現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

運輸秘書官の見た終戦秘話

2022-08-14 04:01:19 | わが家のこと

8月15日終戦記念日。毎年アップさせていただいております。再掲です。

私の伯父牧原源一郎は、終戦時国会議員で小日山直登運輸大臣秘書官だった。小日山直登氏は、戦局不利となった昭和20年5月、東条英機の後を受けて組閣された鈴木貫太郎内閣で、満鉄総裁から運輸大臣に登用された。小日山氏は会津出身で、大臣就任とともに、同郷の代議士牧原源一郎を秘書官としたのである。その牧原源一郎が『小日山直登を偲ぶ』という本を遺している。それによると、

「小日山運輸大臣は、秘書官(牧原源一郎)を伴って、九州各県の慰問のため、7/18 東京を発ち、佐賀、長崎、熊本、鹿児島、宮崎、大分と1週間かけて巡回。帰途、広島に立ち寄った。西部司令官の畑俊六元帥、広島県知事の高野源進氏もともに同郷人(会津出身)であったから、その夜、会食を共にした。この晩も多数の敵機が上空を飛んでいたが、一発の焼夷弾も落とさない。市民は「広島には
爆撃は無し」と考えていたようにも見受けられた。ところが、その日から10日たった8月6日には、原子爆弾を投下され、高野知事の夫人も死亡された。畑元帥と高野知事は幸いに難を免れた。

翌日は、大阪で当時大阪鉄道局長をされていた佐藤栄作氏(後の総理大臣)が出迎えてくれ、この日は、佐藤局長の案内で京都に遊んだ。その夜、東海道大垣付近でB29の大空襲に遭遇した。そんなことがあったため、予定は随分遅れて、29日に漸く東京に帰ることができた」と記されている。

東条英機にも用賀の自宅を訪ね面会している。東条は「もう自分でも、どうしたらよいか分らない」と弱気だったとのこと。

Wikipedia などで「小日山直登は8月6日の2日前に広島に行き、あやうく被ばくを免れた」と書かれているが、私の伯父の日記では7月の28日。「その日は満月だった」という記述からも7月28日は間違いない。


父の終戦

2022-08-14 04:00:48 | わが家のこと

 

私の父「牧原五郎」は、昭和16年春、慶応大学を卒業して東京電力に入社。 

勤務わずか4ヶ月で徴兵。8月に故郷の会津若松65連隊に入隊し、12月に支那へ。

満州の新京で士官候補生として経理学校に通い、主計少尉として、中支、南支までひたすら行軍。「徐州 徐州と 軍馬は なびく~」の歌の通り。

 

父は「主計少尉」だったので、食料や衣類の手配が職務だから直接戦闘に加わることはなかったようだが、何回か敵の襲撃を受けて、死に目に遭っている。多くの部下、戦友を失ったが、自分は、一人も人を殺すことはなかった。そのおかげで、無事 帰還できたのでは」という。

記録によれば、昭和19年から終戦までで 2,000人が亡くなっている。しかし、その内戦死は630人で、他は戦病死。つまり、コレラやマラリア、そして餓死。なんということだ。

「毎日コレラで何十人も死んでいく。その戦友の遺体を埋葬した人が翌日にはコレラにかかり一週間後には死んでいく」と、すさまじい。父もマラリアで一週間高熱にうなされた。薬も治療法も無い戦場。それでも回復した。その強靭な生命力には驚く。まさに、敵は身内にあり。現在のコロナどころではない。

昭和21年の5月に引き揚げてくるまで、4年半、戦争という未曾有の世界の中で 戦ってきた。

その思いを東電を定年退職してから 『従軍記』 としてノート2冊に書き残していた。 

「終戦」の項は

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新寧を出てから数日後、昨日までは日に何度となくブンブン襲ってきていた敵機が、今日は朝から全然姿を見せない。「おかしいなァ。変だァ」と思った。

そのうち「広島に 今までにない ものすごい爆弾が落とされたそうだ」「日本は降伏したらしい」との口コミが流れてきた。噂は通信隊から出たようだった。

半信半疑でいたら「将校集合!」の指令があり、大隊長のもとに全員集まった。大隊長から 「只今、軍旗を奉焼し奉れ」との命令があったと発表された。

これで降伏は決定的。噂は本当だったと思った。涙がとめどなく流れ、田んぼの中に入って泣いた。ショックが収まると、今度は、「遺骨になってでなければ帰れないと思っていた内地に、これで生きて還れる」と、うれしさがこみ上げてきた。

しかし、一つの不安が沸いた。徹底抗戦に凝り固まっている連中が「我々は降伏を認めない。最後まで戦いを続けようと言い出しはしまいか、と心配になった。

それは杞憂だった。皆 案外素直だった。

それからは、我々は全く意気消沈。敗軍の将兵はただ黙々と武漢まで歩き続けた。

漸く武昌に到達し宿営していた時、「貴部隊は 湘桂作戦の時、多数の良民を連行して行ったが、その者たちをその後どうしたか報告せよ」と、支那軍から言ってきた。あわや「戦犯」かと思った。

たしかに、物資の輸送のための要員として、多数の良民を連行した。然し、彼らは途中でポロポロ逃亡した。後まで残っていた者も「湖南省から先は絶対に行きたくない」と言うので、衝陽攻略戦が終わった頃、皆解散した。もちろん、それまでの賃金は払ってやった。

その旨、回答したら、その後  支那軍からは何も言ってこなかった。

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この後、九江近くの部落で 10ヶ月もの間、抑留生活にはいる

当初は村人たちも穏やかで、食料調達に協力してくれたりしていたが、やがて、新四軍(共産軍)が入り込んできて、日本兵がさらわれたり、掠奪しに襲撃してくるようになった。軍刀、拳銃は所持していたが、抵抗することはできず、敗戦の悲哀をしみじみ感じた。

昭和21年5月20日、やっと「乗船命令」が出て、九江から揚子江をくだり、南京に上陸。そこから貨車に詰め込まれて、上海へ。途中、関門があって、貢物を要求され、また列車が停車するたびに支那人が掠奪しに襲ってきた。

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その後、上海から引き揚げ船で 日本に帰還。 満州でソ連に抑留された人たちからみれば、比較的順当な帰還だった。

しかし、その最後に、佐世保湾で船が座礁し転覆。海に投げ出される。

「日本まで、無事帰ってきたのに、ここで死ぬのか」と。

その時、アメリカ兵のボートに助けられ、「つい先日まで、憎きアメ公 と思っていたアメリカ兵に助けられるとは」と

感慨を述べて父の『従軍記』は終わっています。

 


鳥羽伏見の敗戦 慶喜公の逃亡 その時わが先祖は?

2021-09-19 19:54:28 | わが家のこと

NHK大河ドラマ『青天を衝け』

鳥羽伏見も会津戦争もぶっとばされてしまったが、鳥羽伏見で我が先祖は・・・

 

慶応4年1月3日火ぶたを切った鳥羽伏見で敗れ、徳川慶喜、松平容保、松平定敬が大坂城を脱出した後を追って、皆ほうほうの体で江戸を目指す。

八日 早朝より舟を求むるに一艘もなし。力を尽し小舟十艘計りを得、手負を載せ中嶋会所へ送り、残りの部隊は漸く人足を得て同所へ送る。此時砲兵隊長林権助(戦死)の巨海源八郎、牧原源蔵、梁瀬武四郎、元白井隊より三浦重郎、両角千代治、杉浦八太郎 介抱方の命を蒙る。巨海、牧原等小野内膳より金策し、漸く五六艘を得て天保山に至り蒸気船に移る。

一統は東本願寺に会す。此時土藩の使者来て引取ることを止め、且実情を云て其応対甚だ慇懃なりし。既に四つ半頃 出起き、堺に至りて宿す。

 

という。さて、蒸気船に乗ってどこまで行ったのか、東本願寺とはどこの寺か? 江戸へ直行したのではなく堺に着いて一泊したと?

徳川慶喜(「大坂城・炎上」)ー新大阪物語(959) | 今日の景色

 


白虎隊士の生き残りの中に牧原豊四郎の名

2021-08-22 19:48:46 | わが家のこと

白虎隊は実は、身分によって「士中白虎」「寄合白虎」「足軽白虎」の三部隊があり、さらにそれぞれ二つの中隊で組織されていた。合わせて300名ほど。

そして「白虎士中二番隊」の隊員は37名。そのうち18名が日向隊長とともに帰城している。残り19名だが、そのうち3人は戸の口で戦死、戦乱の中で撃たれ戦死はぐれ、ばらばらに飯盛山にたどりついた。

 

 

生き残った白虎隊士は開城後東京に護送され、囚人としての扱いを受けた。その中に「牧原豊四郎」の名がある。護送の任に当たったのは小倉豊津藩だった。

豊四郎は、牧原の本家筋。甲賀口で父牧原一郎が切腹した時、介錯をした。その後城に入り、生き残りの白虎隊士の統率に当たったようだ。そして東京に護送されても、会津藩士の名に恥じないよう、隊士たちをよく教導したという。だが、その後の行くへは不明。たぶん、東京にそのまま残ったのであろうか。

10年以上も前になるが、従兄の牧原源治郎が亡くなり、川崎市の鶴見で葬儀を行った。そこの葬儀場の人が「先日、牧原一郎」という方の葬儀がありましたが、ご親戚ですか」と聞いてきた。一昨年、会津の大窪山墓地に行ったら、新しく牧原一郎」の墓が立てられていた。牧原一郎のご家族の方、ぜひ連絡いただきたい。


「牧原奇平」の自刃

2021-08-22 19:37:43 | わが家のこと

私の先祖の一人「牧原奇兵」(62歳)の記録がネットで見つかりました。

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八月二十二日、西軍 猪苗代陥落。
「白虎隊」他 諸志隊、戸の口原、強清水、大野原に胸壁を築く。

郡奉行・牧原奇平は 代官属吏を督し、糧食役夫を提供す。

二十三日早朝、西軍の先鋒土州兵来り戦を挑む。
白虎隊・奇勝隊・敢死隊は十六橋を隔てゝ戦ふ。
我が兵奮戦すと雖も衆寡敵せず且戦ひ且つ退く。
 

敢死隊頭 小原信之助、辰野勇 戦死す。
遊軍隊頭 小池繁次郎、笹山方面に進み兵を督して戦ふ。

小池・安藤・村松・常盤等戸ノ口原に止まり、一歩も退かず戦ひて死す。

我が軍遂に支ふる能はず、水戸兵も亦敗る。
牧原奇平傷を被りて自刃す。


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牧原奇平」は「(こおり)奉行」として、強清水近辺の村々を廻り食糧と人夫の調達に廻っていた。しかし敵の侵攻が早く、強清水で敵弾に当たり、自刃した。


音楽新報社と酒井勝軍

2021-06-16 10:43:22 | わが家のこと

「酒井勝軍」で検索して見つけた。

日本最初の音楽出版社『音楽新報社』は1904(明治37)年
2月、山田源一郎(1869-1927)とキリスト教伝道師で
賛美歌と唱歌の普及を目指す酒井勝軍(1874-1940)に
よって創業され、2月23 日に月刊誌『音楽新報』を創刊した。

雑誌発行に際して小松耕輔が編集人として呼ばれ、その後
すぐに小林愛雄も同人として参加するようになった。

『音楽新報』創刊号の巻頭言は同誌発刊の主旨として、
「理想的社会の要因たる音楽」の社会的地位および発言権の
欠如に鑑みて、音楽活動の活発な推進を図るよう唱っている。

『音楽新報』は明治・大正期の音楽雑誌と同様に、紙面は
論文、楽典、西洋音楽の紹介、音楽エッセー、音楽会評、
音楽会案内、人物動向、新曲紹介などから構成され、洋楽、
邦楽を問わず様々なテーマが扱われている。

創刊号の表紙には「Die Musik」 の文字とともに、竪琴を
弾く女性が描かれてた。

音楽新報社は雑誌の発行だけでなく、1906(明治39)年
5月に「樂苑會」を興し、同年8月には上田敏、東儀季治らを
招いて音楽講演会を開催するなど多彩な活動を展開した。
中でも「樂苑會」の活動に事業の重点が置かれた。

1906(明治39)年の『音楽新報』第3巻6号の巻頭には
樂苑子の筆により、会の抱負として、
①従来の俗受けする音楽会を打破するために、趣味高尚なる
 曲目を選び、その選択に当たっては音楽的価値を第一とすること、
②会費は低額に抑えて若者の参加を希望すること、
③オペラ上演は訳詞による西洋オペラと日本語による創作
 オペラの2本立てとすること、
④日本古楽の保存および新楽の創作を行うこと、
 などが記されている。


酒井勝軍 楽苑會

2021-06-16 10:42:59 | わが家のこと

樂苑會の成立を知るためには、その母体である「音楽新報社」についてまず触れなけれfばならない。

音楽新報社は1904(明治37)年2 月、山田源一郎(1869-1927)とキリスト教伝道師で賛美歌と唱歌の普及を目指す酒井勝軍(1874-1940)によって創業され、2月23 日に月刊誌『音楽新報』を創刊した。雑誌発行に際して小松耕輔が編集人として呼ばれ、その後すぐに小林愛雄も同人として参加するようになった。

『音楽新報』創刊号の巻頭言は同誌発刊の主旨として、「理想的社会の要因たる音楽」の社会的地位および発言権の欠如に鑑みて、音楽活動の活発な推進を図るよう唱っている。

『音楽新報』は明治・大正期の音楽雑誌と同様に、紙面は論文、楽典、西洋音楽の紹介、音楽エッセー、音楽会評、音楽会案内、人物動向、新曲紹介などから構成され、洋楽、邦楽を問わず様々なテーマが扱われている。

創刊号の表紙にはDie Musik の文字とともに、竪琴を弾く女性が描かれ、それ以降も毎号ユーゲントシュティール風のデザインによる楽器をもつ女性像が表紙を飾っている。

音楽新報社は雑誌の発行だけでなく、1906(明治39)年5 月に樂苑會を興し、
また同年8 月には上田敏、東儀季治らを招いて音楽講演会を開催するなど多彩な活動を展開した。

中でも樂苑會の活動に音楽新報社の事業の重点が置かれた。1906(明治39)年の『音楽新報』第3 巻6 号の巻頭には樂苑子の筆により、会の抱負として、

従来の俗受けする音楽会を打破するために趣味高尚なる曲目を選び、その選択に当たっては音楽的価値を第一とすること、

会費は低額に抑えて若者の参加を希望すること、

オペラ上演は訳詞による西洋オペラと日本語による創作オペラの2本立てとすること、

日本古楽の保存および新楽の創作を行うこと、などが記されている。

樂苑會成立には、当時のヴァーグナー熱、坪内逍遙の「新樂劇論」発表、東京音楽学校による《オルフォイス》公演、《露営の夢》の創作などが少なからず影響を及ぼしたことだろう。

『音楽新報』は『音1908(明治41)年になると、山


「日・ユ同祖」論を説いた「酒井勝軍」

2021-06-16 09:46:15 | わが家のこと

酒井勝軍」をネットで検索すると、3年前は50件ほどだったのが、6万件もアップされていた。最近にわかに注目され出したようだ。

「酒井勝軍」の画像検索結果

 

酒井勝軍」は明治6年(1894)の生まれ。アメリカに留学し、クリスチャンとなり、東京本郷に東京唱歌学校を設立して、賛美歌を通じてキリスト教の伝道を行っていた。高村光太郎の姉も通っていた。

ロシア語にも通じていたことと、「勝軍」という名前が乃木希典に気に入られ、日露戦争に従軍し、各国からの観戦武官の通訳を勤めた。その功により「ステッセルの」というピアノを下賜された。
五木寛之の「ステッセルのピアノ」という本によると、「ステッセルのピアノ」と云い伝えられるものは日本に数台あり、それはロシア、バルチック艦隊の艦長にそれぞれロシア皇帝から贈られてもので、日本海海戦で勝利した日本が戦利品として持ち帰ったものだった。

1927年(昭和2年)酒井はパレスチナやエジプトへ、ユダヤ研究のために軍から派遣された。エジプトではピラミッドも調査した。そして次第に「親ユダヤ」色を強め、「日本とユダヤ人は同祖」であると唱え、また日本にもピラミッドがあることを予言し、日本の各地でそれを発見してみせた。神の霊示を得て、その場所に行くと、まさしくそこに三角山があった。また、青森の「平来(へらい)村」にも行き、「へらい」は 「ヘブライ人」が来た場所。そこで発見した三角山こそ「キリストの墓」と主張して、話題をふりまいた。

「アルマゲドン(天魔両軍の最終決戦・日米戦争)の時が近づいているが、その時、神選民族ユダヤ人と天孫民族である日本人は勝利し、神州天子国が確立され、キリストの託身のである天皇が世界統治者として君臨する」という 神がかりな論を唱え、しばしば特高警察に捕らえられ、投獄されている。

ドイツと同盟を結んでいた日本としては「親ユダヤ」はまずかったのだろう。まして「ユダヤ人と天皇が同祖」というのは“不敬罪”であった。それでも、昭和15年に亡くなり、勲五等を授けられている。


私のピアノの先生 万沢智慧さん

2021-06-16 09:45:18 | わが家のこと

私が小学校1,2年、昭和30年頃のことである。
音楽が全くダメな私を母は心配して、ピアノの先生が来ることとなった。
先生の名は万沢智慧さん。私はピアノがサッパリ上達せず、音楽がすっかり嫌いになってしまった。

それで洋楽に反発して尺八を始めたのである。尺八も上達するには人一倍時間がかかったが、昭和40年頃から尺八ブームが沸き起こり、洋楽系の作曲家によって、五線譜で次々と曲が作られた。そのころ、世に尺八家は五万といても、五線譜が読める人は少なかったから、私は作曲家の方々から創作曲の演奏を頼まれることが多くなった。それで今日がある。

さて、私のピアノの先生万沢智慧さんは、実は私の父の従妹だったが、父はなぜか万沢さんについて語ることはなかった。

その万沢さんの父親は「酒井勝軍(かつとき)」ということは聞いていた。「酒井勝軍」の本が二、三冊わが家の隠し戸棚の中にあって、子供の頃私はそれを見つけ出して読んだ。すると、父はなぜか「そんなもの読むな。キチガイの本だ」と言った。

「酒井勝軍」は、明治の時代にエジプト、中近東を旅して、帰国後「日本にもピラミッドがある」とか、「青森にキリストの墓がある」とか予言を立て、現地踏査で次々とそれらしき遺構を発見してみせた。そして「日本人とユダヤ人は道祖」という説を立てたが、「天皇家の祖はユダ人」というのが不敬罪になり投獄されたこともあったらしい。

それで、戦前はキチガイ扱いされていて、父も「酒井勝軍」には触れたくなかったようだ。

ところが、近年「日ユ道祖論」がにわかに脚光を浴び、「酒井勝軍」の本も出るようになった。

さて、万沢智慧さんが私の父の従妹ということは、私の祖父森次郎の姉か妹が酒井勝軍の妻ということになる。祖父は養子で、私の父が4歳の時に亡くなっているから、その出自は全く分からない。

酒井勝軍の一人娘だった「万沢智慧」さんは、NHKの専属ピア二スト万沢〇〇?氏と結婚した。そして二人の男児を産んだが、その夫も若くして亡くなる。それで生活は大変だったようだ。昨日NHKテレビで見た「フジコ・ヘミング」と境遇が重なる。

 


「日ユ同祖論」の始祖「酒井勝軍」

2021-06-16 09:34:46 | わが家のこと

「竹内巨麿」が神代の昔から先祖代々伝えられたとする『竹内文書』を世に広めたのが「酒井勝軍(かつとき)」である。

「酒井勝軍」(1874~1940)は 山形県の生まれ。明治のはじめ、アメリカに渡り賛美歌を習い、キリスト教の宣教師となった。

語学堪能なため、1918年(大正7)大本営付の通訳としてシベリア方面で従軍する内に、当時、西欧を席巻していた「ユダヤ禍論」を知り、帰国後はユダヤ人とフリーメーソンの研究に没頭し 反ユダヤ論の論客として名を馳せた。

ところがその後、エジプトに行き、ピラミッドの調査や、パレスチナで古代イスラエルについて調べるうちに、「親ユダヤ」になり、「日本とユダヤは同祖」という「日ユ同祖論」を展開するようになる。

ついには、モーゼが神から授かったという「十戒」は、日本にまで運ばれ、日本国内に隠された。あるいは、「ピラミッドは日本の何処かにもあるはず」という仮説を立て、神の啓示と称して、次々とその場所を言い当て、予言を的中させた。

太古日本のピラミッド」 葦嶽山・鬼叫山にそよぐ風に、常識を疑う目に触れる YAMAYA - ヤマケイオンライン / 山と渓谷社

 


「酒井勝軍」は その探索旅行中、昭和4年、茨城県磯原の「天津教本部」を訪れて、「竹内巨麿」から「竹内文書」や「モーゼの十戒」を書き付けた「石」、「ピラミッド建造の由来書」などを見せられた。

竹内文書』を読み解く鍵 - 末日聖徒イエス・キリスト教会の会員の聖典研究

その石には「アダムとイブ」「モーゼ」などの名前が書かれていたり、ムー大陸やアトランティス大陸の消滅を思わせる記述があったりで、酒井はすっかり感激し、以来、天津教の有力なイデオローグとなっていった。