2月3日は「諭吉忌」。福沢諭吉先生のご命日。幼稚舎から大学まで、塾員の多くが墓参に向かいます。
向かう先は、今は港区麻布十番の善福寺、
私が在籍していた頃は品川区大崎の常光寺でした。
なんでかというと、福沢諭吉のご遺体は、品川の常光寺から港区の善福寺に改葬されたのです。
なんでか。
福沢諭吉が亡くなったのは1901年2月3日のことで、葬儀は菩提寺の善福寺で行われました。葬儀には1万5千人が参列したといわれます。善福寺は浄土真宗本願寺派。
善福寺は東京では浅草寺、深大寺に次ぐ古刹で、幕末から明治にかけてアメリカ領事館が置かれ、領事たちの宿所になっていました。それで福沢諭吉は度々善福寺を訪れ、菩提寺と定めていました。
しかし、当時、東京市は土葬を認めなかったため、東京市郊外の大崎村にある常光寺に土葬で埋葬されたのです。ここは福沢諭吉が生前散歩に訪れ、見晴らしが良いのが気に入って、「死んだらここに埋葬してほしい」と遺言していたのでした。
その当時、ここは廃寺になっていたようですが、その後、浄土宗の寺として復興したため、福沢家の宗旨(浄土真宗)と異なり、寺側から「改宗するか改葬するか」と迫られ、菩提寺の善福寺に改葬されたのです。
1977年 善福寺に改葬
諭吉の没後76年経過した1977年、改葬が行われることになりました。そこで、ご遺体を掘り返したところ、諭吉の遺体は亡くなった時そのままに着物をつけたミイラになっていたといわれています。
そして、諭吉の遺体は火葬され、ご遺骨が善福寺の墓に収められたのでした。
常光寺には現在石碑が設置されている
ちなみに、諭吉がかつて埋葬されていた常光寺には現在石碑が残されています。
石碑には福澤諭吉先生永眠の地と記されており、諭吉の功績などが記されています。
福澤諭吉と妻の錦さんの墓は、高さ1mほど。それほど大きくはありません。妻の錦さんの話では、
「福澤諭吉は墓は小さくていい、大きな墓は建てるなと遺言していたのですが、塾員たちによってこんな大きな墓が作られてしまった」と。