名古屋という一地方の豪族にすぎない「尾張氏」が熱田神宮に祀った
「草薙の剣」が、なぜ皇室の三種の神器の一つになったのか。
その謎を探る。
まず「尾張氏」とは?
そこで、意外な事実が判明。結論を言えば
「尾張氏」は、南方から渡って来た「海洋族」。
「海人(あま)氏」「海部(あま)氏」の一族だった。
なるほど名古屋市の隣りに「海部(あま)市」があります。
「海部・海人氏」は、九州から山陰、出雲、因幡、そして丹後、越前、
さらに尾張名古屋、千葉など海辺に 散らばっています。
第26代継体天皇は、越前から来て天皇となった。在位507~531年
実は、皇統は万世一系ではなく、継体天皇から新たに始まったのでは
と云われる。その継体天皇の妃が、なんと尾張の連(むらじ)草香の娘「目子姫」。
ということは、丹後から越前にかけて勢力をもっていた尾張氏は、継体天皇に
従って大和に来た。この継体天皇の時、即位に「剣」が奉じられた。
その子である27代安閑、28代宣化天皇の即位の際にも「剣」が用いられた。
継体天皇は、大和にはいるまで19年を要している。
神武天皇の「神武東征」、そして橿原での即位の話は「継体」天皇の事績を
モチーフに作られたと考えられる。
それから130年後、40代天武天皇が即位する。在位668~672年。
天武天皇は、天智天皇の後、その子「大友皇子」を倒して皇位に就いた。
すなわち「壬申の乱」。
天武天皇は天智天皇の弟と云われているが、最近異論が出ている。
実は天武天皇の名前が明らかにされていない。突然「大海人(おおあま)の皇子」として
登場してくる。「大海人(あま)」といえば「海人氏」=「尾張氏」。
このことに今まで、誰も気がつかなかった。
つまり、天武天皇は「海人氏=尾張氏」によって養育されたか、一族なのか
尾張氏と関係が深い血筋の人だった。
事実、吉野に隠棲していた時は、側近は40名にすぎなかったのが、
尾張氏が1万~2万の兵を率いて応援し、近江朝の大友皇子を倒した。
尾張氏は壬申の乱の最高の功労者だった。
そして、天武天皇の命によって「古事記」が編纂されることとなった。
完成は40年後、奈良時代になっての712年だが、各豪族の祖先、
伝承が多く盛り込まれている。天武天皇は壬申の乱の功労者「尾張氏」に
先祖の事績を「古事記」に盛り込むとを許した。
そこで、尾張氏と「草薙の剣」にまつわる伝説、創作され、
「古事記」に書かれたと、私は推測する。
「古事記」によれば、尾張氏の始祖は、天孫降臨の「ニニギノミコト」の弟。
「天火明命アメノホアカリのミコト」。
ニニギノミコトとともに天照大神の孫というのだから、すばらしい。
そして「スサノオの八俣の大蛇退治」も「日本武尊の東征」も尾張氏によって
創作された。
つまり「草薙の剣」は「尾張氏」が 出雲の豪族を征服して勝ち取った
銅剣、鉄剣であり、それを継体天皇に捧げ、天皇の神器となった。
その形代は宮中に置かれ、尾張氏の宝剣は 熱田に祀られた。
壇ノ浦で海に沈んだ剣は 形代であり、その後、伊勢神宮より
再度作り直しされたのが、現在も皇居に安置されている三種の神器ということ。