現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

阿川佐和子の「聞く力」

2013-01-31 21:36:55 | 心の問題
「阿川佐和子」。知る人ぞ知る作家「阿川弘之」の娘。
1953年(昭和28年)生れ。慶応の史学科卒。私の5期下と
いうこともあって、マスメディアに登場してきた当初から
関心をもって見てきた。ある時、TBS近くの喫茶店で
見かけ、思わず「ファンです」と挨拶してしまった。

その彼女も還暦、未だに独身。そして今、『阿川佐和子の
この人に会いたい』に続いて『聞く力』が ベストセラー
となって注目を浴びている。

「インタビューが得意と思ったことはないし、聞き上手では
ない」と強調する。それには私も同調したい。友人の「檀ふみ」
から「阿川さんが聞き上手かと聞かれたら、私は同意できません。
むしろ阿川さんは、話し過ぎで、話し下手と云われた」と
吐露している。

そんな彼女の『聞く力』が好感をもって読まれているのは、
「聞き下手なのに、聞く仕事をしなければ いけなくなって、
失敗も多くて。いかんいかん、これじゃ干されてしまう…との
思いから、聞くためのいろんな知恵を必死で身につけようと
した」と語っているように、ひたむきさにある。

NHKの番組『先輩さんいらっしゃい』で、小学生に 
インタビューのコツを教えるのに、自分がダメなインタ
ビュアー役となって、ゲスト役の生徒に質問したり、
生徒同士がペアになってインタビューし合ったり、その
実践から、いろいろ学ぶことが多かったとも語っている。

私も、先日の「○○小学校」での尺八デモンストレーションは
良い体験になった。

というわけで、この本は「聞き方のノウハウ集」ではなく、
阿川佐和子の体験談をつづったエッセーになっている。

「インタビューは毎回必死で、うまくできたのか、自分では
客観的な判断ができません。けど、昔も今も、『この人に
話したい。語って楽しかった』と思ってもらえる聞き手に
なりたいとは思っています」。

ま、それがヒントか。

藤吉郎「槍の長短試合」

2013-01-31 11:21:07 | 戦国武将と城
「スパルタ教育」がいいか、「ほめ育てがいいか」。藤吉郎が
まだ信長に仕えたばかりの「草履取り」だった時のこと。

槍術指南の某が「短い槍の方が、機敏に動け有利」と主張するのに対し、
藤吉郎が「長い槍の方が勝つに決っている」と いちゃもんをつけた。
「長短どちらが有利か」。双方50人ずつの足軽を宛がわれ、一週間後に、
信長公の御前で試合をすることとなった。

その一週間の間、槍術指南は 足軽たちに 徹底的に槍の扱い方を
教えようとした。毎日、はげしい稽古で みな傷だらけ、足腰立たぬ
ほどフラフラになりながらも猛特訓した。

一方の藤吉郎は、足軽たちに連日 酒ご馳走をふるまい、50名を
二組にわけ、半数は長い槍を上下に振って、敵の頭を、半数は
左右に振って、敵の足を払うよう、それだけ練習させた。その上で、
「敵の槍を奪った者には百文、敵を捕らえた者には二百文、大将
(槍術指南)を捕らえたら五貫文の褒美をやる」と宣言する。

いざ 御前試合となり、藤吉郎の方は「三間槍(5.4mの長い柄の槍)」。
一旦引き下がって、槍襖(やりぶすま)を築く。そして 二組に分け、
半数は長い槍を上下に、半数は左右に振る。相手は、連日の猛特訓で
怪我だらけ、足腰もフラフラ。槍を振り回し、必死に突いても
槍が短いので届かない。体力を消耗して自滅してしまった。

勝負は藤吉郎の勝ち。信長から「足軽大将」に抜擢される。

この話、槍術指南の名前が「上島主水」だったり「鈴木主水」だったり
「片桐孫四郎」だったり、ネットでいろいろ出てくる。出典が不明。
どうせ 江戸時代に創られた講談のようだ。

子供の頃『常山奇談』で読んだ気がするが、この話は、ずっと
今日まで私の脳裏にある。「体力勝負」より、「知力勝負だと。

バツが悪い「体罰事件」

2013-01-31 10:55:01 | 社会問題
女子選手に「死ね」、笑顔でも怖かった…告発文(読売新聞) - goo ニュース

私も中学時代は柔道をやっていた。でも体罰なんか無かった。
体罰が無かったせいか、強くなれなかった(笑い)。
いや、体罰があったら、即 やめていたか。

大阪の高校生の自殺から、にわかに問題化した「体罰」。
愛知県の県立校でも 出るわ出るわ、50人以上の教師が
槍玉に上がっている。処分が下るのか、戦々恐々“針の筵”かと
おもいきや、“体罰教師”を擁護する声もあって、つくづく
日本は、神代の昔から「いじめ天国」と思う。

自衛隊など、昔の軍隊と変わらぬ 陰険ないじめが続いて
いるとか。

オリンピックの女子柔道の監督まで、告発された。
それでも「監督続行」とのこと。「体罰」を加えても、
金メダルは獲れなかったのだから、責任をとるべきだろうと
思うのだが。これから、どんな顔で、選手と向き合うのだろう。
75日過ぎれば、世間は忘れ、ウヤムヤになるのだろうか。

桜宮高校の生徒の自殺の本当の理由は「体罰ではなかった」
なんて声も出、彼の死は、無駄に終わるのか。
そして何も変わらない。社会なんて そんなもんさ。
「ああ~あ~、津軽海峡 冬景色」




「美輪明宏」絶賛に衝撃

2013-01-31 10:53:10 | テレビ・映画・芸能人
1/30 毎日新聞 1面に『三輪さん衝撃』のタイトルの記事。
内容は、昨年末の「NHK紅白」で、三輪明宏が
初出場で歌った『ヨイトマケの唄』が、若い世代に
絶賛された。ネットでは「号泣した」「紅白史上最高」
との声で埋まり、「今回の紅白で最も印象に残った
アーティストで三輪さんが1位に選ばれた」とか。
「当の三輪さんご自身がビックリ仰天、衝撃を受けた」
というもの。

私もビックリでござる。「ヨイトマケの唄」は、昔から
あったと思っていたが、1964年(昭和39年)に美輪明宏
(当時・丸山明宏)が作詞作曲した曲で、翌1965年(昭和40年)、
NETテレビ『木島則夫モーニングショー』で発表された」。
というので、私はもう17歳、高校の頃だったのだ。

当時、またたくまに流行して、なにかと口ずさんだものだが、
まもなくして「土方(どかた)」や「ヨイトマケ」が「差別用語」と
されて「放送禁止」になったそうな。それで、ながい間
忘れられていた。それが奇跡の復活なのだ。若者にウけたのは、
「就職難と低賃金、非正規の差別にあえぎ、閉塞感を抱える
ネット世代にも共感を生んだか」。「自分は60年変わらないのに、
世間が私についてきた」と。

先日、ある宗教団体の寒修行に立ち会った。お寺を建て替えると
いう話で、60年前、その寺が建てられた時のフィルム映像が
流れた。教主はじめ家族、信徒が一丸となって建築に携わって
いる。皆で綱を引き「地がため」の「よいとまけ」をしている
シーンも映し出された。そうだ、60年前までは、家は自分たちで
建てたのだ。私も何度か「ヨイトマケ」を見ている。そんな
子供の頃を思い出して、涙腺が熱くなった。最後に、お堂の
再建に向けて、法要に参座した若い信徒たちも声を合わせて
「とうちゃんのためならエ~ンヤコラ、かあちゃんのたなら・・・・」の
大合唱となった。

そしてこんなつぶやきが聞こえてきた。「とうちゃんのため?
かあちゃんのため? 今の子は言わないね」。「今は『子供の
ためなら、え~イヤッ、コラッ!』だわね」。



会津 「天寧寺」の「傑堂能勝」は・・・・

2013-01-30 05:46:48 | 「八重の桜」
会津東山温泉へ向かう東山街道の手前、山肌に「萬松山天寧寺」という曹洞宗の禅寺があります。

寺域はかなり広く、「近藤勇」の墓の他に、会津藩国家老
「萱野権兵衛」とその子「郡長正」の墓。また『会津史魂』の
作者「早乙女貢」氏の墓もあります。

「天寧寺」は、応永28年(1422)、当時の領主「蘆名盛信」が
「傑堂能勝」を招いて開いたのが始まりと伝えられています。

天正17年(1589)伊達政宗に滅ぼされるまで、会津を治めて
いた「芦名」氏の菩提寺であり、最盛期には、僧堂12、雲水
1千余名を擁する大寺となり、会津地方の曹洞宗僧録司の格式を
得ていました。

伊達政宗に攻められた時、天寧寺も兵火に罹り、一堂伽藍を
焼失してしまいます。江戸時代になって、会津の領主となった
「保科正之」は、「東照大権現・徳川家康」にならって神道で
祀られ、会津藩主と家臣は、代々「神道」でした。

ですから、江戸時代は藩の特別な庇護を受けることもなかった
のですが、会津の古刹であり、庶民の信仰の対象となっていた
ようです。


さてさて、勧請開山の「傑堂能勝」が、虚無僧にとっては
見落とせない御仁なのです。

江戸時代に書かれた、虚無僧の縁起書『虚鐸伝記国字解』では、
虚無僧の始祖を楠木正成の子「正勝」としており、「正勝」は
「虚無」と号して、深編笠で顔を隠し、普化僧となって東国に
落ち延び、東国の諸氏に南朝の最興を促した。

そして、筑波山を開き、最後、会津まで来て「天寧寺」を開いた。
「傑堂能勝」こそ「楠木正勝」であると。ま、創作話ですが、
江戸時代の人が「会津の傑堂能勝」を「楠木正勝」に見立てるほど、
「傑堂能勝」の名は知られていたということです。

ついでに、江戸幕府の影の宰相「天海僧正」も、会津の出で、
芦名の一族と云われています。「天海」は「明智光秀」という
噂もありますが、こちらも、年代が合わないから「嘘」です。

「座頭市」も会津の人だった!?

2013-01-29 17:10:53 | テレビ・映画・芸能人
『八重の桜』の「綾瀬はるか」。映画・TVドラマでは
『おっぱいバレー』しか知らなかったが、You-tubeで見ると、
『冬空に月は輝く』では、弓道部で弓をひいていた。
『Ichi』では、なんと“女座頭市”を演じていた。
そして『八重の桜』では鉄砲だ。あの細腕で、なかなやる。

「座頭市」といえば「勝新太郎」。刀さばきだけでない。
目が見えないのに敵を察知する。それを耳を動かすことで表す。
「勝新」の役者魂はすごいものだ。

さて「座頭」とは盲人の琵琶法師の職制。「検校(けんぎょう)」
「勾当(こうとう)」そして「座頭」。琵琶だけでなく三味線、
箏も弾く。

映画の「座頭市」は、子母澤寛が1948年(昭和23)、雑誌
『小説と読物』に連載した『ふところ手帖』の1篇『座頭市物語』が
原作。 『天保水滸伝』で知られる 房総地方の侠客「飯岡助五郎」に
ついて取材するため、千葉県佐原市へ訪れた際、土地の古老から
盲目の侠客「座頭の市」の話を聞き、それを基に創作した。

映画版では「茨城県の笠間市の生まれ」ということになっており、
笠間市には「座頭市の碑」が建っている。

ところが、これまた、会津若松市南千石町の「浄光寺」に「座頭市の墓」が
ある。゜会津の「座頭市」は、長岡藩主牧野家のご落胤であったが、
青年時代に眼病を患って失明、母方の祖父の家である磐梯町の
桑原家に奇遇して、あんまやハリの修業をし「佐渡市」と名乗った。

幼少の頃から文武両道を仕込まれていたため、会津では盲人の
総元締となり、一時は やくざの仲間に入り、渡世人となって
他国を廻ったとも。嘉永2年、78歳で没している。

子母澤寛の原作にも「後日談」として「猪苗代湖の近くの小高い
丘の辺りに住んだ」という記述もあり、会津の「佐渡市」が
「座頭市」の墓であることはまちがいないと。

八重の兄、「山本覚馬」も後に失明するのだ。




もうひとつの「座頭市」物語

2013-01-29 16:46:53 | 会津藩のこと
「座頭市」の墓がある会津若松市千石町の「井上浄光寺」は、
「座頭市」の子孫、(あるいは弟子の一人?)「阿部寅吉」の
菩提寺。「阿部寅吉」は昭和20年に亡くなっている。

この時点まで「座頭市」の墓は無かったようだ。「阿部寅吉」の
墓も無く、遺骨は「浄光寺」に預けられたままになっていたという。
二人の墓が建てられたのは近年のようだ。

子母澤寛が 雑誌『小説と読物』に『ふところ手帖』で
『座頭市』を描いたのは、昭和23年。

どうやら、映画「勝新」で有名になった「座頭市」に便乗して、
「浄光寺」が、昭和60年頃、観光客誘致のために「座頭市の墓」を
作ったようだ。

たしかに、会津通の私だが、子供の頃「座頭市」の墓がある
という話は聞いたことが無かった。


もうひとつの「座頭市」の話が、猪苗代湖の南「福良」に伝わっている。

明治の世、会津では「大津絵流し」が大流行し、福良の座頭たちは、
若松城下街を門付けして回った。唄と三味線は「座頭市」の仕込みで
あったといわれている。

古老の語るところによると、幕末に関東の渡世者「座頭市」が
やってきて「福良」に逗留した。彼は、やくざに追われて
足利から会津に流れてきた。

福良宿につき、旅籠「和歌野屋」に数日逗留した。だが、近くで
賭場の開帳があり、つい生来の悪癖で有卦(うけ)に入り、
大儲けした。宿に帰るとおかみに筆墨紙を出させ、辞世の歌を
したため着物の襟に糸でぬいつけた。「目が見えないのに」と
おかみが聞くと、「俺ら子供の頃は目が見えた。手習いもし
雪月花の風情も知っている。実は関東から追手につけられてるんで、
いつ死んでもよい覚悟はできている」と答え、宿に迷惑が
かからぬようにと、茶代をはずみ 夜の明けぬうち出立した。

舟津港への間道を辿っていると、湖岸の絶壁七曲りで、追いはぎに
襲われて、懐中物を奪われ、湖に突き落とされた。通りかかりの
者に小舟で助けられ、一命はとりとめたが、足が不自由になり、
百姓手伝いなどしながら、弟子を取って按摩の術から、座頭芸
まで献身的に伝授して没した、といわれる。その弟子の一人が
「阿部寅吉」とのこと。

だいたい、「耳なし芳一」もそうだが、「一、市」は盲人の
俗名なのだ。私も琵琶師のK氏に「虚無僧、一路です」と
名乗ったら「おめくらんですか」と からかわれたことが
あった。「琵琶法師こそ盲目でござろう」(笑い)

『八重の桜』第4回 「妖霊星」

2013-01-28 16:39:41 | 「八重の桜」
『八重の桜』滑り出し好調。感想も概ね「Goo!」のようです。

こんな感想もありました。

「ドラマとは、対立・葛藤である」と。なるほど、そうした目で見ると
『八重の桜』にも、さまざまな対立が込められています。
  
 女が銃を撃つことに反対する父親、
鉄砲か刀か、藩の保守勢力との対立。
 攘夷か開国か、藩主の対立
 そしてまた、八重と覚馬の嫁「うら(長谷川京子)」

「西を向いていろといわれたら、3年でも西を向いている女」というセリフは、
後に「新島襄」が「嫁にしたい女性像」を聞かれて「東を向いていろと
言われて 3年も東を向いているような女はイヤだ」と応えた話を意識
したものでしょう。会津戦争後、死んだと思っていた覚馬が 京都で
生きていたと知って、「八重」は京都に行くのに、「うら」は会津に
留まります。たしかに対象的な二人です。


そして、将軍後継者争いの<慶喜の一橋派>と<慶福の紀州派>の政争。
井伊直弼(榎木孝明)と水戸斉昭(伊吹吾郎)の対立。水戸斉昭との
仲裁に立ったのは「松平容保」でした。「容保」は後に「斉昭」の19子で
「慶喜」の弟「喜徳」を養子にしているのです。

ところで「松平容保」と「井伊直弼」が親戚と言っていましたが、
初耳です。ネットで検索しても出てきません。ご存知の方教えてください。


『八重の桜』第4回 「妖霊星」

2013-01-28 16:33:04 | 「八重の桜」
『八重の桜』第4回(1/27)のタイトルは「妖霊星」。
たぶん幕末に見られた「彗星」のことでしょう。
私の曽祖父が書き残した日記にも、しばしば「彗星」の
ことが載っていました。原本が紛失しましたので、
ネットでみると、ありました。

嘉永6年(1853)と 安政5年(1858)、文久元年(1861)の3回
現れています。下関の「真言宗・福仙寺」には、その様子を描いた
3枚の絵が残されています。

嘉永6年(1853)の彗星は、「黒船来航」とほぼ時を同じくして
現れています。安政5年(1858)は「安政の大獄」。また江戸で
コレラが大流行。

文久元年(1861)は、会津藩が京都守護職を拝命した年。

彗星は凶事、「悪いことが起こる知らせ」と、暗に考え
られていましたが、江戸時代「幕府が滅びる」などとは、
お上を憚って口にできるものではありませんでした。
ですから、私の曽祖父の日記も、「火の玉が落ちた」と
事実を書き記すのみでした。

『八重の桜』でも「安政の大獄、コレラの流行」を暗示
させるにとどまる表現でした。

脚本の「山本むつみ」は よくぞ「彗星」のことまで
知っていて、物語と結びつけたものと関心します。
 

会津藩籠城戦中の「糞尿」問題

2013-01-27 23:04:27 | 「八重の桜」
TBSクイズ番組で「会津藩が降服したのは、糞尿に困ったため」と
いうのが「正解」にされ、会津人は「ふんぱんもの」と抗議した件。


「会津史談会」の会報『会津史談』57号(昭和58)にありました。

「門間正照」氏の寄稿で、曽祖父の『高橋修斉翁自伝』。
原稿用紙258枚に及ぶもので、「牧原一郎」の記述も
ありました。

 籠城戦については「死はもとより覚悟の上だが、唯、処置に
窮せしは殿中の大便なり。便所あるも多くの人数のことなれば、
溢れて入ること叶わず。終には廊下まで溢れ、夜中などには
部屋の入り口まで方糞する有様なれば、庭先は申すに及ばず、
大便の無き処なく、臭気紛々。加うるに負傷者四、五百名。
右の臭気とともに殿中の内外に溢れ、各々死を待つ場合、
衛生を考え排除の暇なく放置しあれば、疾病に罹り、無惨なる
死を遂ぐる者多かりしなり」と。

窮状は判りますが、ただ「それが原因で城を逃げ出した」とか、
「降服した」という記述はありませぬ。


時代考証の「山村竜也」氏はこれを読んでいたのでしょうか。