現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

牧原は武川衆の一人

2020-04-26 00:29:51 | わが家のこと

山梨県北杜市に牧原という地名がある。武川支所がある場所。かつて甲府から韮崎を通って諏訪に向かう中継地点として賑わった。

ユキサキナビ】山梨交通「牧の原下」バス停留所(北杜市武川町牧原)

地名は「牧原」だが、バス停は「牧の原」と??

北杜市社会福祉協議会 武川支所(北杜市/その他施設・団体)の電話番号 ...

「牧」とは、古代律令制で、牛馬の放牧地。「和名抄」には「真衣野(まきの)郷」と当て字されている。7世紀以前,すでにこの地が官の放牧地であった。毎年30疋の駒を貢上することが定められていた。

 

新羅三郎義光から8代、武田時信の子として山高甲斐守(太郎)信方、白須三郎貞信、教来石四郎信紹、牧原五郎時貞依田(鳥原)七郎宗景、白井八郎貞家、西境九郎信泰、折井(青木)十郎時光などの名前が見える。

他の系図では、若干名前が異なる。白井(白須?)八郎貞家牧原となっているのもある。

新羅三郎義光-義清-清光-武田太郎信義-信光-信長ー信綱-時信牧原八郎貞家

一条忠頼が頼朝に謀殺され、甥の武田六郎信長が一条氏の跡を継ぐ。その孫の一条時信武川衆の祖といわれている。時信は祖父信長に勝る人物で甲斐守護職に補せられ、よく武田宗家を補佐した。時信には男子が多かった。

 

時信(一条源八)---信重(一条与一)
             -義行(一条与二)
               -信方(山高太郎)
                                    -頼行(弥三郎)
                                   -行貞(又三郎)
                                    -貞信(白須三郎)
                                    -貞連(慶良吉六郎左衛門尉)
                                    -宗景(鳥原七郎)
                                    -貞家(牧原八郎)
                                    -時光(青木十郎)
                                    -信奉(両境九郎)
                                    -源光(青木別当蔵人)
                                    -信源(横板寺別当)
 
 

なお「南葵文庫本・武田系図」によると、「一条忠頼五代の末裔一条時信は南北朝のころ、子息たちを白須、鳥原、牧原、青木などの諸村に分封し、これが武川衆となる」とある。

武川衆は甲斐の国境の警備、金鉱の発掘などに携わり、川中島、長篠の合戦にも活躍したが、武田家滅亡後は徳川に臣従した。その出世頭が柳沢吉保である。
ところが残念ながら「牧原」の名は史書には登場してこないのである。

「日の丸」は源氏のシンボルだった

2020-04-25 22:32:39 | わが家のこと

武田家重代の家宝「日の丸の御旗」と「楯無しの鎧」

No.44:山梨・恵林寺の仏像・見どころ/不動明王及び二童子像、御朱印 ...

義光は、この「御旗」と「楯無の鎧」を次男の武田義清に与えた。

なぜ、長男の義業に与えなかったのか。一説に「義業は義光の兄義綱に子が無かったため、義綱の跡を継いだ」という。

義業の子昌義が常陸国久慈郡佐竹郷(現茨城県常陸太田市)に土着して「佐竹」を名乗った。

源平合戦の折は、平家にくみしたため、源頼朝によって所領を没収された。1189年、頼朝が藤原泰衡追討のため奥州に向かった折、無地の白旗を掲げて頼朝軍に合流した。その頃まで、源氏は無紋の白旗だった。そこで頼朝から、区別するために扇を給わり、白旗の上に付けるよう命じられた。以来その扇(扇に月の輪)が佐竹家の家紋となった。これが武門の家紋の初めである。一般には「日の丸扇」といっており、秋田の竿灯祭りで飾られている提灯の図柄も「扇に日の丸」である。しかし正式には「五本骨扇の月の丸」という。

ひたち里山ファーム 日記: オリオン座 東の空に

つまり、義光の長男義業の子孫の佐竹家も「日の丸扇」がシンボルだった。

Satake Yoshinobu.jpg

佐竹義宣

ところで、実は実は、当家(牧原)の家紋は、この佐竹扇「五本骨扇に月の丸」。

そして、私の妹の嫁ぎ先がまた、佐竹の一族「石塚家」で、家紋は「五本骨扇に月の丸」。全く不思議な縁である。

 

 

 

 


新羅三郎義光と日の丸

2020-04-25 19:52:25 | わが家のこと

甲斐武田家重代の家宝「日の丸の御旗(みはた)」と「楯無(たてなし)の鎧」は、源頼義が前九年の役で奥州に向かう際、後冷泉天皇(1025-1068年)から下賜されたものと伝えられる。源頼義は「源家の家宝」として8領の鎧をそれぞれの子に分け与えた。その内の「楯無しの鎧」は、三男の新羅三郎義光に与えられた。

「楯無しの鎧」とは牛の膝の硬い部分で小札を作り張り合わせてあるので、矢を通さず、楯は要らない」という意味。

尚、八幡太郎義家の孫 為義も「源家の家宝」として「楯無しの鎧」を子の義朝に譲っている。義朝は1160(平治元)年、平治の乱に敗れて敗走する途中、重いので「楯無しの鎧」を脱ぎ捨てたとある。その鎧は「黒糸縅(おどし)」であったと『平治物語』に書かれている。

甲府の菅田神社に伝存する武田家重代の楯無の鎧は「小桜韋(かわ)黄返威(おどし)」である。

であるから「楯無しの鎧」は次々と作られて、親から子に譲られたようだ。

新羅三郎義光は、父頼義から授けられた「日の丸の御旗(みはた)」と「楯無(たてなし)の鎧」を嫡男義業ではなく、三男の義清に譲った。

それで「日の丸の御旗(みはた)」と[楯無しの鎧」が 甲斐武田家の家宝となった。

甲斐武田家では「御旗・楯無し」は神格化され、合戦に臨んで「御旗楯無し ご照覧あれ」、略して「ミタしょうらん」と唱えたとか。映画でもその場面が登場する。

御旗は雲峰寺に、楯無の鎧(国宝)は菅田神社に現存していて宝物館で見られる。また楯無の鎧の複製品が山梨県立博物館や甲府の武田神社宝物館に飾られている。

山梨 菅田天神社 楯無の鎧: LOHAS~持続可能な趣味的生活~

楯無鎧 Instagram posts - Gramho.com

 


「甲斐武田氏」の出身地は常陸だった

2020-04-25 18:41:56 | わが家のこと

 甲斐の武田氏については、「新羅三郎義光の子の義清が甲斐国巨摩郡の武田郷に館を作って住んだので武田と称した」とか、あるいは「義清が甲斐国市河荘に土着して、甲斐源氏の基盤を作り、子の清光を八ケ岳山麓の逸見荘に配して荘司としたので逸見冠者と称した。清光は子の信義を武河荘武田に配した。この信義が初めて武田氏を名乗った」などと云われている。

ところが「尊卑文脈」や「武田系図」に、義光の子「刑部三郎武田冠者義清が「甲斐国市河荘に配流された」とある。これを信ずれば、「義清は甲斐に移り住む前から武田姓であり、しかも「配流」というのだから、罪を得て流されたのである。

甲斐武田氏の祖は、流罪人であった」とは由々しきこと。武田家系図では、殊更にこの事実を隠蔽してきた。

実は新羅三郎義光の本拠地は常陸。その流れが佐竹である。

現在、茨城県日立那珂市に武田という地名があり、武田氏館跡というのがある

こここそが、武田の出身地なのだ。

常陸・武田氏館

茨城県日立那珂市にある「武田氏館跡」

新羅三郎義光の嫡男「義業」は常陸馬坂に住んで佐竹氏の祖となる。次男の「義清」は、常陸国那珂郡武田郷を与えられて武田冠者と称していた。

しかし、1130年、所領争いで 常陸・吉田の吉田清幹らから朝廷に訴えられ、子の清光と共に、山梨県西八代郡市川三郷町に流罪になったのである。

その後、子の清光が甲斐で勢力を拡大し、逸見氏・武田氏・加賀美氏・安田氏・浅利氏といった甲斐源氏の頭領となった。

 


三井寺園城寺と新羅の謎

2020-04-25 11:08:12 | 虚無僧日記

近江八景の一つ「三井の晩鐘」で知られる三井寺。正式名は長等山園城寺(ながらさんおんじょうじ)

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「三井寺」というのは、天智・天武・持統天皇の三帝の誕生の際に 御産湯に用いられたという霊泉があり「御井の寺」と呼ばれたことに由来する。

草創は大友氏の氏寺だったというが・・・・

壬申の乱で敗れた大友皇子の霊を祀るために大友皇子の子大友与多王が建て、大友皇子を滅ぼした天武天皇が「園城」の勅額を授けたという。

壬申の乱とは、672年、天智天皇の弟 天海(おおあま)皇子が  天智天皇の子 大友皇子を滅ぼして、天武天皇となった事件。

弘文天皇<大友皇子>と天武天皇<大海人天皇> - 城郭探訪

 

 

三井寺がなぜ近江の大津、琵琶湖の南西にあるのか。

それは、朝鮮半島をめぐる争いが原因となっている。当時の日本は、想像以上にグローバルだった。当時、朝鮮半島は 新羅と高句麗、百済が三つ巴で対立していた。日本も朝鮮半島に進出し任那に日本府を置いて百済と親交を結んでいた。ところが、新羅が唐と結んで百済を攻めこれを滅ぼし、日本は任那から撤退する。

日本には百済の皇子「豊璋」以下多くの百済人が避難してきた。

それで百済の遺臣「鬼室福信」は、百済復興を目指し、日本にいた「豊璋王子」の返還と援軍を要請した。時の為政者中大兄皇子(後の天智天皇)は 百済救援に向けて軍を送ったが、663年白村江で大敗し、朝鮮半島からの完全撤退を余儀なくさせられた。

668年には高句麗も滅亡する。そのあと唐は新羅をも併呑しようとする。しかし新羅はこれに強く抵抗するが、676年新羅は唐の冊封体制に取り込まれる。
 

その間、日本は急いで防御体勢をとる。九州の沿岸に水城を築き、城を造り、烽火を整備し、唐の来襲に備えるとともに、667年 都を大津に移す。難波に近い飛鳥、奈良盆地からさらに北東の奥の琵琶湖のほとりに避難したのだ。

当時この琵琶湖一帯には百済からの渡来人が多く定住し、産業を興していた。天智天皇は、なにも草深い原野に都を移したのではない。百済人の支援を得て都を築こうとしていた。中大兄皇子(天智天皇)は百済系の皇子だったのだ。最近では「百済人の血を引いていた」「百済の王族の血筋だった」という説まで飛び出している。

そもそも天智天皇の父である舒明天皇は、斑鳩の百済川のほとりに、百済宮を造営し、百済大寺を建てた。天皇の勅願寺の第一号である。

 

さて、天智天皇の弟大海皇子は、天智天皇の政策を支えてきたが、朝鮮半島が「唐=新羅」となったことで、「百済よりでは まずい。新羅寄りに改めるべき」と考えた。そこで、天智天皇崩御の後、天智の子の大友皇子討って、天武天皇となつた。これが壬申の乱である。

 

そして、壬申の乱に敗れた大友皇子の霊を弔うために大友皇子の子の大友与多王がは父の霊を弔うために寺を建てた。そして 天武天皇が「園城」という勅額を与えた。寺ではあるが、神仏習合と怨霊信仰から、天武天皇によって新羅の神を祀る新羅明神が建てられた。というのが私の推測。

謎に満ちた新羅明神を祀る「新羅善神堂」と三井寺北院を散策 | 寺社 ...

新羅禅神堂

 

三井寺の本尊「弥勒菩薩(みろくぼさつ)」は天智天皇の御念持仏と伝えられ、秘仏として非公開。

 


先祖探しの旅  笙の名人「新羅三郎義光」とは

2020-04-25 06:52:35 | わが家のこと

牧原の祖は「武田の一族」でした。武田の始祖は「新羅(しんら)三郎義光」です。

清和源氏の祖「源頼義」に3人の子がおりました。

長男が「八幡太郎義家

次男が「賀茂次郎義綱

三男が「新羅三郎義光」。

大津市・三井寺(園城寺)あたり(08.02.11)探訪④新羅三郎義光の墓 ...

 

それぞれ、義家は「石清水八幡宮」で、次男義綱は「賀茂神社」で、三男義光は「大津園城寺(三井寺新羅大明神」で元服したことにちなんでの神号名です。

長男「義家」は、「義朝とその子頼朝、義経」の祖先。
三男「義光」は「武田」「佐竹」「南部」「小笠原」氏の祖で、その武田の一族に「牧原」もいました。

武田太郎信義から五世の孫「時信」の子「八郎貞家」が「牧原の祖」です。


新羅三郎義光は、弓馬の術にたけ、また「笙」を吹いたことで「文武両道」の士とされています。柔道・合気道の元となった「大東流合気柔術」では「義光」を開祖としています。

源義光bot (@bot_yoshimitsu) | Twitter

 

(余談)                                                             この「大東流合気柔術」の開祖「武田惣角」に合気を教えた                               「佐藤忠孝」の妻は「牧原一郎」の娘「やお」でした。

また、流鏑馬、弓術、馬術、礼法の流派である小笠原流や武田の軍学、兵法なども「義光」を祖としています。

韓国では「新羅義光を 日本に雅楽や武術を伝えた新羅(しらぎ)人の子孫」と言っているそうです。
新羅善神堂~園城寺(三井寺)の鎮守神~

 

では「義光」が元服式を挙げた「大津園城寺(三井寺)の新羅大明神」とは何か?。

園城寺(三井寺)は、壬申の乱で敗れた「大友皇子」の菩提を弔うために、勝者の「天武天皇(大海人皇子)」が建てた寺でした。創建は686年。

そこで最近、壬申の乱は、「百済派=天智の子大友と、新羅派=天武との戦い」だったという説が浮上してきています。

やがて、200年の歳月が経ち、園城寺も衰退していたのを、智証大師「円珍」が再興。この「円珍」が唐へ留学の帰途、
嵐に遭い、そこへ「新羅の神」が現れて救われたことから三井寺の守り神として「新羅明神」を祀ったとも。

「義光」が、その「新羅明神」で元服式を挙げたのは、いかなる理由なのか。たまたま、そこで、だったのか。朝鮮半島とのつながりがあったのかは不明です。

なお、新羅三郎義光の墓は墓所は、義光が元服の儀式を執り行った新羅善神堂の裏手にある。 

新羅三郎義光の墓

 


聖徳太子は「日本滅亡」を予言した?

2020-04-24 08:03:38 | 虚無僧日記

「日本書紀」には、聖徳太子について「兼知未然」(かねていまだ然らざるを知る)と書かれている。つまり未だこない未来のことを知っていると。以後「聖徳太子が未来のことを書き記した書『未来記』があるのではないかという記述がたびたび登場してくる。

 「平家物語」には「聖徳太子の未来記にも、けふの事こそゆかしけれ」という記述がある。

聖徳太子

聖徳太子

藤原定家の日記「明月記」には「1233年 (天福元年)、瑪瑙(めのう)の石箱が発見され、そこに聖徳太子の未来記が刻まれていた」と。

太平記巻六の「正成天王寺未来記披見事」は、楠木正成が1332 (元弘2年)難波(大坂)の四天王寺で『未来記』を見たと。

その内容は

 

人王九十五代に当たって、天下一たび乱れて、主安からず。
この時 東魚(とうぎょ)来たりて、四海を呑む。
日、西天に没すること三百七十余箇日、西鳥(せいてう)来たりて、東魚を食す。
その後、海内(かいだい)一に帰すること三年。
獼猴(みこう)の 如き者、天下を掠すむること三十余年。
大凶変じて一元に帰す。云云(うんぬん)

正成はこれを次のように解釈したという。

「人王九十五代」は第96代天皇後醍醐天皇のこと。「東魚」は鎌倉幕府、「四海」は日本全体。「日、西天に没すること」は、幕府との戦いの中で、後醍醐天皇が一時期、隠岐に流されていたこと。「西鳥(せいてう)来たりて、東魚を食す」は鎌倉幕府を倒す者が現れるということ。

 

最近ネット上で話題になっているのが、近現代の予言。

「私の死後200年以内に、山城国に都が築かれ、1000年に渡って栄える(=平安京)。しかし『黒龍』(=黒船)が訪れ、都は東に移される(=東京)。しかしその東の都は200年後、『クハンダ』が来て、親と7人の子どものように分かれるだろう」

 

「クハンダ」とは「末世に現れる鬼」だという。地震、津波、火山の噴火などの大災害だろうか。今はさしずめ「新型コロナウイルス」であろう。

そして日本は「 親と7人の子のように8つに分かれる」というのだ。「親は東京を中心とする関東。子は北海道、東北、中部北陸、関西、中国、四国、九州の7つ」の行政区分がそれぞれ独立する。アメリカの様な州政府になる」と私は理解する。それが今拡大解釈されて「日本は八つ裂きにされ壊滅する」「日本崩壊」などと大袈裟に騒がれているのだ。

 

そもそもこの「予言」の出所がどこかである。

原典を探しても、実は四天王寺には現在「未来記」は存在しない。江戸時代になって「先代旧事本紀」という書物が出版された。『先代旧事本紀大成経』(全72巻)の69巻目に記された『未然本記』が、『未来記』を写した書であるとされ話題になったが、江戸幕府はこれを偽書と判定し、版元を処罰し、以後発禁本となった。 

実はこの書は伊勢志摩にある伊勢神宮の別宮「伊雑(いざわの)宮」が、『先代旧事本紀』を持ち出して、「当宮こそ元の伊勢神宮である」と伊勢神宮と本家本元の争いを起こしたため、幕府が裁定に乗り出し、偽書と断定して伊雑宮を罰したのである。

ところが近年、またぞろ、「伊雑宮こそ元の伊勢神宮」として『先代旧事本紀』はじめ「日月神事」などが出版され、ネット上でもさかんに出回ることになった。それを元にさまざまな人が勝手な解釈を施しているのである。さて、真実はいかに。

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偽書と見做された先代旧事本紀大成経は真実を書いていた | 日本の歴史 ...

 

 

 


法隆寺を建てたのは誰?

2020-04-23 17:52:29 | 社会問題

4/12(土)19:30 NHK「ぶらタモリ」は 奈良の法隆寺。

4月から新しくアシスタントとなった浅野里香アナ(26)。オープニングで タモリから「法隆寺は誰が建てたか?」と問われて「・・・・・」。答えられない。「大工さん」とか「たくさんの人」と。しばしタモリも無言。

法隆寺を取材するなら少しは事前に知識を得ていくのが仕事だろうに。これにはスタッフも私も唖然。

法隆寺はなぜ1400年も愛され続ける?タモリ&浅野里香アナが秘密を探る ...

 

「法隆寺」といえば「聖徳太子」。

あきれて見ていたが、番組が進むにつれて。そうだった。法隆寺は当初聖徳太子によって建てられたが、後に火災に遭って焼滅し、後に再建されているのだ。

日本書紀の670年4月30日の条に「法隆寺災あり一屋も余すことなし」と記されている。そして「和銅年間」(708~714年)に「法隆寺を造る」という記録がある。1939年には現在の西院伽藍の南東部から火災に遭ったとみられる伽藍跡(若草伽藍)が発掘調査で見つかり、この若草伽藍が聖徳太子時代の法隆寺と思われる。

 

さて、再建されたとなると、当初のタモリの質問「法隆寺は誰が建てた?」に対して「聖徳太子」は不正解となる。

浅野里香アナの「誰が建てたかわからない」は正解だったのだ。

日本書紀は720年に完成された。そして、その50年前の「670年に焼け落ち、708~714年にかけて再建された」というのは、かなり近い年代の事であり、信ぴょう性は高い。

それでは、誰が何のために再建したのか?この答えは未だ出ていない。

聖徳太子は622年に亡くなり、その子山背大兄王はじめ上宮家と呼ばれる一族は、643年蘇我入鹿によって滅ぼされた。

その蘇我入鹿は645年 中大兄皇子と中臣鎌足によって殺される。そして大化改新を経、710年元明天皇によって奈良に遷都、古事記、日本書紀が編纂される。まさに法隆寺は奈良に都が置かれた前後に、斑鳩の地に再建された。誰が何のために。

それは「蘇我入鹿によって滅ぼされた聖徳太子の一族の怨霊を封じ込めるために建てられた」のだ。それは、

1法隆寺の中門は真ん中に柱がある。これは他に無い様式。怨念を封じ込めるもの。

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2夢殿の救世観音像は聖徳太子像といわれ、明治まで布で覆い隠されていた。

 

 

3五重塔のてっぺんの法輪に鎌が刺さっている

などなど

ところで「聖徳太子の予言」というのがある。「楠木正成も見た」という。古来出ては消えるまやかしだが、それには「2030年日本は壊滅する」とのこと。

 


ロシアの金塊が日本に?

2020-04-20 08:58:42 | 太平洋戦争

4/20 中日新聞「旧日本軍が奪った金塊返せ」

なんと、1917年のロシア革命前後、ロシアに出兵していた日本軍が、反赤軍勢力白軍(王朝側)に味方し、ロマネフ王朝の金塊を保全の名目で満州に移送、さらに日本へ送った。その量は金塊200トン。現在の価格で1兆2600憶円という。

ネットで調べてみると

コルチャック提督率いる王朝派(白軍)のペトロフ将軍が、黄金22箱を旧満州に居た日本駐留軍へ預けたとして、日本に返還請求を行っていた。

そのことが1991年にイズヴェスチヤ紙で報道され、日本でも話題となった。

以後度々、返還要求の声が上がり、日本外務省は「当時の報告書では全部返却されている」とロシアに回答したという。

1918年、コルチャック政権は、日本に武器調達を求め、そのため相当量の金塊を日本に渡した。しかしその後コルチャクは革命軍に捕らえられ処刑されたため、日本からの武器供給はなされなかったようだ。

金塊は日本に送られ、当時日本唯一の外国為替取引銀行であった横浜正金銀行に預けられたという。

ここで、思い当たるのが、太平洋戦争の莫大な戦費の出所。

太平洋戦争の戦費総額は約1,900億円。国家予算に対する比率72倍。現在の価値で4,000兆円という天文学的な額。

それをどこから調達したのかが謎。ひとつは中国からのアヘンの利益。そしてロシアの金塊もその一部かと。とにかく、大日本帝国陸軍の戦費は現地調達主義でしたから。

 


やはり、武漢でウイルス研究

2020-04-18 22:48:27 | 地球人類の問題

2020/04/14 に公開

中国・武漢の研究所が行っていたコロナウイルスの研究について、アメリカ国務省が「安全対策が不十分だ」と2年前に警告していた。

 ワシントン・ポスト紙は14日付の論説記事で、「北京にあるアメリカ大使館の科学担当の専門家らがおととし1月に武漢の生物研究所を訪れていた」と報じた。この研究所ではコウモリに由来するコロナウイルスの研究が行われていて、訪問後に専門家らはワシントンの国務省に公電を送り、「安全対策が不十分な環境でウイルス研究が行われており、ヒトへの感染拡大のリスクがある」と警告していた。

この研究は秘密ではなく、アメリカの大学の支援で行われていたもので、大規模感染の予防のためだったとも伝えている。
[テレ朝news] https://news.tv-asahi.co.jp

ということは、新型コロナウイルスはアメリカと中国の合作?

アメリカの調査団が、中国を訪問したとき、研究所から「新型ウィルス」を持ち出して、何かのミスで流出したとの噂も有り。ミスではなく、故意に武漢で撒いたか。

それで今、中国とアメリカが責任のなすりあい?

https://youtu.be/j-oqF739YKo?t=9