現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

北海道標別町・野付半島に会津藩士の墓

2019-06-29 23:19:40 | 虚無僧日記

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、空、屋外

 

 

道東・最果ての地に、会津の旗

6月24日から三日間、北海道に行ってきました。知床半島を半周し根室に向かう途中
 
何やら引き寄せられるように野付半島に車を乗り入れてしばらく、突然飛び込んできた
 
会津藩の旗。「何 なに なに!?」と車を急停止させて近寄ってみると
 
まさに呼ばれたぁー! 私の虚無僧の旅は先祖探しの旅。ここにも会津藩士の足跡が!
 
私と全く同じ体験をした方のブログがありましたので、そのまま転載させていただきます。
 
 https://blog.goo.ne.jp/fc2008/e/e5bc022a24a4bee1786dad5523fc69aa
 

道東ドライブ……知床から根室へ向かう途中に、野付半島があります。

ほんのちょっと寄り道をするつもりで、車を走らせました。

 

(画像はウィキペディアより)

 

すごい……

 

28キロにわたる、細いくちばしのような、半島です。

一車線の道路だけが、伸びていきます……

 

ハマナスの赤い花が咲き、

トドワラの森があり、

湿原にはアオサギと思しき鳥がいました……

 

私は、ずっと歓声を上げるばかりでした。

 

 

そのとき、突然、目に飛び込んできたのが、会津の旗。

 

なに、なに!? 

停めて、停めて!

 

会津びいきの私が慌てて、駆け寄っったのが、冒頭写真。

1863(文久3)年、標津(しべつ)で亡くなった会津藩士の墓でした。

 

 

幕末、アメリカのペリー、ロシアのプチャーチンなど相次ぐ外国船の来航に、

1859(安政6)年、幕府は、東北六藩に、蝦夷地の警備を命じます。

 

これにより、標津(しべつ)、斜里(しゃり)、紋別(もんべつ)が会津藩領となりました。

会津藩は、最初に、現地の漁場番人やアイヌの人たちを集め、

きちんと取り決めと儀式を済ませ、開拓と警護に入っています。

礼節を重んじる会津らしい……

 

1868(慶應4)年、戊辰戦争が始まります。

標津に残っていた会津藩士は、急ぎ国元へ帰り、

やがて、会津戦争へと身を投じることになるのです……

 

墓に眠る会津藩士は、それに先立って亡くなっています。

稲村兼久とその孫娘、そして佐藤某……

 

おそらく会津藩領となってすぐにこの地に到着し、

陣屋の建設、初期の警衛に尽くした人物だろうとのことです。

でも、どうして、孫娘が……?

 

当時、会津からやってきた妻子も、この地で暮らしていたとか……

寒さと開拓の過酷な暮らしが、幼い命を奪ったのでしょうか……

三人以外にも、たくさんの命が失われたはずです……

 

 

この墓石は、以前は、道路脇に人知れず置かれていただけでしたが、

数年前に、町民の手によって、会津藩旗が掲げられたとのことでした。

 

白地に「會」と染め抜かれた旗……

 

この地では、夏に東から吹く風を「メナシ」と呼ぶそうです。

この日も、メナシに旗がはためいていました。

 

 

 

この地に立ってようやく、いかに過酷な使命を負って

幕末の藩士がこの地で生きたのかと、思いを馳せることができました。

 

 

なお、野付半島は、日本最大の砂嘴(さし)で、

長い間に、海中の砂が堆積してできた、くちばし型の半島です。

ラムサール条約に登録され、トドワラやナラワラの独特な景色に目を奪われました

 

参考

小野哲也・中村憲二編 『北辺の会津藩旗―幕末会津藩士外伝―』

(会津藩蝦夷地御領分シベツ元陣屋創建一五〇年記念)

標津の歴史と文化を知ろう会 2013年2月

 

     

【野付半島の会津藩士の墓】

 安政6年(1859)別海地方の西別川の北川が会津藩の領地となる。  

別海町の戸田則子氏の祖父が、北方警備に派遣されていた会津藩士のとみられる墓を

野付半島の突端で発見し、以来戸田氏宅で慰霊していた。  

一方、別海町福島県人会は戸田氏達とは別に8月に慰霊祭を行ってきたが、

戸田氏が墓石に浮かび上がった会津藩士を確認した7月2日に合同で慰霊祭を

行うようになった。しかしながら、その後、野付半島先端が自然公園に指定され、

エゾカンゾウ等が密生して現地まで行くことが極めて困難になったため、

平成13年以降、慰霊祭は行われていない。

[参考文献] ・蝦夷地御領分シベツ表ホニコイ   発行年 昭和60年3月31日       

御陣屋御造営日記  発行者 標津町郷土研究会 (出張仰付~蝦夷地戸切地着到)

 


会津藩の北方警備

2019-06-29 23:11:02 | 会津藩のこと

父の生家には 会津藩が 樺太の警備にあたった時の図が 10点ほどあり

屏風に仕立てられていました。

【宗谷における会津藩の北方警備】

18世紀後半、ロシアの南下が目立つようになると、享和2年(1802)

蝦夷地全島を直轄地とした。そして、文化4年(1807)東北各藩に蝦夷地の警備を命じた。

まず文化4年に津軽藩士230名が派遣され、宗谷において北方警備に従事したが、

水腫病等により多数の死者を出したため、文化5年(1808)会津藩と交代し、

内藤源助、梶原平馬率いる587人の会津藩兵が蝦夷地に渡った。

梶原平馬はこのうち241人を率いて利尻島警衛に向かった。

また、宗谷上陸隊とは別に家老北原采女が706人を率いて樺太に直航、

久春古丹に陣営を構築し、樺太警備に従事した。  

【北方警備に従事した会津藩士の墓】

北方警備に従事した藩士達は、自然の猛威の中で水腫病等に倒れていった。

現在、宗谷岬に13基の藩士の墓があるが、うち3基は会津藩士の墓である。

ほかに、利尻島に8基、焼尻島に2基、会津藩士の墓がある。

 

私の母方の先祖も樺太警備に従っていて、帰途 暴風雨に遭って舟が難破。

奥尻島に上陸し、1カ月かかって会津に帰国したのでした。利尻島にも

この時亡くなった会津藩士の墓があるとのこと。

先祖探しの虚無僧の旅、最後は奥尻島です。

写真の説明はありません。

写真の説明はありません。

 

 


牧原一路の尺八動画

2019-06-28 17:11:59 | 虚無僧日記

https://www.facebook.com/profile.php?id=100038038670152

稲熊君が、私のCD「竹打」「風華」「手向」の収録曲を

You-tubeにアップしてくれました。

 「稲熊典無尺八奏者」で見れます。

https://www.youtube.com/channel/UC9smcWYTYcuGwRL-gvkkbCw/videos?disable_polymer=1&fbclid=IwAR31NHHSGHO_vFQcI6Iu4JSvLNmDA5kvEKxZe6f_OI9IMK-XtTlCAJC3Bjw

 

「風華」https://youtu.be/IX9WsZYwcRI


ユダヤとイスラム人の違い

2019-06-27 19:46:28 | 虚無僧日記

日本の神道とユダヤが似通っているといわれても、
その双方ともに、相手の情報は全く持ち合わせて
いない。
そもそも、ユダヤとイスラエルの関係も判らない。

◆「イスラエル民族」と「ユダヤ人」の違い。
「イスラエル民族」とは厳密には「12支族で
構成された連合集団」を指しており、そのうちの
1支族である「ユダ族」の末裔が「ユダヤ人」。
と呼ばれるようになった。

ところが長い年月の間にユダヤ人は四散分離し、

多民族と融合して、純粋なユダヤ人はいなくなった。

現代のユダヤ人と呼ばれる人たちはトルコのあたりに

いた部族とのこと。

 

◆『旧約聖書』の記述

父ヤコブに最も可愛がられていた11男のヨセフは、
兄たちの嫉妬をかい、エジプトに売られてしまう。

その後、大飢饉から逃れるため、ヤコブ一家が
エジプトに赴くと、ヨセフがなんと国王ファラオに
次ぐ首相になっていた。

ヨセフは兄たちを許し、一族は エジプトの地で 子孫を
増やして大いに栄えた。だがヨセフの死後、ヘブライの
勢力を恐れたファラオが、彼らを奴隷の境遇に突き落として
しまった。


●奴隷の境遇に喘ぐ中、一人の預言者が現れた。モーゼである。

彼は紀元前1290年に 全イスラエル民族を率いてエジプトを脱出。
以後40年間、集団放浪生活を送ったが、この間に“神”は
イスラエル民族に「十戒の石板」・「マナの壷」・「アロンの杖」
という三種の神器と、それを入れる「契約の聖櫃(アーク)」を
授けた。


その「三種の神器」が日本のどこかに有るというのだ。
仁徳天皇陵の「前方後円墳」は、上から見ると「マナの壷」の
形をしている。神輿は「聖櫃」を運ぶためのものだった。

などなど、日本の今までの知識では解き明かせないことが
古代イスラエルを知ることで、大方 解明されるようだ。




 


イスラム、イスラエルどう違う?

2019-06-27 19:40:21 | 虚無僧日記

遠い国、日本とは疎遠の国と思っていた中東が、にわかに身近なものに

迫ってきた。だが、イスラエルとイスラムの違いも判らない。

ヨーロッパ人が、日・中・韓の紛争を理解できないのと同じか。

戦争が起きる要因は、「民族か、領土か、宗教の三つ」というが、

中東の紛争は、その三つともが絡んでるからややこしい。

亡国の民ユダヤ人が、米英の後ろ盾で建国した新興国が

「イスラエル」。しかし その首都「エルサレム」は、イエス・キリスト

処刑された地でもあり、ユダヤ教キリスト教イスラム教のそれぞれの

聖地でもあるから大変。三つ巴、三人の母親が一人の赤児を

奪い合っている構図だ。

その「イスラエル」に似た名前の「イスラム国」とは?

語呂は似ているが、綴りは、ISLAM と ISRAEL。

LとRで 意味も全然 異なるらしい。

イスラムは[平和」。イスラエルは「戦う神」だとか。

ところが、争いを起こしているのは「平和」の「イスラム」。

 

第二次大戦後、亡国の民だったユダヤ人たちが、英米の後押しで

パレスチナ人たちが住むエルサレム周辺に移り住んできて

「イスラエル」という国を建国した。これに先住のパレスチナ人が

反発して、領土の奪い合いをしているのがパレスチナ紛争。

ここまでは判る。

そこに、イランとイラクの対立。そしてイスラム教内部での

分裂対立。 民族と、領土と宗教対立がからみあって、もう

訳がわからない。

 

歴史を紐解くと、キリスト以前。『旧訳聖書』の時代にまで遡る。

アダムとエバから何代目かに「アブラハム」という予言者が出た。

アブラハムにはサラという妻がいたが、なかなか子ができなかったため、

エジプト人の女奴隷ハガルを側室に迎え、イシュマエルという子をもうけた。

ところが、正室のサラにもイサクという子が生まれた。それでアブラハムは

正室サラとの子である「イサク」を後継者に決め、側室のハガルと「イシュマエル」

を荒野に追放した。なんという悲劇。その「イシュマエル」の子孫が、

イスラム教を開いた。 それで、イサクの子孫のユダヤ人と、イスラム教を

信ずるアラブ人の対立は、ここから起こった?らしい。

 

そしてそして、このユダヤ人と現在イスラエルに住むユダヤ人は別者なんだとか。

似て非なる民族らしい。

 

 
 

古史古伝に書かれている「五色人」

2019-06-27 19:35:59 | 虚無僧日記
  1. 「古事記、日本書紀、風土記」の他に、「竹内文書」「東日流(つがる)外三郡誌」や

各地の神社に伝わる文献、史料など、「古史古伝」と総称されるものがある。

その量は、何万巻という膨大なものだが、歴史学では、すべて「偽書」として

片付けられている。それにしても、何万巻もの記述をよくも創作したものである。

旧約、新約聖書が神の啓示を受けて書き残されたように、何ものかが、霊的な

教示を得て書き留めたものとしか考えられない。

その中身、古代文字などは、同様のものが、日本各地で同時多発的に発見され

ていることも不思議なのである。

たとえば、「五色人」の話。

『竹内文書』によると、人間の祖は「五色人」。「白人、黒人、黄色人種」のほか、

ネイティブアメリカン系の「赤人」、北欧系の「青人」から成ると。

そして、九州は熊本にある「幣立神宮」には、その「五色神」の面が祀られている。

偶然なのだろうか。

 

 

「五色」といえば、東大寺をはじめ、由緒ある神社仏閣で祭りの時用いる「五色の幟旗」。

天皇即位の儀にも、中央が黄色で左右に赤、青、白、紫(黒)の幕が用いられ。

鯉のぼりの吹流しも五色。黄、赤、白、青、黒の五色。

これみな「五色人」の伝承に基づき、世界融和を表しているものとか。

そうそう、オリンピックのマークも五色の輪。その元は、日本に古代からあったのだ。

 


和邇(ワニ)氏はイスラエル人か

2019-06-27 19:34:27 | 虚無僧日記

和邇(わに)氏は、孝昭天皇の皇子、天足彦国押人命を祖とするが、現在では

その真偽が疑われている。「ワニ」といえば鰐。「因幡の白兎」の伝説でも

登場するが、因幡地方では、今もイルカやフカをワニと呼んでいる。

つまり 「和邇」氏は海を渡ってきた渡来人。海神族(海祇族)で、阿曇

(あずみ)氏とも同族と考えられる。尾張氏とも関係あり、その系図の中には

神宮皇后や、卑弥呼と思しき宇那比媛(うなびひめ)の名も見える。

遣隋使の小野妹子、万葉の歌人柿本人麻呂も和邇氏。他、春日氏など

16もの支族があり、その末流は数知れない。天理、桜井から京都の宇治、

紀伊、諏訪、関東など広範囲に定住して、養蚕、製鉄などの産業を興した。

 

応神天皇以後7代(応神・反正・雄略・仁賢・継体・欽明・敏達)の天皇の

妃が和邇氏の出である。仁徳天皇の後后「八田皇女」も和邇氏。

継体天皇は、最近の説では、武烈天皇で皇統が途絶え、あらたに越前から

迎えられた天皇で、南山城の筒木を都とした。筒木(城)は、仁徳天皇の

前后「磐之媛」が和邇氏の援助で宮を建てて住んだ所である。

そして、難波の都に戻ろうとしない磐之媛に、仁徳天皇が使わした使者は

和邇臣口子(わにのおみくちこ)。磐之媛に使えていた侍女(口比売)の兄。

 

この和邇氏もイスラム系の渡来人ではなかったか。仁徳天皇の前方後円墳の形は、

イスラムの三種の神器「マナの壷」の形に極似している。

仁徳天皇陵

 

 

 


神代の話は旧約聖書から

2019-06-24 09:35:28 | 虚無僧日記


「日本書紀・古事記」に書かれている日本の古代、神代の話は、

ギリシア神話や旧約聖書の話と奇妙に一致する。

まず

「イザナキ・イザナミ」の話は「アダムとエバ」に対比している。

古事記

イザナミが先に口を開く。
「ああ、なんといい男でしょう」(アナニヤシ エヲトコヲ)
イザナギが言う。
「ああ、なんと美しい女だ」 (アナニヤシ エヲトメヲ)
そして二人の間に最初の子が誕生した。
しかし、その子は不完全品だった。                                          

すると、天つ神が言う。
「女から声をかけたのが悪かった。                                                            今度は男から声をかけてみるがよい」と。
こうして、やり直して、完成品が生まれた。

「アナニヤシ」とは、ヘブライ語で「アナニーサ=結婚する」という意味だそうで。

古事記では、女の方から誘ったのがいけなかったと。聖書はエバが                                            食べてはいけないと言われていた実を食べようとアダムを誘惑する。                                          共に、女の方から誘惑したことが“悪い”という設定。

 

ギリシア神話では、妻を亡くしたオルフェウスが冥界に妻を取り戻しにいく。

冥界の王ハデスが、「冥界を出るまで、決して後ろをふりかえらないこと」と命じたのに、

途中でふりむいたため、妻はまた冥界に引き戻される。

日本神話のイザナギも、亡くなったイザナミを取り戻すため黄泉の国を訪れるが、

「決して後ろ(妻)を見てはいけない」という言いつけを破ったため、妻を永遠に

失ってしまうのである。

天岩戸神話と共通する話もギリシア神話にある。

海神ポセイドンが姉の豊穣の女神デメテルに欲情をもよおして追いまわし、                                      

ついに思いを遂げたため、怒ったデメテルが山中の洞窟に閉じこもる。                                          


日本神話でも、太陽の女神アマテラスが天岩戸に閉じこもる原因となったのは、                                      

弟のスサノオの、乱暴狼藉ぶりだった。

そして、女の神が裸で踊りをして、デメテルもアマテラスも出てくる。

スサノオのヤマタのオロチ退治と、ヘラクレスも同じ内容。


神武の東征は、イスラエルの民のカナンへの移住話と類似。

「穴居族テダ族」「キノエトラの年に葦原の国を目指した」。

「キノエトラ」とは「トーラーを授かる」という意味。

「モーゼがカナンの土地に旅立ってから40年目」。

日本書紀では37年目に神武天皇は山に登り・・・」とある。

「ソホリ」と「サハラ」。カナンはヘブライ語で「葦原」。

 歴代天皇の事跡は、それぞれ旧約聖書の記述と一致する。

実在が疑われる天皇は、旧約聖書からとって、むりやり

作文したもの。

そして「聖徳太子(厩戸皇子)」。近年の研究では、「聖徳太子は

実在しなかった。蘇我馬子と同一人ではないか」というのが定説になって

きているが、「蘇我馬子」は「蘇る我」で「馬小屋で生まれた子」というのだから、

「キリスト」を意味していることになる。


くわしくは、

すべては古事記の中に 旧約・新約聖書の国 日本」
 

 

 


日本人のルーツはイスラエル人

2019-06-24 09:33:59 | 虚無僧日記

「へぇそうなんだ」シリーズ。解き明かされた古事記の真実。

純粋な日本人とは何だろう。紀元前7世紀まで、日本列島に住んでいた

縄文人はわずか8万人だった。それが紀元前3世紀ころから弥生人の

流入がはじまり、紀元6世紀、奈良時代には 人口は650万人ほど

と推定される。つまり、1000年の間に、毎年数千人規模の渡来人が来、

多い年は万単位の移住があったことになる。

その中、中国人や朝鮮人のDNAを持つ現日本人はそれほど多くない

ことから、北や南方から海を渡ってきた渡来人の方が多かった。

その渡来人が、イスラエルの失われた10支族の末裔と考えられる。

人口比率から見ても、日本人の多くがイスラエル人の末裔であり、

神武東征の伝説も宗教もイスラエル人がもたらしたものと考えられる

のだ。ジャジャ じゃ~ん。

天皇(すめらみこと)は、「シュメールの王」

皇(みこと)は、「マクト=王」

帝(みかど)は、「ミカドル=高貴な方」

高天原(たかまがはら)は、タガーマ地方のハラン。

カナンの地=葦原の国と意味が同じ

エルサレム=平安京 

ガリラヤ湖=琵琶湖

うずまさ(太秦)=イエス・メシア=ダビデ

 やはた(八幡神)=ユダヤの神

虎の巻=トーラー(律法)

 

 


日本の中のペルシァ

2019-06-24 09:32:11 | 虚無僧日記

「胡」という字は、日本では「ペルシア」を意味する。                                 胡椒、胡麻、胡弓、胡粉、胡楽。

正倉院の御物には、瑠璃(ガラス)椀などペルシア渡来の物が多い。

 白瑠璃碗(由水常雄氏による復元作品)

琵琶の背面に描かれた文様もペルシャでしょうか。ルイ・ヴィトンはこれをパクッたのでしょうか。

「正倉院宝物 ペルシャ美術」の画像検索結果

これは、どうみてもペルシア人の顔です。

「正倉院宝物 ペルシャ美術」の画像検索結果

ということは、奈良時代までに、相当多くのペルシア人が日本に来て                                         

いたのではないでしょうか。当然、ゾロアスター教やイスラムの宗教儀式も                                                

はいってきた。 

推古朝の612年、ペルシャ人に「須弥山の致顎像」を作らせたとあり、この像は               

ゾロアスター教のものでした。仏師・鞍作鳥(くらつくりのとり)のもペルシア人と                

考えられています。「麿」や「麻呂」は「-amar」というペルシャ人の名前とか。

飛鳥寺の伽藍配置も、ペルシャの神界を地上に模倣したものであり、                     

仏教の宗教儀式と考えられているものも、実はペルシャのゾロアスター教の                 

儀式のようです。

『書紀』の編纂者のみならず、当時の知識人はペルシャ語を知っていた。                     

記紀に記された、古代の神の名前が、現代の日本人にはチンプンカンプンで                  

しかも、記紀でそれぞれ異なっており、またいろいろな名前があるのも                      

これがペルシァ人によって作成されたからではないかと、思えるのです。