現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

京都所司代 板倉重宗が 明暗寺を建ててくれたのだ

2021-11-29 15:58:34 | 虚無僧って?
京都明暗寺の創建については、寺伝では「鎌倉時代に法燈国師覚心が唐より普化宗尺八を伝え、その弟子の虚竹禅師が・・・云々」などと
明暗寺の案内に書かれているが、「寺の縁起」ほどでたらめな史料は無い。後世の作文である。
 
京都明暗寺は京都所司代板倉重宗が、浪人対策として、淵月了源という虚無僧のために、妙法院の一画を借り上げ、建ててくれたという記録があるのでござる。
 
 
1620年から1654年まで30年以上の長きにわたって京都所司代を務めた板倉勝重は、長男の重宗と弟の重昌に、ある訴訟の是非について問うた時に、重昌はその場で返答したが、兄の重宗は一日の猶予を求めたうえ、翌日に弟と同じ結論を答えた。周りのものたちは「重昌の方が器量が上だ」と評価したが、勝重は「重宗は重昌と同様の結論を早くに出していた。ただ慎重を期すためにあの様な振る舞いをしただけであり、重宗のほうが器量が上である」と評したという(名将言行録)。
この板倉氏は、三河(愛知県)西尾の藩主。
 
弟の「板倉重昌」は尺八を吹いた殿様として知られる。「江戸の尾張徳川家の屋敷を訪ねてきては、当時流行っていた殿様踊りに合わせて尺八を吹いた」という。その「重昌」は島原の乱の総指揮官として派遣され、落命する。
 
兄の重宗は、父の跡を継いで京都所司代となり、訴訟の審理をする際は、目の前に「灯かり障子」を置き、当事者の顔を見ないようにして 人相などで いらぬ先入観を持たないようにし、誤った判決をしないように心掛けたという。(徳川実紀
 
私心無く 公平に決断することを常に心がけ、広く高い評価を受けていた重宗である。その重宗が、元和8年(1622)【京都市中浪人取締令】を出して、浪人の撲滅運動を行っている。狙いはキリシタン対策である。
 
浪人を匿い置くべからざる事。若しこの旨に背く者あらば、その宿主は申すに及ばず、その一町中 曲事(くせごと)申し付くるにより、厳重に沙汰すべし」となかなか厳しいお触れであった。
 
そこで、白川の「宗宅」に寄宿していた浪人「淵月了源」も所司代に呼び出される。
「了源」は 虚無僧としての生き様を縷々弁明した結果、所司代(重宗)から、次のように裁きを受ける。
 
浪人の中には忠臣義士も之れ有るべし。不憫の至りなり。普化宗虚竹の法義を慕い、竹によって托鉢修行、渡世いたし、禅学に心を寄せば、自然と善心相成り、心得違いも有るまじく、宗門の者といえども、武浪の身、内々軍役の働き申し聞き、有難く渡世致すならば、勇士お抱え同様にて 軍用の一つなり(以下略)」と。
 
そして、板倉重宗の計らいで、妙法院門跡の一角 40坪を借り受け、
草庵を建て、そこに居住することになる。これが「京都明暗寺」の起こりで、当初は「妙法院」の一角だからか「妙安寺」だった。
 
まさに所司代「板倉重宗」は 名判官、名奉行である。
「板倉重宗」は、弟の「重昌」が尺八を吹いてたことから、尺八には理解を示していたのかもしれない。さらに調べると、重宗は、小堀遠州沢庵ら文化人を招いて文化サロンを開いており、寛政の文化を築いた一人だった。
小堀遠州が、寛永の三筆「松花堂昭乗」に描かせた「普化」の掛け軸を 板倉重宗に贈っている。その絵には 沢庵が賛を書いているのである。(愛知県西尾市長円寺蔵) 。
 
板倉重宗は 愛知県の西尾の藩主で、所司代退任後は、明暦2年(1656年下総関宿5万石の藩主となった。
 
虚無僧が、後に「家康公のお墨付きを得た」というのは、この京都所司代板倉重宗の公認を得たことを示していると私は考える。
「有事の際(合戦が起きたら)、お上(徳川幕府)のために、軍用に仕する」というのが、「掟書」に含まれているからである。
 
 上 京都所司代 板倉重宗       下 弟の重昌 島原の乱の討手総大将として落命
 
 
なお、江戸時代、新規に寺を建てることは禁止されたので、明暗寺も寺としての資格はなく、淵月一人住む草庵のようなものであったと思われる。所詮わずか40坪の土地である。
 

虚無僧の元は薦僧 (こもそう)

2021-11-29 15:58:21 | 虚無僧って?

「邦楽ジャーナル」虚無僧曼荼羅 No. 9  2017年 1月号の内容です

 虚無僧の元は薦僧 (こもそう)

「虚無僧」は江戸時代以前は「薦僧(こもそう)」でした。「薦(こも)むしろ」を腰に付けていたからです。

「薦僧」の初見は『大内氏壁書(かべがき)』。これは室町時代、中国地方を支配していた大内氏の法令集です。その文明18年(1486)年の禁制に薦僧、放下(ほうか)、猿引(さるひき)は領内から追い払うべし」とあります。

一休が歿したのは文明13年(1481)ですから、その頃には薦僧が諸国を往来していたことになります。しかし大内氏の領内では、薦僧は不審者として追い払うべしとの扱いでした。

 

「放下(ほうか)」は笹竹を背負い、こきりこを打ち鳴らし、手品や曲芸をして銭を乞う辻芸人。薦僧と同様、僧ではないのに僧形をして「放下僧(ほうかそう)」と呼ばれていました。当時、薦僧は尺八を吹いて銭を乞うことで、辻芸人と同様にみなされていたのでした。

この『大内氏壁書』の禁制から10年ほど後に作られた『三十二番職人歌合』に「薦僧」が描かれています。これは職人や宗教的芸能者を紹介したもので、「薦僧」について「貴賤の門戸によりて尺八ふくほかには別の業なき者にや」と書かれています。

算置 - Wikiwand

また、この頃に制作された『洛中洛外図屏風』には、尺八を吹いて門付けする二人の薦僧が描かれています。

洛中洛外図屏風(歴博甲本)

 

時宗から禅宗へ

 

江戸時代の初め元禄の頃まで、天蓋(=深編笠)は無く、浪人が被る三角の笠でした。薦僧は浪人が喰い詰めて尺八を吹いて銭を乞う所業にすぎなかったのですが、それを民衆が受け入れる宗教的土壌がありました。諸国を回遊して念仏を広める念仏宗時宗(じしゅう=時衆)の存在です。尺八は中世、時宗の徒が念仏踊りなどの伴奏に使われていました。連歌師や琵琶法師も尺八を吹いていました。

能の観阿弥、世阿弥、歌舞伎の出雲の阿国という阿弥号は時宗の徒(=時衆)であることを示すものです。今日日本文化とされる芸能の大半は時衆の人々によって創られたのでした。

そして、能や書、茶道、華道に禅機を吹き込んだのが一休でした。本来禅宗は歌舞音曲とは無縁です。一休が尺八を吹いたということは、禅者としては 風狂のふるまいです

一休は半ば冗談で「今日から時宗になる。純阿弥と名乗ろう」とも云っています。

一休は普化の風狂にならい、時宗を真似て尺八を吹き、朗庵や一路に影響を与えました。

そして一休の没後100年を経て、茶道の興隆とともに一休ブームが起こり、『一休咄』などの本が次々と出版されます。浪人者の薦僧たちは、それらの書物から「普化」を知ったと思われます。なぜなら、薦僧たちが『臨済録』を読むことはなかったでしょうし、臨済録に書かれた「普化」の名を世間に知らしめたのは一休以外にはいなかったからです。

江戸時代以降、猿引き、ささら者、鉢叩き、放下僧、獅子舞、万歳、ごぜ、鳥追い等の宗教的芸能者が最下層の身分に位置付けられたのに対して、薦僧がにならなかったのが不思議です。

薦僧は多くが元武士である浪人者がなったこと。そして「普化」を始祖とする「普化僧」であると主張し、時宗から禅宗に鞍替えしたからと私は考えるのです。

 


虚無僧が吹いている笛は何?

2021-11-29 15:57:49 | 虚無僧って?

虚無僧で立っていると「その笛は何ですか」とよく聞かれる。

「Yahoo知恵袋」という質問サイトにも「虚無僧が吹いている笛は何ですか」という質問があった。常識だと思っていたのだが、尺八を知らない人がほとんど。トホホ。

テレビのクイズ番組で、虚無僧の写真が出「これは何?」の問いに、回答者全員が「虚無僧」と答えられなかった。回答者は皆 有名タレント。

別の番組では「虚無僧」をなんと読むか?の質問に                                       「きょむそう」「うそむそう」と。

私もイベントなどで 若い司会者に「きょむそう」と呼ばれたことが何度もある。

ところがところがである。江戸時代に出版された虚無僧の由緒書『虚鐸伝記国字解』には「虚無僧」に「きょむそう」とルビがふってあるのであ~る。どちらが正しいのかはわからない。

真実なんて無いのだ。虚無だもの。                                         


「岐阜芥見村、虚無僧騒擾 顛末」

2021-11-29 15:56:44 | 虚無僧って?

 天保15年(1844)2月21日、岐阜の芥見(あくたみ、現・岐阜市)で甲州乙黒村・明暗寺と遠州浜松宿・普大寺の虚無僧同志が留場(縄張り)を巡って争いを起こした。その結果、死者まで出る大事件となったのである。

この騒動に佐屋宿(愛知県・佐屋町)の吐龍こと定蔵が関与していた。このため村役人同道で江戸の寺社奉行所へ三度まで出頭することになり、文書にはその経過や費用などがすべて記録されている。

 この裁判で明らかになった普化宗の実体は

  1. 仏道に帰依するはずの僧侶が武器を使用して縄張り争いをしていること
  2. 空き家を押し借りしたり、旅宿に押して止宿したりするなど、強談に及んでいること
  3. 人別管理に関してはほとんどの虚無僧が無宿であることを押し隠して取り立てられていること
  4. 百姓に本則を発行し、宗門縁者として組織していること
  5. さらに無宿・食売女らと交流することはもちろん、医師体になったり、浅草龍光寺門前伝七店で乞胸稼ぎをしたりした者までいること

等であり、これが村々から留場料を収奪していた宗門の現実の姿であった。

 鬼頭勝之著 『芥見村虚無僧闘争一件』 MyTown 8,000円                                                                                                                                                                                                           

[第一冊] 天保十五、定蔵事、吐龍御召下江戸行留、辰五月、佐屋宿、源七
[第二冊] 弘化三、定蔵事、吐龍再応御召下江戸行留、午十一、但御差紙十一月相着、佐屋村控
[第三冊] 弘化四、三度目吐龍御召下諸願達留、尾州佐屋宿相控、未九月五日御差紙着、同十三日出立願、十二日名古屋迄出
[第四冊] 無題(裁許文)                                                                                                     

虚無僧寺乙黒明暗寺と浜松普大寺の抗争

2021-11-29 15:56:26 | 虚無僧って?

明暗寺といえば京都ですが、山梨県中央市乙黒にも明暗寺がありました。

江戸時代の末、天保15年(1844)、岐阜の芥見村で、乙黒明暗寺と
浜松普大寺の虚無僧とで、留場(とめば)をめぐっての縄張り争いが
ありました。

留場と云うのは、虚無僧の横暴に手を焼いた村々が、虚無僧寺に毎年、米や金品を差し出すので、虚無僧が来ないようにしてくれと証文を差し出した地区です。

この留場が虚無僧寺の収入源になっていたので、虚無僧は托鉢などせず、飲む打つ買うの放蕩三昧、堕落腐敗していったのです。

「侍しか虚無僧になれない」と云いながら、実態は、百姓、町人、船頭、無宿人にまで免状を出し、彼等「宗縁(虚無僧寺の関係者)」に
よって留場が管理されていました。

そこで名古屋、岐阜には虚無僧寺は無かったのですが、甲府の明暗寺の宗縁と浜松普大寺の虚無僧が、岐阜芥見村の留場をめぐって争い、
死者まで出ました。

当然、幕府の取調べとなり、その結果、虚無僧寺には無宿人が紛れ込んでいたり、売女まで囲っていることが露見し、虚無僧の取り締りが強化されるようになります。

そして明治になって、明治政府も普化宗を禁止、尺八吹いて門付けすることも禁止されたのです。

現代の虚無僧愛好者は、いたって大真面目に普化の崇高な精神を学ぼうとする人ばかりですが、一般には「怖い」というイメージが付きまとっているようです。それは、昭和30年頃まで、さんざん悪さをした
ゴロツキ虚無僧がいた記憶が潜在的にあるためでしょうか。

虚無僧は「善と悪」双方を併せ持つ存在ではあります。


「普化宗廃絶」は会津藩士山本覚馬の献策か

2021-11-29 15:55:31 | 虚無僧って?

虚無僧は、江戸時代、「家康公のお墨付き」という都合のいい「掟」をふりかざして、村々から強制的に米を納めさせるなど、庶民にとっては迷惑な存在になっていました。それで江戸幕府としても虚無僧の横暴、狼藉三昧な行動を取り締まる動きに変じていました。

虚無僧寺を家宅捜索してみれば、遠島(島流し)になっていた者が舞い戻って看主になっていたり、寺に女を囲って、飲む打つ買う三昧の乱れた生活で、看主以下女まで捕らえ厳しく処断します。

NHK大河ドラマ『八重の桜』でも描かれていましたが、会津藩士「山本覚馬」は、慶応4年正月、鳥羽伏見の戦いが起きると薩摩に捕えられ、獄中で『管見』を書き、来るべき新時代の構想を提示します。その中で「山本覚馬」は「仏教界は堕落しきっており、その悪しき因習は、新時代には弊害となるであろうから、仏教は廃止すべき。寺は学校にし、僧侶は還俗させて生業につかせるべし」と書いているのです。

すごい卓見です。そして「山本覚馬」は 明治になって「新島譲」を援けて、キリスト教系の大学「同志社」を創立したのでした。


明治政府は、「王政復古」を掲げ、政教一致の「国家神道」を作ろうとし、神社内に併存していた寺院を廃止させる、いわゆる「廃仏毀釈」運動が始まります。

明治4年、神祇省を設置し、政治と仏教の断絶を宣言し、諸寺の寺領を没収します。寺の僧侶は還俗させられ、多くの仏像が破壊され、また美術品として海外にまで流出しました。

さらに、普化宗修験道(山伏)を「所属不明の悪しきものとして禁止します。(太政官布告)

山伏の呪術的な加持祈祷や医療行為が、西洋医学に対して「いかがわしいもの」とされ、「狐憑き」なども禁止します。

さらに明治7年には西洋にならって火葬を禁止したりもしていますが、その後、余りのエスカレートぶりに民衆の支持が得られず、緩和の方向になって行きます。

そして、山伏は京都聖護院や比叡山延暦寺、高野山真言宗などの既存の仏教宗団に所属することで復活が認められましたが、虚無僧だけは復活することが認められませんでした。それほど虚無僧は悪の根源とみなされていたのです。

事実、京都明暗寺の最後の看主となった明暗昨非は、連日連夜虚無僧が押しかけてきては居座り、酒肴を要求され、寺の什物、尺八などを持ち出して売りさばくなど、乱暴狼藉にたまりかね、本尊の虚竹禅師の像や掛け軸など寺の什物を、懇意にしていた東福寺の塔頭善慧院に預けて、出奔したのでした。


普化宗が禁止されたままだったのはそういういきさつからでした。

 

 

そして、普化宗が宗教法人としても国に認められたのは昭和25年に宗教法人として登録されたことからです。

「昔はよく虚無僧を見た」というのは、昭和30年前後のことです。私も子供の頃よく見ました。虚無僧といっても格好だけで、多くは、都山流などの尺八習いたての初心者で、「六段」や「千鳥」を吹いていました。虚無僧「本曲」が世に出てくるのは、昭和40年以降のことです。


明治4年太政官布告にて虚無僧は禁止された

2021-11-29 15:55:11 | 虚無僧って?

明治四年 太政官布告

普化宗ノ儀、自今被癈候條。 

住僧ノ輩 民籍ヘ編入シ、銘々ノ望ニ任セ、地方ノ適宜ヲ以テ 授産方 可取計事 大蔵

但シ、癈宗ノ寺跡 歸俗ノ本人ヨリ相望候ヘハ 相當ノ地代ヲ以テ拂下ケ 年貢諸役可為相勤事

大蔵省伺
凡ソ 釋氏(釈迦)ノ教法中 世ニ虚無僧ト稱スル普化ノ一宗ハ 元来 勤懲ノ教化ヲ為ズ 又 四民ノ葬祭ニ關セズ 獨リ有髪ニシテ 身ニ袈裟ヲ纏ヒ 頭ニ天蓋ヲ戴キ 唯宗門ニ寶器ト唱スル尺八ノ一管ヲ吹調シ 以テ 施物ヲ四方ニ乞碌ス。一世ヲ浮食スルノミ。 其我邦内ヘ弘通ノ遡原ハ 建長六年四居士[普化ノ四僧ヲ云] 来朝 禪師普化ノ法幢ヲ傳ヘ 由来歳月ノ久敷 盛衰時アリ。 近クハ慶長ノ頃 兵馬戡定ノ際ニ接シ 徳川氏ニ於テ一時ノ權道ト相見へ 武門落魄ノ士 或ハ 故アツテ人世ヲ忍フノ徒 髪ノ有無ヲ問ス 這宗門ニ入リ 天蓋ヲ以 面容ヲ隠スヘキ宗制ヲ許セシ趣ニ候得共 百度維新ノ今日 脱籍無産四方無告ノ徒 身ヲ宗門ニ忍フヘキ者等ハ 人世一人モ無之ハ勿論ニシテ 開明ノ御政躰ヨリ論シ候ヘハ 尤有害無用ノ一宗者 加之其虚無僧ト唱スルモノ従前多クハ品行ヨロシカラサル武士の流族ニ出テ自然平素ノ所業傲慢無禮ニ渉リ 僻遠ノ村落 托鉢歩行ノ節々 良民ヲ苦シメ候趣 往々相聞ヘ民風ヲ興起シ 王化ヲ宣布スルノ今日ニ臨ミ如此人類ヲ其マゝニ差置レ候テハ必ラス民情ヲ蠧シ風俗ヲ壊リ其害モ不少候間斷然這一宗ヲ癈絶イタシ度尤國内大凡六十ケ寺程有之候得共追々無住 或ハ 歸俗等イタシ 即今有住ノ分半ニ過キス候間 自今宗号癈絶ノ上ハ 當住ノ僧徒 歸籍歸産ノ方法ハ 各地方官ニヲイテ 夫々所分イタシ候ハゝ 更ニ将来ノ事故 決テ有之間敷ト存候 依之公布按取調此段相伺申候也 

十月 大蔵伺之通

かつては往時100カ寺を数えた虚無僧寺も、江戸幕府の取り締まりで、明治4年には「60カ寺ほどで、その半数は無住」であった。虚無僧寺とはいっても、京都明暗寺でさえ4~50坪の小さな草庵である。5人も住めない。30カ寺に平均5人ずついたとしてもせいぜい150人である。最盛期でさえ500人くらいと思われる。

それにしては、浮世絵などでさかんに描かれ、存在感は大きかった。

現在、虚無僧愛好家は 200~300人。江戸時代とさして変わらないのである。もっもと、人口比は1/4になったが。

 


明治の遍路・虚無僧 取締り

2021-11-29 15:54:55 | 虚無僧って?

愛媛県の生涯学習センターのH.P「データベースえひめの記憶」に、

遍路の取り締まりについて」詳細が述べられている。

発端は、明治19年(1886)5月、高知県の『土陽新聞』に「遍路拒斥すべし乞丐(きっかい)逐攘すべし」と題する論説が載った。かなりの長文だが、

その趣旨は、

「遍路には 旅金を携へ 身成も一通り整へて來るもあるが、真に祈願の為めに来るは少く、其の大半は 旅金も携へず 穢き身成にて 他人の家に 食を乞ふて廻り、実態は 物乞いにすぎない。その弊害は、

第一に伝染病の媒介。

第二に、食に困って、泥棒、強盗などを働く。

第三に、行き倒れになれば、その処置にはなはだ迷惑する。

それでは、どういう対策をとればよいのか。

第一には、縣下各町村 申合せを為し、遍路乞丐に対しては一切何物を   も恵与せざることとする。又、国道、県道の通行のみを許可し、町村内には一切立入り禁止とする。

第二には、県境付近の巡査に命じて 他県から侵入しようとする遍路物乞いを捕えて、先の事情を告げ、説得する。

第三に、他県の警察にも申し合わせ、さらに四国内にとどまらず、

第四には、日本政府に働きかけ、法律で、遍路に限らず、食物其他の物品を乞ふことを制止せられんことを欲する。

この論説を受けて、一ヶ月もしないうちに高知警察が動き出した。

各警察署及び交番所の巡査に命じ、乞丐の徒は 見當り次第 所轄警察署に連れ來り、一日一銭八厘づつの食を与へ置き、五日或は土日留置き、其の集るを待て本籍へ追ひ返すこととなった。高知警察署で 同日護送せられし遍路は二百餘名と。

 

おりしも京都・東京では、明治18年(1885)から この明治19年にかけて虚無僧の取り締まりが行われていた。

10年余り後の明治34年の『土陽新聞』でも、「警察署に於て追ひ払ひたる遍路乞食の数三百八十一人」と報じている。

 

これに対して、抵抗を企てた人も

愛知県丹羽郡岩倉町の酒井鍬吉といふは 四国遍路となりて 合力を乞ひながら歩き廻る中、県下長岡郡 駐在巡査の 遍路狩りの獲物となりし処、此奴遍路の僻(くせ)に 仲々理屈をこねる奴にて、「あなたは何故に私の旅行を妨げますか。旅行は私の自由で御坐ります」と云張り、後警察署に連れ来られし後も頑として不服を唱ふる所により、種々申聞たるも 聴かず、高知を出た後 検事局及び警察本部へ警官の取扱を不法なりとして訴へ出でたり。

 

明治40年(1907)に遍路を行った 小林雨峯の遍路記には、「遍路入るべからず なぞの札のありし土佐の地方を見しこともある。遍路狩なぞの行はるゝ方面では、遍路は乞食と同様の観を以て目されたる」と

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

戦後の 現行「軽犯罪法」では 「乞食は禁止」となっている。1年の懲役または100万円の罰金。 解釈として「宗教行為を除く」と、暗黙に理解されているので、遍路や虚無僧は、取締りの対象にならない。

 

明治の半ばは、みんなが貧しい時代だったから、乞食の増加と、食を施す側の負担も大変だったからだろう。皆が豊かになった今日 ‘接待’ は「富める者の感謝と徳積み」という観念でうけいれられている。 

ところがである。一作年だったか、高知県で「住所不定で生涯を接待に頼って回っている歩き遍路に対して、接待(施し)をしてはならない」という条例ができたとやら、ニュースにあった。まともに働かず、人の施しを頼って生きるのは人に非ず、迷惑千万、けしからん」というのである。
それでか、虚無僧で高知を回った時は、全くお布施ゼロ。全く無視された。虚無僧受難。

 


「インチキ虚無僧」の記事

2021-11-29 15:54:41 | 虚無僧って?

『裏仕事鑑定人』というサイトで こんな記事を見つけました。

「インチキ虚無僧」


先日、バイトで滋賀県に行ったとき、通りの隅で車で来たのか、着替えている虚無僧に会った。3人の虚無僧が編み笠などをかぶって支度をしている。…めずらしいなぁ、修行僧か!

そこは農家がぱらぱらあるド田舎2時間ばかりして おなかが空いたので 小さな食堂に入ったらさっきの虚無僧が3人で 私服に着替えて食事をしている最中

その3人が…
「ここはしけたとこだな、居留守を使う者もいるし 金にならんな」
「こんなとこ早く出て 場所をかえよう」
「貧乏メ…」
「ジジイ、ババァっていうのは、しけとるなぁ」

などとほざいているではないかwwwww
車のナンバーは千葉だ!
東京でも ときどきスーパーの横で「虚無僧姿」で立っているのを
見かけるが、これもインチキか??

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

アップされている写真は、普通の托鉢僧。丸笠を被って鉄鉢を持って経を唱える坊さんも「虚無僧」だと思っている記事は 大変多い。ネットで 誰かが言い出したら、イッキに「托鉢僧」も「虚無僧」として広まってしまったようです。

虚無僧の私としては、不名誉な記事です。「訴えてやるぅぅぅ」ですが、ちょっと待って。実は、虚無僧も似たようなものです。

虚無僧は、京都東福寺の塔頭「善慧院」を「普化正宗」の本山「明暗寺」として、一応「宗教法人」の登録はされています。

しかし、明暗寺は「宗教法人」ですが、虚無僧は、そこに会員登録している会員であって、僧籍はありません。

正式に得度受戒を受けた僧侶ではありませんから、その意味では「インチキ僧」です。

さてそこで、明暗寺の住職にお尋ねしました。
「俗人である私が 袈裟をつけて 布施をいただくことは罪ですか?」と。すると

「あなたが、人を騙そうという心でなければ、いいでしょう」と。

この一言で、救われました。すべては、その人の心の置きよう。
「インチキ」と言われるか「ありがたい」と思われるか、そこが自分の心の持ちよう、修行と悟りました。

そして「インチキ」と知って布施される方も、仏心、徳積の心。美しいじゃありませんか。

寺も経文も、資格もない。あるのは「仏性をみがこうとする修行」のみ。それこそが、釈迦本来の姿に近づこうとする「原始仏教」の「虚無僧」なのです。