『会津少年郡長正自刃の真相』の著者「宇都宮泰長」氏は、
この本の巻末で「萱野章次郎」について触れている。
この本を出版したことで、千代田生命の社長をされていた
「萱野章次郎」氏から手紙をいただき、食事をご一緒した
ことがある、と。
萱野家は、明治2年「萱野長修」が 藩主の代わりに
「死罪」となったことで、お家断絶。子供らは母方の姓
「郡」を名乗った。
また、萱野長修の弟「隆衡」は「三淵」姓を名乗った。
その子「三淵忠彦」(1880-1950)は、初代 最高裁判所
長官(在任、昭和22年ー25年)である。
そして「三淵忠彦」の次男「章次郎」が、萱野家を再興
すべく「萱野章次郎」と改姓した。
大学4年の春、私は、就職試験の手始めとして、千代田
生命を受けた。本社が目黒区の私の自宅に近かったから、
大学からの帰途に寄ったのだった。
一次、二次と通り、最後の役員面接で、サプライズ!。
「萱野章次郎」氏が千代田生命の副社長であられたのだ。
その萱野氏、私の履歴書を見て、「あ、僕、この人
知ってるよ」と云われたのだ。
私の方は、それまで「会津会会報」などで 萱野氏の
お名前と写真でお顔を見知っていた程度。面識は無かった。
それなのに、会津会名簿でか、私のことを「知っている」
と云われた。もう驚き桃の木、“最初の気”である。
全く奇特な縁。その後、萱野氏は千代田生命の社長に
なられた。絵を愛する温厚な紳士だった。私が福島の
支部長になれたのも、萱野氏のおかげだったかと、
今になって思う。その時、氏は癌で入院されていた。
病院にお見舞いに伺ったのが最後となった。
この本の巻末で「萱野章次郎」について触れている。
この本を出版したことで、千代田生命の社長をされていた
「萱野章次郎」氏から手紙をいただき、食事をご一緒した
ことがある、と。
萱野家は、明治2年「萱野長修」が 藩主の代わりに
「死罪」となったことで、お家断絶。子供らは母方の姓
「郡」を名乗った。
また、萱野長修の弟「隆衡」は「三淵」姓を名乗った。
その子「三淵忠彦」(1880-1950)は、初代 最高裁判所
長官(在任、昭和22年ー25年)である。
そして「三淵忠彦」の次男「章次郎」が、萱野家を再興
すべく「萱野章次郎」と改姓した。
大学4年の春、私は、就職試験の手始めとして、千代田
生命を受けた。本社が目黒区の私の自宅に近かったから、
大学からの帰途に寄ったのだった。
一次、二次と通り、最後の役員面接で、サプライズ!。
「萱野章次郎」氏が千代田生命の副社長であられたのだ。
その萱野氏、私の履歴書を見て、「あ、僕、この人
知ってるよ」と云われたのだ。
私の方は、それまで「会津会会報」などで 萱野氏の
お名前と写真でお顔を見知っていた程度。面識は無かった。
それなのに、会津会名簿でか、私のことを「知っている」
と云われた。もう驚き桃の木、“最初の気”である。
全く奇特な縁。その後、萱野氏は千代田生命の社長に
なられた。絵を愛する温厚な紳士だった。私が福島の
支部長になれたのも、萱野氏のおかげだったかと、
今になって思う。その時、氏は癌で入院されていた。
病院にお見舞いに伺ったのが最後となった。