1871年(明治4年)5月14日(7月1日)の太政官布告(234号)で、
「神社の公の性格を宣言するとともに神職の世襲制を廃止した」。
同日の太政官布告(235号)では、伊勢神宮を別格として、神社を官社(官幣社・国幣社)、諸社(府社・藩社・県社・郷社)に分け、神職には官公吏の地位を与えて、他の宗教と異なる特権的地位を認めた。神社はすべて「国家の公の施設」となった。
神道の国教化のために神仏分離令が廃仏毀釈運動を呼びおこした。
それ以前、慶応4年の3月13日(1868年4月日)に発せられた太政官布告で「神仏の分離」が宣言されていた。これは神社の敷地内に共存していた仏教関係の施設、神宮寺などの寺院はもとより五重の塔、三重の塔までもが仏教関連施設として撤去すべしとなった。これは「神仏分離」を命じたものだったが、行き過ぎて仏教の廃絶、廃仏毀釈運動にまで発展した。
廃仏毀釈の思想は、すでに江戸時代から始まっており、国学や儒教の興隆により、姫路藩主池田光政や会津藩主保科正之などの諸大名が、仏教寺院を削減するなどの抑制政策をとった。会津藩では藩祖保科正之にならって藩士の多くが神道となり、神式で大窪山、青木山墓地に祀られている。当家(牧原)も神道である。
徳川光圀の水戸藩では領内の半分の寺が廃寺となった。幕末、徳川斉昭は大砲を作るために、寺院から梵鐘、仏具を供出させている。
その一方、浄土真宗が根強い越前(福井)や三河(愛知県)では廃仏に反対する動きがあった。
伊勢(三重県)では、伊勢神宮のお膝元と云うこともあって、200ヶ寺が廃寺となった。宇治山田市では寺院の4分の3が整理された。
奈良興福寺、室生寺も国宝級の仏像の多くが持ち出され破却されたり売り飛ばされた。
安徳天皇を祀り「耳なし芳一」の話でも知られる下関の阿弥陀寺も廃され、赤間神宮となった。
薩摩藩は最も激しく、藩内の寺院1616寺すべてが壊され、僧侶2964人すべてが還俗させられた。
その後、廃仏運動の行き過ぎが是正され、1889年(明治22年)発布された大日本帝国憲法では、「臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」となった。
同年の帝国大学令(勅令第12号)によって官立・私立の全ての学校での宗教教育が禁止された。
ところが、「神道は宗教ではない」との見解が出され、すべての宗教を信ずる者も神社への畏敬、参拝、礼拝は国民の義務のように、道徳的な面から強制されるようになる。
こうして、日清・日露を経て、すべての宗教の上に国家神道が成立していった。