えたら」と言われます。でも、これで登録
されている方からのメールが来ないことになるので、やっぱり
困ります。

Gooメールで送信しても、相手に送られない場合も度々
あります。全てのメールに送信できるわけではないんですね。

今、二箇所に送ったメールが、どうやら届いていないようです。
送ったつもりが送られていない。しかたないんですかね。
「あきらめーる」ですか。


近江路へ

2014-03-22 12:05:21 | 虚無僧日記
3/21一絃琴の眞道さんのお供で、東近江の○○寺へ行って
参りました。彼岸会(ひがんえ)の法要の後の演奏です。
近江路は なんと、みぞれ。山はうっすら雪化粧。
“暑さ寒さも彼岸まで”明日からは 春かしらん。

村の小さなお寺に檀家さんが30人ほど、一絃琴と尺八の
音に堪能していただきました。

感動してくださる純朴な方が、まだ居られることに、ただ
感激です。

すぐ、南には「愛知川」。愛知川と書いて「えちがわ」。
「愛知県」から100km離れているのに、ここも昔は
「愛知郡」でした。同名の由来を調べているのですが・・・。


近くには、紅葉の名所「永源寺」。ここには、600年前
「一路」という居士が 訪ねてきたという史料が残されて
います。

「湖東三山」と呼ばれる「西明寺、百済寺、金剛輪寺」。
近江ロは、タイムスリップしたような、虚無僧にはピッタリの
風景です。でも人が居ない。

帰路「多賀大社」にお参り。ここは「延命長寿」の神様。
20年前、ここを訪れた時は、人っ子一人いなかったですが、
最近、伊勢神宮の影響でしょうか、老若男女、三十人ほどが
お参りにきていました。

神社の境内に「蕎麦屋」さんがあります。その名も「寿命そば」。
実は、20年前、寒さの中、ここでいただいた「蕎麦」の味が、
ずっと忘れられなくて、寄ったのであります。丁度4時で
「終了」の札が掛けられましたが、「ここの蕎麦の味が
忘れられなくて、20年ぶりに来ました」と頼んだら、
特別に作ってくれました。ありがとう!

「多賀大社」のHPにも書かれていました。「だしの香り高さは
絶品です。ぜひご賞味ください」と。ほんとに、その通りです。










幸田露伴『五重の塔』

2014-03-20 20:51:35 | 虚無僧日記
幸田露伴の明治25年(1892年)の小説『五重の塔』。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

木理美しき槻胴(もくめうるわしき けやきどう)、縁にはわざと赤樫を
用ひたる岩畳作りの長火鉢に対ひて話し敵(がたき)もなく唯一人、
少しは淋しさうに坐り居る三十前後の女・・・、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

いやはや、明治は遠くなりにけり。もう私でも読めない。
現代語訳と解説を走り読みしました。

◆粗筋(あらすじ)

谷中感応寺の住職「朗円上人」が、五重塔の建立を宮大工の
棟梁「源太」に発注する。それを聞いた大工の「十兵衛」。
腕はあるが、愚鈍な性格から世間から軽んじられていて、
日頃は長屋や馬小屋の修理程度の仕事をしていた。その
十兵衛が、「この仕事はぜひオイラにやらせて欲しい」と、
朗円上人に直談判に行く。

上人は、十兵衛の熱意にほだされて、源太を呼び、「二人で
話し合って決めるよう」にと諭す。

「仕事を横取りする気か」と一度は腹を立てた源太だが、
「上人の思いやりに応えよう」と、十兵衛に「一緒に作ろう」と
提案する。しかし、十兵衛はその提案を断る。十兵衛は、
なんとしても 自分一人で造りたいと我を通すのであった。

十兵衛の 恐ろしいほどの執着心に、源太は折れ、「十兵衛
一人ではできないだろうから、自分の弟子たちをも使ってくれ」と
十兵衛に言う。さらに「自分が長年積み上げてきた技術、
ノウハウ、図面も提供しよう」ともいうのだが、十兵衛兵は
「自分の持つ技術だけで五重塔を建ててみせる」と、源太の
申し出を断る。どこまでも意固地な男。

それでも源太は十兵衛を見捨てず、見放さない。最後の最後まで、
十兵衛の「仕事」を、口出しせずに見守る。

朗円上人、源太、十兵衛、その妻たち、それに職人らの
それぞれの思いが からみあいながら、五重の塔の建設が
進められる。
もうそこには、私利私欲を越え、千年の歴史に残る仕事を残そう
という心で一つになっていく。

塔の完成直後、大嵐になり、寺の本堂も崩れる。十兵衛は
絶対の自信を持っていたが、周囲の者が騒ぎたてるので、
「もし、この塔が倒れることがあれば、自分は塔とともに
死ぬ」と、刀を握り締めて塔に上る。しかし、十兵衛の
建てた「五重の塔」は嵐にも地震にもビクともしなかった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「十兵衛」は、日頃は 鈍くさく、長屋や馬小屋の修理程度の
仕事しかしていなかった。そんな男が、五重の塔という大仕事を
引き受ける。現代なら、一介の工務店の主が、大手ゼネコンを
押しのけて、スカイツリーの建設を受注するような話である。
まずありえない。熱意と口八丁だけでは 通らない話だ。

十兵衛が、朗円上人の心を動かしたのには、それなりの
説得材料があった。彼は、塔の何分の一かの縮小模型を
持参して、上人に見せている。ということは、日頃から
彼は、千年の重みに耐えている奈良、京都の五重の塔を調べ
つくして、縮尺模型を造っていたことになる。
そして、塔の建立の話を耳にした時、なんとしても受注したいと
思い、直談判に行った。そして、源太から図面やノウハウの
提供を断るほどの自信があったのだ。

まさに、仕事を得るには、日頃の修練、準備、心がけである
ことを思わせてくれる。

さてさて、東日本大震災、大津波、原発事故が起きて、
誰もが「千年に一度、起きるか起きないかの災害に備える
なんてバカげている」と言っていたことが明らかにされた。

建設事業に携わる人々なら、幸田露伴の『五重の塔』くらい
読んでおくべきだった。


武蔵 誕生の地は あちこちに

2014-03-19 20:23:56 | 虚無僧日記
もう一度、吉川英治の『宮本武蔵』を読んでみました。

冒頭、関が原のシーンで「新免伊賀守様は、浮田家の
家臣なので、その縁で」西軍に加わったとありました。



武蔵の生誕地と言われているところは、美作国宮本・播磨国宮本村・播磨国米田村の 3箇所あるようです。

①美作国吉備郡讃甘村宮本 (現 岡山県美作市宮本)最寄駅宮本武蔵駅

播磨国揖東郡鵤之庄宮本村(現 兵庫県揖保郡太子町宮本168)最寄駅 網干駅 

③播磨国印南郡河南庄米田村 (現 高砂市米田町米田)最寄駅 宝殿駅

このほかにも、縁の地は

⑤泊神社  (現 兵庫県加古川市加古川町木村宮本658)最寄り駅 加古川駅


「宮本武蔵」自身は、『五輪書』に「生国播州」と記していますので、
これを素直に信ずれば、播州(現兵庫県)です。

平野庸修の書いた地誌『播磨鑑』では、武蔵の養子「伊織」の出生地を
印南郡米堕村(米田村)としたうえで、武蔵を「揖東郡鵤ノ庄宮本村
(太子町宮本)ノ産ナル」と明記している。


ところが、江戸時代後期に編纂された地誌『東作誌』に「美作国・宮本村で
生まれた」と記載されており、吉川英治の『宮本武蔵』では、この美作説が
採用された。

そこで、岡山県の美作市が、最寄の駅名も「宮本武蔵駅」にし、
武蔵の生家や 資料館、銅像、記念碑等を建て、観光に力を入れて
いるため、「宮本武蔵生誕地」として最も知られるようになった。

しかし、吉川英治が『宮本武蔵』を執筆後、「高砂」説を裏付ける
有力な史料が発掘されたとして、武蔵は「播磨の米堕村・現高砂市米田町)」で
生まれ、美作の宮本村に養子に行ったとする説が有力になってきているとの
ことです。





関が原で武蔵は東軍だった!

2014-03-18 16:46:08 | 虚無僧日記
吉川英治の『宮本武蔵』、「キムタク武蔵」の冒頭で、
宮本武蔵は「関が原の合戦」で 西軍(石田三成方)に付き、
敗れたため、故郷 美作に戻ったところ、残党狩りで捕えられた
ことになっている。

そして、「関が原」で西軍に付いていたとの理由で、仙台伊達家
からの仕官の話は取り下げとなった。

そこで調べてみた。

そもそも、「武蔵」は、関が原で 誰の下に所属していたのだろう。
当時の姫路の城主は「木下家定」。秀吉の正室「高台院・寧々」の
兄である。

関が原の時は中立を保ち、その子「小早川秀秋」が 「高台院」の
勧告を受けて 東軍に寝返ったことで、徳川の勝利につながった。

その功績で、関が原の後、備中足守に2万5000石の所領を与えられた。
家定の後、姫路の城主となったのが「池田輝政」。

三河吉田(現豊橋)の城主だった「池田輝政」は、関が原では
徳川に付き、その論功で、姫路城主となり、西国の豊臣方大名の
監視役を務めることに。

まそれで、“西軍の残党狩り”となるのだが、「木下家定」も
中立を保っていたのだから、武蔵が西軍に加わったというのは
不自然。

そこで、驚き桃の木。「宮本武蔵」は「関が原」の時は「黒田如水」の
配下にいて、「東軍=徳川方」という説が浮上してきている。

「黒田如水」といえば、丁度今 NHK大河ドラマでやっている
「軍師黒田官兵衛」の事である。

黒田如水は関が原の時は九州で戦っていたので、武蔵も付き
従っていたとすると、九州に居たのだ。関が原には行っていなかった。
なんてこった。吉川「武蔵」は、その根底から間違っていたのだ。




宮本武蔵の出自

2014-03-18 16:45:51 | 虚無僧日記
■宮本武蔵の出自について、江戸時代後期に作成された『小倉・
宮本家系図』に次のように書かれています。

宮本武蔵は 天正12年(1584年)(他の史料では1582年)、播磨
(兵庫県)の守護大名「赤松氏」の一族で、播磨国印南郡米田村の
地侍「田原家貞」の次男として生まれた。

米田村は、姫路から南東へ約15kmの地。その当時の姫路の領主は
小寺氏。田原家貞は黒田官兵衛と共に「小寺政職」に仕えていた。

その頃の様子は、NHK大河ドラマの『軍師官兵衛』で、詳しく
描かれていましたね。あそこに、武蔵の父親も いたとは驚き。

武蔵は次男だったこともあり、同僚の「平田武仁・新免無二」の
養子となる。


■武蔵の養父となる「平田武仁」は、元は、竹山城(岡山県大原町)の
「新免宗貫」の家臣で、十手や剣術の達人であった。

あるとき「平田武仁」は、将軍・足利義昭の御前試合において、
「吉岡憲法」と試合し、勝ったため、主君の「新免」姓を賜り、
「新免無二」を名乗るようになった。

しかし、天正17年(1589年)「新免無二」は 次席家老の「本位田
外記」を誅殺(騙し討ち)して出奔。播磨(兵庫県)へ渡ってきて、
黒田官兵衛に仕えたのだった。

この「武蔵が、田原家貞の次男で、新免無二の養子となった」とする説は、
『小倉・宮本家系図』に書かれているのみで、他の史料にはない。


吉川英治の『宮本武蔵』で「本位田又八」「吉岡清十郎」などの
名前が登場するのは、この史料からの着想かも。
吉川『武蔵』では、武蔵と対照的に さえない男として描かれる
「本位田又八」です。「新免無二」に殺された「本位田」の子孫と
思われる、東大教授の「本位田某」氏が「私の先祖に“又八”の
ような者はいない」と、吉川英治に抗議したとか。


さて、武蔵は 養父の「新免無二」から 十手や剣術を学んだ。
13歳の時に「有馬喜兵衛」と決闘して勝ち、16歳の時には
但馬の兵法家「秋山某」を打ち負かした。

主君の「黒田官兵衛」が、九州の豊前6郡(福岡県の東部と大分県の
一部)を拝領して、豊前へ移ったため、武蔵の養父「新免無二」も
九州に渡り、黒田家の家臣「黒田兵庫」、その子「黒田政成」の
与力となった。「武蔵」も、関ヶ原の合戦の前には 豊前に行き、
「黒田政成」の与力となっている。

慶長5年(西暦1600年)「関ヶ原の合戦」のとき、黒田長政は
徳川家康側についた。新免無二と武蔵の親子は、黒田政成の与力
として豊前に居り、中津城(大分県中津市)を出て、富来城
(大分県国東市)を攻めた。

(私も、国東半島の東「冨来」へは、虚無僧で行きましたぞ。
冨来のYさんとの不思議なご縁で、招かれて行ってきたのです。
いいところでした。武蔵も行っていたのか・・・・・。知らんかった)

武蔵は、この富来城攻めで、敵兵に足を槍で突かれて負傷している。
富来城の主「筧利右衛門」は 討ち死に覚悟で 必死の抵抗を見せた。

黒田官兵衛(如水)は、富来城を落とし、九州統一を目指すが、
島津家との対決の直前で 徳川家康から停戦命令が届いた。

この恩賞として、黒田如水の子[長政」は、筑前(福岡)の
大名となる。しかし、武蔵とその父は福岡には行っていない
ようである。

それからの足取りは不明?なにせ「吉岡一門」との果し合いも
「宝蔵院槍術」や「柳生石舟斎」との対決も、「本阿弥光悦」
「吉野太夫」、「沢庵」との接触も、史料は皆無というのです
から驚き。いや「吉川英治」の想像力、創作力に驚くのです。