現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

一休こそ普化宗の元祖

2017-09-30 22:49:45 | 一休と虚無僧

「一休」を探っていくと、虚無僧の歴史にぶち当る。

虚無僧は江戸時代の後半になって、己の宗派を

明らかにするために『虚鐸伝記国字解』なるものを

作成する。その原本は「阿野」氏に伝えられたという。

「阿野」とは珍しい姓だが、なんと「後醍醐天皇」の

妃は「阿野廉子」。「後村上天皇」の母である。

「阿野」という公家は、江戸時代にも居り、戦前まで

続いていた。

虚無僧の祖を「普化」とする根拠を探しているのだが、

遡れるのは「一休」の『狂雲集』まで。

つまり、「普化」の行状は、臨済宗の祖「臨済」の教えを

示した『臨済録』に記されているのだが、この『臨済録』

が日本にはいってきたのは鎌倉時代の末。一般の人の

目に触れられるものではない。これを読み解いて、

その中で臨済の相棒として登場してくる「普化の痒狂ぶり」に

注目し、自ら「狂雲子」と号して、 瘋癲として生きたのが

「一休」というわけ。「一休」以外に「普化」に注目した人は

いない。

つまり、虚無僧たちは「一休」から「普化」を知り、祖とした

のである。

 


山伏の祈祷もピンキリ

2017-09-25 22:27:44 | 虚無僧日記

山伏(やまぶし)とは、中で修行をする修験道行者

修験者」(しゅげんじゃ)とも言う。

 江戸時代の山伏にもピンからキリまであったようだ。

山岳修行にひたすら打ち込む、修行本位に生きる山伏もいたが、

「祭文語り」からごろつきに転化したようなものまで、種々のタイプが                                       あった。                                                                     

町や村のなかに院坊をもって、その近在の民家を檀家とし、

招かれて祈禱に出かける、あるいは遠方への山参りなどの代参をしたり、

代願人になる、そうしたタイプの山伏が、江戸時代には最も多数だった。 

それは、中世的な行者ではなくて、祈禱者であった

幕末、山伏は17、8万人も居たという。明治になって、「山伏」は天台、

真言いずれかの寺院に属するようにとの命がおりた。

虚無僧は500人ほど、虚無僧の普化宗は廃止され、尺八を吹いて

門付けすることも禁止された。インチキ祈祷師の山伏より虚無僧の方が

タチが悪かったということか。


虚無僧のパワー

2017-09-25 22:24:31 | 虚無僧日記

50年ほど前、19歳で初めての虚無僧行脚で新潟地方を回った時のこと。

後ろから追いかけてきた人に呼びとめられた。「おこもさん、うちへ

来てください」と。喜んでホイホイ付いて行くと、一軒の小さな家。

おばあさんが布団に臥している。数人の家族が取り巻いていて、

私に「ばっつぁまの、こす(腰)さ 治してくんろ。こすがいてぇ(痛)

いてぇ、云うもんで。医者でも治らんのす」と。

半世紀前のことだ。「おこもさん」とは「薦(こも)筵(むしろ)を腰に

つけて歩き、夜は薦を敷いて野に臥す人」のこと。つまり乞食のこと。

虚無僧は「薦僧(こもそう)」だったのだ。そして

虚無僧は、病気平癒や安産の祈祷をするものと思われていたのだ。

その頃の私は「科学万能主義」。そんな迷信なんてとあざ笑っていたから、

すたこら逃げ出してきてしまった。

後で知ったが、新潟阿賀野川の水銀中毒だったのだ。

医者でも治療法が判らなかった時代。尺八でも治せっこない。

しかし、患者の痛みに寄り添ってあげ、気休めでも何か言葉を

かけてあげれば良かったと思う。

そしてそれ以上に、どんな病気も治す超能力を身につけられたらと

思う。オームの林郁夫と同じ思いだ。

 

 

 


秋の夕暮れ、つるべ落とし

2017-09-25 21:38:09 | 虚無僧日記

今日9/29 の運勢

「2月生まれ=人生の下り坂 つるべ落とし」だと。

なんてことだ。2月生まれは10歳も20歳も

みな「下り坂」なのか??? たまたま見たときに

フィットするのでドッキリである。

まさに、今の私は「人生の下り坂。つるべ落とし」。

だが、「沈む太陽は、最後に輝きを増す」とも。


10/28(土)能楽堂公演

2017-09-25 21:33:53 | 虚無僧日記

10月28日(土)能楽堂公演。毎年「これが最後」と云いながら

性懲りもなく8回目となりました。10回まで行くか。

首振り60年。借金だけがふくらみ、とうとう(借金で)首が

 回らなくなりました。

占いで「今年は最高潮。上り過ぎると、そのまま天国に逝っちゃうかも」と。

舞台で死ねたら本望。尺八吹けなくなったら人生も終わり。

「もうこれを最後にしたい」と、いつも本番前に思います。

「最後に最高の演奏をしたい」と思うのです。

 


秋が来たからか、飽きがきたからか、別れ歌

2017-09-25 21:10:12 | 虚無僧日記

秋が来たからか、飽きがきたからか、心は空き家状態。

甘い青春時代の思い出にふけっています。

「シクラメンのかほり」

https://youtu.be/cZ8q86Eo0wI

 「積み木の部屋

https://youtu.be/E7MHPxemjWc

 「甘い生活」

https://youtu.be/tM8k753xcBw

 「私鉄沿線」

https://youtu.be/tM8k753xcBw


宇治市ウトロ地区

2017-09-24 21:28:42 | 一休と虚無僧

宇治市の伊勢田町に「ウトロ」地区というのがあるらしい。
陸上自衛隊の基地の北側だ。ここに戦争中、飛行場を造るため
朝鮮半島から強制連行されてきた人達の住宅が建てられ、今日
まで住んでいる住民と、土地所有者の間で訴訟になっていると
いう記事を目にした。事件は韓国の支援団体の寄付もあって
5億円で買い取ることで決着しそうとか。

この「ウトロ」というカタカナ地名が気になった。朝鮮語なのだ
ろうか。ウトロといえば、北海道の知床半島が有名だ。こちらは
アイヌ語で「地の果て=岬」という意味だそうだ。

伊勢田という地名も気になる。伊勢神宮のある伊勢市の名鉄駅は
「宇治山田」。宇治と伊勢の関係が知りたい。

というのは、宇治は昔から中国、朝鮮からの渡来人が多く住む所
だったらしい。お茶の産地で有名なのも、お茶が渡来人によって
栽培されたからだ。尺八もまた中国から伝えられたという。
室町時代以前、ここに「富家の庄」があった。「フケ」は中国の
福建省につながる。虚無僧の宗派を「普化(フケ)宗」という。
関係はあるのだろうか。

宇治には、室町時代、一休と同時代に、異国の僧「朗庵」が住ん
でいた。朗庵は尺八をよくした。朗庵の墓というのもある。朗庵
は、一休の尺八の友「一路」だという説もある。

近くには黄檗山万福寺がある。江戸時代に白隠禅師によって、中国
からもたらされた禅宗で、中国風の寺院が建っている。その塔頭の
一つに「吸江庵」があった。朗庵または一路の棲家だったという
伝説もある。

宇治と伊勢は、「吸江流一路」を名乗る私にとって、深い関わりの
ある土地なのだ。


一休大徳寺の住持就任の意義

2017-09-24 21:24:20 | 一休と虚無僧

水上勉と小椋圭によって、さんざん「エロ坊主」にされて
しまった一休さん。それでも「平気平気、気にしない」の
一休さんだろう。

一休の唯一の書『狂雲集』は、詩偈を集めたもの。その
最後の方に、大徳寺の住持となっての「入室」の語と
「退室」の語が続けて掲載されている。そのため、多くの書では
「一休は大徳寺の住持に就任しながら、就任式をすっぽかして
欠席した」とか、1日で住持の肩書きを返した。「三日坊主、
ならぬ一日坊主だった」などとしている。
水上勉の『一休』にいたっては、「森女が流産しかかって、
狼狽しまくって、大事な晋山式に行きたくとも行かれなかった」
などと創作している。とんでもハップン。

よく考えてみれば、その時、大徳寺は応仁の乱で焼失して
いたのだから、立派に飾られた本堂で、大勢の衆僧に
迎えられての きらびやかな就任式など 営めたはずはない。

『狂雲集』は、詩偈を集めて編集したものだから、就任時と
退任時の『法語』を並べて載せただけのことなのだ。

さて、そこには「入室」として「明頭来明頭打、暗頭来暗頭打」の
「普化禅師」の偈が書かれていた。
「退室」の偈は「尺八を弄していう、一枝の尺八、知音少(まれ)なり」。

この『狂雲集』の最後に掲載された一休の「法語」こそ、
「普化」の偈「明頭来」と尺八とを結びつけた最初のもので
あることに注目したい。

これが一休の死後、「普化僧=虚無僧」が現れる元となったと
私は考えている。尺八家にとって、虚無僧にとって、一休の
この「法語」は金科玉条のものとなるのだが、それに気づく者は
誰もいない。水上勉ののおかげで長らく、ぶっ飛んでしまって
いたのだ。


「一休老いらくの恋」の真実

2017-09-19 21:17:07 | 一休と虚無僧

一休 77歳の時、堺の住吉神社で「森女(しんにょ)」という
盲目の女性に会い、心魅かれて薪村の酬恩庵に連れ帰り、
88歳で亡くなるまで、森女と共に暮らしたとされる。

これは、一休の書とされる『狂雲集』にのみあって、
一休の弟子たちによって書かれた『一休和尚年譜』には
全く触れられていない。

「森女の陰門は水仙の香りがする」などと どきつい表現から、
一休は水上勉によって「エロ坊主」のレッテルを貼られて
しまった。水上勉ほどの作家をしても、一休の心根を理解
するのは難しいといえる。

「水上・一休」がベースになって、森女について 後の作家が
いろいろ作り上げている。「放浪の旅芸人で 琵琶を弾いて
いた」とか「三味線を弾くゴゼだった」など。とんでもない、
女の琵琶法師はおろか、三味線など この時代には存在して
いないのだ。

『狂雲集』は詩集である。しかも仏法を詩に仮託した法語で
ある。渡辺淳一が『失楽園』で書いた事を 事実と誤認して、
相手の女性は誰かと邪推するのと同じ、浅ましきことだ。

「水上・一休」を真っ向から否定したのが「柳田聖山」氏。

『狂雲集』は、一休が大徳寺の住持になるまでの壮大な叙事詩
だという。応仁の乱の戦火を逃れ、一休は、数年間、堺の住吉に
逗留していた。その時、一休は「森女」を知る。

森女は住吉大社の宮司津守氏の親族だった。住吉大社は、
南朝の後村上天皇の行在所だった。南朝の公家の娘を母に
生まれた一休にとって深いつながりがあったのだ。そして、
住吉神宮と大徳寺も深いつながりがあった。

当時は神仏習合の時代。住吉大社には「慈恩寺」という寺が
あった。その寺の開山は、住吉の宮司津守氏の「卓然宗立」で、
なんと大徳寺の第8世住持になっていたのだ。

当時、大徳寺は一休のライバル「養叟(ようそう)」一派に
牛耳られていた。一休は兄弟子「養叟」を「禅を金で売る者」と
激しく攻撃していた。その後を受けて、一休は大徳寺の住持と
なるのである。

毛嫌いしていた大徳寺の住持となる、その真意がわからない。                                   一休は、「生涯蓑笠の身、それを今さら」と恥じている。                                      それなのになぜ?である。誰も解けなかったその謎が遂に解けた。





 


一休が大徳寺の住持を引き受けた謎が解けた

2017-09-16 20:07:53 | 一休と虚無僧

一休は 師の「華叟(かそう)」から与えられていた「印可状」を破り捨てていたから

大徳寺の住持となる免許証がない。一休は大徳寺の住持の肩書など真向から

否定していた。それなのになぜ、不本意ながら住持を引き受けたのか。

その謎がついに解けた。

一休が大徳寺の住持を引き受けたのは、“住吉神宮からの強い要請があったから“

というのが私の推理。

大徳寺と住吉神宮は 卓然以来、深い関係があった。住吉神宮は大徳寺の

窓口となって明との交易を行い、莫大な利益を得ていたのだ。

その大徳寺が応仁の乱で焼失してしまっていた。大徳寺の再建を最も強く

望んでいたのは、住吉神宮だった。

住吉神宮は、大徳寺を再建できるのは一休をおいて他にないと、森女を

通じて一休に大徳寺の住持になるよう依頼した。

住吉神宮の津守氏と村上天皇との間に生まれた人の娘であった。

一休が『狂雲集』の中で「王孫の美誉を伝え聞き」といっている「王孫」を

一般には「一休自身」のことと解釈されているが、一休は天皇の子であるから

「王孫」ではなく「皇子」である。「王の孫」とは「天皇以外の王子の孫」である。

とすると「森女こそが後醍醐天皇の王子の孫姫」であったことを意味している。

一休は住吉神宮で盲目の女性森女に心惹かれた。

その時、森女は一休に「大徳寺の住持となって、応仁の乱で焼けた大徳寺を

再建して欲しい」と頼んだが、一休は はじめ無視する。

半年後、一休は住吉神宮で森女に再会する。そして「旧約を新たにする」と

『狂雲集』にある。「旧約」とは「大徳寺の再建」という約束だったと

私は理解する。それを一休は再確認したのである。

こうして、一休は大徳寺の住持となる。とはいっても大徳寺は焼失して無い。

だから、大徳寺に入室したわけではない。一休は堺で、豪商たちに大徳寺再建の

資金調達を依頼する。現在のお金に換算して、15億から20億という大金を、

尾和宗臨はじめ堺の商人たちが納め、大徳寺は再建されたのである。

一休の人気がいかにすごかったかである。一休でなければ集められなかった。

その大徳寺が完成しても一休は大徳寺には住まず、薪村で森女とともに

仲睦まじく暮らし、88歳の生涯を閉じた。