現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

ステッセルのピアノ

2021-06-16 09:43:31 | 五木寛之

酒井勝軍はロシア語も堪能で、「勝軍」と云う名が縁起がいいと乃木稀介に見出され、日露戦争に従軍し、乃木稀介とステッセルとの会見で通訳を務め、ステッセルのピアノをもらった。と父から聞いた。

ところが五木寛之の「ステッセルのピアノ」によると、ステッセルのピアノと言い伝えられるものは数台あった。
バルチック艦隊のそれぞれの艦船にピアノが積んであったようで、それぞれ戦利品として日本にもたらされた。
そのうちの一台が、五木寛之の本では「行くへ不明」となっているが、それが酒井勝軍に下賜され、万沢家に伝わったものである。

五木寛之の調査もすごい。ステッセルのピアノの謎を解明すべく、ロシアとフランスに渡って、製造元や伝来の跡を克明に調べているのだ。五木氏に情報を提供しておけば良かった。


このブログをきっかけに、疎遠になっていた万沢氏から電話がはいり、「ステッセルのピアノ」のことを聞いてみた。

「両側に燭台があり、相当年代もので、漆も剥げ、ボロボロになっていて音も出ないので、引っ越す際処分してしまった」と、ザンネン。浜松の「楽器博物館」に同様のがいくつかあり、そこへ寄付すれば良かったのにと悔やまれる。

昨日のNHK「フジコ・ヘミング」でも、ドイツで購入して日本に持ち帰ったピアノを800万円かけて、今でも使っていると。

W1SAでステッセルのピアノを訪ねた | コバヒロのブログ W1SA & XL125R 生活

140年前のピアノ」を調べたら… 謎のシュトラウス:朝日新聞デジタル


親鸞は源氏の血筋?

2020-02-04 21:01:18 | 五木寛之

以前の記事ですが、昨日十数人の方に読まれていますので、再掲します。

親鸞は、平安時代の末期から、平家の栄華と滅亡、義経の悲劇、
そして頼朝の鎌倉幕府設立という激動の時代に生きたのだが、
五木寛之は、そうした時代背景にはほとんど触れていない。
歴史好きな私としては、時代背景を調べてみた。というのも、

親鸞は頼朝、義経と縁戚関係にあるという。

親鸞の父は日野有範(ありのり)。親鸞が子供の頃出家し、親鸞は
叔父に育てられた。
親鸞の母は清和源氏・八幡太郎義家(1039-1106)の孫娘・吉光女
(きっこうにょ)と伝えられている。しかし、親鸞は1173年の
生まれで、年代的に無理がある。義家の孫 為義が1096-1156で
ある。同じ孫の為義と77歳も年が離れていることになる。

そこで、以前梅原猛氏が中日新聞に「親鸞の母は、源義朝の娘では
ないか」と書いていた。義朝は源頼朝、義経の父である。義朝の娘
なら頼朝、義経と兄妹になる。親鸞は頼朝、義経の甥子なのだ。

源為義(1096-1156) 保元の乱で子の義朝に討たれる
源義朝(1123-1160) 平治の乱で平清盛に敗れ、野間で家臣に討たれる
源頼朝(1147-1199)
源義経(1159-1189) 兄頼朝の不興をかって平泉で討たれる
親鸞 (1173-1262)

親鸞が生まれたのは、頼朝が29歳で伊豆におり、義経は14歳でまだ鞍馬
に幽閉されていた年。文覚が伊豆の頼朝の下に行き、父義朝公のしゃれ
こうべを見せて平家追討を説いた年である。
頼朝の挙兵はそれから7年後の1180年。この直前、以仁王の令旨によって
源三位頼政が挙兵して失敗。親鸞の叔父日野宗業は以仁王の学問の師で
あったことから、日野一族の養父も苦境に立たされる。
平家が滅び、頼朝が鎌倉幕府を開くのが1192年、親鸞19歳。比叡山で
修行中だ。親鸞が法然の門に入るのは1201年。頼朝の死後2年後のこと。
そして1207年、親鸞は佐渡に流されるが、この時の将軍は頼朝の子の
頼家。親鸞の母が義朝の娘なら、頼家と親鸞は従兄弟同士になる。

こうした源家とのからみについて書いたものは全く無い。
梅原猛は、親鸞の「人は皆悪の心を持つ」という原罪感は、母方の
源氏の血を引くことからきているのではないかと唱えている。

なるほど、母が義朝の子なら、義朝は父為義を殺している。従兄弟の
義経は同じく従兄弟の木曽義仲を討った。その義経は兄頼朝に殺された。
頼朝の子実朝は甥の公暁に殺される。為義以前にも、八幡太郎義家以来
源氏は骨肉相食む血なまぐさい抗争が絶えないのだ。所詮源氏は、野蛮な
坂東の荒くれ武者。親鸞が頼家の従兄弟であっても、佐渡への流罪は
免れなかった。その頼家は、母政子によって殺されるのだ。


「新老人革命」 五木寛之

2016-03-21 17:27:22 | 五木寛之

五木寛之の『老人こそがすべての主役・新老人の思想』


「日本は今、とんでもない超・老人大国に突入しようと
している。かつての老人像と全く違う「新老人」の
思想が必要。それは未来に不安と絶望を抱きながらも、
体力・気力・能力は衰えず、アナーキーな思想を
もった新老人階級の出現である」と。

そして「新老人の五つのタイプ」とは

1.肩書き志向
2.モノ志向
3.若年志向
4.先端技術志向
5.放浪志向

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

まさに、その通り。
今の世の中、65歳以上が25%。4人に1人。
10代、20代の若者を上回る。ならば「市場」は
“プアー(貧乏)な 若者”より “リッチな老人”を
ターゲットにした方がよい。

“若々しい老人” “アナーキーな老人” “自分の
面倒は自分でみる、自立した老人” “放浪志向の老人”
まさに“わが虚無僧の生き方”じゃ。

これを読んでわが輩は、ますます“体力・気力・能力”
充実したでござる。


大河の一滴

2016-03-21 17:23:33 | 五木寛之

大須の古本屋で五木寛之の『大河の一滴』が目に
止まった。50円。すぐ買い求めた。

五木寛之という人、私とそっくりだ。冒頭いきなり
「私はこれまでに二度、自殺を考えたことがある」で
始まる。その当時は真剣だったが、今思い返して
みるとどうしてあれほどまでに自分を追いつめて
いたのか不思議な気がしないでもない。しかしあの
経験をばかげたことだなどとは考えてはいない」

から、生と死、「釈迦は究極のマイナス思考から
出発した」とか、「反常識の進め」。

「腹いっぱい食べるのは10代20代、60歳過ぎたら、
腹五分、1日一食半でいい。医者にはいかない。
検査も受けない。薬もむやみに飲まない。悪い
ところを探そうとするのが理解できない。すぐ医者
や薬に頼ろうとする安易さが気に食わない」とまで
言い切っている。

私の好きな「屈原」の話も出てくる。「濁った河の
水で冠を洗おうとするから苦しむのだ。濁った水では
沓(くつ)を洗えばいい。河の水が清くなったら冠を
洗えばいい」という漁夫の忠言にうなづきながらも、
べきらの淵に身を投じたという屈原の話だ。

五木氏は「屈原に共感しながらも、漁夫の言葉に
なにか大きなものを受け取る気がする」と。



五木寛之 『親鸞』

2013-12-07 21:14:01 | 五木寛之
中日新聞に連載されている五木寛之『親鸞』。

浄土宗が抱える問題を 判りやすく説明してくれている。

「“南無阿弥陀仏”と一回でも唱えれば、それまでどんな
悪事をした者でも極楽に往生できる」と言う者もあれば、
「毎日毎日、何万回も唱えなければ極楽往生はできない」
と説く人。

「造悪無碍(むげ)」とは「何をしてもかまわない。
悪事を働いてもよい。むしろ、悪人こそが救われる」
という考え。
 
これでは、為政者からみれば 法を犯す罪人。弾圧の
対象になる。

これに対して、為政者に取り入ろうとして、ひたすら
善行に取り組むべしと説く道場も生まれる。

各自が勝手な解釈をして、念仏道場を開く。道場の掟に
違反したものは厳しく制裁を加え、そして道場同士が
信徒の獲得で争う。

親鸞の長男「善鸞」は、説教に節をつけて歌い上げる
「唱道」に己の才を見出すが、親鸞は納得しない。

何が正しいのか親鸞も悩み苦しむ。そもそも「悪人
とは何か」が はっきりしないと。

親鸞よ おまえもか!

2011-10-21 14:54:23 | 五木寛之
あああぁぁぁぁぁ とうとうやってしまった。
やってしまって「しまったぁぁ」。

●中日新聞連載、五木寛之『親鸞』から一部転載。

親鸞は目の前の恵信をなぐりつけたいと思った。その
憎たらしい口を、足で蹴り上げたいと感じた。その
気配を察したように、恵信が冷ややかに微笑した。
「なぜ笑う!」
「親鸞様こそ、ご自分をとびきりえらい人間だとお思い
になっておられるのではありませぬか」
「なんだと」

・・(中略)・・・・・

「私の念仏を信じられぬというのなら、二度とその顔は
見とうない。手をついて謝れ。そうしたら許してやる」
恵信はあわれなものを眺めるような目で親鸞を見た。
「二度と顔を見たくないとおっしゃるのなら、そう
いたします。子たちをつれて、越後へもどることに
いたしましょう」
「わたしをおどすのか」
「おどしておられるのはそちらです」
「なんだと」
親鸞は自分がなにをしているのかわからないままに
腰をうかし、平手で激しく恵信の頬を打った。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

あああ、やっちまった。五木寛之の描写は実にリアル。
その後、「親鸞は自分のしたことが信じられなかった。
自分の行為に愕然としている自分と、さらに恵信を
打ちのめしたい自分がそこにいた」と、親鸞の心の
葛藤も書いている。

わかる、わかる。私もこうして別れてしまった。
「あの人と、わかれたワケはなんでもないのよ」という
歌の歌詞が空しく、口をついて出る。

漆黒の闇

2011-09-01 15:25:21 | 五木寛之
8/30 中日新聞掲載 五木寛之『親鸞』

「念仏して病が治るわけでもない、暮らしが楽に
なるわけでもない。ならば、なんのために念仏を
唱えるのか」という民衆の疑問に、親鸞は子供の頃の
体験を語りだした。

「9歳の時、比叡山の奥深くにある横川(よかわ)まで、
重い荷物を届ける役目を仰せつかった。

夜になり、月の光を頼りに深山幽谷の山道を登る。
月が陰れば、漆黒の闇。崖伝いの道を這うように
進んでいったが、滝壺の音が聞こえ、手足がすくんで、
一歩も前へ出られなくなってしまった」と。

私も経験ある。南木曽から大平峠を越える時、夜に
なった。最初は月が出ていたが、雲で月が陰ると、
一寸先も見えない。自分の足元も見えないのだ。

山道は曲がりくねり、すり足で進むが、道の両側に
生い茂る草木が体に触れ、蜘蛛の巣が顔にかかる。
気持ち悪く、不安で全く先に進めなくなった。

そこで身動きせず、夜が明けるまで待つことにした。
すると、時折「カサカサ」と草葉が擦れ合う音がする。
鹿か猪か、何かが居るようだ。一睡もできない。
恐ろしい夜だった。

親鸞の心の闇

2011-09-01 14:54:56 | 五木寛之
8/31 中日新聞 五木寛之『親鸞』

親鸞は「もの心ついた頃から、ずっと心に闇を
感じて生きてきた」という。

「母と子を捨てて家出をした父をうらみ、いつも
けわしい目をしていた母をおそれ、伯父の家に
預けられて居候の身をはずかしく思い、弟たちを
足手まといと感じる自分を憎んだ」と。

そうか、親鸞はコンプレックスの塊だったのだ。
比叡山に登っても、身分の高い学生(がくしょう)を
ねたみ、荒々しい堂衆や僧兵らをうとんだ。

親鸞は、エリートではなかったから出世の道も
閉ざされていた。といって僧兵にはなれない。
自分に絶望していた時、心は黒々とした まっ暗闇の
中にあった時、法然に会い、月の光に照らされた
ような心持になった。

「月が照ったからといって、背負っている荷物が
軽くなるわけでもない、遠くに横川の燈が見えた
からといって道のりが近くなるわけでもない。
だが、私は、歩きだすことができた」

なるほど。念仏は「月」のようなものか。


白山信仰

2011-05-31 03:47:28 | 五木寛之
五木・親鸞で「雨を降らせたのは、念仏か、白山の神か」。

映画『剣岳(点の記)』にも出てきた「白山の山伏」。
一体「白山信仰」って、どれほどのものか、調べてみた。

白山は 加賀、越前、美濃(石川県、岐阜県)にまたがる山。
富士山、立山とともに「日本三名山」のひとつに数えられ、
古代より、山岳信仰の対象として崇められていた。

奈良時代になると 修験者道と結びつき、平安時代には、
僧兵8千人と言われるほど栄え、熊野修験に次ぐ勢力だった。

室町時代になると、南朝方の熊野修験が衰えたため、
白山信仰が日本全国に広まった。

しかし、戦国時代には、一向宗門徒によって焼き討ちされ、
衰退したが、江戸時代になると、加賀藩主前田家の支援に
より中興された。

以上が、歴史的流れだが、白山信仰には、他の日本の神々と
異なる面が見られる。どうやら「朝鮮系の王が祀っていた神」
だったのではないかとも言われている。

祭神は「伊弉冊尊(いざなみのみこと)と菊理媛命(くくり
ひめのみこと)」というのも独自。

菊理媛命(くくりひめ)というのは、『日本書紀』に一度だけ
登場してくる神。イザナギが黄泉の国に召された妻のイザナミを
探しに行ったところ、腐乱した妻の姿に驚いて、引き返そう
としたら、イザナミが追ってきて口論となり、その時 仲裁に
はいったのが菊理媛命(くくりひめ)。

「くくり」は「高麗(こうらい)」の神ではないか」とか、
下北の恐山のイタコ「オシラサマ」は「白山の神様」では
ないかとも言われている。

つまり、「くくり姫」はシャーマン。さらには被差別
との関連もあったようだ。

だから「五木・親鸞」では「白山の神が憑依した、神がかり
したサト」が登場してくるのかと納得。

雨は降った!「親鸞」

2011-05-30 09:08:16 | 五木寛之
中日新聞連載の五木寛之『親鸞』。雨乞いの法会7日目。
ずいぶん、ハラハラドキドキ、やきもきさせてくれた。

7日目の期限が切れ、親鸞はあわや、石もてなぶり殺される
寸前で、「雷鳴が轟き、大粒の“鉛”のような雨が降ってきた」と、
実にドラマチックな演出に ただ ただ 驚く。

それでも「念仏で雨は降らない」。サトという娘に憑依した
白山の神のなせる業か。仏より神の国ニッポンか?。またまた
この続き、明日が待ち遠しい。

こうしてみると、浄土真宗のお坊さん方が説く「親鸞聖人」の
ありがたいお話より、五木寛之の力はすごい。自分の創意では
なく「親鸞が“こう書いてくれ”と自分に言っているのだ」と。

5月29日、早朝のNHK『ラジオ深夜便』は、ゲストが「五木寛之」
だった。やさしい語り口だ。京都に因んだ歌として、五木氏が
挙げたのは、小柳ルミ子の『京のにわか雨』。

「にわか雨」どころか、「今日はどしゃぶり雨」だった。
五木・親鸞が降らせたのじゃ。

そして、2曲目は、沢田研二の『時の過ぎ行くままに』。

『親鸞』の中でサトも言っている。「雨は降る時は降る」と。
すべては「時」が 解決するのだ。