現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

「愛知一中」OBのOさんに聞く

2022-08-15 08:26:15 | 太平洋戦争

(今日8月15日終戦の日 これも数年前書いた記事の再掲です)

 

Oさんが亡くなられたとの知らせ。91歳でした。
以前戦争中のことをお聞きしました。

Oさんは戦時中愛知一中(現旭丘高校=東大医学部進学率No.1)に在籍していた。

愛知一中」というと、数年前、NHKでも紹介された「予科練総決起事件」があった学校です。

昭和18年7月、校長や教師らが「国家の危急存亡の時」と生徒の愛国心を炊きつけたことで、3、4年生の生徒全員が「海軍の飛行予科練習生」への志願を決め、校長に提出した

これに あわてたのは親たち。一中は名古屋でもエリートが集まる学校だった。親としてみれば、わが子は「末は博士か大臣か」と期待していたのに、一兵卒として散るだけの「特攻」に志願するというのはなんとしても止めたいけれど、正面きっては口にできない。

当時の新聞はこの事件を「快挙」と賛美した。しかし、親の必死の説得で、結局 約700名中 56名が入隊した。そして3人が戦死した

NHKスペシャル「15歳の志願兵」

 

Oさんは 大阪の陸軍幼年学校に入隊し、そこで終戦を迎えた。8月15日、終戦の玉音放送を、炎暑の中、制服制帽に身を正し、校庭に直立不動して聞かされたが、内容は聞き取れず、「もっと頑張るように」と激励の勅諭かと思っていると「直ちに解散」の命令。

幼年兵も 米軍が進攻してくれば 捕えられ殺される」と言うので、国民服を泥につけて(わざと汚して)、きのみきのまま名古屋行きの汽車に乗った。大阪から名古屋までの汽車には引き揚げる海軍の兵隊たちがたくさん乗っていて、
彼らは、缶詰などの食料をふんだんに持っていた。海軍はいいなと思った。

家に帰ってみれば、栄の一等地にあった「履物店」は空襲で跡形も無し。「両親は死んだか」と思って あきらめていたら、闇市でばったり再会した。

 

というような話だった。


そこで、2013年に上映された水谷豊主演の映画『少年H』での疑問点について聞いてみた。
「中学校で、正門に、中学生が銃を構えて歩哨に立つということはあったのか。実弾による射撃訓練などあったのか」と。

Oさんの答えは「無かった。中学校での実弾訓練も無かった。配属軍人が腰に下げていた短剣でさえ、木刀だった」と。



真実を語る勇気

2022-08-15 03:42:16 | 太平洋戦争

2015年に書いたブログの再掲です。今ネットで検索しても下記の本は出てきません。

「私が見た憲法」より

『欽定憲法下の中学校』 村上 宏 1927(昭和2)年兵庫県生まれ。2013年6月11日 記

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空襲の激化に伴い、敵機の目をごまかすため「白いビルの壁には黒い色を乱雑に塗るように」との通達に従って、C中学の校史には「竿の先に雑巾を付け、屋上の胸壁から乗り出してコールタールを付けた」という生徒の体験談がある。

 


その一方で、私(村上氏)が居た D校(現神戸市、当時は武庫郡魚崎町)は、「校舎を目立たなくしたって、運動場が目立ってまるわかりだ。バカなことはやめとけ」と 校長が一蹴した「記念誌」に書かれている。

この校長先生は、軍人養成校への進学を勧めに来た軍人を前に、予科練などは 本校の生徒が行くところじゃない。『この中学へ入ってきて間違った』と思うやつは行けばいい」と発言された由。

日本は資源に乏しい国だが、お隣の国(中国)では 道端に石炭がゴロゴロ転がっている。あれをちょっと欲しいなァということで戦争が始まった 」などとも 話された。

当時、これがどんなに危険な発言だったか。密告でもされたら、校長のクビが飛ぶどころでなく、どんな目に遭わされるか命も危ない時代だった。

英語の先生も風変わりだった。「"見る"と "見える"は 日本語でも英語でも違うんだよ」と、教室の窓から外を眺め、配属将校が運動場で教練をしていたのを見て、英作文の例題として、私は運動場の軍人を "見る"。彼はのんきそうに "見える" 」と。

これが当人(配属将校)の耳に入ったら「帝国陸軍を侮辱するもの」としてぶんなぐられても当然だった。


教頭」は さらに輪をかけた硬骨漢で、予科練志願の意向を示した生徒に
「お前はムダ死にしたいのか」と どなりつけたという。

「真珠湾で多数の敵艦を撃沈した」という大本営の発表に 生徒たちが拍手喝采したとき、「ばかなことを喜ぶな。この戦争、しまいには日本が負ける」と生徒たちを諭したと、D校の記念誌に書かれている。

他の中学では当局の顔色をうかがい「敵性国家のことば」として英語の授業を「自主的に」廃止した後も、この学校では 勤労動員が始まるまで 英語の授業を続けるほど偏屈だった。

反面、配属将校の一人を 戦後30年近くも事務職員として雇っていたほど 寛容でもあった。

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これを書かれた村上氏は
この学校の生徒で 予科練を志願した者はいないし、各中等学校へ予科練志願者数の割り当てがあったことは全く知らなかった。校長や教頭が 国の至上命令を敢えて無視、握り潰していたのであろう。

何度も当局に呼び出され、注意や警告を浴びていたに違いないが、生徒の私たちには何も知らされず、その実情は今となっては わからない

ある日、校長が担当された「修身」の題目は「勇気」。危険なことに立ち向かうだけが「勇気」ではなく、目の前のお菓子を食べずにがまんするのも「勇気」だと説かれた。

国の方策に同調しなかったら、たちまち「非国民」「国賊」と非難され、どんな目に遭わされるか判っていた時に、校長や教頭は 時勢に迎合せず、これが“ほんとうの勇気”であることを 身をもって示していたのだと気づいたのは、私が高齢者と呼ばれる年齢に達した頃だった。


と、この(村上宏氏)は書いている。こういう校長や教頭、教師もいたのだと感動する。




日露戦争の勝利が太平洋戦争の敗戦を招いた

2022-08-14 04:09:05 | 太平洋戦争

以前中日新聞に連載されていた「天佑なり」は 高橋是清が主人公。
これまで「日露戦争」も、戦略、戦術のみで語られてきたが、その裏で、戦費調達のために、高橋是清が外債のとりつけなど、いかに努力してきたかを知る上で興味深かった。

高橋是清 - Wikipedia

「日露戦争」は 国家予算の7倍もの戦費を要した。信じられないほどの額だった。日本がロシアに勝利したのは、ロシアのバルチック艦隊より優秀な、当時最新鋭の艦船や大砲を調達していたからだった。

そのためには、外国での公債発行などでの資金調達が必要だった。そうした経済面での話は今まで あまり論じられてこなかった。

そういえば、私が勤務していた千代田生命は明治37年、日露戦争開戦の年に創業された。当時、相前後して数十社もの保険会社が設立されたが、これも日露戦争の戦費調達の為だった。生命保険の契約は 30年という長期のため、契約者が預けた保険料は、国に貸付けられていたのだ。


さて、国家予算の7倍を投じてまで ロシアと戦わねばならなかった理由は、「ロシアの南下、満州や朝鮮半島の植民地化を防ぐためだった。

日露戦争が無かったら、朝鮮半島はロシアの植民地となっていた。もし日露戦争で日本がロシアに負けていたら、朝鮮半島どころか、日本もロシアの属国になりかねなかった。

それだけはなんとしても食い止めたいという明治人の決死の覚悟が勝利を呼んだ。
この点では朝鮮半島の人々は日本に 感謝すべきである。

しかし「太平洋戦争の敗因は、日露戦争で勝利したこと」といわれるように、日本は日露戦争の勝利に酔いしれて、そこから一歩も向上しなかった。

日本は日露戦争のままの軍装備でアメリカと戦ったのだ。日本兵が “天皇陛下から拝領した”銃は 明治38年の「三八銃」。その使い道は二百三高地突撃の時と同じく、銃剣を付けて“槍”としての機能しかなかったのだ。

真珠湾攻撃で、アメリカは「戦艦より航空機」と気付いたのに、日本は日露戦争のままの「軍艦」にウェイトを置いたままだった。

マッカーサーも言う。「日露戦争の時の日本軍の参謀は優秀だったが、東京裁判で目にした日本軍の幹部は みな小者だった」と。

アホな参謀の指揮の下 三百万人が命を落とした。その6割は戦って死んだのではない。餓死だったというから、あきれる話である。日本国民も軍部の愚かさに怒って当然。

“兵士として参加した日本人1000万人(日本男子の1/4)”
“戦死者200万人” 5人に一人が戦死。その大半は餓死
“一般国民の死者100万人” 
“合計300万人。
 5所帯に1人の割合で肉親を失う”
“家を焼かれ財産を失った者1500万人”

日中戦争 - 太平洋戦争下の中国戦線 - Weblio辞書写真で見る太平洋戦争の歴史。飢餓地獄で死んだ旧日本軍兵士。アメリカ ...

 

広島、長崎の原爆も、軍の参謀本部は情報をキャッチしながら、市民に退避を告げなかったのだから、国民は軍に見殺しにされたのだ。
沖縄の島民もしかり。日本軍に殺された。終戦記念日に放映されたNHKスペシャル『戦場の軍法会議』は、逃亡の容疑で軍によって処刑された兵隊の話。まったく見るのも辛い。まさに“敵は本能寺にあり”、真の敵は味方のはずの日本軍だった。

そしてアホな軍部の下に 一千万人以上ものアジアの同朋が命を奪われた。

福沢諭吉も云っている。「個人としては優秀でも、組織人となると愚者になる」と。日本軍はもうグシャグシャだった。

終戦の日を控え、太平洋戦争の映画20本(その2) - アスカ・スタジオ


秘書官が見た「日本のいちばん長い日」昭和20年8月14日

2022-08-14 04:01:45 | 太平洋戦争
『日本のいちばん長い日』映画にもなった。
日本のいちばん長いシン・ゴジラ - ニコニコ動画
 
 
私の叔父、牧原源一郎は、運輸大臣「小日山直登」の秘書官だったので、
小日山直登氏を偲ぶ』という本を出して、当時のことを書き残しています。
 
 牧原源一郎                   小日山直登 運輸通信大臣
 
 
 
8月14日は 午前10時から閣議が開かれる予定なので、各大臣は総理官邸に集まっていた。そこへ、「全員 即刻参内せよ。平服でも苦しからず」と。豊田軍需大臣、太田文部大臣は開襟シャツだったので、いくらなんでも、陛下の午前にこのままで出ることはできない。君のを貸せ」というので、私は早速脱いで、ワイシャツとネクタイを差し上げた。両大臣はそれを着けて参内された。
 
そのため、私は一足遅れて宮内省裏玄関に駈け付け、そこで待機していた。しばらくして、皇族方を始め重臣閣僚が大勢戻って来られた。皆、真っ赤な顔に涙が光っていた。実にこの時、ご聖断が下り、陛下のお諭しがあったである。
 
(中略)
 
夜になって、そのことが過激派青年将校の側に洩れたので大変なことになった。
腰抜け重臣閣僚を屠れ。神州不滅、最後の一兵まで戦え」というようなビラを
撒き、決起した。私はなんとしても大臣を護らねばと、白鞘の短刀を握りしめ、
「もしもの時は、私がこれを振り回して防ぎますので、その隙に逃げてください」と大真面目でいうと、小日山大臣は笑って、「そんなもので防げると思うのか」と、泰然としておられた。
 
 
「総理官邸が暴徒に襲われた」と一報がはいり、大臣は早速官邸に車で駈け付けた。下村情報局総裁が、坂下門で拉致され行くへ知れず。
近衛師団長が射殺されたとか、阿南陸相が割腹自殺されたとか、情報が乱れ飛んで、どれが正規軍の報道か反乱軍の報道かわからない。陛下の録音盤は一体どうなっているのか、それさえわからない始末だった。
 
15日の朝、小日山大臣は 阿南大将自決の場へ駈け付けて、大将の死を悼まれた。昨夜、総理官邸での閣議を終えてから、阿南大将は血走った顔をして、幅広の軍刀をガチャつかせて、総理の室に入っていかれるあの姿を私はこの目で見ているのである。定めて、総理に最後のお別れの挨拶であったと思われる。息が絶えたのは恐らく明け方のことであったろうと思われる。実に立派な武人であったと感に堪えない。
その後も、阿南大将と親しかった小日山大臣は二回も私宅を訪ねてご遺族を慰めておられた。
「阿南大将は死んで陸軍を収めた。米内大将は長らえて海軍を収めた」と述べられている。
この日の正午までは、実に長い一日であると思われた。
 
(以下略)
 
まさに、映画の『日本のいちばん長い日』そのまま、
 
こんな記述も
 
「小日山大臣は会津武士だから、敗戦の責任を負って 腹を切らないとも限らんから、君はよく注意していてくれ」と心配してくれる人もあったが、そのことを話すと、大臣は「俺はそんなことはしないよ」と。
 
それ以前、10日の記述では、「小日山大臣は会津人なので徹底抗戦派かと思われていたが、私には『戦争ができなくなって降伏するのに、条件つけて何になるか』と言っておられたところを見ると、鈴木総理と同じく、この機を逃さず 終戦に持ち込む決意であったと思われる。
 
 
日本のいちばん長い日」原田眞人監督が監修した緊張感溢れるポスター ...
 

福沢諭吉が“国賊”呼ばわりされた?

2022-08-14 03:58:26 | 太平洋戦争

私の父は昭和16年3月に慶応大学を卒業し、8月に故郷の会津若松第65連隊に入隊した。田舎のこと、学士上がりの一兵卒は、上官からにらまれた。

父の『従軍記』の中に、上官に呼び出され、「貴様は慶応か。福沢諭吉は国賊だ。許せん」との理由で、往復ピンタどころか、顔が腫れあがるまで、さんざんに殴られた」という記述がある。

「福沢諭吉・国賊」で検索して、一件だけみつけた。
2009年の「福沢諭吉展」に関連するサイトです。
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福澤が「国賊」と言われた時代がありました。昭和戦前・戦中の時期です。慶應義塾は「国賊福澤諭吉」の創立した「自由主義者の巣窟」といわれた。自粛自粛、統制統制という波の中で、自由主義などというのは禁句という空気が満ちていました。

そのことと関連して、特攻隊で亡くなった上原良司という慶應の学生が書き残した「所感」と題する手記を展示しています。

上原良司の「所感」と題する手記は、上原が特攻隊員として鹿児島県の知覧から出撃する前夜に書かれたもので、
新版・きけわだつみのこえ』(岩波文庫)の巻頭を飾っていることで有名です。
 
この文章の中では「自由」あるいは「自由主義」という言葉がたびたび記されています。最後の一節「明日は自由主義者が一人この世から去って行きます。彼の後姿は淋しいですが、心中満足で一杯です」という部分は、涙を禁じ得ない。信ずるところを臆せず述べる。悲しいながらも凛とした態度には感服させられます。


石丸進一鎮魂の碑

2021-08-19 20:49:51 | 太平洋戦争

神出鬼没の虚無僧でござる。丁度10年前の今日、私は水道橋の東京ドーム前に立っておりました。

私が向かったのは 東京ドームの脇にあるという『鎮魂の碑』。

ありました、地下鉄の「後楽園」駅に向かう道路沿いに。ここだけは、人通りが全くなし。 

「鎮魂の碑」と刻まれたこの石碑は、戦争に狩り出されて亡くなった野球選手の霊を慰めるために建立されたものです。

名投手「沢村栄治」のことは『巨人の星』で知りました。「ベースボール」は「敵性ゲーム」とみなされたからでしょうか。野球選手の多くが召集され、69人もが戦死したのでした。

そしてその中に「石丸進一」君。もう、この人の名前を聞いただけで涙が溢れます。「特攻隊員として戦死した名古屋軍(現中日ドラゴンズ)のエース、石丸進一君」について、従兄弟の牛島秀彦氏が 裂帛の思いを込めて制作した映画『人間の翼―最後のキャッチボール』

 

自主制作映画ゆえか、一般の劇場では上映されることのない映画ですが、私は3回 観る機会があり、ビデオまで買いました。ラストシーンで、父親が飛行機の爆音を聞くと家を飛び出し、「進一が帰ってきた、進一、進一」と空に向かって手を振るシーン。もう思い出しただけで涙が止まりません。

鎮魂の尺八も音にならず。しばし佇んで「後楽園駅」の方に歩を進めると、数十m 離れたところにいたガードマンが一人私に向かって頭を下げてくれたのでした。

 

鎮魂の碑|公益財団法人野球殿堂博物館

右上の段の右から6人目に「石丸進一」。

真ん中の段の右から4人目に「沢村栄治

このお二人は何かと有名になりましたが、それ以外にも67人もおられることを忘れてはなりません。

 

 


石丸進一『人間の翼』

2021-08-19 20:48:04 | 太平洋戦争

「石丸進一 映画」の画像検索結果

戦争回顧と反戦の映画は数々あれど、一番泣けたのが人間の翼―最後のキャッチボール』です。

「特攻隊員として戦死した名古屋軍(現中日ドラゴンズ)のエース、石丸進一君」について、従兄弟の牛島秀彦氏が 裂帛の思いを込めて制作した映画『人間の翼―最後のキャッチボール』。



一般の映画館では公開されない自主制作映画ですが、私は3回も見る機会に恵まれ、またVTRも入手し、原作の本も買い求めました。


水道橋方面から、東京ドームの外壁沿いに、地下鉄「後楽園」駅に向かう途中に、『鎮魂の碑』というのがあります。

戦争に狩り出されて亡くなった野球選手の霊を慰めるために建立されたものです。

名投手「沢村栄治」選手をはじめ 69人の名前が刻まれています。

そして、その隣りに「石丸進一」君の追悼碑があります。



床屋を営む父親の借金を返すためにプロ野球界にはいり、兵役免除と聞いて日大に入ったものの、学徒出陣で特攻隊員となります。

1945年4月25日に鹿屋への移動命令が下り、浅野文章少尉から揮毫を求められ、「葉隠武士 敢闘精神 日本野球は」と書いた所で、浅野少尉から「この期に及んでまだ野球か!!」と叱責され、石丸進一は「おう!! 俺は野球じゃ、俺には野球しかないんじゃ!!」と怒鳴る様に言い残し、鹿屋に旅立ったのです。

太平洋に散華したのは、それから2週間後の5月11日でした。

野球一筋、球に命を懸けた青春が、戦争という不条理な運命に消されていく、その無念の思いを込めたこの石丸進一の絶筆が、なんと靖国神社の「遊就館」に展示されているとのこと。

「遊就館」は 侵略戦争を正当化し、国のために散ることを賛美するコンセプトで展示されています。石丸進一の魂はここで休まるのだろうか。

「戦争への道開き」を声高に叫ぶ人は、石丸進一君の映画『人間の翼―最後のキャッチボール』をぜひ観てもらいたいものです。

終始無口だった父親が、戦後、飛行機の爆音を聞くと、家を飛び出し、「進一が帰ってきた、進一、進一」と空に向かって手を振る。それを妻が抱きかかえて家に引き戻そうとする。あのラストシーン、もう涙が止まらず、映画が終わってもしばし立ち上がることができませんでした。。

この映画が、一般に公開されない、という現実に、またいつか来た道を歩んでいる危うさを感じます。

鎮魂の碑 (日本プロ野球) - Wikipedia


『零の進軍--大陸打通作戦』 吉岡義一著

2021-08-16 23:24:00 | 太平洋戦争

『零の進軍ー大陸打通作戦』吉岡義一著 

「打通作戦」とは、制海権を失って海上輸送が困難となった日本は、インドシナからの米や石油を運ぶために、上海からタイまでの1,400km の陸路を切り開こうとした作戦。そのために大量の軍隊が投入され、ただひたすら、敵中を行軍した。食料の補給はゼロ。現地調達。兵士には行き先も告げられず、情報もゼロ。ただただ頭を からっぽ(ゼロ)にして、上官の命令のままに行動させられた。

実際に敵と遭遇して、名誉の戦死を遂げた者は 3割。7割が衰弱して置き去りにされたり、絶望して自殺、逃亡、そして病死。犬死だ。

 

 

一昨年だったか、NHKでも「会津若松第65連隊の悲劇」として取り上げられた。私の父も参加していて、『従軍記』を書き残しているが、この『零の進軍』の著者「吉岡」氏は、熊本の連隊。上下二巻に及ぶ、実に詳細な記述で、「戦争で負けているとは思っていなかった」とか「中国人は戦後も親切にしたくれた」など、父の話とも共通する。

 


『少年H』の大ウソ問題

2021-08-15 19:33:17 | 太平洋戦争

少年H』は、妹尾河童の自伝的小説。

1997年(平成9年)に『週刊こどもニュース』でアニメ化、1999年(平成11年)と2001年(平成13年)にスペシャルドラマ化、2013年(平成25年)に映画化されている。

累計発行部数360万部を記録し、朝日新聞はじめマスコミが絶賛。高校、大学の入試問題にまで利用されている。

ところが、その内容が、山中恒氏によって「当時としては考えられられない、ありえない言動、事実ではない箇所が何百か所もある」と指摘されて問題になっている。私も映画を観たが、疑問だらけの内容だった。中学で「実弾射撃演習」なんか無かったのだ。

 

同世代で児童文学作家の山中恒は、「作中に夥しい数の事実誤認や歴史的齟齬がみられること」や、「主人公やその家族の視点が当時の一般的な日本人の感覚から大きく乖離していること」、「戦後になるまで誰も知らなかったはずの事実をまるで未来からでも来たかのように予言していること」、さらに「自身が編纂に関わった書物の記述がその誤りの部分も含めてまるごと引用されている点」などを自著『間違いだらけの少年H』で指摘し、『少年H』は妹尾の自伝でもなんでもなく、戦後的な価値観や思想に基づいて初めから結論ありきで描かれた作品であると看破し、「年表と新聞の縮刷版をふくらませて作り上げたような作品」「戦争体験者の酒の席での与太話を小説風にまとめただけのもの」と酷評した[4]。さらに、2001年(平成13年)に山中は『「少年H」の盲点』という批判書を出版した[5]

帝国議会での斉藤隆夫の反軍演説である。その演説内容については、戦後斉藤が亡くなった後に始めて明らかにされたにもかかわらず、作中ではHの父親の盛夫が知っていて、それをHに説明している。独ソ不可侵条約でポ-ランド分割占領の秘密議定書も、つい最近になってわかったことなのに、何故か隆夫は知っていて、それを聞いたHは、「ドイツは狡い!」と作中で述べる。間違いの多くは、『昭和二万日の全記録5巻・一億の「新体制」』(講談社)の記述に促した所が目立つという。戦後になって判明したことでも、こういった本では記述されているから、当時の了解事項との間に当然違いが出てくる。それに気づかずに参考にしたところが間 違いのもとになっているのだが、各種の年表の記述間違いも多いので、年表を参考にして描かれたところは、間違いをそのまま映し出している。

「少年H」父親妹尾盛夫役 水谷豊

「少年H」父親妹尾盛夫役 水谷豊

youtube#video

 

 

少年H ①

中井貴一 桃井かおり 吉岡秀隆 陣内孝則 窪塚洋介 杉本哲太 笑福亭鶴瓶 田中邦衛 西村雅彦 岩城滉一

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終戦 中国でも北と南では大違い

2021-08-14 20:23:03 | 太平洋戦争

日本軍は中国大陸で誰と戦っていたのか?

中国では蒋介石国民党毛沢東共産党軍が激しく対立し内戦状態にあった。中国北部の華北地方では関東軍によって清朝最後の皇帝溥儀を迎え満州国が成立。その満蒙開拓団は馬賊と、毛沢東率いる共産軍(八路軍)の襲撃に悩まされていた。8月9日ソ連が国境を越えて侵入してくると、関東軍はいち早く逃げ出し、置いてきぼりにされた満州開拓団はソ連兵と馬賊と八路軍の襲撃に遭い、さらにソ連へ抑留とその悲劇は言語に絶する。

だが、中支・南支方面の日本軍は連戦連勝、優勢だった。

蒋介石国民党軍南京を首都としていたが、1937年(昭和12)12月日本軍に攻められて重慶に逃れた。日本軍は、蔣介石と対立して重慶を脱出した汪兆銘を担いで、1940年(昭和15)3月南京国民政府」を新たに樹立した。であるから南京、上海では日本軍は我がもの顔だった。

しかし日米開戦によって重慶国民党軍を支援するアメリカが日本軍への空爆を行った。国民党軍は逃げまわるだけで、日本軍の敵はアメリカの飛行機だった。

8月15日の停戦で、日本は重慶国民党軍に降伏した。蒋介石は共産軍との争いに備えて、日本軍の力を借りたいという気持ちもあって、日本軍に寛大な処置を命じた。

 

父は会津若松65連隊に入隊したが、翌年主計少尉になって第13師団、新潟県新発田の歩兵116連隊に転属。

帰還した者 3,500名。帰れなかった者 1,700名である。3人に1人が命を落とした。
中国に残してきた戦友のことを思うと「すまぬ、すまぬ」の思いで、父も戦争を語ることは無かった。

定年退職後65歳を過ぎて、秘かに『従軍記』を書き遺していた。

父の『従軍記』を読むと敗戦で「中国人の報復を怖れたが、「多くの中国人は、温厚で寛大で、同情してくれ、友好的だった」という。

父は主計だったので、食料の調達、調理、衣服などの運搬に、何人かの中国人を苦力(クーリー)として使っていた。苦楽を共にしてきた仲でもあり、情も通いあい、「我々の撤退に、どこまでも着いてきた」とも。
「壮年を苦役に連行した」という罪で、父も戦犯に問われるところだったが、訴え出る人が居なかったために救われた。

武装解除も整然と行われ、中国人による略奪などは無かった。捕虜収容所といっても、土地を指定されて、そこに自分たちで宿舎を建て、自炊生活をすることとなった。中国の村の長は、将校を自宅に迎えて、食事の接待などもしてくれた。勝者の驕りも威圧も無く、「(日本帰国後も)また、来ることがあったら、歓迎しましょう」と、その寛容さに感服した。

捕虜収容所での生活は、軍隊同様、規律正しく、各種作業も分担してスムースに行われていた。兵隊は、収容所を出て、道路や家の復旧、農耕の手伝いをして
その報酬として、食料・煙草を分けてもらったりした

時には、無聊を慰めるため、運動会や相撲大会、演芸大会なども行われた。これがまた、芸達者な人がいるもので「玄人はだしの芸に、拍手喝采、沸き立った」
という。
武装解除でも自衛のためのピストルと日本刀は所持を許された。それで世話になった中国の村長にお礼として日本刀を置いてきた。

いよいよ上海に集められると、中国の警備兵に腕時計、毛布類まで略奪されたが、ただひたすら、日本に帰れるならばと、されるがままに耐えた。

最後の最後、江順丸で支那海を渡り、佐世保に着いた所で、海が荒れ船が座礁する。「ここまで生き長らえてきたのに、ここで天命尽きるか」と、覚悟したが、アメリカの上陸用舟艇に救助される。「昨日まで“鬼畜米英”と憎んできた米兵に助けられるとは」と、父は述懐している。