私の父「牧原五郎」は、昭和16年春、慶応大学を卒業して東京電力に入社。
勤務わずか4ヶ月で徴兵。8月に故郷の会津若松65連隊に入隊し、12月に支那へ。
満州の新京で士官候補生として経理学校に通い、主計少尉として、中支、南支までひたすら行軍。「徐州 徐州と 軍馬は なびく~」の歌の通り。
父は「主計少尉」だったので、食料や衣類の手配が職務だから直接戦闘に加わることはなかったようだが、何回か敵の襲撃を受けて、死に目に遭っている。多くの部下、戦友を失ったが、「自分は、一人も人を殺すことはなかった。そのおかげで、無事 帰還できたのでは」という。
記録によれば、昭和19年から終戦までで 2,000人が亡くなっている。しかし、その内戦死は630人で、他は戦病死。つまり、コレラやマラリア、そして餓死。なんということだ。
「毎日コレラで何十人も死んでいく。その戦友の遺体を埋葬した人が翌日にはコレラにかかり一週間後には死んでいく」と、すさまじい。父もマラリアで一週間高熱にうなされた。薬も治療法も無い戦場。それでも回復した。その強靭な生命力には驚く。まさに、敵は身内にあり。現在のコロナどころではない。
昭和21年の5月に引き揚げてくるまで、4年半、戦争という未曾有の世界の中で 戦ってきた。
その思いを東電を定年退職してから 『従軍記』 としてノート2冊に書き残していた。
「終戦」の項は
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新寧を出てから数日後、昨日までは日に何度となくブンブン襲ってきていた敵機が、今日は朝から全然姿を見せない。「おかしいなァ。変だァ」と思った。
そのうち「広島に 今までにない ものすごい爆弾が落とされたそうだ」「日本は降伏したらしい」との口コミが流れてきた。噂は通信隊から出たようだった。
半信半疑でいたら「将校集合!」の指令があり、大隊長のもとに全員集まった。大隊長から 「只今、軍旗を奉焼し奉れ」との命令があったと発表された。
これで降伏は決定的。噂は本当だったと思った。涙がとめどなく流れ、田んぼの中に入って泣いた。ショックが収まると、今度は、「遺骨になってでなければ帰れないと思っていた内地に、これで生きて還れる」と、うれしさがこみ上げてきた。
しかし、一つの不安が沸いた。徹底抗戦に凝り固まっている連中が「我々は降伏を認めない。最後まで戦いを続けよう」と言い出しはしまいか、と心配になった。
それは杞憂だった。皆 案外素直だった。
それからは、我々は全く意気消沈。敗軍の将兵はただ黙々と武漢まで歩き続けた。
漸く武昌に到達し宿営していた時、「貴部隊は 湘桂作戦の時、多数の良民を連行して行ったが、その者たちをその後どうしたか報告せよ」と、支那軍から言ってきた。あわや「戦犯」かと思った。
たしかに、物資の輸送のための要員として、多数の良民を連行した。然し、彼らは途中でポロポロ逃亡した。後まで残っていた者も「湖南省から先は絶対に行きたくない」と言うので、衝陽攻略戦が終わった頃、皆解散した。もちろん、それまでの賃金は払ってやった。
その旨、回答したら、その後 支那軍からは何も言ってこなかった。
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この後、九江近くの部落で 10ヶ月もの間、抑留生活にはいる。
当初は村人たちも穏やかで、食料調達に協力してくれたりしていたが、やがて、新四軍(共産軍)が入り込んできて、日本兵がさらわれたり、掠奪しに襲撃してくるようになった。軍刀、拳銃は所持していたが、抵抗することはできず、敗戦の悲哀をしみじみ感じた。
昭和21年5月20日、やっと「乗船命令」が出て、九江から揚子江をくだり、南京に上陸。そこから貨車に詰め込まれて、上海へ。途中、関門があって、貢物を要求され、また列車が停車するたびに支那人が掠奪しに襲ってきた。
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その後、上海から引き揚げ船で 日本に帰還。 満州でソ連に抑留された人たちからみれば、比較的順当な帰還だった。
しかし、その最後に、佐世保湾で船が座礁し転覆。海に投げ出される。
「日本まで、無事帰ってきたのに、ここで死ぬのか」と。
その時、アメリカ兵のボートに助けられ、「つい先日まで、憎きアメ公 と思っていたアメリカ兵に助けられるとは」と
感慨を述べて父の『従軍記』は終わっています。