東電OL殺人事件 犯人はまだ捕まっていない。その後の捜査も行われていない。
何故だ????
https://youtu.be/k1O2CPGsie4
東電OL殺人事件 犯人はまだ捕まっていない。その後の捜査も行われていない。
何故だ????
https://youtu.be/k1O2CPGsie4
なぜか、ブログを開こうとすると「退会しました」と出て、全く開けなくなっていました。
そして今日、なんとなくタッチしたら、なぜか、開けました。不思議ふしぎ。
「ブログの時代は終わった」とあきらめていましたが再開します。
この三か月大変でした。ネット詐欺と丁々発止やりとりしていました。
ネット詐欺、実に巧妙です。
みなさまご用心、ご用心。
イギリス人の女性から突然のメール。
「私は身寄りもなく、今余命数か月。遺産をあなたに上げるので慈善事業に使ってほしい」と。
そして「依頼を受けた」という弁護士からメール。本人の入院中の顔写真、ドル紙幣などの写真も送られ、
私のパスポート、住所、銀行口座など聞いてきた。
半信半疑ながら、というより、事の顛末を見届けたくて、全部教えたところ、
「銀行で送金手続きをしたが、送金するには60万円の手数料が要る」との事。
一文無しの私、「60万なんてとても払えません」と返信したところで、その後は連絡なし。
このまま無事終わるのか、戦々恐々の日々。
今日は 栄のラシックでランチをご馳走になった。
三越の隣りに建つ、お洒落で高級感あるデパート。
平日の昼とあって客は少ないが、みな着ているものが違う。
高級ブランドでビシッと決めているのだ。
駐車場からしてベンツやBWBなど高級外車が並んでいた。
ここは“金持らしっく振舞わねば。
この物価高&不景気でも、金持ちは居るものだ。
ランチも3,000円から5000円。圧倒的に女性ばかり。
しかも独りで食事をしている若い女性も多い。
この時間に、働かず、このような所で優雅に
過ごせる人達ってどうゆう人達だろう。
格差社会だ。外に出れば、向かいのセルフうどん屋は
サラリーマンで一杯だった。
「昼食は、妻はセレブで 俺セルフ」
(第一生命募集の川柳)
「妹はベンツで おれベンチ」
NHK BSプレミアムで、「風よあらしよ」が放映されている。9月4日から三回シリーズ。
関東大震災後、甘粕大尉によって殺された「伊藤野枝」の物語。
私は、なぜか「伊藤野枝」に心惹かれる。
伊藤野枝(1895年- 1923年)は、福岡から上京して、
上野高等女学校に入学。英語教師だった辻潤に惚れこみ、
卒業と同時に辻潤の押しかけ女房となった。故郷には
親が決めた婚約者がおり、辻は 野枝との結婚で
女学校の教師を辞めることになった。
辻との間に二人の子を設けたが、その後、辻を捨てて
大杉栄に近づいた。大杉には妻と愛人がいたが、その
二人を押しのけて、5人の子を設けている。野枝は
世間の批判をものともせず、不倫を公言し、結婚制度を
否定した。そして「平塚らいてう」の女性文学集団
「青鞜社」を引き継ぎ、与謝野晶子・岡本かの子ら
とも親交を深め、婦人解放運動の先鋒となった。
だが、大杉栄とともに「危険思想」とみなされ、
関東大震災後の混乱の中、憲兵に連れ去られ、
拷問を受けて撲殺された。28歳だった。首謀者は
「甘粕大尉」という。
上京して わずか10年の間に、 時代を100年先取り
した激しく情熱的な生き方を貫いたことに 驚く。
大杉栄と伊藤野枝との間に生まれた長女の名は「魔子」、
次女エマ、三女エマ、四女ルイズ、長男・ネストル。
瀬戸内寂聴は、この「魔子」に会って取材している。
昭和39年、「魔子」47歳。博多人形師と結婚して
「青木魔子」となっていた。
大杉栄は魔子を“目に入れても痛くないほど”可愛
がっていた。子供の頃の大杉に抱かれている写真が
何点か残されている。当時では珍しい、ハイカラな
洋装で、大きな瞳をイキイキと輝かせ、物怖じしない
活発な性格だった。
大正6年生まれだから、父大杉栄と母野枝が殺された
ときは6歳だった。大杉栄38才、伊藤野枝28才、
甥の橘宗一6才。
「母の野枝はいつも『どうせ私たちは、ロクな死に方を
しない』と口癖のように言っていた」という。どこへ
行くにも警察の尾行が付いていたが、野枝はつきまとう
警官にも気さくに声をかけ、摩子の子守までさせた
という。
その子「摩子」は、寂聴の取材を受けた4年後の昭和
43年9月28日 交通事故死。51歳。「明るく聡明な
婦人だったが、笑顔の奥に翳りがあった」と寂聴は
書いている。
戦時中は“国賊”といわれた福沢諭吉先生。
戦後は一転して、「朝鮮、台湾の植民地化を是認した侵略主義者だった」と、批判されるようになった。
批判された論文は、福沢諭吉の『脱亜論(だつあろん)』。
これは、1885年(明治18年)『時事新報』に掲載された「社説」で、「無署名」だったが「福沢諭吉」の寄稿とされ、近年になって「福澤諭吉は 朝鮮と中国を蔑視し、侵略、植民地化を肯定した人種差別主義者であった」というような批判の声が出てきた。
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<福沢諭吉『脱亜論』の要旨>
日本の不幸は中国と朝鮮半島だ。
西欧諸外国から見れば、日本も中国・朝鮮と同列に見られる。
しかし、もともと人種的に異なるのか、教育に差があるのか、日本とは大きな隔たりがある。中国・朝鮮の精神は千年前と違わない。
中国も朝鮮も、教育といえば儒教を言い、しかもそれは表面だけの知識であって、道徳的な退廃をもたらしており、国際的な紛争でも 「悪いのはお前の方だ」と開き直って恥じることもない。
(中略)
もはや、この二国が国際的な常識を身につけることを期待してはならない。 「東アジア共同体」の一員としてその繁栄に 与ってくれるなどという幻想は捨てるべきである。
日本は、大陸や半島との関係を絶ち、先進国と共に進まなければならない。 ただ隣国だからという理由だけで特別な感情を持って接してはならない。
この二国に対しても、国際的な常識に従い、国際法に則って接すればよい。
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たしかに、これだけを読めば、福沢諭吉は、中国・朝鮮を「悪友」呼ばわりしている。だが、福沢諭吉がこの結論に達するまでには、いろいろ手痛いしっぺ返しを受けているのだ。
福沢諭吉は、中国、朝鮮の近代化、独立を願って、両国からの留学生を受け入れ、私財を投じて、朝鮮で初めてのハングル交じりの新聞「漢城旬報」を創刊したり、さまざまな支援を行ってきた。
しかし、朝鮮の留学生に塾の金を持ち逃げされたり、応援した政治家が 義捐金を女に使い込んでフヌケになったり、また、改革を唱えた者が捕らえられ、残酷な方法で処刑されるに及んで、福沢諭吉は 大いに失望したのである。
尖閣列島や竹島、慰安婦問題をめぐって、韓国や中国とは友好的になれない情況を見るとき、福沢諭吉の思いは、100年経った今日でも、全く通用するものであるといえる。
「ロス疑惑=三浦和義事件」を覚えてますか?
「ロス疑惑」とは、1981年アメリカのロサンゼルスで三浦和義と妻が何者か銃撃され、妻が死亡する事件があり、三浦和義が保険金目当てで仕組んだのではないか?とされる疑惑のことです。
週刊文春の追求で、三浦和義は「ロスで妻の一美さんが殴打され負傷した事件を仕組んだ」として逮捕されましたが、銃撃事件に関しては証拠不十分で、2003年に無罪となりました。
釈放から10年後2008年2月のにサイパンに旅行に行き、そこでアメリカの捜査当局に逮捕され、サイパンからロサンゼルスに移送されたその日に、ロサンゼルス市警内の留置所で自殺したことになっています。が、浦の弁護人のマーク・ゲラゴスは「遺体を検視した病理学者が 自殺ではなく他殺であったと結論づけた」と言ってます。
「三浦和義、ついに観念の自殺か」などと書かれたが、自殺するような玉ではない。
私は1981年(S56年)当時、千代田生命の広報部に勤務していたので「三浦和義事件」には格別関心を持っている。殺された
一美さんには、千代田生命で5,000万円の保険が掛けられていたからです。
一美さんがロスで銃撃された時、三浦和義は「妻をこんな目に遭わせたアメリカが憎い」と涙で訴え、米軍の軍用機で
厚木基地まで搬送させた。その映像もテレビで放映され、国民は一様に同情し、千代田生命としても、意識不明の植物人間となった一美さんの『高度障害保険金』5,000万円をいち早く支払った。そして、
保険を取扱った職員から、保険金支払い時、「三浦和義は『アメリカからの航空輸送費や、植物人間となって病院の医療費、とてもこんなもんでは足りませんが・・』と、涙を浮かべながら受け取った」と聞いた。そして社内報にも掲載した。
妻一美さんの死は、状況証拠、動機からも、三浦和義は限りなく黒に近いと私には思える。
それでも最高裁で「無罪」となった。全く不可解。
それにしても一美さんの前に、愛人白石千鶴子さんもロスで殺されているのだ。三浦和義は、別行動で同時期にロスに
いた。こちらも限りなく黒に近いのだが、全く捜査がされなかったのはどうしたことか。
和義が無罪なら、一美さんや白石千鶴子さんの殺害犯人は誰なのか。捜索も行なわれず、事件は闇に葬られた。
こんなことがあっていいのか? 一美さんには双子の妹がいた。家族はどういう思いでいるのだろう。
昨年の8月は、オリンピックとコロナのバカ騒ぎで、広島・長崎の原爆も終戦も、御巣鷹山日航機墜落事故もぶっ飛んだか。テレビではほとんど報道されなかった。
日航123便墜落の真相
元日航客室乗務員青山透子さんが当時の新聞や、関係者への取材などをもとに「なぜ日航123便は墜落したのか」というテーマを執拗に追っている。
5つの「なぜ」。
第1の「なぜ」。「後部圧力隔壁損壊」が事故原因とされたが、圧力隔壁が損壊したら機内与圧が急激に低下し白い水蒸気のような気体が充満し、乗員、乗客は気を失う。とても遺書を書くことなどできない。
第2に、「墜落現場の特定がなぜ遅れたか」。複数の人の通報で墜落現場は特定されていたのに、二転三転した。それは御巣鷹山に誰も近づけないようにしたのではないか。
第3の「なぜ」は、救助の遅れ。
米空軍の中尉が、123便の緊急無線を傍受。御巣鷹の尾根に煙があがるのを目撃し、すぐに米軍の救難チームのヘリが厚木基地から現場に向かったが、在日米軍司令部から「日本側が現在現場に向かっているので帰還せよ」という命令を受け帰還している。
生存者の落合由美さんは、「救助ヘリコプターが上空で回っているのがわかった。手を振ったが気付いてくれなかった。自分の周りでは数人の子どもたちの声が聞こえたがそのうち聞こえなくなった」と述べている。このヘリは米軍機だったのか。
いやその後、自衛隊のヘリも到着していた。バイクで午前4時頃現場にかけつけた男性の証言。「現場にはすでに自衛隊員が来ていた。その時点で何人かまだ生きていた。生存者を見つけては自衛隊員に知らせたが、彼らは「後から来る隊員が救助するから動かすな」と、そして何か探し回り袋に入れて回収していた。
朝9時頃当地区した地元消防団員たちは、「自衛隊員が山の上から降りてきた。彼らはいったい何をしていたのか」と証言している。
第4に、なぜ遺体は黒こげだったのか。ジェット燃料は主翼内のタンクに入っているが、大気中に出るとガス化しやすく、煤(すす)も出にくい。にもかかわらず、主翼の燃料タンクから遠いところに投げ出された遺体が炭化している。黒こげ状態が激しかったという。
遺体の歯形で本人確認を行った歯科医師の大國勉氏の証言。「私は群馬県警察医として千体ほど焼死体を見てきたが、それでも歯は『すす』で黒くても、裏側や一部は白いままだし、骨もそこまで燃えていない。なのに、あの事故では骨の奥まで炭化するほど燃えていた。…二度焼きしたような状況だ」と。周囲の木々が幹の中までは燃えていないのに、遺体だけが骨の芯まで焼かれているのはなぜか。
第5に、123便墜落の決定的な「なぜ」である。父母と妹の3人を失ったA氏から提供された写真。そこには窓の外にオレンジ色の円錐もしくは円筒のようなものが写っていた。
低空で飛んできた123便を目撃した女性。「胴体の一部にオレンジ色のものが見えた」と。
そして現場からオレンジ色の金属破片が採取されている。
これが動かぬ証拠。
日航123便は、当時相模湾で自衛隊がミサイルの実験をしており、その標的弾が123便の横腹に突き刺さった。その標的に向かってミサイルが当たり尾翼が吹き飛んだ。自衛隊はそれを隠蔽するために、御巣鷹山で一晩中、ミサイル部品の回収と生存者の殺害を行ったのではないか。
さらには、これはミサイルの誤射事故ではなく、故意に撃墜されたという陰謀論まで湧き出している。おそろしや。
御巣鷹山、日航機墜落事件。あえて「事故」ではなく「事件」と言おう。
事故調査委員会がまとめた報告には多くの疑問が残る。
日航機墜落事件から35年。ことの真相を問う本が何冊か出ている。
当時、自衛隊は、標的機を飛ばして ミサイルで打ち落とす訓練をしていた。
その標的機が、近くを飛んでいた日航123便の尾翼に当たって、尾翼が吹き飛ばされた。
相模湾に落下した尾翼はすぐに発見されテレビでも放映されていたのを私も見た。しかしその後この映像は放映されなくなった。
日航機の墜落現場はすぐ特定されたが、自衛隊はあえて別の場所を公表し、
マスコミや民間の救助隊の到着を遅らせ、その間に、生存者の救助より、
標的機の残骸の回収を優先させた。
さらに、数十名もいた生存者を火炎放射器で焼き殺した。救助に当たろうとした自衛隊員を「命令違反」で射殺した?。
あまりの惨状に耐えきれず自衛隊員が何人か自殺したという報道があった。その報道に私も違和感を覚えた。殺されたのだ。
近くに住む地元民がいち早く現場に駆けつけて、その時、いるはずのない自衛隊員が何かを捜し求めて袋に回収しヘリで飛び去るのを目撃している。
123便に何かの物体が近づいてくることが、乗客によって窓から撮影されていた。その後自衛隊の戦闘機が接近してきたことも撮影されている。
また、横田基地から米軍の飛行機がいち早く墜落現場に到着し、場所を特定し、すぐヘリを飛ばしたが、日本側から「ただちに横田基地に帰還せよ」との命令が出され、救援を阻止されたという。
生存者の落合由美さんの証言。
「やがて真っ暗闇のなかに、ヘリコプターの音が聞こえたのです。
あかりは見えないのですが、音ははっきり聞こえていました。それも
すぐ近くです。これで、助かる、と私は夢中で右手を伸ばし、振りました。
けれど、ヘリコプターはだんだん、遠くに行ってしまうんです。
このときもまだ何人もの荒い息遣いが聞こえていたのです」
この後、落合さんは意識を失い、その間に 自衛隊が来て、尾翼に刺さった標的機の残骸を回収した。そしてその現場を見られたかもしれない生存者を口封じのために 無残にも焼き殺した!!!!!!
おそるべし。
20年前の今日 2001年9月11日 アメリカで同時多発テロが起きた。その前年、私はアメリカ、ニューヨークに旅行し、あの世界貿易センタービルにも行った。110階建て高さ420m。屋上の展望デッキは外に出られ、眼下を見下ろすと、観光用セスナ機がビルの中腹当たりを飛んでいた。
1999年に開業した名古屋駅のセントラル(ツイン)タワービルは 52階、240mだから、その培である。アメリカの国会議事堂、自由の女神像を見学して、そのスケールの大きさに圧倒されたものである。
2001年の9月11日たまたまテレビをつけると、WTCの北棟から噴煙が出ている映像が飛び込んできた。前年に見物してきたので、観光遊覧のセスナ機が誤ってぶつかったかと思った。
そのまま見ているとまた、一機の飛行機が近づいてきた。一瞬、消火か報道関係者の飛行機かと思った直後、そのままビルに突っ込んでまた炎があがった。これは二次被害かと思ったが、どうやら違うようだ。その後、突然ビル全体が崩れ落ちた。その間90分もあったようだが、ずっと見続け、意外に短く感じられた。
手前はエンバイヤーステートビル。
2機目が南棟に突っ込む瞬間
その後の報道で、アルカイダによるテロで、4機の旅客機が乗っ取られ、このうち2機がWTCビルに、別の1機はワシントンの国防総省に突っ込み、さらにもう1機はペンシルベニア州で墜落したと。
ところが、この報道に私はいくつかの疑問を感じた。
当該飛行機の操縦経験の無い(飛行訓練を受けていたともいうが)素人が飛行機を乗っ取って操縦して、WTCビルの北棟と南棟に突っ込むことなどできるのか。偶然ぶつかった事故ならわかるが、そんなに正確に操縦できるものではない。「目標のWTCビルに向けて遠隔装置で自動操縦された」との専門家の意見もあった。
不思議なのは、国防総省ペンタゴンにも旅客機が突っ込んだと報道されたが、その後、その飛行機の残骸や遺体はほとんど報道されなかったこと。民間機がつっこんだというのは明らかに嘘。なぜ嘘をつく必要があるのか。落下現場を見た人の証言では「飛行機のエンジンらしきものはわずか7~80cmほどの小さなもだった」というから、ミサイルではなかったか。国防総省の防備は厳重で、ミサイルが飛んできても迎撃できた。国防総省にミサイルを撃ち込めるのはアメリカ軍しかできない。この後目撃者にはいっさい緘口令がしかれたか、全員黙秘していることも不自然。
ペンシルベニア州に墜落した一機は、普通墜落現場に機体や遺体、荷物が散乱するはずなのに、130kmも手前から散らばっている。これはミサイル攻撃で空中爆破したとしか考えられない。この時、機内の乗客が携帯電話で家族に「機長がテロリストにやられたので、これから機長室にはいってテロリストを襲う」と話したというようなことも公開されていたが、2000m上空の飛行機から携帯電話はつながらないので、この話もアメリカ軍のでっちあげ(演出)であると。
とにかくアメリカの公式発表は謎だらけ。それで「アメリカの自作自演」説。アルカイダに宣戦布告するために演じたのではないかという疑惑が出ている。
アメリカはアルカイダを攻撃する口実が欲しかった。国民感情(世論)を「アルカイダ憎し」に駆り立てる口実。それが、9.11。日中戦争のきっかけとなった日本軍による「盧溝橋事件」もそうだった。
これ以後アフガニスタンでの20年戦争に突入し、今アメリカはみじめな敗北を味わっているのだ。
9.11の謎
WTCビルは1975年火災を起こし2フロアーが全焼している。そして1993年にはテロで地下室が爆破された。その時680kg爆弾が使用され、地下1階と2階が爆破されたが、ビルは崩壊しなかった。普通の火災程度ではビルは崩壊しない。その後の綿密な調査結果でも、飛行機が突っ込んでもビルは崩壊しない構造だった。そのビルが50分から90分後に突然崩れ落ちたのは、下の方にも爆弾が仕掛けられていたからだった。映像でもビルの下の方で火が噴出しているのが確認されている。消火にあたった消防士からも「下の階で爆発音がした」との報告が公開されている。
テロの6週間前に、港湾公社から不動産王ラリー・シルバースタイン(Larry Silverstein)に賃貸権が委譲されており、その際に彼が35億ドルという巨額の保険をかけられていて、事件後に80億5000万ドルという大金が支払われた。
更に、9.11の4-6週間前に上の階で、ドリルやハンマーなどの改装工事らしき音がずっと聞こえていた。9月8日から9日にかけて電気工事の名目で長い停電があり、停電中はタワーのセキュリティも解除され誰でも入ることができたという証言もあり、この時に爆弾がしかけられたと考えられる。
崩壊したのはツインタワービルだけでなく、第3~第7ビルまであり、そのすべてのビルが破壊された。最も遠い第7ビルでも、わずか6.5秒というとんでもない速さで崩落した。これはアメリカで広く行われている「ビルの爆破解体」としか考えられない。
その後、爆破には小型水素爆弾が使用された。当時現場から異常な放射線が検出されており、現場にいた人の何人かがその後放射線で亡くなっているとの話も。
9.11同時多発テロは、アメリカ(ブッシュ大統領)とサウジアラビアの連携によるテロ偽装だったことが明らかに。
トランプ氏が、「ビン・ラーディンの家族は 事前にテロ事件が起きることを知っていたうえ、ブッシュ大統領が9/11に家族を国外護送した」ことを明らかにした。
9/11テロ事件直後、連邦航空局(FAA)による全米における飛行禁止命令が出ていた。しかその日、サウジアラビアのオサマ・ビン・ラーディンの家族24人が、ブッシュ大統領の要望で 国外に護送された。
さらに、数日間の間に約140人のサウジアラビア国籍の王室メンバーやビン・ラーディンの家族がブッシュ大統領により国外に護送された。
19人のテロリストのうち15人がサウジアラビア国籍でテロ事件に関与していたことが明らかになっても、聞き取り調査が一切ないまま、サウジアラビア国籍の市民はアメリカ国外に出ることができたのである。
ニューヨーク・タイムズ紙は2003年に、「サウジアラビア国籍のハイジャック実行犯人2名と関連があった2名のサウジアラビア人はサウジアラビア政府の諜報員であった」と暴露したのである。諜報員はサウジアラビア政府から莫大な資金が提供され、その資金は9・11テロ事件の実行資金源として使われた。
サウジアラビアが9.11のテロリストに資金援助を行っていたことは明白になったが、それでもアメリカはサウジを糾弾できない。ひたすら事実を隠蔽し、擁護に回っている。それはサウジが石油の産出国であり、世界の18%を占めているため、サウジを怒らせば、たちまち原油価格が高騰するという切り札を持っているからである。
もうひとつは、サウジはアメリカにとって最大の武器輸出国。その見返りに9.11の後もアメリカはサウジに莫大な軍事費援助を行っている。持ちつ持たれつの関係なのだ。
そのサウジとビン・ラ-ディンの関係は険悪であった。ビン・ラ-ディンはアメリカのサウジ駐在を拒み、サウジ王国から国籍をはく奪され追放されていた。サウジにとってもビン・ラ-ディン率いるアルカイダは脅威だった。
そこで、サウジアラビアとアメリカは共謀して、ビン・ラーディン一派にテロをけしかけ、アルカイダ攻撃の口実を作った。