「邦楽ジャーナル」5月号から 『虚無僧曼荼羅』 と題して
寄稿することになりました。ぜひ購読して読んでください。
今まで、このブログに書いてきた記事をまとめることに
したものです。そのため、ただ今、過去に同じテーマで書
いていたものを寄せ集めて、再掲載しております。
内容が重複したりしていますがお許しください。
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「ふける」を漢字に変換すると「耽る・老ける・拭ける・
噴ける・深ける」。そして「葺ける」と、6つも出てくる。
「葺ける」は、「「逃げる、とんずらする、さぼる」と
説明がある。辞書を引いても出てこない字だ。
ネットで検索すると、「若者言葉、不良ぽい言葉」で、
「江戸時代から使われた」というが、語源について
書いたものは無い。
私は、虚無僧が宗祖と仰ぐ「普化(ふけ)禅師」から
来ていると考えている。「普化」は唐代、800年頃の人。
臨済の相棒として『臨済録』に出てくる。変わり者で、
師が弟子たちに自分の頂相(ちょうそう=肖像画)を
描かせた際、全員提出したのに、普化は描かなかった。
師が「普化よ、お前はどうした?」と尋ねると、普化は
トンボ返りをして逃げていった。師は「あいつは瘋癲
(ふうてん)だ」と言った。というような事が書かれている。
この話は、江戸時代頃から人口に膾炙(かいしゃ)され、
普化のような“はみだし者・やんちゃ者”を自認する
連中の間で使われたのではないか、と私は推測している。
「深(ふ)けゆく」秋の夜。尺八に「耽(ふけ)る」私は、
「普化僧(ふけそう)」でござる。「普化僧」とは、
「普化禅師」を宗祖に仰ぐ虚無僧のこと。「僧」とは
言っても、髪は剃らず。「フケ」だらけの髪では「不潔」。
毎日手入れも大変。芋が「蒸け」たら、喰う前に手を
「拭け」なんちゃって。清潔な虚無僧でござる。
夜が「更け」たら、家では 尺八は「吹け」ない。そこで
毎夜こうして、「老けた」顔を 天蓋で隠し、名古屋駅前で
尺八を吹いておる。やばい人が来たら「葺ける(逃げる)」。
ちなみに、虚無僧の宗祖「普化」は、尺八は「吹け」な
かった。「普化」は「老け」ずに、空に昇華し、解脱
(げだつ)したのでござるよ。
「普化禅師」は、臨済宗の祖「臨済」について書かれた
『臨済録』に、「臨済」の相棒として登場してくる。
一風変わった乞食坊主で,いつも裸で市中を徘徊し、
ただ鈴(鐸)を鳴らして「明頭来明頭打、暗頭来
暗頭打」とだけ唱えていた。
臨済と普化の師である「盤山」が、弟子たちに自分の
「頂相(ちんそう、ちょうそう)=似顔絵」を描かせた。
禅宗では、師の似顔絵を描くことで、どれだけ師の
学びを受け止め得たかの判定がなされる。
弟子たちが 師の「頂相」を描いて 提出すると、
盤山禅師は その者たちを 棒で 打った。
最後に「普化、お前はどうだ」と禅師が言うと、
普化は、「師の姿を描き得たり」とは言ったが、
絵を見せず、筋斗(きんと=とんぼ返り)を打って
出て行ってしまった。すると盤山禅師は言った。
「この漢、風狂の如くにして人を導くだろう」と。
この普化の「とんぼ返りして出ていった話」から
「ふける」という言葉が生まれたのだろうと、私は
考えている。
だが、普化の有名な話は、その最期の様子だ。
「普化は『ワシは死んでやる、死ぬ、死ぬ』と言って
自ら棺にはいり、蓋を閉めた。その後 民衆が蓋を
開けてみたら、中は空っぽで、一条の煙が天に昇り、
空中からは妙なる鈴の音が聞こえてきた」というもの。
これは「全身脱己」(「全身抱っこ」じゃありません)。
悩みも苦しみも煩悩をすべて取り去った「涅槃の境地」に
達したことを象徴的に表したもの。
この「煙となって消えた」という故事から「ふける」と
いう言葉ができたという人もいるが、ちょっとニュアンスが
違うように思う。「ふける」には「逃げる」という
意味が含まれる。「世の中から逃避して自殺」と
解するのか?
この『臨済録』は一般人の目に触れるものではなし、
「普化」の行状が、一般人に知れ渡っていたとも
思えない。となると・・・・・やはり。
「虚無僧」は、世の中から隠遁しているような存在だ。
世間から逃避して「普化僧となる」がやはり「フケル」の
語源か。
「吹ける、深ける、拭ける、蒸ける、葺ける、耽る、
噴ける、更ける、老ける」。パソコンで変換すると、
以前はもうひとつ「ふける=逃げる」というのがあった。
今 何故か 出てこない。
「逃げる、トンズラする、行くへをくらます、サボる、
脱ける」という意味で「フケやがったな」「フケよう」
という。
あまり使われないが、たまに知っている人がいると
うれしくなる。
語源ははっきりしない。ただ「虚無僧」と関係ある
ことは漠然と知られているようだ。
「仙石騒動で神谷転が虚無僧寺に逃げこんだことから
“フケル”という言葉ができた」という説もあるが、
これでは、何のこっちゃ判らないだろう。
虚無僧の宗派を「普化(ふけ)宗」という。
虚無僧は、「普化」という中国の禅僧を祖師と仰ぐ。
それで「普化僧寺に逃げ込む」という意味か。
尺八吹ける、尺八に耽る、尺八を拭く、尺八吹いて
老けた。お芋さんだって蒸けるのよォ~
「ふける」を逃げるの意味で使った例は、歌舞伎の
『韓人漢文手管始』にあるらしい。「角川新版古語辞典」に
【ふける=逃げる、かけおちする。「おれが 町内をふけって
しまったは、皆おれが魂胆」(伎・手管始)】と記載されていた。
「手管始」をネットで検索すると、歌舞伎の演目のひとつ
『韓人漢文手管始(かんじんかんもんて くだのはじまり)』。
「手管(てくだ)」は「人をだます手段。人をあやつるかけひき」。
1789年(寛政元年)の上演だから、「仙石騒動」1833年(天保4年)より
44年も前。ということは、「仙石騒動で神谷転が虚無僧(普化僧)寺に
逃げ込んだことを語源とする説」は なりたたない。
ついでに、『韓人漢文手管始』は、1764年、朝鮮通信使が江戸からの
帰路、大坂西本願寺(津村別院)に宿泊中、通信使の一人崔天宗
(チェチョンジョン)が殺害された事件が元になっている。
事件は、崔天宗が「鏡を盗まれた」と騒ぎ、対馬藩の下級通司
「鈴木伝蔵」に疑いをかけたことから、鈴木と口論、武士の面目を
汚された鈴木は怒って、槍で崔天宗の喉を突き刺して逃走した。
鏡は船に置き忘れてあったが、通信使を殺害した罪は重い。
鈴木伝蔵はすぐ つかまり、通信使の乗る朝鮮船の前で打ち首と
なった。この事件は、当時大変な騒ぎとなり、すぐ芝居化されたが、
『忠臣蔵』同様、幕府は事件をあからさまに扱うことを禁じたため、
事件から25年も経て、長崎を舞台にした事件として創り替えられた。
しかも、殺されたのは韓人ではなく「唐人の衣装をつけた日本人」と
なっているが、題名に『韓人漢文・・』とすることで、観る人には、
25年前の「朝鮮使殺害事件」とダブらせたのだ。
中日新聞夕刊に連載されていた『水軍遥かなり』。
熊野水軍の「九鬼守隆」が、秀吉の小田原北条攻めには、
他の水軍と先を争い、伊豆半島に出動します。敵は
「風魔一族」。全く得たいの知れない忍者集団。
この北条氏お抱えの「乱破(らっぱ=忍者)」「風魔」に
ついては大衆娯楽小説ではよく登場してくるのですが、
実態はほとんど不明です。
『北条五代記』によれば、五代目の「風魔小太郎」は、
「身の丈七尺二寸(2m16cm)、筋骨荒々しく むらこぶあり、
眼口は広く逆さに裂け、黒ひげをたくわえ、牙四つ外に現れ、
頭は福禄寿に似て鼻高し」と。どうやら日本人ではなく、
紅毛人(スペインかイギリスの海賊)ではなかったかとも
想像されます。
北条家が滅亡すると、風魔は 江戸近辺を荒らし回る
盗賊となり、「小太郎」は、1603年、幕府に捕えられ
処刑されました。
「風魔」は 仲間内の連絡に「尺八」を使っていた
という説もあります。「一節切」とはまた違う
短くて太いもので「忍流尺八」と呼ばれていたとも。
『野ぼうの城』で有名になった北条方の行田の城は
「忍城」でした。北条氏の滅亡で失業した「風魔」
一族が虚無僧となったのではないかと、私は考えて
います。虚無僧が“隠密”と言われるのは、元は
「風魔」だったからではないでしょうか。
忍者は「乱破(らっぱ)」とか「素破(すっぱ)」とも
呼ばれていました。「乱波(らっぱ)」と「喇叭
(ラッパ)」。「素破(すっぱ)」と「「尺八(チーパ)」
なんか関連ありそな 無いような気がしております。
北条早雲が定めたという家訓『早雲寺殿21カ条』
というのがある。内容から、私は幻庵が草稿した
と考えている。その条文の中に、
「良き友を求めべきは。手習學文の友也。
惡友をのぞくべきは。碁將棊笛尺八の友也。
是は知らずとも耻にはならず。習てもあしき事には
ならず。但いたづらに光陰を送らむよりはと也。」
解説書では「碁将棋や笛、尺八などは、悪友と交わる
ことになるのでいけない」などと書かれているが、
原文を読めば、逆だ。
「囲碁将棋、笛、尺八は、知らなくとも恥にはならないが、
習っても悪くはない。いたずらに時を過ごすよりはよい。
悪い遊びに誘われるよりは、囲碁将棋、笛、尺八の友と
交わる方が良い」と言っているのだ。
他人の解説を鵜呑みにすると とんでもないことになる。
伊勢新九郎(北条早雲)と 富士の裾野の豪族
葛山氏の娘との間に生まれたのが、北条幻庵。
早雲の三子で、母方の葛山姓を名乗ったことも
あった。
北条家5代に渡って生き、長老として重きを
なした。亡くなったのは、北条家が秀吉によって
滅ぼされる8カ月前だった。
幻庵は、成人するまで京都で育っており、教養
高く、知人も多く、大徳寺との関係も深かった。
また、器用で、馬の鞍や、尺八も作った。それは
「幻庵鞍」、「幻庵切(一節切尺八)」として、
京の公家の間で評判になるほどだった。
『北條五代記』には、北条家が滅ぶ前、「久野に
茶屋ができ、北条家一門や家老衆が、毎日、虚無僧や
修行僧、巡礼姿で、出入りしていた。これは不吉な
ことだ。案の定、しばらくして北条家は滅びた」
というようなことも書かれている。「久野」は
北条幻庵の広大な屋敷があった所。
虚無僧姿で茶会に出ることがなぜ不吉なのだろう。
「虚無僧」には、「世捨て人」「隠遁者」という
イメージがあるからか。
こうして、小田原家中の多くが尺八をたしなんで
いた。北条家滅亡の後、関東には徳川家康が入り、
北条家残党の多くが帰農した。そんな中には、
商売も農業もできず、尺八しか能の無い侍もいた
はずだ。虚無僧が、その「掟書き」の中で「再仕官
するまでの仮の姿」と明記しているところに、
私は、「北条の残党の何人かが虚無僧になった」と
考えている。
『隠密剣士』の第5部は『風魔一族』。
「風魔」は小田原北条氏配下のラッパ(忍者)。
北条家では幻庵の影響で、尺八が大流行しており、
幻庵が「風魔一族」を束ねていたとの話もあるので、
「風魔」は「虚無僧集団で、尺八を、通信合図の
道具として用いていた」などという話もある。
しかし『隠密剣士』では「風魔」は普通の忍者の
スタイルだ。
最近出版された 火坂雅志の『業政駈ける』では、
「虚無僧集団を束ねる“ 湛光風車 ”」が登場して
くる。
『業政』とは、箕輪城(現、群馬県高崎市)の城主、
長野業政。小田原北条氏や甲斐の武田信玄の度々に
渡る上州侵攻にも屈しなかったことで、戦国最強の
武将とも目される。
高崎市には、慈上寺(石上寺)という虚無僧寺が
あった。また 隣りの埼玉県深谷には「福正寺」が
あった。
「風魔」については、江戸時代になって書かれた
『北條五代記』に、「39 関東の乱波(らっぱ)智路の
事」として出てくる。これが唯一の出典。
「乱波(らっぱ)と云う曲者(くせもの)多く有し。
これらの者、盗人にて、又盗人にもあらざる。
才智有て、某計調略をめぐらす事、凡慮に及ばず。
(北條氏直と、武田勝頼が対決した時の事)。
氏直、乱波二百人扶持し給ふ中に、一の悪者有。
名を「風摩」と云。忍びが上手で、夜討を第一とす。
二百人の徒党を四手に分て、雨の降る夜も、降らぬ夜も、
風の吹く夜も、吹かぬ夜も、黄瀬川の大河を ものとも
せず打ち渡りて、勝頼の陣場へ 夜々に忍び入て、
人を生捕、つなぎ馬の綱を切、分捕・乱捕し、火をかけ、
四方八方へ鬨音をあぐれば、勝頼の陣 騒ぎ動揺し、
あはてふためき、味方を敵ぞと思ひ、討ち討たれる。
夜明て首を実検すれば、皆同士討ちなり。
風摩は、身長 七尺二寸(216cm)の大男。口は逆さまに
裂け、黒髭(ひげ)を口の両脇へ広く下げ、牙四つ外へ
出たり。頭は福禄寿に似て(長く)、鼻たかし。
声を高く出せば、五十町聞え、低く出せば、からびたる
声にて幽なり。」
ここには、残念ながら、「尺八や虚無僧」との関係は
書かれていない。