現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

① 九州~山陽道を廻って

2009-08-22 21:45:24 | H21. 8月 九州、中国地方への旅
8/18 8日間の虚無僧の旅から帰ってきました。

毎年、お盆には先祖供養を兼ねて旅に出ます。
今年は、西南戦争で戦死した祖父の兄の墓を訪ね、
大分まで行きました。

事前に、小菊さん、家股さんが手配をしていただき、
また大分護国神社や佐川官兵衛記念館に手紙を送って
おいたので、行く先々でいろいろな方にお世話になり、
有意義な旅でした。

12日午前 豊後高田の「昭和の町」で 虚無僧行脚
   夜  国東市富津の「夕涼み会」の舞台で 尺八吹奏

13日午前 国見町竹田津の大光寺 
      なんと「普化宗の日本開祖、法灯国師開山の寺」でした。

14日午前 臼杵市大橋寺 (西南戦争で警察隊の宿所となった寺)
   夜  大分市に戻り護国神社の「みたままつり」で尺八吹奏

15日  南阿蘇の「佐川官兵衛記念館」と戦死の地
     中津の「福沢諭吉生家」

16日  福岡県豊津の郡長正の墓
     下関「赤間神社」耳なし芳一の像と平家一門の墓     
     
17日  倉敷
     備中高松 清水宗治の墓

18日  京都黒谷金戒光明寺「会津藩墓地」
 

② 8日間で 2,000kmの旅

2009-08-22 21:45:12 | H21. 8月 九州、中国地方への旅
昨年は「青春18切符」で四国一周。旅費は12,000円で済んだが、
各駅停車だとえらい時間がかかる。1日の大半が列車の中だった。

そこで今年は、新幹線と在来線で大分県中津まで行き、中津で
レンタカーを借り、国東半島を一周、大分、臼杵、竹田、阿蘇と
600kmを走破した。12,13,14,15の4日間はレンタカーで移動。

レンタカー代金は1日当たり4,000円。車中で寝れるから、ホテル
代よりは安い。また、しばしば雨に降られたが、雨の時は車を走ら
せているか、車中で仮眠したので、楽な旅だった。

その後、16,17,18 の3日間は、普通列車を乗り継ぎ、下関、尾道、
倉敷、岡山、京都と廻ってきた。

大分まで往復乗車券とレンタカー料金、ガソリン代で5万円。
食事は、三ヶ所でごちそうになった。それ以外は、1日 おにぎり
3個。虚無僧で旅すると、全くお腹が空かない。何も欲しくなく
なるのだ。トイレが困るということもあって、ほとんど食べない。
それでいて、帰宅して体重を量ったら、1kgも減っていなかった。


③ 8/11 大分県中津

2009-08-22 21:44:33 | H21. 8月 九州、中国地方への旅
8/11(火) 静岡で地震があり、新幹線が大幅に乱れた。
夜7時名古屋を発って一路小倉へ。30分遅れで小倉に着き、
日豊線に乗り換え、夜11時過ぎ、中津に着いた。

豊前中津は福沢諭吉先生の出身地。駅構内にも、福沢諭吉の
写真や、『独立自尊』の額が飾られていて、駅前には福沢諭吉の
大きな銅像が立つ。その駅前のバス停のベンチで夜を明かす。

朝5時でもまだ暗い。レンタカーの事務所が開くのは8時半。
それまで市内を散策する。

福沢諭吉通りなどもあって、武家屋敷街や寺町など城下町の
面影を残す。福沢諭吉の生家も行ってみた。以前来た時は
無かった記念館が建っていたが、当然閉まっていて入れず。

中津城は黒い板張りで風情がある。散歩の人もチラホラ出
だした。漸く8時半になって駅レンタカーの事務所が開き、
手続きをして、軽自動車を借りる。

中津を発ったところで雨。散歩中でなくてよかった。
ひとまず国東半島の入り口豊後高田に向かう。


④ 8/12 豊後高田から国東へ

2009-08-22 20:46:42 | H21. 8月 九州、中国地方への旅
レンタカーで中津から国東半島の入り口、豊後高田に向かう。
途中で雨。高田に着くと雨は止んだ。私は“晴れ男”。

豊後高田は、「昭和の町」を“町おこし”にして、町並みの保存と
観光客の誘致に力を注いでいるとのこと。慶応の後輩、小菊さんが
高田の出身で、以前から「虚無僧が似合う町だから是非に」と
勧めてくれていた。

小菊さんが、事前に根回しをしておいてくださったおかげで、
堂々と? 町内を虚無僧で廻る。反応はさまざま。「どう対応して
よいか」困惑げな顔をする人。「お茶でもどうぞ」と勧めてくだ
さった店も。虚無僧のすべりだしは、小菊さんのおかげで好調。

狭い町だから1時間もすれば一巡してしまった。雨も降ってきたので
車で「富貴寺」へ。ここは平安時代のお堂で国宝だ。道路から少し
階段を上った茂みの中に在った。福島県の白水の阿弥陀堂とそっくり。
東と西、1,500km も離れていて、1,000年前の建物がそっくり同じ。
日本は狭いのか広いのか。

さらに車を走らせ、国東半島の反対側の国東市富津に。
カーナビは便利だ。「右」「左」と言われるままにハンドルをきれば
目的地に行ける。ただし「目的地周辺です。音声ガイドを終わります」で
プッツン。あとは自分の直感で探すしかない。

富津は小さな漁師町。家股さんからご紹介いただいた松吉さん宅は
すぐわかった。お祭りの準備で大忙し。祭りが始まるまで、車の中で
仮眠。寝れるときに寝ておくのだ。

⑤ 8/12 富来の「夕すずみ会」

2009-08-20 22:41:54 | H21. 8月 九州、中国地方への旅
「家股」とは珍しい姓だ。父の戦争の時部下だった「家股」さんの
ことをブログで書いたことで、富来(トミク)に住む「家股」さんが
「もしかして親戚ではないか」と手紙が来たのが、ほんの2ヶ月
ほど前。

何度が手紙のやりとりをしているうちに、「お会いしたい」と
私が押しかけてきたのだ。これって「メル友」?。ところが
富津に来てみれば、家股さんは腰痛の手術で大分の病院に入院。
でも田吹さん、松吉さんを紹介してくださっていた。

お二人の名前が偶然?「鈴美(すずみ)」。それでお二人が企画して、
毎夏「夕涼み会」という手作りのお祭りが行われているという。

そのお祭りに「飛び入り参加」させてもらうこととなった。
人通りも全くない閑散とした漁港だが、祭りが始まると、三々
五々、どこから来るのか、すごい人。小中学生の子供も200人
くらい居る。あとで判った。お盆休みで孫子たちがたくさん
遊びに来ていたのだ。

特設のステージでは、地元のサークルだけでなく、手品師や
演歌歌手など県外からも呼ばれて来ている。私もそのうちの
一人。「通りがかりの虚無僧」としてステージに上がった。
そこで、リクエストのあった「千の風」ほか数曲を吹く。

終わってご婦人が近寄ってこられ、お布施を入れてくださった。
聞けば名古屋から帰省している方だった。私の後の「みそら
ひばり」のもの真似の演歌歌手には“おひねり”がたくさん
飛んでいた。ムムム、負けたか。

ま、虚無僧は芸人ではござらぬ。差し出されたおにぎりを
3つもほおばる。これで十分。昨晩から何も食べていな
かったのだ。

⑥ 8/13 国見市竹田津の大光寺

2009-08-20 12:42:38 | H21. 8月 九州、中国地方への旅
夜九時まで、富津の「夕涼み会」を楽しんだ後、海岸べりを
左回りに廻って、国見の「道の駅」で、車中泊。

朝5時過ぎてようやく空が白みはじめる。裏は広い海水浴場
だった。誰もいない。シャワー室があったが、10時まで開か
ない。真っ赤な朝焼けを見る。朝焼けは雨のしるしか。


そして、国見市竹田津の大光寺に行く。
ここも家股さんの友人の花崎さんの紹介先で、事前に手紙を
送っておいた所。だが、今日はお盆のさ中。ご住職は檀家周りで
不在。しかし奥様が、親切にいろいろ世話をやいてくださった。
聞けば奥様は「浪曲師」で、この寺で、浪花節その他イベントを
行っているとか。

奥様の指示で、寺男の人に花崎さんの家まで案内してもらった。
寺男の二人はホームレスだったのを、このお寺の住職が、隣地に
住まわせ、面倒みているのだとか。

花崎さんのお宅で、お昼に天麩羅とうどんをごちそうになる。
家股さんも花崎さんも、地元の人ではない。東京から国東に移り
住んできたIターン組なのだ。

花崎さんは、大学は京都で、観光バスのアルバイトをしていたとの
ことで、東福寺の中の明暗寺についても知っていた。

さて、お昼をごちそうになって、また大光寺に戻ると、丁度ご住職が
法事を終えたところ。次の法事があるようだが、私にいろいろ話を
してくださった。

なんとこの寺は法灯国師が開山とのこと。法灯国師は、「中国から
普化宗を伝えた日本開祖の人」と虚無僧の中で言い伝えられている。

その法灯国師が中国からの帰路、この地に立ち寄ったか、時の帝の
命を受け、名代として宇佐八幡に詣でた時に、この地に上陸したとか。
言い伝えがあるそうな。法灯国師ゆかりの寺とは、正に仏縁、驚きで
あった。


⑦ 8/13 大分市へ

2009-08-20 08:38:31 | H21. 8月 九州、中国地方への旅
8/13 国東半島を半周し、途中、杵築城に寄り、さらに大分市へ。
カーナビのおかげで、護国神社もすぐわかった。家股さんが
入院されている病院もすぐ近くだったので、面会に行った
思っていたより若々しくチャーミングな方だった。すべてが
“神仏の御心”と思えるくらい、入院されたからこそ、ここで
会えたのだ。涙を浮かべて歓迎してくださった。

さて13日の晩は、護国神社では「みたままつり」の初日。
1,000個の黄色い提灯が飾られ、能舞台では、なんと「おじん
バンド」がテケテケテケテケとベンチャーズを奏でていた。
「オールドのみなさんには懐かしい曲でしょう」との言葉に、
自分も「オールドの世代か」と気づかされる。

近くにマックス・ヴァリューがあり、24時間営業とのこと。
深夜、弁当類は「2割引」で売っていたが、何も食べたくない。
氷はただでお持ち帰りできる。トイレもある。駐車場で夜を
明かすことに。


⑧ 8/14 大分護国神社「警察隊墓地」

2009-08-20 07:48:42 | H21. 8月 九州、中国地方への旅
8/14 夜が明けて、護国神社の脇にある「警察官隊墓地」に行く。
西南戦争で戦死した「軍人墓地」は、神社の駐車場わきで、すぐ
わかったが。地図上では、その隣りにあるはずの「警察官隊墓地」は
斜面の下の、木々が鬱蒼と茂っている中だった。

104基の、高さ90cmほどの石塔が整然と並ぶ。お参りに来る人も無く、
ひっそりと佇む小さな墓碑に、涙がどっとあふれ出る。正面に横一列、
ひときわ大きな墓は「警部」クラス。一番左が、旧会津士「佐川官兵衛」
の墓だった。佐川官兵衛は、会津戦争で活躍「鬼官兵衛」とあだ名された。
その武勇を買われて、西南戦争で「警察隊の一等大警部」に採用され、
旧会津藩士300名を率いて参戦した。

私の母方の祖父の兄「山室五郎」も、佐川官兵衛に誘われて、警察隊に
応募し、佐川とともに阿蘇村で戦死したと思っていた。
その「山室五郎」の墓は、入り口から三番目にあった。

墓誌には
「警視局四等巡査 山室五郎 豊後口警視第二号第二番隊 小隊兵
 福島県士族 明治十年六月一日戦死 豊後国臼杵町 齢二十年八月」

山室五郎は臼杵町で戦死したのだ。しかも佐川官兵衛は三月十八日。
それから3ヵ月後。墓は、意外にも鹿児島県や山口県の人も多い。
むしろ福島県は13名で少ない。鹿児島県も14名いる。
山室五郎は薩摩人と共に、西郷軍と戦っていたのだ。

「“戊辰の復讐”と会津人が300名もこぞって西南戦争に参加した」と
いうのは「作家の史観」と、ネットに書き込みがあったのを思い出す。

あふれる涙に、息つまらせながら、『手向』を心静かに吹く。


⑨ 8/14 臼杵へ

2009-08-20 07:04:53 | H21. 8月 九州、中国地方への旅
午前中、県立図書館に行って、西南戦争関係の書を調べてみた。
「ある村の古老の聞き書き」に「警察隊の人たちは大金を持っていた。
お茶汲みをしただけで、女子供にも2円3円と小遣いをくれた。
戦死した人の懐には200円もあった」という記述を見つけた。
現在の米の価格で比較換算すると150万円くらい。当時の平均
月収は1円だったという記録もあり、大変な額だ。

私の頭の中で「会津戦争の死に損ないと“生き恥”を晒すよりは、
“戊辰の復讐!”の大義をかざして、死に場所を求めて行った」と
言われているが、そうではなく、戊辰戦後の生活窮乏から、
“生きるために”、高額の報酬を求めて、参加したのではないか。
警察隊への応募は“生きるため”だったのではないか」と、
考えが180゜変わった。


そこで、予定変更して臼杵まで車を走らせた。大分から臼杵まで
約30km。カーナビは狭い山道へと誘導していく。

ひと山越えて、臼杵の町にはいる。城もあり、武家屋敷も観光用に
残る風情のある町だった。

市役所観光課で、西南戦争に詳しい職員から説明を受けた。
薩摩軍は日向(宮崎)からも、この豊後臼杵に上ってきた。
当時、臼杵城は取り壊されていたので、警察隊と旧臼杵藩士族は
市内の大橋寺(だいきょうじ)を本陣(宿所)にしていた。そこへ
6月1日、薩摩軍が来襲し、警察隊と臼杵藩士族隊が散々に敗れた。
竹田の薩摩軍も臼杵まで来、山中で官軍と戦って勝利している。
西南戦争というと、熊本城の攻防と田原坂の激戦だが、反対側の
宮崎、大分でも激戦があったのだ。

なぜ臼杵なのか? 臼杵は港町だった。官軍の軍艦も来ていた。
山室五郎は、東京から船で小倉を経由し、臼杵まで輸送されて
きたようだ。薩摩軍は、その軍艦を奪おうとしたのか。
この頃まで薩摩軍が形勢有利だったのだ。

さまざまな思いを巡らしながら、臼杵の町を尺八吹いて廻った。
お盆休みで、店はすべて閉まっており、人影が全くない。どこへ
行ってしまったのだろう。お布施はゼロ。

再び、激戦のあったという山道を抜けて大分の護国神社にもどる。