現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

新選組斉藤一

2021-10-18 21:26:28 | 会津藩のこと
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新選組ファンの間で根強い人気があるのが、函館まで戦い続け戦死した「土方歳三」、天才剣士と呼ばれ労咳で若くして散った「沖田総司」、この二人に負けないほどの人気があるのが「斉藤一」です。

「斉藤一」は謎が多い人物です。 出身が明石藩(現在の兵庫県)と言われています。

 

「斉藤一」の剣術の腕前は、「沖田総司」(天然理心流)、「永倉新八」(神道無念流)に並ぶほどの凄腕。 「斉藤一」の剣術の流派は、「無外流」「一刀流」「太子流」かと、諸説ありますが、「無外流」が最有力説のようです。

「斉藤一」は「突き技」の達人と言われ、明治維新後は、警視庁の警察官として就職していました。 西郷隆盛ら旧薩摩藩の士族が起した「西南戦争」に鎮圧で出動した「警視庁抜刀隊」の中に「藤田五郎」と改名していた”斉藤一”がいました。

後年は警視庁を退職して、女子高等師範学校の職員となり、その最期は衣服を着替えさせて身支度を整え、床の間に正座したままの姿で亡くなりました。

映画「壬生義士伝」では”佐藤浩市”、大河ドラマでは”オダギリジョー”が、「斉藤一」の役を熱演されました。

「斉藤一」(藤田五郎)の墓は、福島県会津若松市の「阿弥陀寺」にあります。 生前から「斉藤一」は阿弥陀寺に多くの寄進を行なっていました。 この阿弥陀寺には、戊辰戦争の「会津の戦い」で戦死した会津藩士の墓所があり、新選組隊士として共に戦った会津藩士の菩提を弔うためと思います。

平成十六年の九月に「斉藤一」の菩提寺阿弥陀寺に於いて、第一回「斉藤一忌」が開催され、「斉藤一」の墓前にて「無外流居合兵道」の奉納演武が行なわれました。

生前の「斉藤一」は、無口で物静かな剣客、晩年は孫や身内の子供たちに剣術を教えていたそうです。


新選組斉藤一会津に眠る

2021-10-18 21:10:48 | 会津藩のこと
4人、立っている人の画像のようです
 
 
『新撰組斎藤一(53歳当時)家族写真』
この写真が撮影された明治30年は日清戦争の直後で、斎藤は東京高等師範学校で撃剣師範を務め、若者たちを鍛えていた頃。斎藤の剣技は衰えることなく、その竹刀には誰ひとり触れることすらできなかったといわれる。そういわれてみると、くつろいだ家族写真ながらも、幾多の死線をくぐり抜けてきた剣士の鋭い眼光を感じる。 
(軍服姿の長男・勉と着物姿の次男)
『妻 時尾について』
高木時尾は会津藩大目付・高木小十郎の長女として生まれた。母の藤田克子は大変な美人であったらしい。長じて時尾は会津藩主・松平容保の姉・照姫付きの祐筆となる。
斉藤と時尾さんの結婚の仲人は、会津藩主松平容保公、同じく会津藩家老だった佐川官兵衛と山川浩、倉沢平治右衛門が下仲人を務めています。
じつは斎藤一にとって時尾は2人目の妻。はじめ斎藤は、篠田やそという女性と結婚したらしい。やそはあの悲劇の自刃をとげた白虎隊士・篠田儀三郎の遠縁にあたる女性とのことだが、ふたりの間に子どもはなく、数年で別れてしまった理由もよくわからない(なお、最近では、斎藤一は篠田やそさんではなく、時尾さんが初婚だという説もあるらしい)
 
 

「燃えよ剣」いよいよ本日封切り

2021-10-15 21:13:52 | 会津藩のこと

コロナ禍で封切りが二年伸びた『燃えよ剣」いよいよ10月15日封切り

司馬遼太郎原作 

新選組は維新体制下では「逆賊」と見なされて、『鞍馬天狗』などで悪役として描かれてきた。それを覆したのが子母澤寛の『新選組始末記』(1928年)。これにより再評価の機運が生まれ、『新撰組悲歌』(1934年)などの映画公開、そしてやや時を置いて発表された本作『燃えよ剣』と、同じく司馬の連作短編『新選組血風録』の登場によって、新選組ブームが巻き起こった。土方歳三は今や時代のヒーローである。

映画『燃えよ剣』 特別映像~3分でわかる新選組~ 10月15日(金)公開!

史上最強の剣客集団「新選組」 伝説の幕開けが“3分でわかる”特別映像を解禁! 時代を追うな。夢を追え。 主演:岡田准一 × 監督・脚本...

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映画『燃えよ剣』新予告映像(90秒)10月15日(金)公開!

時代を追うな。夢を追え。 主演:岡田准一 × 監督・脚本:原田眞人 「新選組」土方歳三―――彼はいかにして、歴史に名を刻む【伝説(レジェン...

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1970年テレ朝系で放映された「燃えよ剣」。栗塚旭にしびれた。

時代劇【燃えよ剣】『燃えよ剣のテーマ~燃えよ我が命(挿入歌)~予告編用BGM』

1970年にNET(テレビ朝日)系で放送された時代劇【燃えよ剣】の『燃えよ剣のテーマ~燃えよ我が命(挿入歌)~予告編用BGM』です。 挿入歌...

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年末時代劇スペシャル『白虎隊』

2021-10-12 01:58:20 | 会津藩のこと

 

【番外編】(テロップ・注釈付)「白虎隊」(4/30)「新選組誕生」1986年日本テレビ系列年末時代劇スペシャルの第2作

【番外編】(テロップ・注釈付)「 #白虎隊 」(4/30)「 #新選組誕生 」1986年日本テレビ系列 #年末時代劇スペシャル の第2作 ※...

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【番外編】(テロップ・注釈付)「白虎隊」(5/30)「八月十八日の政変」1986年日本テレビ系列年末時代劇スペシャルの第2作

【番外編】(テロップ・注釈付)「 #白虎隊 」(5/30)「 #八月十八日の政変 」1986年日本テレビ系列 #年末時代劇スペシャル の第2...

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白虎隊1986

白虎隊1986 白虎隊1986 白虎隊1986

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京都治安部隊1863

#幕末

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【番外編】(テロップ・注釈付)「白虎隊」(11/30)「鳥羽・伏見の戦い」1986年日本テレビ系列年末時代劇スペシャルの第2作

【番外編】(テロップ・注釈付)「 #白虎隊 」(11/30)「 #鳥羽伏見の戦い 」1986年日本テレビ系列 #年末時代劇スペシャル の第2...

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二本松少年隊の悲劇

2021-10-12 01:48:07 | 会津藩のこと

会津白虎隊の前に 隣藩二本松でも 少年の悲劇が

二本松少年隊の悲劇

会津白虎隊に勝るとも劣らぬ戦いをした。

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二本松少年隊 伊藤久男 野村俊夫作詩 古関裕而作曲(昭和32)

三橋美智也に同名異曲がある。

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二本松少年隊が第14回NHK紅白歌合戦で唄われていました!

NHK紅白歌合戦で二本松少年隊が唄われていました. エールで話題の古関三羽ガラス以外にも二本松少年隊ありました クレジーキャッツもコント...

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二本松少年隊150年 「十三歳のサムライ」万馬研太朗&石井務 作品

来年2018年は二本松少年隊150年です。少年隊の墓がある大隣寺に長州出身の安倍晋三総理大臣がお参り下さいました。もっと全国の方にも知っても...

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唯一人生き残った飯沼貞吉の真実

2021-10-12 01:38:11 | 会津藩のこと

飯沼貞吉は長州藩士楢崎に連れられて長州に行った!

【白虎隊】 ただ一人生き残った飯沼貞吉 1/2

【白虎隊】 ただ一人生き残った飯沼貞吉 2/2 http://youtu.be/-6IYi8cq92c

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【白虎隊】 ただ一人生き残った飯沼貞吉 2/2

 

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白虎隊の真実が明らかに

2021-08-22 21:45:59 | 会津藩のこと

「今日は何の日」 8月23日は「白虎隊自刃の日」。

 

富田国衛著『会津戊辰戦争・戸ノ口原の戦い・日向内記と白虎隊の真相』という本が出ました。(おもはん社)

白虎隊については、“ただ一人” 蘇生した「飯沼貞吉」の回顧談によってそれが定説となり、ずっと今でも語られています。

それは、「白虎隊は8月22日、戸ノ口原に出陣したが、その夜、隊長日向内記は《食料を調達してくる》と言って去ったまま戻らず、隊員は、翌23日、敵の総攻撃に圧せられて退却し、飯盛山まで来たところで、城の燃えているのを見て全員(20人)自刃した」というもの。

この飯沼氏の証言によって、気の毒なのは隊長「日向内記」です。

「食料調達と言って、隊員を置き去りにして逃げた卑怯者、臆病者」というレッテルを貼られ、「その子孫は名乗り出ることもできない」とまで書かれてきました。

私は、この「飯沼貞吉」の話にはずっと疑問を感じていました。

白虎隊士中二番隊は 37人いて、17人は隊長日向内記とともに城に戻っているのです。

また、数名が戦死したことも他の証言から明らかになっています。

ところが、飯沼貞吉の話は逃げ回っていただけで、戦って戦死者が出たことは語られていません。飯沼貞吉のグループこそ、本隊とはぐれたメンバーではないかと思っていました。

 

日向内記と白虎隊の真実』は、日向内記の無念を晴らすべく、子孫を探しだして、子孫に伝えられた話をはじめ、多くの記録を網羅しての真相解明でした。この本によると

 

「白虎隊は敵の襲撃で散り散りとなり、戦死した者5名。隊長以下17人は無事に城に帰還した。飯沼氏のグループは、飯盛山にたどり着き、その内、飯盛山で自刃したのは飯沼氏を含めて7人だけ。他は「城に帰ろう」と山をおりたが、滝沢口で官軍に遭遇して撃たれて戦死した者、「捕らえられるよりは」と他の場所で自刃した者。無事帰還した者もいたのです。

なぜ、「19士全員が飯盛山で自刃」となったのか。白虎隊士の遺体は、自刃者も戦死者も埋葬することも許されず、野ざらしのままだった。半年以上も過ぎて ひそかに、飯盛山や、妙国寺に埋葬された。その時はもう、自刃か戦死かの区別もつかなかった。

飯盛山に19士の墓が建てられたのは明治23年のこと。

この時、戸ノ口原で戦死した2人。強清水で戦死した2人。他所で自刃した5名。そしてさらに 無事城に帰還したが、その後9月14、15日、一ノ堰の戦いで戦死した「池上新太郎」「簗瀬武治」までが、8/23の自刃者として加えられた。

飯盛山の「建碑・慰霊祭」の発起人には、白虎隊士の生き残り6人も名を連ねているが、その趣意書には「戸ノ口原に屍をさらし、生き残った者僅かに19名。全員が飯盛山で自刃したとなっているという。生存者も全員戦死、自刃になってしまったのだ。

これは、白虎隊の悲劇をことさらに宣伝するための作為だったと言わざるを得ない。

日本政府は、この後、日清、日露、そして太平洋戦争へと突き進んでいく。「白虎隊士全員自刃」のストーリーは、二百三高地の無意味な突貫。太平洋諸島での玉砕に 利用されたものと私は思っています。

太平洋戦争の映画で「全員玉砕と本部に通信したのに、生存者がいて、それは困ると自決を強要する」ドラマがありました。白虎隊も「全員自刃でなければ困る」というのです。全くアホらしい。

 


8/23 今日は何の日「白虎隊自刃の日」

2021-08-22 20:40:48 | 会津藩のこと

今日(8月23日)は会津人にとっては忘れることのできない日です。

「今日は何の日」ネットで検索したら、一番に「白虎隊自刃の日」と出てきました。それででしょうか、ラジオでも「今日は何の日、白虎隊自刃の日」と紹介していました。「白虎隊自刃の日」が150年以上経った今日までこうして語り継がれていることに、会津人としては喜びです。

旧暦の8月23日は、新暦ではもう10月8日でした。北国の会津では秋雨が降り、肌寒い日だったのです。

前日、母成峠が破られ、西軍が猪苗代に突進してきた。

会津藩としては、成人部隊は日光、越後方面に出払っていたため、残っていたのは少年と老人だけ。まさに風雲急を告げ、君公(松平容保)自ら、老人と少年の白虎隊を率いて滝沢本陣に向かった。

 



わが家の先祖の牧原一郎(300石)は63歳、隠居の身だったが、殿(松平容保)の供廻りとして滝沢本陣まで出向いた。そして白虎士中二番隊の50名と、僧侶や神主、相撲取り、郷士、百姓まで駆り集めて総勢数百名が戸の口原に散開して塹壕を掘った。

弟の牧原奇平 (150石) 61歳は、郡奉行として強清水(こわしみず)に向かい、近郷の村々からの食料調達に回った。しかしすでに村々は焼き払われ、食料の調達はままならなかったようだ。

戸の口原に布陣していた白虎隊は 「隊長 日向内記が強清水まで食料調達に出かけたまま帰らず、氷雨降る中、空腹のまま一晩を過ごした」と生存者の飯沼貞吉は語っている。

その晩から翌23日朝にかけて、西軍の砲撃は激しく、所詮、鉄砲も刀も持たない農民、僧侶たち、敵の砲撃に為す術もなく逃散してしまった。牧原奇平は、その責任を負って、強清水で自刃した。

昭和35年ころだったか、強清水村の県道の傍ら、小高くなっているところに、村人たちが、戦死した会津藩士22人と16人を埋葬したという塚が発見された。

牧原奇平も たぶんここに埋葬されたのであろうということになった。

 

牧原一郎は 敵が滝沢峠を越えてきたとの報に、「急ぎ殿を城へ!」と配下の者に命じ、「自分は老齢の身、逃げるにも殿の足でまといになっては」と、その場で自害しようと脇差で喉を突いた。すると君公は「君 あわて早まるなかれ」と一声かけ、城へ向かって馬を走らせた。牧原一郎は殿の言葉に感激し、血の噴き出る首を抑えながら甲賀口の自邸にまで引き上げ、家にいた孫の豊四郎に介錯を頼んで絶命した。



牧原邸の隣家が「井上丘隅」。TBSの 年末時代劇『白虎隊』では、森繁久弥が演じた。ドラマでは、井上丘隅は最後まで生き延びるが、事実は井上丘隅も甲賀口の戦いで自刃する。
ドラマでもあったように、甲賀口を守ったのは年寄りと子供たちだった。あのシーンは一番泣けた。

土佐藩士「氷室隼人」の手記に「この時の(甲賀口の)戦に、七十歳ばかりの老人 槍を引っ提げ躍り出て、味方の一人を刺し、引き込む槍の石突で他の一人の腰を突いたので、遂に鉄砲で撃ち倒した。

それと同時に十四、五歳の少年が 槍を構えて手向かって来たので、其奴を生け捕れ、生け捕れと叫んだが、またぞろ一人が刺されたので、鉄砲で射殺した。

その夜は 酒の宴に その少年の首を大皿に乗せ、“愉快極まるこの夜の酒宴、中にますらお美少年”と歌って、一同、大いに酒を飲みほした」と。その老人と少年は、甲賀口郭門の門番役 佐藤與左衛門(74歳)と孫の「勝之助」十四歳であった。

 

井上丘隈の娘が、青年家老「神保修理」の妻となった雪子。神保修理は、鳥羽伏見の戦いで徳川慶喜と松平容保が将兵を置き去りにして江戸に逃げ帰った責任をとらされて切腹。西軍の乱入に雪子は薙刀を振るって防戦するも、敵に捕らえられ、「辱めを受けるよりは」と自刃する。会津戦争中最も悲劇の1シーンだ。

こうした混乱の中、飯盛山で 白虎隊士 の何人かが自刃した。





婦女子の言は一切聞くべからず

2021-07-19 20:08:19 | 会津藩のこと

会津藩祖保科正之が定めた『家訓』15箇条

その第一条は『大君の儀一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処するべからず。若し二心を懐かば、すなわち我が子孫にあらず。面々決して従うべからず』

大君すなわち徳川将軍家にはひたすら忠勤に励み、決して背いてはならないというもの。これが幕末

他国の例にならって決めるべからず。徳川宗家に背く者は我が子孫に非ず。家臣の面々はそのような藩主には従」というもの。

 

その中に「婦女子の言は一切聞くべからず」の

一条を定めた。それは正之の室「聖光院お万」の所業に懲りたからだ。

「聖光院お万」は京都上賀茂神社の神官の娘で、東福門院和子の侍女
だった。東福門院和子は、徳川秀忠の五女。後水尾天皇の后として入内
していた。尚、保科正之も秀忠の子であり、和子の兄となる。

そんな関係からか、正之の室となったお万は、なにかと藩政に口出しを
するようになった。

さらに、とんでもない事件が起きる。お万の娘「媛姫」は上杉 30万石に
嫁いでいたが、側室の生んだ「松姫」が加賀100万石前田家に嫁ぐことと
なり、お万は、嫉妬して「松姫」を毒殺しようとしたのだ。


「松姫」が婚礼の挨拶に訪れた際、「媛姫」も同席して食事となった。
「松姫」の膳に毒を盛ったのだが、松姫の侍女が機転をきかせて、
「媛姫様の方が姉君ですので、どうぞお先に」と、毒の入った膳を「媛姫」
の方に回した。そのため、お万の娘「媛姫」の方が死んでしまったのだ。

この事件で、家老の成瀬が閉門幽閉となったが、「お万」はお咎めなし。
その代わり、正之は、女の業の恐ろしさに「婦女子の言は一切聞くべからず」
の家訓を遺したのだったが・・・・。

正之が亡くなり、お万の子「正経」が二代藩主となると、お万は、藩主の
生母として、ますます藩政に口出しするようになった。家老たちは正之公の
『遺訓』を盾にとって、必死に抵抗したが、お万は、甥の藤木弘隆を京都から
呼び寄せて家老に取立て、その妹を筆頭家老 保科民部正興に嫁がせて、藩政を
牛耳ろうとした。

ところが、藩主正経は病弱で、弟の正容に三代目を譲って早世してしまう。
三代目の藩主となった「正容」は側室の子だった。そうなると「お万」の
権勢は地に落ち、お万は江戸の上大崎に閑居、甥の藤木弘隆はお役御免と
なって京都に帰る途中亡くなり、保科民部は水沢村に幽閉となった。

さて、元禄3年、お万は71歳で淋しく生涯を閉じた。葬儀に藩主「正容」が
参列し、帰ろうとしたところ、「棺の中から青白い手が伸びて、正容の袴の
裾を掴み、棺に引きずり込もうとした」という怪談話まで伝えられている。

これって、まさに『鳥刺し』のラストシーンではないか。

と ここまで書いて、「投稿」をクリックしたら、突然画面が真っ白に
なって消えてしまった。一瞬からだが凍りつき、頭がクラクラしてきた。
再度 初めから書き直した次第。女の恨みはおそろしや、ゾォー。





怖い女の嫉妬

2021-07-19 20:07:25 | 会津藩のこと

会津藩祖保科正之が「婦女子の言は一切聞くべからず」と
家訓に遺したにもかかわらず、3代藩主正容も、側室に
苦しめられた。

正容の正室は輿入れ後2年あまりで亡くなっている。
それで、正容は6人の側室を召抱え、9男4女をもうけた。

この正容の6人の側室のうち4人が、男子を産んだ後、
家臣に下げ渡されるという、特異な事件があった。

殿様が参勤交代で江戸詰めの時、「お祐」と「おもん」の
二人の側室がおり、相手が懐妊すると、呪詛するなど、
火花を散らしていた。先に懐妊したのは「おもん」だが、
あまりの気性の激しさに、殿の勘気を被り、「おもん」は
会津に移され、御使番神尾家に下賜された。しかし
「おもん」は逆上して、夫に連れ添おうとはせず、扱いに
困った神尾家では 17年も「おもん」を座敷に押し込める
こととなった。

「おもん」は自分を下賜させた側用人の杉本源五右衛門と
牧原只衛門を呪詛し、両家とも嫡子が早世し断絶した。
この話は柴田錬三郎の『妬心』と、柴桂子の『会津藩の
女たち』に詳しく書かれている。

側室「お吉」は第5子正房を生んで、家臣 堀半右衛門に下賜された。
「おれつ」は第6子万吉を生んで、篠沢儀右衛門に。
「お佐久」は第8子容章を生んだ後、下賜される前に自ら進んで
宿下がりし、兄の下に身を寄せた。

「お佐久」が容章を産む前、「お市」が第7子「容貞」を産み、
物頭笹原家に下賜されていた。

当時は子供の成育はなかなか難しかった。次々に早世し、順番で
「お市」の産んだ容貞が、4代目藩主となった。そこでまた悲劇が
起きる。「藩主の生母が家臣の妻でいるわけにはいかない」と、
「お市」が嫁いだ 笹原家は お家断絶、離縁させられるのだ。

さて、「下賜妻」とは、殿様の身勝手と思い込んでいたが、柴桂子
女史の『会津藩の女たち』を読むと、事の真相が明らかにされている。

3代藩主「正容」の最初の側室「お祐」の嫉妬だ。
側室のうち「お祐」だけが 江戸の下屋敷におり、他の側室は、皆
会津にいる。殿様が会津に帰国した時だけの側室だった。そして、
男児を出産すると「お祐」の指図で、子供を取り上げられ、家臣に
下げ渡されていたのだ。

結果的に「お祐」の生んだ子は二人とも早世してしまって「お祐」は
世継ぎの母親にはなれなかったが、側室を家臣に下賜することで、
側室が生んだ子を引き取り、正容の正室の如くふるまっていたのだ。
おそるべし。

「お佐久」の生んだ末子容章は、分家として76歳まで生き、その孫
容住 が会津6代目藩主となっている。


「尺八と一休語りの虚無僧一路」のホームページも見てください。

一休と虚無僧」で別にブログを開いています。

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