『八重の桜』第26回、「西田敏行」演ずる「西郷頼母」の一族
自刃の悲劇。
敵が城下に迫った8月23日、「西郷頼母」邸では、頼母の母「律子」(58歳)
妻「千重子」(38歳)(飯沼家より嫁ぐ)、妹「眉壽子」(みすこ、26歳)、
妹「由布子」(23歳)、長女の「細布子」(16歳)、二女の「瀑布子」(13歳)が
辞世の歌を残し、千重子は 三女の田鶴子(9歳)、四女の「常盤子」(4歳)、
五女の「李子」(2歳)を刺し殺し、互いに刀を刺して亡くなった。
その他、分家の西郷鉄之助夫婦、母の実家 小森家の祖母や婦女子、江戸藩邸から
避難し、西郷家にいた親戚ら 21人が亡くなった。
ちょっと待って。妻が38歳、末の娘が2歳ということは、今66歳の
「西田敏行」が演じている「西郷頼母」って何歳だったの?。
実は38歳の壮年でした。
会津若松市の東、青木の「善龍寺」には、21人の霊を弔う「なよ竹の碑」がある。
碑名は、西郷頼母の妻「千重子」の辞世の歌「なよ竹の 風にまかする身ながらも
たわまぬ節はありとこそきけ」から取った。
白虎隊で飯森山で自刃したものの蘇生して生き残った「飯沼貞吉」は
千重子の甥にあたる。
戊辰戦争で亡くなった会津の婦女子は233人の名が知られている。
1700石、筆頭家老「西郷」邸は城の大手門のまん前。西軍の
一人の参謀が西郷邸に入り、一族の死を目撃する。その際、一人
まだ息があり「敵か味方か」と。そして「味方だ」と応え、介錯した。
「白虎隊」の悲劇とともに、会津戦争のクライマックス・シーン。
私の母も、会津女学校時代、演劇で「なよたけの碑」の芝居をやり、
妻の「千重子」役を演じたことが自慢の種。「なよ竹の 風にまかする
身ながらも・・・・」の句は、子供の頃から聞かされ諳んじていました。
さて、西郷邸にはいった武人の名は「土佐藩士・中島信行」とされて
いましたが、最近の調べで「薩摩藩士・川島信行」ではと、いろいろ
論じられています。その点を考慮してか『八重の桜』では、名前は
出ませんでした。
それにしても、あの戦闘の混乱の中、こうしたエピソードは、
どうして言い伝えられたのかが不思議です。
自刃の悲劇。
敵が城下に迫った8月23日、「西郷頼母」邸では、頼母の母「律子」(58歳)
妻「千重子」(38歳)(飯沼家より嫁ぐ)、妹「眉壽子」(みすこ、26歳)、
妹「由布子」(23歳)、長女の「細布子」(16歳)、二女の「瀑布子」(13歳)が
辞世の歌を残し、千重子は 三女の田鶴子(9歳)、四女の「常盤子」(4歳)、
五女の「李子」(2歳)を刺し殺し、互いに刀を刺して亡くなった。
その他、分家の西郷鉄之助夫婦、母の実家 小森家の祖母や婦女子、江戸藩邸から
避難し、西郷家にいた親戚ら 21人が亡くなった。
ちょっと待って。妻が38歳、末の娘が2歳ということは、今66歳の
「西田敏行」が演じている「西郷頼母」って何歳だったの?。
実は38歳の壮年でした。
会津若松市の東、青木の「善龍寺」には、21人の霊を弔う「なよ竹の碑」がある。
碑名は、西郷頼母の妻「千重子」の辞世の歌「なよ竹の 風にまかする身ながらも
たわまぬ節はありとこそきけ」から取った。
白虎隊で飯森山で自刃したものの蘇生して生き残った「飯沼貞吉」は
千重子の甥にあたる。
戊辰戦争で亡くなった会津の婦女子は233人の名が知られている。
1700石、筆頭家老「西郷」邸は城の大手門のまん前。西軍の
一人の参謀が西郷邸に入り、一族の死を目撃する。その際、一人
まだ息があり「敵か味方か」と。そして「味方だ」と応え、介錯した。
「白虎隊」の悲劇とともに、会津戦争のクライマックス・シーン。
私の母も、会津女学校時代、演劇で「なよたけの碑」の芝居をやり、
妻の「千重子」役を演じたことが自慢の種。「なよ竹の 風にまかする
身ながらも・・・・」の句は、子供の頃から聞かされ諳んじていました。
さて、西郷邸にはいった武人の名は「土佐藩士・中島信行」とされて
いましたが、最近の調べで「薩摩藩士・川島信行」ではと、いろいろ
論じられています。その点を考慮してか『八重の桜』では、名前は
出ませんでした。
それにしても、あの戦闘の混乱の中、こうしたエピソードは、
どうして言い伝えられたのかが不思議です。