道東・最果ての地に、会津の旗
道東ドライブ……知床から根室へ向かう途中に、野付半島があります。
ほんのちょっと寄り道をするつもりで、車を走らせました。
(画像はウィキペディアより)
すごい……
28キロにわたる、細いくちばしのような、半島です。
一車線の道路だけが、伸びていきます……
ハマナスの赤い花が咲き、
トドワラの森があり、
湿原にはアオサギと思しき鳥がいました……
私は、ずっと歓声を上げるばかりでした。
そのとき、突然、目に飛び込んできたのが、会津の旗。
なに、なに!?
停めて、停めて!
会津びいきの私が慌てて、駆け寄っったのが、冒頭写真。
1863(文久3)年、標津(しべつ)で亡くなった会津藩士の墓でした。
幕末、アメリカのペリー、ロシアのプチャーチンなど相次ぐ外国船の来航に、
1859(安政6)年、幕府は、東北六藩に、蝦夷地の警備を命じます。
これにより、標津(しべつ)、斜里(しゃり)、紋別(もんべつ)が会津藩領となりました。
会津藩は、最初に、現地の漁場番人やアイヌの人たちを集め、
きちんと取り決めと儀式を済ませ、開拓と警護に入っています。
礼節を重んじる会津らしい……
1868(慶應4)年、戊辰戦争が始まります。
標津に残っていた会津藩士は、急ぎ国元へ帰り、
やがて、会津戦争へと身を投じることになるのです……
墓に眠る会津藩士は、それに先立って亡くなっています。
稲村兼久とその孫娘、そして佐藤某……
おそらく会津藩領となってすぐにこの地に到着し、
陣屋の建設、初期の警衛に尽くした人物だろうとのことです。
でも、どうして、孫娘が……?
当時、会津からやってきた妻子も、この地で暮らしていたとか……
寒さと開拓の過酷な暮らしが、幼い命を奪ったのでしょうか……
三人以外にも、たくさんの命が失われたはずです……
この墓石は、以前は、道路脇に人知れず置かれていただけでしたが、
数年前に、町民の手によって、会津藩旗が掲げられたとのことでした。
白地に「會」と染め抜かれた旗……
この地では、夏に東から吹く風を「メナシ」と呼ぶそうです。
この日も、メナシに旗がはためいていました。
この地に立ってようやく、いかに過酷な使命を負って
幕末の藩士がこの地で生きたのかと、思いを馳せることができました。
なお、野付半島は、日本最大の砂嘴(さし)で、
長い間に、海中の砂が堆積してできた、くちばし型の半島です。
ラムサール条約に登録され、トドワラやナラワラの独特な景色に目を奪われました
参考
小野哲也・中村憲二編 『北辺の会津藩旗―幕末会津藩士外伝―』
(会津藩蝦夷地御領分シベツ元陣屋創建一五〇年記念)
標津の歴史と文化を知ろう会 2013年2月
【野付半島の会津藩士の墓】
安政6年(1859)別海地方の西別川の北川が会津藩の領地となる。
別海町の戸田則子氏の祖父が、北方警備に派遣されていた会津藩士のとみられる墓を
野付半島の突端で発見し、以来戸田氏宅で慰霊していた。
一方、別海町福島県人会は戸田氏達とは別に8月に慰霊祭を行ってきたが、
戸田氏が墓石に浮かび上がった会津藩士を確認した7月2日に合同で慰霊祭を
行うようになった。しかしながら、その後、野付半島先端が自然公園に指定され、
エゾカンゾウ等が密生して現地まで行くことが極めて困難になったため、
平成13年以降、慰霊祭は行われていない。
[参考文献] ・蝦夷地御領分シベツ表ホニコイ 発行年 昭和60年3月31日
御陣屋御造営日記 発行者 標津町郷土研究会 (出張仰付~蝦夷地戸切地着到)