現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

「洛中洛外図」に見る暮露と薦僧と乞食

2022-11-24 18:50:44 | 虚無僧って?

千葉県佐倉市にある「国立歴史博物館」に所蔵されている
『洛中洛外図屏風』に 室町時代頃の「薦僧」が描かれている。


国立歴史博物館にある『洛中洛外図屏風』甲本に
尺八を吹いて門付けしている二人連れの薦僧が描かれている。
腰には「薦(こも)」と、「面桶(めんつう)=弁当箱」を付ける。
天蓋と袈裟は無い。尺八は1尺8寸くらいある。

「薦」と「面桶」を持ってくつろいでいる二人連れの絵も
3組ある。一つは背中に白い布が縫い付けてあり「巡礼」。
他の2組は尺八は描かれていないが「薦僧」かもしれない。

1520年頃の製作といわれているので、薦僧の最も古い絵
となる。僧形には見えないが「薦僧」なのだ。

この図には、ほかに「琵琶法師、高野聖、鉢叩き、鉦叩き、
巡礼、傀儡(くぐつ)師(=人形使い)、猿曳き(猿回し)、按摩が
描かれている。『職人尽し』そのままだ。

そして「乞食」も何人か描かれている。塀の前に座り、施しを
受けている乞食は 上半身裸だ。「暮露」は「紙衣」を着ている。
これによって、「暮露」と「薦僧」は 乞食とは区別される職業
集団だったと考えられる。

洛中洛外図屏風


「和歌山県史」近世史料より

2022-11-24 18:50:00 | 虚無僧って?

『和歌山県史』 近世史料 P.868 

法制 

一 往来之僧俗共に 兼ねて 申し渡しの通り、一夜の宿にても

  委相改め、若し不審に存じ候はば、先々より見送り、届け申すべし事。

一 こつじき、かね叩き、こむ僧で このほうまわし惣別此の類のものの内に

   不審成るものに之有るも 相改め、行く方を相い尋ね、右の通り

   注進申すべき候

正徳元年(1711) 正月八日

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 虚無僧が、かね叩き や 乞食と同列に 看做されています。

  

 


「鎌倉殿の13人」阿野全成のご子孫は今

2022-08-13 16:29:05 | 虚無僧って?

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第30回場面カット 新納慎也さん演じる阿野全成の最期 (C)NHK

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」8月7日放送の第30回で、新納慎也さん演じる阿野全成が殺された。特異なキャラで視聴者からも愛されていた全成が壮絶な最期を遂げ、私的にもショックが大きい。

実は「阿野全成」は、虚無僧史を研究し続けてきた私としては、かねて関心を持っていた人物。

「中国唐代の普化禅師を祖とする普化宗は、鎌倉時代、紀州由良の開山法燈国師覚心によって日本に伝えられた」

とする虚無僧の伝記は、『虚鐸伝記国字解』に書かれ、一般に流布された。

その書のはしがきに「虚鐸伝記という書は遁翁の作で、阿野中納言家に伝ったものを山本守秀が解読し、寛政7年(1795)出版した」と書かれており、「阿野中納言公縄(1728-1781)」の朱印が押されている。

そこで「阿野」氏についてネットて調べたところ、すごいことがわかりました。

源義朝の七男で義経の同母兄今若丸駿河国駿東郡阿野荘静岡県沼津市西部)を領し、その地名を苗字の地として阿野全成と称した。

藤原成親の四男藤原公佐をが阿野全成の娘を娶り、阿野荘の一部を相続して「阿野」を家名とした。

公佐の子実直宝治3年(1249年公卿に列した。

その子孫実廉後醍醐天皇に仕え、妹の廉子は天皇の後宮に入って後村上天皇の生母となる。この縁から阿野家は代々

南朝に仕えたが、南北朝合一後も公家社会に留まった。

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駿河駿東郡の阿野荘は、北条早雲の後室「葛山」氏、その子北条幻庵とつながる。そして興国寺にも繫がる。

後醍醐天皇の尺八(一節切)が現存しており、阿野廉子の子南朝の村上天皇は住吉神宮を行在所とし、一休とも繫がる。

虚無僧の伝承が南朝と関わりが深いことからも、阿野氏に「虚鐸伝記」が伝えられたというのは、何か関連を感じ

させる。さて、その後の阿野氏は

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実治は合一後、権中納言となり、その後も浮き沈みはあったが

江戸時代、公業実藤公緒公縄の4代が官位に留まる。

明治維新後、公誠参与に補任、その子実允子爵

分家に山本家があるとのことで、「阿野公縄家に伝えられた『虚鐸伝記』を山本守秀が解読した」というのも、同族の仲

故かと思われる。

家業は神楽というので、尺八との関連も無きにしもあらず。

そのご子孫は、らんと、現在バイオリニストの水谷川陽子さんとチェリストの水谷川優子さん。

阿野家最後の当主「阿野佐喜子」さんが「水谷川忠俊」氏に嫁がれた。その「水谷川忠俊」氏は音楽家「近衛秀麿」の実子。

それでお二人のお子様「陽子」さんと「優子」さんも音楽家として現在活躍中。

「水谷川忠俊」氏は作曲家。父は子爵 近衛秀麿義父は男爵 水谷川忠麿

「阿野佐喜子」と結婚
長女 1964- 陽子 バイオリニスト
次女 1968- 優子 チェロリスト

「水谷川優子」の画像検索結果

 


虚無僧こそ釈迦仏教の原点

2022-01-14 20:42:37 | 虚無僧って?

現代の日本の仏教各宗派は、「釈迦」から離れて、ヒンズー教の「輪廻転生」、キリスト教の「天国と地獄」、道教の「霊魂」、そして日本では「神道(山伏の山岳信仰)」など、種々の宗教を取り込んで、創造されてきたものです。戒名も法名も日本だけのもの、お寺さんの銭儲けのためのもの。

 

同じ「仏教」でありながら、禅宗や密教では「般若心経」を唱えますが、日蓮宗や浄土宗では「般若心経」を嫌います。葬儀の在りかたも違います。おかしいではないですか。

「霊」の存在についても、真言密教では「在る」といい、天台宗や浄土宗では「みな 死ねば“仏”になるのだから、霊が私たちに悪さをすることはありません」と安心させてくれます。禅宗にいたっては「前世も来世もない」と
一蹴します。

魂は永遠不滅で、肉体は滅びても、やがて他に宿り、生まれ変わるという「輪廻転生」説は、古代インドのヒンズゥー教の考えでした。

釈迦(ブッダ)は、この輪廻説について、「自分は 見ていないので判らない」(不説)として、「そのようなことに悩み苦しまないよう、輪廻転生から逃れるための悟り」を説いたのでした。

「自分は見たことがないので知らない」ということは、「輪廻説を容認した」という解釈と、「方便(必要あっての嘘)で認めた」、いや「釈迦は はっきりと否定された」と、三通りの解釈ができます。

釈迦の弟子達は、インドで根強い「転生説」を否定しては仏教を広められず、これを容認する立場をとりました。
その後の仏教会派の多くは「地獄、極楽がある」とする方が、この世での善行を説き、悪行を諌めるのに納得を得られ易いので、「輪廻説」を取り入れてきました。

浄土宗、浄土真宗では「悪人でさえも、阿弥陀様は浄土に迎えてくださる」と、甘い言葉で信徒を増やしました。「釈迦よりも、すべてを許し救ってくださる 阿弥陀如来の方がいい」というのです。
日蓮宗も然り。仏壇に「釈迦像」を祀ることはしません。「お釈迦様」への反逆です。

しかし最近は、“地獄極楽”を信ずる人は稀になってきたので、各宗派の基盤が危うくなってきました。

そして、「釈迦(ブッダ)は、輪廻転生を はっきり否定された」とする「断見派」が台頭してきています。私もその立場です。

とにかく、お釈迦様は、一文字も経典を書き残していません。
ただひたすら歩き、人々と交わって、人々の心の中に仏の心(仏性)を芽生えさせるよう導いたのです。
3万巻とも言われる経典はすべて、五百年も千年も後の人たちの創作です。

そんな経典なんか糞虫と同じ、寺も要らない、まして僧侶の肩書きなんてナンセンス。ひたすら市井に混じり人々に仏性を目覚めさせることこそ、本当の釈迦仏教。

その意味で「虚無僧」は寺も経典も教義もない。唯一尺八の音で仏性を呼び起こす、という点で、釈迦仏教本来の姿なのです。

原始仏教の悟りは「捨てること」「離れること」「止めること」「断つこと」「超えること」とも言える。

Post-religionとこれからの日本仏教 | 彼岸寺



施しは 徳積みの心

2022-01-06 21:38:21 | 虚無僧って?

戦前、戦後の法律でも、「乞食、物乞い」は、軽犯罪法で
禁止されている。虚無僧の門付けも法律上は禁止なのだ。

しかし、路上ライブや寄付行為などをする時は、原則
『道路占有許可』が必要なのだが、僧侶の托鉢は、
慣行で黙認されている。

本来、托鉢はタイやビルマ等の小乗仏教での「行」で、
日本の大乗仏教では、托鉢の必要性を認めていない。

明暗寺で発行している『行化之証』も、「遍く仏法を
広めるものであって、虚無僧での門付を公認するもの
ではない」と、責任を回避している。

ま、めんどうな理屈は捨てて、「物を施す喜び」、
「徳積みの心」は、法律で禁止はできないであろう。



紀州興国寺と沼津興国寺城

2022-01-06 21:37:44 | 虚無僧って?

紀州興国寺は、なんと富士山麓に勢力をもつ葛山
(かずらやま)氏によって勧進された寺だった。

葛山氏の祖「葛山五郎景倫」は、源実朝の家臣で、
実朝の命を受け中国に渡る予定だったが、実朝が
暗殺されたため、高野山に上り、出家して実朝の
菩提を弔う。その忠心に感じた北条政子が、葛山
景倫に紀州由良の地頭職を与える。

景倫は高野山で知り合った「願性(覚心)」に、
実朝の遺骨を中国の雁蕩山に分骨することを託して、
渡宋させる。

そして「願性(覚心)」が帰国すると、所領の由良に
「西方寺」を建立し、「願性(覚心)」を開山に据える
のである。

というわけで、「願性(覚心)」が開いたという寺は
「興国寺」ではなく、初めは「西方寺」だった。
中国行きを夢みていた実朝の遺志を表した名だった。

「西方寺」が「興国寺」となるのは、南北朝の騒乱が
始まって、後醍醐天皇の南朝の元号「興国」に由来
するものと考えられる。

そこで、紀州興国寺の二世「孤峰覚明」が浮かび上がって
くる。「孤峰覚明」は、後醍醐天皇の子で南朝二代目の
後村上天皇の帰依を受け、寺号を「興国寺」と賜った。
これにより、興国寺は南朝方の色彩を強める。

そして「孤峰覚明」の弟子「抜隊得勝」が、相模の出で、
甲州塩山に向嶽寺を建て、山梨、静岡、神奈川の地域に
末寺700を誇る教線を拡大するのである。

それで、沼津にも「興国寺」があった。伊勢新九郎は、
初めは沼津の「興国寺」に寄宿していたのかもしれない。

だが、伊勢新九郎が、今川氏親からあてがわれた所領は
富士山麓の富士郡 (現裾野市)である。伊勢新九郎は、まず
富士郡に居を構え、葛山氏と親しくなり、数年後に
その娘を妻にした。

沼津の興国寺に入るのは、その後、小田原に攻めるために、
葛山氏の縁助で、移り住んだのかもしれない。


「尺八と一休語りの虚無僧一路」のホームページも見てください。

一休と虚無僧」で別にブログを開いています。

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紀州興国寺は虚無僧の本山?

2022-01-06 21:37:29 | 虚無僧って?

「興国寺」といえば、われわれ尺八家にとっては
紀州由良の「興国寺」が まず思い起こされる。
虚無僧側の伝説では「紀州由良興国寺の開山、法燈
国師覚心が、唐から尺八と普化宗を伝えた」と云われて
いるのである。

興国寺側では、そのような記録は無く、虚無僧側の
勝手な創作と思われるのだが、ではなぜ、「由良の
開山」が、普化宗の祖に祀り上げられたのか。
一体誰がそのように言い出したのか。

それが、北条早雲の三男「北条幻庵」あたりではないか
というのが、私の推測である。

北条早雲は葛山氏の娘を二番目の妻にし、二人の間に
生まれたのが北条幻庵だ。幻庵は幼少の頃から京都で
学び、尺八を得意とした。幻庵の影響で、小田原北条家の
中では尺八が大流行した。

幻庵は小田原北条氏が豊臣秀吉によって滅ぼされる直前まで
90年以上生きた。北条家が滅亡した後、北条の家臣の中で
帰農することもままならぬ連中が虚無僧となって、関東
各地に草庵を建てた。青梅鈴法寺もその一つだった。

北条家の当主氏直は徳川家康の女婿であったため、命を
助けられ高野山に幽閉される。そこは「小田原別所」とも
呼ばれ、かつて葛山景倫が出家した場所でもあった。

氏直は心労の末翌年には亡くなり、付き従った家臣300名が
浪人となる。その中には虚無僧となって、紀州興国寺を
頼ったか、また京都に出る者もいたであろう。

虚無僧は高野聖や時宗の徒を真似、諸国を流浪した。
高野聖のメッカ「刈萱堂」の主は代々「覚心」と称した。
虚無僧にも「覚心」の名は記憶された。

紀州興国寺は秀吉に攻められて廃墟となり、そこは
虚無僧がたむろする場所となっていた。

北条家ゆかりの虚無僧どもは、こうして、遠い記憶を
頼って、なんとなく、流祖を「由良興国寺の覚心」に
結びつけたのではなかったろうか。

というのが私の推測である。


「寅さん」第22作にも虚無僧

2022-01-06 21:37:08 | 虚無僧って?
  第22作 男はつらいよ 噂の寅次郎 HDリマスター版 [DVD]
渥美清,大原麗子,倍賞千恵子,前田吟,下條正巳
松竹


冒頭、寅さんは大滝秀治演じる虚無僧とすれ違った時に

「女難の相が出ています」と言われる。

<ストーリー>

 亡父の墓参りに来たが、早合点で大喧嘩して旅に出た寅さんは、

バスで博の父・飈一郎に会い、宿屋でのドンチャン騒ぎまで世話になった。

そんな寅さんをみた飈一郎は、「今昔物語」の話をし、人生の機微を

考えさせた。柴又へ戻った寅さんは求人募集で来た早苗を気に入ったが、

夫と別居中の早苗は、離婚届を出し自立を考えていた。そんな早苗の

ためにとらやは夕食会を開き、早苗も優しい寅さんに感謝の気持を示した。

しかし転勤の決まった高校教師・添田が早苗に会いに来た。

人生の機微を学ぶ寅さんが、幼なじみを愛し続けた男の気持を知る

シリーズ第22作。

■ロケ地/長野県木曽福島、静岡県大井川

■マドンナ/大原麗子


『おちょろ女と虚無僧』

2022-01-06 21:36:50 | 虚無僧って?

インターネット・ショップで「虚無僧」で検索してゲットした。
『おちょろ女と虚無僧』。定価1,000円が、わずか 230円で送料0。

著者は「碓井静照」。広島県医師会会長で、日本ペンクラブ会員。
広島生まれで、広島のことをいろいろ書いているようだ。

さて、「虚無僧」というから、「虚無僧」にまつわる話かと
期待したら、びっくり、がっかり。この方「虚無僧」のことを
全くご存知ないようだ。

おちょろ女が助けた虚無僧「藤太」と旅するという設定で、
あとは、土地にまつわる昔話を羅列しているだけ。
そして「虚無僧。藤太」については「小作農の七男で、
大分の臼杵寺に預けられ、小僧としての修行を積み、
経を読み、護摩を炊き、そして托鉢に」というのだから、
これではタダの托鉢僧ではないか。侍でなければ
「虚無僧」にはなれない。尺八を持っていない。
なんていうことだ。

ネットでも「托鉢僧」を「虚無僧」と思っている書き込みが
多いが、碓井氏もその一人のようだ。これを読んだ人は、
また「托鉢僧」=「虚無僧」と思うべな。

230円の意味が解った。誰も買わない、読まない本なので
こうした誤解が広まらないだろうと、少しは安心した。


心地覚心と高野聖

2022-01-06 21:36:31 | 虚無僧って?

高野聖のうち萱堂の聖は無本覚心を祖としている。高野聖とは別所に集団で居住して真言念仏や禅・時宗などを兼修しており、勧進を行ないつつ、後世には商業にも従事した。高野聖には萱堂聖・小田原谷聖・往生院谷聖があったが、このうち萱堂聖は無本覚心を祖とする。

紀伊由良法灯国師(無本覚心)80歳の時である弘安9年(1286)、一人の俗人が西方寺にやって来て、国師に「私は塵累を厭う(出家を願う)志があります。願わくは和尚の弟子として下さい」といった。そこで髪を剃って「覚心」と名づけた。弟子として師の法諱を犯すことを恐れたが、国師は考えるところがあるとして許さず、「お前は高野山に縁がある。そこに行って萱原で念仏を唱えなさい」といって鉦鼓1口を与えた。覚心は「高野山は鳴器(楽器)を禁じています」といったが、国師は「ただ私の言うとおりのままにしなさい」といったので、高野山に登って念仏した。山中の大衆は鐘の音を聞き、驚き怪しんでその音の場所を探してみると、老人が萱の中にて鉦鼓をたたいて安座念仏していた。大衆は「お前は何をしているのだ。この山は古来より鳴物を禁止している」といった。覚心は「私は由良(西方寺)の開山の教えのままにしているだけである」といった。大衆は鉦鼓を捨てたが、この鉦鼓はたちまち空中に飛び上がって山や谷に鳴り渡り、ついに覚心の座わっている前に還ってきて、叩いていないにもかかわらず自ら鳴った。大衆達も不思議な思いをした。その夜高野山検校宿老の夢に、鉦鼓を許すべきの旨は祖師明神と由良開山(無本覚心)との契約である、と見たため、萱を引き結んで堂を建てて念仏三昧の場とした(『紀伊続風土記』巻之54、非事吏別、萱堂)