「一休」を探っていくと、虚無僧の歴史にぶち当る。
虚無僧は江戸時代の後半になって、己の宗派を
明らかにするために『虚鐸伝記国字解』なるものを
作成する。その原本は「阿野」氏に伝えられたという。
「阿野」とは珍しい姓だが、なんと「後醍醐天皇」の
妃は「阿野廉子」。「後村上天皇」の母である。
「阿野」という公家は、江戸時代にも居り、戦前まで
続いていた。
虚無僧の祖を「普化」とする根拠を探しているのだが、
遡れるのは「一休」の『狂雲集』まで。
つまり、「普化」の行状は、臨済宗の祖「臨済」の教えを
示した『臨済録』に記されているのだが、この『臨済録』
が日本にはいってきたのは鎌倉時代の末。一般の人の
目に触れられるものではない。これを読み解いて、
その中で臨済の相棒として登場してくる「普化の痒狂ぶり」に
注目し、自ら「狂雲子」と号して、 瘋癲として生きたのが
「一休」というわけ。「一休」以外に「普化」に注目した人は
いない。
つまり、虚無僧たちは「一休」から「普化」を知り、祖とした
のである。