現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

7/1 今日は何の日 神道は宗教ではない?

2021-06-30 20:44:30 | 虚無僧日記

それ以前、慶応4年の3月13日(1868年4月日)に発せられた太政官布告で「神仏の分離」が宣言されていた。これは神社の敷地内に共存していた仏教関係の施設、神宮寺などの寺院はもとより五重の塔、三重の塔までもが仏教関連施設として撤去すべしとなった。これは「神仏分離」を命じたものだったが、行き過ぎて仏教の廃絶、廃仏毀釈運動にまで発展した。

廃仏毀釈の思想は、すでに江戸時代から始まっており、国学や儒教の興隆により、姫路藩主池田光政や会津藩主保科正之などの諸大名が、仏教寺院を削減するなどの抑制政策をとった会津藩では藩祖保科正之にならって藩士の多くが神道となり、神式で大窪山、青木山墓地に祀られている。当家(牧原)も神道である。

徳川光圀の水戸藩では領内の半分の寺が廃寺となった。幕末、徳川斉昭は大砲を作るために、寺院から梵鐘、仏具を供出させている。

その一方、浄土真宗が根強い越前(福井)や三河(愛知県)では廃仏に反対する動きがあった。

 伊勢(三重県)では、伊勢神宮のお膝元と云うこともあって、200ヶ寺が廃寺となった。宇治山田市では寺院の4分の3が整理された。

奈良興福寺、室生寺も国宝級の仏像の多くが持ち出され破却されたり売り飛ばされた。

安徳天皇を祀り「耳なし芳一」の話でも知られる下関の阿弥陀寺も廃され、赤間神宮となった。

薩摩藩は最も激しく、藩内の寺院1616寺すべてが壊され、僧侶2964人すべてが還俗させられた。

 

 

 
 

6/30 柴田錬三郎の命日

2021-06-30 15:13:17 | 虚無僧日記

柴田 錬三郎を知ってますか。

今では、本屋にも図書館にも置いてない。『眠狂四郎』といえばわかりますか?

1917年〈大正6年〉3月26日 - 1978年〈昭和53年〉6月30日)の歴史小説家。その他『赤い影法師』『水滸伝』『徳川太平記』など多くあり、剣客ブームを巻き起こした作家です。

 

50年ほど前、私が中学1年の時(昭和36年)、会津の伯父(父の兄)牧原源一郎氏から一本の電話がはいった。父が電話に出、「小説中央公論(S36秋季号)」に我が家の先祖のことが書かれている」とのこと。P.210柴田錬三郎著『妬心(としん)』に「側室の恨みをかって牧原家は断絶した」と書かれているという。

その後の伯父の話では、「牧原家は養子、養子で家系をつなぎ、断絶せずに子孫が今に残っている。その旨、柴田錬三郎に手紙を送ったがナシのつぶてだった」とのこと。

その後、他の短編と合わせて『妬心』というタイ単行本トルでが出た。その時買わずにいて、その本を私は30年探し続けた。古本屋を見ると探しに入ったものである。父の七回忌の墓参りをしての帰り、今日こそ見つかるのではとの気がして神田の古本屋に立ち寄った。「アッタ!」感動で打ち震えた。仇(かたき)を 探しあてたようなものである。

会津藩三代目藩主正容の時、側室を家臣に払い下げるという事件が二度あった。一度目が「上意討ち」の笹原伊三郎の倅へである。二度目が神尾八兵衛に下げ渡された「おもん」であった。おもんは気性が激しく殿の嫌気をかって、国元へ帰されたのであるが、その時の側用人が、当家の祖牧原只右衛門であった。おもんは差配の権限を持つ側用人牧原只右衛門を恨んで呪詛した。そして『妬心』の最後は「牧原只右衛門の家は次の代になってつぶれた」となっている。

柴田錬三郎はこの話をどこから調べたのか。その後、会津藩の公用記録『家世実紀』に事実関係だけは書かれていることがわかったが、そこから肉付けして小説にしてしまう作家の能力には感心する。

伯父から聞いた話では、「側室の呪詛によって、七代に亘って男児は長生きしない」という言い伝えは、わが家にあったという。子供の頃それを聞いて、自分も長生きはできないかという思いがずっとつきまとっていた。

もう七代は過ぎたのか、叔父も父も80過ぎまで長生きした。“若死にする危険”には、生命保険で備えてきたが、“長生きする危険”には備えてこなかった。これからまだ生き続けることに不安を感じる。

 


会津にもある近藤勇の墓

2021-06-29 22:47:12 | 会津藩のこと

会津若松市の東「天寧寺」の寺域に「近藤勇」の墓がある。

寺から300m も離れた山の中。50年前、私が初めて訪れた時は、茫々と草木が茂る山の中をさまよっていて偶然に見つけた。その時の記憶では、高さ1mほど。「近藤勇之墓」と書いてあって、大発見に驚喜したものだった。墓の位置も現在の場所とは違った気がする。

それが今や新選組ブームで、一躍脚光を浴び、観光名所として売り出すことに。

一昨年訪れた時は、道も整備され、案内の標識も建てられ、容易にたどり着いた。説明板まで建てられている。

現在は2mもある堂々とした立派な墓で、正面には「貫天院殿純忠誠義大居士」という戒名が彫られている。「松平容保の書」という。

「土方歳三が、勇の首を奪還して、会津まで運び、薩長に攻められた時に、発見されないよう、このような山中に埋めたのだ」とも言われる。

流山で別れて、北関東での官軍との戦いを経て、会津に入った土方に、近藤勇の首、あるいは遺髪だとしても、どうやって入手できたのだろうか。

また、その時点で「薩長に攻められる」ことを予測していたのだろうか。また、会津戦争のさなか、殿様 御自ら揮毫して、墓を建てる余裕などあったのだろうか。

どうも、土方が建てたとしても、当初のものは、もっと素朴な墓石であって、現在の墓石は、最近建てたものではないかと私は勘ぐってしまう。たぶん、首も遺髪も埋まっていないのではないか。(新撰組ファンにはがっかりさせて申し訳ない)

「近藤勇」の首は京都に送られ、三条河原に曝されたが、その日のうちに何者か(一説に会津の小鉄)に持ち去られたとか。また遺体は、「東本願寺法主が受け取り埋葬した」とされるが、こちらも同志により奪還され、愛知県岡崎市の「法蔵寺」に葬られたともいわれ、同寺に「近藤の首塚」がある。

また、東京都三鷹市の「龍源寺」や、処刑場の近く、JR「板橋駅前」にも永倉新八により建立された墓所がある。

さらに、山形県米沢市の「高国寺」にも近藤勇の従兄弟「近藤金太郎」が 首をひそかに持ち帰り 埋葬したとされる墓がある。

まったく、❝首がいくつあっても足りない❞である。

東京都北区  寿徳寺境外墓地 近藤勇と新選組隊士供養塔 
東京都三鷹市 龍源寺 近藤勇墓 生家の宮川家と近藤家の菩提寺 実兄の宮川             
音五郎とその息子でのちに勇の婿養子となった勇五郎が首のない遺骸を埋葬した という。
岡崎市 法蔵寺 近藤勇首塚 晒されていた首を同士が持ち帰り、近藤が敬慕し ていた称空義天大和尚に埋葬を依頼したという。
会津若松市 天寧寺 近藤勇之墓 晒されていた首を何者かが持ち帰りこの地に 埋めたという。
米沢市 高国寺 近藤家之墓 晒されていた首をいとこの近藤金太郎が持ち去って焼き、自分の菩提寺に埋葬したという。
京都市 壬生寺 近藤勇遺髪塔
荒川区 円通寺 旧幕軍戦死者の供養塔で近藤勇の名も刻まれている。


6/29 は 瀧廉太郎の命日

2021-06-28 15:42:07 | 虚無僧日記

今日は何の日 滝 廉太郎の命日

滝 廉太郎は 1879年(明治12年)8月24日生 - 1903年(明治36年)6月29日

滝廉太郎といえば、もう『荒城の月』。尺八のボランティア演奏では欠かせない定番となっている。滝がイメージしたという豊後(大分県)竹田の岡城にも行ってきた。滝は竹田の出身と云われるが、実は東京生まれ。先祖は代々豊後日出藩の家老を務めた家柄。父・吉弘は明治政府の役人となり各地に転勤したため、廉太郎も横浜や富山、大分県竹田市などに移り住んだ。

明治23年(1890)15歳で東京音楽学校(現・東京芸術大学)へ入学し、ピアノと和声学を学び、明治31年(1898)首席で卒業。研究科へと進んだ。

1900年21歳で 日本人による初めてのピアノ独奏曲『メヌエット』を作曲。つづいて、1901年、組歌『四季(花、納涼、月、雪)』、中学唱歌として『箱根八里『荒城の月』『豊太閤』を作曲した。それは、これまでの日本のヨナ抜き音階(ファとシが無い5音階)ではなく、ドレミファソラシドの西洋音楽の旋律を世に普及させた歴史的な偉業だった。

その年、1901(明治34年)4月国費留学生としてベルリンへ行き、ライプツィヒ音楽院(設立者:メンデルスゾーンに入学する。ところがわずか5か月後の11月に肺結核を発病して翌年帰国。

1903(明治36年)6月29日、大分市の自宅で死去した。満23歳。

滝は結婚しておらず、妹・トミの孫が筑紫哲也とのこと。

『荒城の月』は、土井晩翠が東京音楽学校からの依頼で「中学唱歌」のために作詞。曲は公募され、廉太郎はそれに応募して採用された。

作曲にあたり思い浮かんだ情景は、幼少期を過ごした大分県竹田市の岡城だといわれている。岡城は明治4年(1871)廃城令により建物が全て破却され、すでに石垣のみの山城だった。また、廉太郎は富山にもいたことがあり、「富山城もイメージされている」と富山では主張している。

実は、現在一般に歌われている『荒城の月』は滝廉太郎の原曲とは変えられている。

滝廉太郎没後の1917年(大正6) 山田耕作がロ短調からニ短調へ移調し、旋律も変えた。「花の宴」の「え」の音を、原曲はシャープ#がついていたが、半音下げられた。

ついでに、現在歌われている「雪やこんこ」と「鳩ぽっぽ」も滝廉太郎のとは違っている。文部省唱歌は「作詩作曲者不詳」となっている。

そこで都市伝説

当時の音楽家たちは滝廉太郎の才能をねたんで、彼を追放すべく、当時結核が流行っていたドイツに留学させた。そして思惑通り、滝はドイツで結核にかかり23歳で亡くなった。結核に冒されていたことから感染防止を理由に、死後多数の楽譜が焼却されたという。滝の遺作となった曲は死の4か月前に作曲したピアノ曲『(うらみ)』であると。

興味のある方は、こちらへ「滝廉太郎 死の真相」

最近人気の「天空の城-竹田城」とはちがいます。豊後(大分県)竹田市にあるのは岡城。

「天空の城・竹田城」は 兵庫県朝来市和田山町竹田です。『荒城の月』も今では小中学校の音楽からはずされ、竹田の岡城も兵庫県の竹田城に人気を奪われ、やれやれです。

 

 


6/27は函館戦争終結の日

2021-06-27 13:13:10 | 虚無僧日記

慶応4年(1868年)4月江戸城無血開城により、海軍副総裁の榎本武揚は、桑名藩主松平定敬、備中松山藩主板倉勝静、歩兵奉行大鳥圭介、旧新選組副長・土方歳三らとともに蝦夷地に向かい、松前藩を攻めて五稜郭に入り、「蝦夷共和国」を樹立した。会津藩家老の西郷頼母も加わっていた。

 

しかし、蝦夷地の独立を許さない新政府軍の攻撃を受けて、明治3年5月18日(1869年6月27日)降伏した。

その一週間前の5月11日(6月20日)新選組副長だった土方歳三が戦死。享年は近藤勇と同年34歳だった。

2日前の5月16日(6月25日)には中島三郎助が、長男の恒太郎・次男の英次郎・腹心の柴田伸助(浦賀組同心)らと共に戦死。享年49。土方ともに覚悟の討ち死にだった。

中島三郎助は嘉永6年6月(1853年7月)ペリーが浦賀に来航した時浦賀の副奉行として旗艦サスケハナに乗船、ペリーと対面し、蒸気船の構造や大砲など詳細に調べて幕府に造船を建白。翌年の嘉永7年(1854年)には日本初の洋式軍艦「鳳凰丸」の建造にあたり、完成後はその副将に任命された。ペリー来航から16年、目まぐるしい幕末の動乱を生き、函館で最期を飾った。

 

 

 


彰義隊士の戦い

2021-06-27 11:18:36 | 虚無僧日記

1968年6月26日の事件簿

慶応4年4月11日、江戸城が無血開城し、上野寛永寺で謹慎していた徳川慶喜は水戸へ移送された。その時、渋沢成一郎ら一橋家臣や幕臣、脱藩者で結成された彰義隊は慶喜の護衛を行おうとしたが、寛永寺に止め置かれた。

彰義隊は、新政府軍と一戦交えようとする脱藩兵や博徒も集まってきて最盛期には3000~4000人規模に膨れ上がった。渋沢成一郎は江戸を退去し日光へ退く事を提案したが、天野八郎は江戸での駐屯を主張したため分裂。

そして、彰義隊は江戸市中で新政府軍に対して抵抗を試みた。

5月7日(1868年6月26日)次の三件の事件が起きた。

  • 同夕方、根岸付近で薩摩藩兵3人が彰義隊士8人~9人と遭遇し、惨殺された。
  • 同夜、尾張藩の足軽1人が私用で四谷付近へ出掛けたところ、10人ほどの旧幕臣に襲撃されて手傷を負った。
  • 同午後6時頃、肥前藩士2人が、上野北大門町で80人ほどの集団に斬りかかられ、1人が斬殺され、もう1人は深手を負っ藩邸へ逃げ帰った。

なぜか「本能寺合戦之図」となってます。

そして、5月15日(7月4日)未明、大村益次郎が指揮する新政府軍は、寛永寺を包囲し、雨中総攻撃を行った。午後から肥前佐賀藩アームストロング砲が彰義隊を圧倒し、1日で戦いは終了した。彼らの多くはから威張りで、いざ戦闘となると多くが逃げ出したとも。記録上の戦死者は彰義隊105名、新政府軍56名と言われている。逃れた彰義隊士の一部は会津へと向かったが、彼らは各地で略奪暴行をくり返し、会津にはいっても評判はすこぶる悪かった。

この日、福沢諭吉は砲声に浮足立つ塾生を尻目に「ウェーランドの講義」を行った。

 


108歳まで生きた?「天海大僧正」

2021-06-27 09:07:50 | 会津藩のこと

家康のブレーン「黒衣の宰相」として知られる「南公坊天海」。
その出自は不明で「明智光秀」ではないかとも噂される。
もし「光秀」ならば、116歳まで生きたことになる。

 



出生は謎だが、関ヶ原の役や小田原北条攻めの時は家康の参謀として傍らに控えている。

  天海着用と伝えられる甲冑

家康、秀忠、家光の三代に仕え、江戸の町の設計に大きく関わった。

こんな逸話もある。
100歳の時、将軍・家光から柿を拝領した。天海は 柿を食べると、
種をていねいに懐紙に包んで懐に入れた。家光がどうするのかと聞くと「持って帰って植えます」と答えた。「百歳になろうという老人が無駄なことを」と家光が からかうと、「天下を治めようという人がそのように性急ではいけません」と答えた。
「桃栗3年、柿8年」。8年後、天海から家光に柿が献上された。
家光がどこの柿かと聞くと「先年拝領しました柿の種が 実をつけました」と答えたという。それで108歳まで生きていたことは確実らしい。
「きんさん・ぎんさん」バリの話だ。

 

江戸の鬼門を守る寺として上野に東の比叡山「東叡山寛永寺」を創建してその住職となった。その寛永寺は幕末、慶応4年7月4日、彰義隊が立て籠り、新政府軍の砲撃を受けて、全焼壊滅した。天海の呪術も時の流れには逆らえなかったか。



『東叡山開山慈眼大師縁起』には「陸奥国会津郡高田の郷にて生まれ給ひ。蘆名修理太夫平盛高の一族」と記されている。蘆名は、鎌倉・室町と会津を支配した領主。伊達政宗によって滅ぼされた。

一昨年、虚無僧で会津高田を訪れた。今は「美里町」と町名が変わっていた。一軒一軒門付けして廻っていると、突然の夕立。
丁度、図書館の前だったので、入り口の庇の下で雨宿りしていると目の前に「天海僧正誕生地」の碑があった。案内板では「蘆名氏の女婿 船木兵部少輔景光の息子で、その両親の墓が見つかった」と。

 


「西郷頼母」と養子「西郷四郎」

2021-06-26 21:58:20 | 会津藩のこと

西郷頼母(さいごうたのも 1830~1903年)
松平容保(まつだいらかたもり1836~1893年)

ちなみに頼母は1830年生まれで、八重の兄の山本覚馬は1828年生まれ。NHK大河ドラマ『八重の桜』では西田敏行が西郷頼母を演じ、隠居した「年寄」のようでしたが、実際には「山本覚馬」より2歳年下でした。ジャ~ン

さて、西郷頼母の母、妻子、二人の妹ともに自刃して果てたのですが、長男「吉十郎」だけは「頼母」とともに、米沢、仙台、函館まで運命を供にしまた。

その「吉十郎」は、明治12年22歳で若死にしてしまったため、頼母は甥の「志田四郎」を養子にします。この養子が「姿三四郎」のモデルとなった「西郷四郎」です。



さて、養子に迎えたのはいつか?。

「四郎」は 会津藩士「志田貞二郎」の三男として生まれ、会津戦争の時はまだ2歳。会津の西50kmほどの山あいの村津川に疎開していました。

明治5年、父「貞二郎」が38歳の若さで亡くなります。四郎が7歳の時でした。四郎はずっと津川で育ったようです。

明治15(1882)年、17歳で上京し、この年、嘉納治五郎によって創設されたばかりの「講道館」へ入門します。

その2年後の明治17(1884)年に 西郷(保科)頼母の養子となり当初「保科四郎」後に「西郷四郎」と改名します。


さて、ネットでは「四郎は霊山の宮司を勤める頼母に育てられ、頼母から武芸を習った。その後、東京に出て、講道館にはいった」という記述が多いようですが、「頼母」が霊山の宮司を勤めるのは明治20年です。年代があいません。


「四郎」が東京に出て講道館に入門した明治15年、また「頼母」の養子となった明治17年、その頃「頼母」はずっと日光東照宮の禰宜を務めていたのです。

そこで、不思議なのは、「頼母」と「四郎」の接点が全く見つからないことです。「四郎」は「頼母」の甥だったといいますので、「頼母」の妻(旧姓「飯沼」)の姉妹いずれかが「志田貞二郎」に嫁いでいたことになります。

「実子ではないか」という説もあるほど、二人は体型も顔もよく似ています。「西郷四郎」は身長5尺1寸(約153cm)、体重 14貫(約53kg)と小男でした。背が低いために陸軍士官学校に入れなかった。しかし、その小男が、大の
男を投げ飛ばす。それで講道館柔道が脚光を浴びることになったのでした。


「四郎」は7歳で父を亡くしていますので、東京に出るには叔父「頼母」の資金援助を受けていたのでしょうか。「頼母」は明治12年には一子「吉十郎」を亡くしていますので、甥である「四郎」に目をかけていたのでしょう。

しかし、その後も「頼母」と「四郎」が接触したという記述が全く見当たりません。「四郎」はその後 講道館を出て、長崎に行き、政治活動に身を投じ、最後は
1922年 尾道市で57年の生涯を閉じます。


「西郷頼母」と「西郷四郎」

2021-06-26 21:57:12 | 会津藩のこと

明治12年に、一子「吉十郎」を亡くし、天涯孤独と
なった「西郷頼母」は、明治13年、旧藩主「容保」が
日光東照宮の宮司となった際、自分も日光の禰宜(ねぎ)と
なって 「容保」を補けます。

「禁門の変」の際、会津への引き上げを進言して、
「容保」の怒りをかった「頼母」でしたが、月日が
去ってみれば、「容保」も「あの時、頼母の意見を
取り入れていれば、会津藩士3千名の命を失わずに
済んだもの」と、反省したのかもしれません。

この頃、同じ会津藩士の「志田貞二郎」の三男「四郎」を
養子に迎えます。「容保」の仲立ちがあったのでしょうか。

志田四郎は、3才の時、会津戦争に遇い、家族とともに
津川(現:新潟県阿賀町)に逃れます。そして16歳で
「西郷頼母」の養子となり、「福島県伊達郡霊山町の
霊山神社に宮司として奉職する頼母に育てられ、頼母から
柔術の手ほどきを受ける」と云われているのですが、
「頼母」が「霊山」の宮司になるのは、明治22年の
ことで、辻褄が合いません。

「西郷頼母」の養子となった「四郎」は、1882年(明治15年)
には上京して、陸軍士官学校の予備校であった成城学校
(新宿区原町)に入学し、天神真楊流柔術の井上敬太郎道場に
通いますが、同流出身の嘉納治五郎に見いだされて講道館へ
移籍し、わずか半年で 1883年(明治16年)「初段」を
取得します。講道館最初の「初段」免許でした。

養父「頼母」は、前述のとおり、明治20年、日光から
一旦会津に帰り、同22年、福島市東の「霊山神社」の
宮司となります。「霊山神社」は 南朝の忠臣「北畠親房・
顕家・顕信・顕時・守親」を祀り、明治19年に別格官幣
大社となった神社でした。

「頼母」は明治32年、会津に帰り、旧藩邸から100mばかり
離れた「十軒長屋」でひっそりと暮らし、明治36年、
73歳で亡くなりました。辞世の句は

「あいづねの遠近人(おちこちひと)に知らせてよ
 保科近悳今日死ぬるなり」

最後は「西郷頼母」ではなく、先祖の姓「保科近悳」として
亡くなったのでした。

この間、養子の「西郷四郎」は、明治22年には講道館を
出奔して大陸に渡り、後、長崎で「新聞」の発行に携わったり
しながら、最後は 1922年(大正11年)尾道で亡くなります。

二人の経歴を見る限り、親子としての接触はほとんど無いに
等しいのです。ですから、西郷頼母が「四郎」を養子にした
経緯、その後の関係については、“知ろう”としても
まったく不明なのです。


姿三四郎のモデル「西郷四郎」

2021-06-26 21:56:43 | 会津藩のこと

姿三四郎のモデルは、柔道四天王のひとり「西郷四郎」だが、
彼が会津人であることは、知る人ぞ知るだ。

「姿三四郎」。名前はステキだが、実在の「西郷四郎」は
身の丈5尺(50cm)に満たない「会津の山ザル」。

西郷四郎は、慶応二年(1866)、会津藩士志田貞二郎の三男
として生まれた。三男なのに「四郎」それで「三四郎」??

2歳の時、戊辰戦争となり、津川に避難していた。会津藩士は
家族一丸となって玉砕したかと思いきや、会津から50kmも
離れた新潟県阿賀野町津川まで疎開していたのだ。津川は
今は新潟県だが、江戸時代は会津藩領だった。

明治元年の戊辰戦争に敗れた会津藩士は、多く故郷を捨て、
下北半島に移住したが、生計成り立たず、北海道や東京に
移った。志田家もそうだったのか。四郎は、明治15年(1882)、
17歳で 講道館に入門した。この時はま だ旧姓の「志田四郎」。

翌16年には、富田常次郎と共に 初段になる。その素質を
認められてか、翌17年、元会津藩家老「西郷頼母」(1830~1903)
と養子縁組をし、「西郷四郎」となった。明治19年には、
五段に昇進する。

この年、「警視庁武術大会」で 西郷四郎は 楊心流戸塚派の
昭島太郎を下し、講道館柔道が、警察官必修科目として、
警視庁に採用されることになる。

こうして、「西郷四郎」は「講道館の四天王」と呼ばれる
ようになる。その「四天皇」の一人、同期の「富田常次郎」
(1865-1937)の子が、「姿三四郎」の原作者「富田常雄」
である。

なお、黒沢明の監督としての最初の作品が「姿三四郎」。
昭和18年(943)年公開。