現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

歌舞伎に登場する「虚無僧」

2021-02-25 17:45:49 | 虚無僧日記

歌舞伎十八番の『助六』は、正徳3年 (1713)山村座で初演。
助六は、黒の着流し、高下駄、腰に尺八を差し、虚無僧をイメージさせているが、天蓋は被っていない。1700年代の初期はまだ天蓋は無かった。

 

正徳5年(1715年)、二代目市川團十郎が、中村座で『坂東一寿曾我(ばんどういちことぶきそが)』で、曾我五郎を演じた時、 "虚無僧"に扮した場面があり、これが大当たりしたという。

「編み笠」に「寿」の字がいれてあり、それは「越後屋」のマークで話題になったそうな。スポーツ選手がスポンサー企業のネームをつけて出場するようなものだ。「編み笠」となっているから、現行よりは浅い。

翌年(1716)、中村座の『式例寿曾我(しきれいことぶき)』では、
曾我の世界に助六がとりこまれ、助六=曾我五郎という設定が生まれた。

そして、その扮装は現行に近い天蓋、尺八、黒の着付といったものになっていたという。ひょっとして、「天蓋」は 歌舞伎の演出として創られたのではないかと
思える。そして これが 江戸中に「虚無僧姿」を決定づけたものとなったという。

ただし、現在の『助六』は「天蓋」を持たない。


はっきりと 虚無僧が登場するのは、『仮名手本忠臣蔵』。
人形浄瑠璃としての初演は寛延元年(1748年)。江戸では 翌 寛延2年(1749年)森田座で初演されている。「加古川本蔵」が「虚無僧」となって山科の閑居を訪れる。



この頃には「天蓋」は現在のようなものになっていて、上演の時は、虚無僧本寺の「一月寺・鈴法寺」に 金品を納めて“使用許可”を受けたという。

コメントがはいり、その出典について質問を受けました。

云われてみれば、歌舞伎役者が上演前に一月寺、鈴法寺を訪問して金を払ったという史料、文書は確認していません。

ただし、虚無僧はヤクザと同じですから、当然考えられます。

最初に上演した時、虚無僧寺に許可をとらなかったため、虚無僧連中が押しかけて、舞台に上がり、公演を妨害した。それでそれ以後、虚無僧寺に金を納めるようになったという話です。

1700年代になると偽虚無僧が横行し、庶民の迷惑甚だしい振る舞いが多くなったので、幕府としても、虚無僧寺に天蓋、尺八、袈裟の貸し出しを厳しくするようお達しはありました。ですから、歌舞伎で勝手に虚無僧を演じることはできなかったはずです。


礼楽義

2021-02-24 19:33:27 | 尺八・一節切

『宋史』の「律暦志」に記載されている「礼楽義」

 

乾徳4年(966)春、拾遺の孫吉を遣わし、成都にあった孟昶の宮県
(楽器の配置のさま)を京師に取り寄せた。太常に調査させたところ
楽器が音律に合っていないことが分ったので破棄させた。

楽器の中に叉手笛があります。楽工が調査したところ、どれも雅音
(正しい音楽)と相応しておりました。調べてみますと、唐の呂才は
「白雪」の琴の歌を作り、馬滔は「太一」の楽を用い、当時にあっては
宮県の席に与り得ました。

ましてやこの笛は十二旋宮に相当しているのですから、八十四調に
通すこともできます。形状は雅笛に似て、それより小さく、長さ九寸。
黄鐘管に等しく、左に四つ右に二つ、穴が六つあります。

楽人が手に取るときは、両手を交わらせ、拱揖(両手を前に組んで
会釈すること)したようになります。拱宸管と名づけたいと思います。
十二案・十二編磬・登歌両架に一つずつ設置することを法規に定めて下

太祖はいつも雅楽は音が高くて悲哀な感じが漂い、中和に合って
いないと感じていた。王朴・竇儀は音楽に詳しい人物であったが、
両人とも既に亡くなっていた。そこで和�餐に原因を調べさせた。

�餐は「朴が定めた律呂の尺は、古制である西京銅望�帋の石尺に
比べて四分短くなっております。音が高いのはこれが理由です」
と答えた。そこで古法により、別に新尺を作らせ、律呂を定めさせた。
これ以後、雅音は和やかで伸びやかになった。これについては
に記載されている。


一節切り

2021-02-24 19:30:44 | 尺八・一節切

『単管丸』さんからコメント欄に「小田原城で一節切りを
見てきました」と連絡をいただいた。以前私が見てきた
ものと同じなら、普通の竹を切っただけのものだった。

私の所持しているものは、漆を塗り、『憂払』の銘がある。
徳島の『竹ちゃん』さんの一節切りも、私のと全く同様の
形状で、鈴虫の蒔絵がしてある。『竹ちゃん』さんからも
先日電話をいただいていた。「また一節切りを手にいれた」
とのこと。6/7 徳島での本曲大会で拝見させていただきたい
と願っている。漆蒔絵のある一節切りは30本ほど現存して
いるが同一作者によって作られたかのように同じだ。

これに対して、ただ竹を切って孔をあけただけの一節切も
何本か存在している。小田原のは巾が1寸くらいあって、
一節切りにしては太い。素人つくりのようでもある。

北条早雲の末子北条幻庵は、北条氏が秀吉によって滅ぼ
される前年まで生きた人で、尺八の名手だった。彼の作る
尺八は評判で「幻庵切り」として都まで聞こえ、殿上人にも
献上された。小田原城の一節切りがこの幻庵ゆかりの
尺八かはわからない。

一節切は現在の尺八とは上下逆に作る。竹の上の方が
管尻となる。小田原城の一節切は、現在の尺八と同じ。
これがもし「幻庵切り」だとすると、竹の上下を逆に
したことによって、よく鳴ると評判になったのではない
だろうか。

尚、北条幻庵は、今NHK『天地人』に登場している上杉景虎の
養父。景虎ははじめ幻庵の娘と結ばれていた。その仲を引き
裂かれて上杉謙信の下に人質同然に送られたのだ。上杉謙信も
一節切を吹いたとされるが、景虎から教わったのかも。

徳川家康や武田信玄の一節切も伝存している。当時の戦国
武将の間では一節切り尺八が流行していたのだ。




古代尺八は長さまちまち

2021-02-23 09:08:20 | 尺八・一節切

「尺八」の名称は、わが国では、すでに奈良時代の半ば(750年頃)、東大寺正倉院に8本の尺八が収蔵されており、その目録である『国家珍宝帳』「尺八」
と書かれている。この尺八は朝鮮半島の百済から「尺八」として伝来したものである。



この正倉院の尺八は、長さがまちまちで1尺1寸~4寸であるから、その音程も音階もまちまちで、とても他の楽器との合奏には適さない。この最長のものが 43.7cm 。そして、法隆寺に伝来した尺八も 44.2cmと近い。



唐の時代の尺は「大尺」と「小尺」があって、「小尺」は「大尺の×0.8」なので、1尺8寸×0.8=1尺4寸。まさに、この正倉院の最長のものと法隆寺の尺八が、古代の小尺の「1尺8寸」となり、これこそが「尺八の基準管」だとされている。

 

しかし、この音程は筒音で「G♭」、第3孔で「B」である。基音は「A」か「C」か「D」、あるいは「G」であるべきで、こんな中途半端な音程の1尺4寸管が「尺八の標準管」 になるとは思えない。




尺八のルーツがついに明らかに

2021-02-22 19:30:31 | 尺八・一節切

秦氏は本書紀によれば、応神天皇の283年に弓月(ゆづき)の君百済から127県の1万8670人を連れて 日本に来たという。

「弓月君」という名前は、天山山脈の北にあるバルハシ湖に流れるイル川の上流にあった弓月国の「ヤマトゥ」から来たらしい。まさに「大和」の語源だ。

 

 

この「ヤマトゥ」の近くに「ハン・テングリ山」という山がある。

ハン(Khan)は、族長の称号であり、テングリ(Tengri)は、「天の神」を示すと言う。「てんぐり」は「天狗」にも通じる。 


弓月国(Kung-Yueh)は キリスト教王国であった。 天皇のことを「ミカド(帝)」と呼ぶが、これは「ミー・ガド(ガド族から出た者)」のことだと言う。

ガド族の始祖「ガド」の長男の名前は「ニェポン」だった。まさに「ニッポン」。


秦氏が定住した「太秦(ウズマサ)」は中国では「キリスト=教景教」を意味していると。

秦氏は、伊勢神宮、猿田彦神社、宇佐八幡、伏見稲荷など、日本の神社、神道に深く関係している。そこでは雅楽も奉じられた。つまり、雅楽を日本にもたらしたのも秦氏。

篳篥(ひちりき)の「東儀」氏の祖は「秦」あるとご本人もかたっている。                                                                               猿田彦神の顔は天狗と同じく、鼻が高いイスラエル人であり、芸能の神である。

さてさて、奈良東大寺正倉院の尺八は「百済」から伝わったとされているが、秦氏が百済を経由して日本に持ち込んだものとしたら・・・・・。

そう、ローマのキリスト教と関わりのある「秦」氏である。

ローマでは「縦笛」のことを「Tuiba」と呼んでいた。クラリネットなどの縦笛はラテン語で「Tuipa」である。尺八は、この「チユイパ」が「秦」氏によって、まず中国にもたらされ「尺八」という漢字が当てられた。中国では「尺八」は「チーパ」と発音する。

その後中国を追われた「秦」氏が朝鮮「百済」を経由して日本に持ち込んだ。

正倉院の古代尺八は「ドレミファソラシド」の7音階になっている。そのことからも「尺八が中国の唐代に作られた」という通説は誤りで、もっとそれ以前、ローマからタクラマカンを経て伝わったものなのだ。


馬王堆漢墓から出土した尺八

2021-02-22 19:29:04 | 尺八・一節切

1971年、湖南省長沙で発見された「馬王堆漢墓」は、女性の遺体が生けるが如き状態だったことで、世界を驚かせた。紀元前2世紀、前漢の初期のものとされる。
その頃の日本は、まだ弥生時代だ。豊富な副葬品も、ほぼ完全の状態で出土した。その副葬品の中に楽器もあった。

 

七弦琴、25弦の瑟(しつ、大きな琴)・22管の竽(う、大型の笙)・1組の竽律(竽を調音するための竹笛)。竽律は12本の竹笛で、その各々に漢初の十二律の名称が記されていた。

 

そして、六孔の簫(しょう、尺八に似た縦笛)が二本。      

近代の中国には「尺八」が存在しないので、「洞簫」の「簫」と記されている。「笙」とは別。「笙」は何本もの細い竹を組み合わせて、ハーモニカのような舌がついたもの。

「洞簫」は細く長く、唄口を内側に削る。「馬王堆」の縦笛は、「洞簫」より「尺八」に近い。

敦煌の壁画にも数十点もの尺八を吹く図がある。これも「尺八」だが、現在中国語の説明では「篳篥(ひちりき)」と記録されている。「篳篥」はクラリネットのようなリードがついたものであるから間違い。

敦煌壁画からも、「馬王堆漢墓」からも、唐代以前に「尺八」が存在していたこことは明らかであるから、
「唐代に呂才が初めて尺八を創ったというのは」誤りである。


1尺8寸の尺八は古代に存在したか?

2021-02-22 19:28:25 | 尺八・一節切

上野堅實氏も西川秀利氏も「現在の1尺8寸(54cm)の尺八が 古代から存在していた」と推定している。

その根拠は、宇治平等院の「雲中供養菩薩像」に長短2本の縦笛があることだ。敦煌の壁画でも、長短二本で合奏している。考えられるのは「短笛」が9寸。長いのは倍の1尺8寸。つまり「壱越 (いちこつ)=D(レ)」の音の1オクターブ違いの尺八なのだ。

 

室町時代に書かれた『體源鈔(タイゲンショウ)』には「壱越(イチコツ)管」の採寸図が載っている。これは長さ9寸(27cm)。だが、9寸の尺八は短すぎて曲は吹けない。

だから、「壱越(イチコツ)」=9寸(27cm)を 基準管としてその倍の1尺8寸管が使われた。それで「“尺八”と名づけられた」という説もある。

しかし、9寸~1尺4寸までの尺八は多く伝存するのに、それ以上長い尺八は現存していないことが謎である。

9寸が基準ならば、「きゅうすん」という名称で良かったではないか。なぜ、わざわざ倍の「尺八」を名称にしたのか、

これは、現代の尺八が 1尺8寸(筒音は「壱越(イチコツ)=D」)
であることに固執する故の、無理な意見と云わざるをえない。