「第二次世界大戦の戦争犠牲者数」というサイトがある。
それによると、日本は「軍人・軍属230万人、一般人80万人」で310万人が亡くなった。当時の人口は 約7千万人だから、人口比4.4 %。
これに対して、中国の戦争犠牲者は、統計は不明で、俗に1千万人といわれている。「白髪一千丈」の国だから、誇大表示かもしれないが、1千万とすると、「南京虐殺」が3万とも30万とも言うが、それでも全体ではわずかな数字。他はどうしたのか。「南京虐殺」があったか無かったかの論争より、日本人は、中国で1千万、フィリピンで1百万、アジア全体では3千万と言うが、そんなにどうやって殺せたのか。原爆など微々たるものだ。
ところがところが、ヨーロッパはもっとひどい。ドイツの侵略でソ連の犠牲者は2千万というから驚き。ドイツ人は この他、ユダヤ人を600万人も殺している。ドイツ人の死者は500万人だった。ヨーロッパ人の方が はるかに「残虐」だ。
第二次世界大戦での 全世界の死者は 4000万人から 5000万人。まさに「20世紀は大量殺戮の世紀」。
そして「21世紀は、大量人口爆発」の世紀。戦争は “自然淘汰”で、人口増加を抑制してきた。
「大量殺戮」も 神の意思か。今後の人口爆発で、神はまた どんな制裁をなされるか?。
それが「新型コロナ」なのだ。
釈迦は説いた「欲を捨てれば 争い事はなくなる」と。
白楽天が「道林禅師」に尋ねた。「仏法の大意は何か」と。
道林禅師は「諸悪莫作(しょあくまくさ) 衆善奉行(しゅうぜんぶぎょう)」と答えた。「善いことを行い、悪いことはするな」という意味。
白楽天が「なんだ、そんな事なら、三歳の子供でも知っている」と言うと、道林禅師は「そうさ、三歳の子供でも知っているが、八十の翁でも、できない難しいことだ」と。
そう「戦争はいけない、人殺しはいけない」と子供でも知っているが、この世から戦争は無くならない。
「なぜ戦争は起きるのか」。
「古来すべての戦争は“利得を求める心”から起きたもの」だそうだ。
土地争い、作物の略奪。水利権、通行権、航行権、航空権、覇権をめぐる争い。宗教の版図拡大のための宗教戦争。みな起こす方にとっては「正義の戦争」だった。
太平洋戦争も、江戸時代3000万人だった日本人の人口が、文明開化で3培の9000万人までイッキに膨れたため、「食料無し、仕事無し」そして「石油などの資源無し」の窮状から大陸に活路を求めた故だった。やむにやまれぬ窮余の策だった。
「国際法」でも「戦争をしてはいけない」という法律は無いのだそうだ。「戦争を起こすのは国家の権利」として認められているとか。
中国は2050年までには、台湾も朝鮮も日本も征服するという目標を掲げているとか。かつて日本がやってきたことの仕返しだから、今の中国ならやりかねない。
戦前の朝鮮には軍隊が無かった。「8月15日、戦争に勝って、日本の植民地支配から独立した」と韓国では教えているらしいが、朝鮮には軍隊が無かったのだから、日本とは戦争をしていない。日本は武力で侵略したわけではない。
中国の国民党の軍隊も脆弱だった。軍備をもたなければ、他国に征服されるのは歴史が証明している。
中国の脅威に対抗して戦争ができるように憲法の改正が望まれている。
NHK大河ドラマ「いだてん」で学徒出陣がカラーで再現された。
昭和18年10月21日、明治神宮外苑競技場に2万5千人の学生が集められ、降りしきる雨の中、学生服に銃を担いで行進する、あの映像を観るたびに私は涙が出る。今、このブログを書いているだけで涙が止まらない。
それまで学生は徴兵が猶予されていたが、東条英機は劣勢な戦況下に 国民の士気を高めるために、この一大イベントを行った。名古屋軍の名投手「石丸進一」君もこの「壮行会」に参加し、戦場に散った一人。
学徒動員で何人の学生が出征し、戦死したのか、正確な数は判っていないという。
私の父は、昭和16年3月 慶応を卒業して、故郷、会津若松第65連隊に入隊。その年12月に中国に出征した。
義父(妻の父)は、昭和17年卒業だったが、半年繰り上げられて、昭和16年の9月に慶応を卒業し、海軍にはいった。
私の妹の夫の父は、昭和18年卒業予定だったが、繰り上げで17年3月卒業。
というわけで「学徒出陣壮行会」時、三人とも大学を卒業していた。
私の母は、日本女子大に在学中だったが、この壮行会には行っていない。一期下の橋田寿賀子が、壮行会で男子学生たちを見送っている。
慶応では 1998年になって三田キャンパスに「還らざる学友の碑」を建て、学徒出陣の資料収集を始めた。
「送り出した大学として、どういう立場に立つべきなのか」難しい問題だという。
◆学徒出陣を見送った一女性の声。
「昭和39年、東京オリンピック開会式で、カラフルなユニホームを着たアメリカ、イギリスの選手たちがわれわれにニコニコと手を振っている。 あの雨の
学徒出陣壮行会と同じ競技場で。これには大きな衝撃を受けました」と。
当時慶応高校3年だった私もまったく同感だった。
死地に赴く学生たちが踏みしめていった聖なるグランドである。戦争も国策なら、オリンピックも国策。国家のこの豹変振りに、不快感を感じたのは 私だけか。
たまたま付けたラジオからは「今年は 蛙を見ませんでしたね」 の声。私も 蛙の鳴声を聞いていないので 変だと感じていた。
殿様カエルは絶滅したそうだ。
近くの用水路で、10年ほど前までは、どじょうやフナが捕れた。ザリガニもいた。鯉も泳いでいた。おたまじゃくしは 無数にいて、よく獲ってきては、水槽に入れて、蛙になるのを観察したものだった。
それが、数年前からは、その用水路におたまじゃくしも 小魚も一匹もいないのだ。2015年から広く使用されるようになった農薬のせいとのこと。
そういえば、ハエも蚊もいない。助かるが、なんか変だ。
中国のレストランで、テーブルの上の料理に 一匹の蝿が飛んできて、日本人観光客は大騒ぎして、追っ払っていた。蝿も蚊もいないのは異常かも。
「寺田寅彦」の『科学者とあたま』から
『科学者は頭が良くなくてはいけないが、その一方で、頭が悪くなければならない。
頭のいい人は、足の早い旅人のようなものである。人より先に人のまだ行かない所へ行き着くこともできる代わりに、途中の道ばた あるいは わき道にある肝心なものを見落とす恐れがある。
頭の悪い人、足の のろい人が ずっとあとからおくれて来て、わけもなく そのだいじな宝物を拾って行く場合がある。
頭のいい人は、言わば 富士のすそ野まで来て、そこから頂上をながめただけで、それで富士の全体をのみ込んで、東京へ引き返すという心配がある。富士はやはり登ってみなければわからない。
頭の悪い人は前途に霧がかかっているために かえって楽観的である。そうして難関に出会っても存外 どうにかして それを切り抜けて行く。どうにも抜けられない難関というのは きわめてまれだからである』と。実に解りやすい。
こんな歌があった
『わたしを褒めてください』
ジェームス三木作詞 きたがわてつ作曲
ある女子マラソンランナーの言葉ではない。
私とは「憲法9条」のこと。
1.この世に生まれて 58年
わき目もふらず 働きました
あれから日本は 戦争を
一度も起こして おりません
あれから日本は 外国人を
一人も殺して おりません
なんてすてきな 国際貢献
どうか私を 褒めてください
2.この世に生まれて 58年
私はまだまだ 役に立ちます
百年 私が 生きたなら
世界はきっと 気づくでしょう
日本の憲法 第9条が
みんなの夢で あることを
どうか私を 守ってください
おはらい箱に しないでください
3.空から爆弾 落としますか
それとも愛を 信じますか
決断するのは 日本国民
主権を持った あなたです
おはらい箱に しないでください
なんてすてきな 国際貢献
どうか私を 褒めてください
中国の脅威やら、アフガン情勢で「9条を守る会」の声も先細りになってきた。
「褒めてください」は、誰も褒めてくれない、切ない願いに聞こえる。
数年前から、近所の水路で「おたまじゃくし」を全く見なくなった。名古屋に来た頃(25年前|は、夜になればカエルの声もよく聞こえた。
蝉の声も去年から少ない。
そして「赤とんぼ」も全く見なくなった
原因は、休耕田が増え、宅地造成で田圃が無くなったこと。残る田圃も 新しい農薬のせいではと言われている。
童謡の「赤とんぼ」は子供達には全く意味不明の歌のようだ。
「夕焼け小焼けの赤とんぼ おわれて・・・」は、「追いかけられて?」ではない。「背中におんぶされて見た」という意味だが、「背中におんぶされて」という経験も無いようだ。
「桑の実」も「小かご」も解らない。
「十五でねえやは 嫁にいき」も理解不能だろう。15歳では、まだ高校一年生だ。
「赤とんぼ」の作詞は山田耕作。「山の田んぼの耕作放棄で「赤とんぼ」も「まぼろし」と消えるか。
(1) 夕焼け小焼けの 赤とんぼ
負われて 見たのは
いつの日か
(2) 山の畑の 桑の実を
小かごに摘んだは
まぼろしか
(3) 十五でねえやは 嫁に行き
お里の 便りも
絶え果てた
(4) 夕焼け小焼けの 赤とんぼ
とまっているよ
竿(サオ)の先
今童謡「赤とんぼ」は「消えゆくもの」への哀愁の歌だ。だからか尺八によく合う曲だ。
赤とんぼ/尺八:宮田耕八朗・箏:野坂恵子
編曲:長沢勝俊、尺八:宮田耕八朗、箏:野坂恵子 録音:1974年 「Red Dragonflies」 Arranger:NAGASAWA ...
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以前に書いた記事再掲です。
世界の人口推移
・2015年 73億人
世界の人口は 1802年 10億人だったのが、200年で7倍の70億人に膨張した。
このまま推移すれば、2050年までに 90億人、21世紀末までに100億人を突破するだろうと予測されている。
100憶を超えれば、食料難、水不足で人類は滅亡するとも云われている。
それ以前に 森林伐採、森林火災、砂漠化、CO2の増加という環境破壊も深刻。地震、津波、火山の噴火による人類の滅亡も噂される。
人類はこれまでも長い歴史の中で、疫病、戦争によって人口増加が抑えられてきた。自然淘汰は、大自然の摂理であり、神の意思とも云える。
疫病の根絶のために、人類は科学を発達させ、その都度乗り越えてきた。それは大自然の摂理 or 神の意思 との戦いでもある。
今回の新型コロナウイルス騒ぎ。人口削減を目的としたある種の団体の為せる技とか。「このウィルスで世界の人口は50%(半分)になる」と予測した学者。また「世界人口を5憶人まで減らす」と明言している団体もあるそうな。
人為的に撒かれたとしても、そういう人間が現れるのも自然の成り行き=神の意思。それに反して、人間は右往左往、必死の封じ込めを行っている。これも大自然=神の意思への挑戦か。
「なにも、大自然=神の意思にあがらうことはあるまい。なるようになる」と思う私は 異端者ですかな?