現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

「獅子の時代」全51回 イツキに観る

2016-10-22 18:10:16 | 幕末の留学生

Youtubeで、NHK大河ドラマ『獅子の時代』を観た。

NHk大河ドラマで 1980(昭和55年)に放映されたもの。

慶応3年(1867)から明治22年(1889)までの激動の時代を

全51回の長編で丁寧に描いている。

会津藩の下級武士「平沼銑次(菅原文太)」と薩摩郷士

「苅谷嘉顕(加藤剛)」という架空の人物を中心に、時代が

進展していく。

第一回は 1867年のパリ万国博覧会から幕開け。ここで、

江戸幕府と薩摩との鞘当てがあったことなど、現代の人の

多くは知らない。幕末、幕府だけでなく、薩摩、長洲、

会津藩からも多くの若者がヨーロッパに派遣されていたのだ。

会津藩士「平沼」と薩摩の「苅谷」は、共にパリで知り合う。

そして、会津戦争、函館戦争、西南戦争と、敵でありながら

不思議な友情で 複雑に絡んでいく。

山田太一によるオリジナル脚本で、歴史に翻弄される下級武士、

庶民にスポットを当てて描かれていることが、さまざまなことを

考えさせてくれた。

多くの血を流して成った“明治維新”は、はたして庶民の生活を良く

したのだろうか。最後は秩父事件という農民一揆の軍隊による鎮圧。

そして、自由民権運動を封殺してできた「大日本帝国憲法」の発布で

幕を閉じる。

最近、「幕末・明治維新史の誤りを正す」という本が出た。

「徳川幕府は無能で、維新の志士は優秀だったから幕府を倒し

明治維新が成し遂げられた」と教科書で教えこまれてきたが、

はたしてそうだろうか。「幕府側の人間も十分優秀な人材が多くいた」

というもの。

たしかに、中津藩から出て、幕臣となっていた「福沢諭吉」も、

幕末に欧米諸国を見聞して、文明開化に大きく貢献した。

その福沢諭吉は、「立国は私である」と喝破した。その意味する

ところはいろいろな解釈があるが、単純に受け止めると「明治政府など

私利私欲で 徳川から勝ち取ったもの」となる。福沢諭吉は「幕臣」で

あったことで「ニ君に仕えず」の信念で明治政府の公職には就かなかった。

「獅子の時代」を改めて視聴して、はたして明治政府がやってきたことは

正しかったのだろうか。日清、日露戦争の勝利が、太平洋戦争の敗北の原因

とも言われる。悲惨な結末となったわけだ。「大日本帝国憲法」の下、

多くの庶民が辛酸を舐め、命を奪われた。明治維新は「庶民の幸せ」の

為のものではなかったという思いにかられた。


会津藩からの留学生 その1

2016-10-22 18:09:49 | 幕末の留学生

「獅子の時代」は山田太一による創作もの。実際は。

慶応3年(1867)「パリ万国博覧会」に、幕府は、
将軍徳川慶喜の弟である当時14歳の徳川昭武を
名代として総勢33名の使節団をパリに派遣した。
その中に、会津藩から、横山常守(20歳)と
海老名季昌(24歳)の二人が加わっていた。

横山は、若干18歳で会津藩家老となっていた。

一行はエジプトを経由してフランスに向かった。
万博が終わると、二人は使節団と別れ、ロシア、
プロシア(ドイツ)、オランダ、ベルギー、
イギリスと多くの国々を歴訪し、見聞を広めて、
その年の末に帰国した。

年が開けて慶応4年(1868)正月、薩長との間に
戊辰戦争が勃発。海老名は負傷。

横山は白河口の副総督として出陣し、5月、
白河口の戦いで戦死した。海老名はその後
会津若松町長として会津の復興に尽力した。

 


会津藩からの留学生 その2

2016-10-22 18:07:45 | 幕末の留学生

会津藩から海外に留学した人として、山川浩(大蔵)、
健次郎、捨松の三兄弟妹がいる。

長兄の「山川浩(大蔵)」は、15歳で家督相続。21歳の時
慶應2年(1866)、樺太境界議定会議のため外国奉行
小出秀実のロシア渡航に随行した。パリ万博にも参加している。

戊辰の役では 23歳で家老職。若年寄、防衛総督として指揮。
戦後は、斗南藩大参事となり、斗南への移住と開墾に尽力した。
明治5年(1872)谷干城の推挙により新政府に仕える。
熊本鎮台詰、陸軍少佐。
明治10年(1877)西南戦争では、西征別働軍参謀として
出陣し、西郷軍を破って熊本城の谷干城を助けた。
貴族院議員、男爵。


弟の「山川健次郎」は、
会津戦争時、白虎隊士として戦った。戦後、長州藩士
奥平謙輔の書生となり、また薩摩人黒田清隆の推挙で
明治4年(1871)国費留学生として渡米。イェール大学で
物理学の学位を取得して帰国。帰国後は、東京帝大、
京都帝大、九州帝大の総長となった。


会津藩からの留学生 その3

2016-10-22 18:07:08 | 幕末の留学生

山川浩(大蔵)、健次郎の妹「「山川捨松」は
日本最初の女子留学生5人の1人。

北海道開拓使黒田清隆の「女子にも教育を」との
計らいで、永井繁子(10)、上田悌子(16)、吉益亮子(16)、
津田梅子(9)、山川捨松(12歳)の5人が、明治4年
(1871)岩倉使節団に随行してアメリカに渡った。

使節団は、木戸孝允(長州)、山口尚芳(肥前・佐賀)、
岩倉具視(公家)、伊藤博文(長州)、大久保利通
(薩摩)ら約50名の政府役人の他に、約60名の
留学生が随行しており、その中に兄の健次郎もいた。

捨松は、アメリカの高校、大学を優秀な成績で卒業し、
11年後の明治15年帰国する。しかし、男尊女卑の日本では
女性が就く公職はなく、翌年、薩摩出身の大山巌元帥に
見初められて結婚する。大山巌は、西郷隆盛の従兄弟で、
戊辰戦争では会津攻撃の総指揮官だった。その仇敵
大山巌に嫁ぐとはと、当時大変な騒ぎとなった。

捨松は、長身で面長、洋装がよく似合い、アメリカ仕込みの
高い教養に大山巌が惚れ、捨松も外国かぶれの大山の
ジェントルマンぶりに惚れたという。デートの時、薩摩弁と
会津弁では通じなかったが、英語だとスムースに心が通じ
合ったという。

こうして捨松は、大山巌婦人として「鹿鳴館の貴婦人」として
名声をはせた。

(「獅子の時代」では会津藩士平沼の妹と、薩摩の苅谷が結ばれる)。


1尺8寸だから「尺八」は常識の嘘

2016-10-18 18:40:44 | 尺八・一節切

上野堅實『尺八の歴史』、西川秀利『尺八の研究』は
尺八の起源について、ありとあらゆる史料を網羅し、
実に詳細に論じている。その研究内容は驚くばかりだ。

しかし、お二人とも「尺八はその長さが1尺8寸なので
“尺八”と名づけられた」ということに固執しており、
その前提で論じている。

果たしてそうだろうか。そもそも、古代にそのような
記述は存在しないのだ。

根拠となっている出典は、『旧唐書』に「呂才という者が
貞観3(629)年、12律に対応する12本の尺八を作った」
というもの。

つまり「ドレミファソラシに♭(フラット)5つを足した12音
に対応して長短12本の尺八を作った」というのだから、
長さに関係なく、すべて「尺八」なのであって、「1尺8寸
を基準とする」ということは書かれていないのだ。

私も詩吟の伴奏には1尺3寸の「G管」から2尺4寸の
「A管」まで11本用意している。尺八は「1尺8寸」と
思い込んでいる人たちは、これをみて驚かれる。短い
のも長いのもすべて「尺八」だと云うと、誰もが「1尺8寸
だから “尺八”」という常識に疑いを持つ。


寺田寅彦の尺八研究

2016-10-17 13:50:09 | 尺八・一節切

「寺田 寅彦」は 1878年(明治11)生。1935年(昭和10)歿。

「随筆家」として知られていますが、専門は物理学。
その「理学博士号」を取得した学位論文が、なんと
「尺八の音響学的研究」です。ネットでも見れました。
しかし全文英文で、難しい計算式ばかり。私など
チンプンカンプン。それが 1908年(明治41年)の
ことというから驚きます。

そして、昭和3年に「大阪朝日新聞」に寄稿した一文、
日本楽器の名称』も驚きです。

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●【三味線】 三弦、三線(さんしん)、三皮前(じゃみせん)、
三びせんなどいろいろの名がある。琉球から伝わった「蛇皮線
(じゃびせん)」を日本人の手で作りかえたものらしい。
シナの楽器の「阮咸(げんかん)」と三味線とが同一だとか。
この「阮咸」をシナ音で読むと「ジャンシェン」となるのである。

また元(げん)の時代、三絃のことを「コフジ、コフシ、クヮフシ、
コハシ」など称していた。それに類似の名は、ヨーロッパ、アジア、
アフリカ、南洋のところどころに散在している。たとえば、
トルコの「コプズ」、ルーマニアの「コブサ、コブズ」。
ロシヤ、ハンガリーの「コボズ」などがある。シベリアの
一地方では「コムス」という。(以下、次々と列挙)

●【尺八】 シナの「洞簫(どうしょう)、一節切(ひとよぎり)、尺八」、
この三つが関係のあるらしい。『源氏物語』や『続世継』などに
「尺八」の名があり、さらに「聖徳太子が尺八を吹かれた」という
話がある。「長さが一尺八寸あるいは八分だから尺八」というのは
いかにももっともらしいが、これには充分疑う余地がある。

「唐書」に「尺八を十二本作ったが長さがいろいろある」と
書いてある。正倉院の尺八は「一尺一寸」以下八種ある。

オランダ領インドの島に「シグムバワ」という笛があり、
サモアに「シヴァオフェ」という竹笛がある。ペルシアの
笛に「シャク」というのがある。またトロンボーンの類で
「シャグバット(英)」「サクビュト(仏)」「サカブケ(西)」
なども事によると何か縁があるかもしれない。

「ヒトヨギリ」は「一節切」に相違ないだろうが、これが
「ヒチリキ」の子音転換とも見られるのがおもしろい。

ポーランドには「ピスチャルカ」と称する六孔の縦笛があるが、
名前とともに「ヒチリキ」に類するのが不思議である。

ソロモン群島のある島に存する竹製の縦笛に「ププホル」と
称するのがある。このププホルと『徒然草』の「ボロボロ」とを
並べて考えてみるとだれでもちょっと微笑を禁じ難いであろう。

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ととと・・と。 今日でも知られざる情報が満載。すでに、昭和3年に
「『1尺8寸の長さから尺八』というのは疑わしい」と疑問を
呈しているのだ。今日の「日本音楽学界」は、寺田寅彦から
後退していると言わざるを得ないのです。


大橋鯛山氏のブログに、私のことが

2016-10-14 15:24:48 | 虚無僧日記

邦星堂の大橋鯛山氏。彼の記憶力と博識には舌をまきます。驚異的すごさです。

10/3の記事に私のことが詳しく書かれていました。以下転載させていただきます。

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(大橋鯛山氏のブログから) 

お客から電話で聞かれました。「キュウコウ流という流派が有るらしいのですが、

どういう流か知っていたら教えて下さい」と。タブン牧原一路さんの「吸江流」の事だと

思います。これは流としての実態が有るわけではなく、牧原さんのシャレだと思います。

彼は九孔尺八を使っているので、それで「キュウコウ流」です。冗談が好きな牧原さんは、

また禅にも宗教家なみに詳しい人ですから、シャレで吸江とあてたんだと思います。

この言葉は、盛唐期の禅僧、馬祖道一の「一口吸尽西江水(一口に西江の水を吸い尽くす)」が

本ですが、「何物にも捉われない人とは誰ですか?」の問いへの答えです。

「万物と抵抗なく一体化する」という風に漠然と思っておけば良いんではないですかね。

 

(牧原コメント: なるほど、私は あの「長江(揚子江)の水を一口で吸い尽くす」ですから

すべてのものを抵抗なく受け入れると解釈していました。琴古も都山も明暗も古典も現代曲も

演歌も民謡も、クラシックからポピュラー、ジブリ、「千本桜」まで、なんでも吹く。

尺八は9孔だけでなく、曲に応じて5孔、7孔、8孔、無孔、となんでも使います。

ネプチューン海山氏のスーパー尺八も吹きます。

さて、大橋鯛山氏のブログの続き。

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 牧原さんは九孔尺八を使っていますが、この楽器を使う人って極めて珍しいのです。

これを使いこなすのは至難の業です。プロでは牧原一路さんと杉沼佐千雄さんしか知りません。

大学は牧原さんは慶応、杉沼さんは独協です。牧原さんは堀井小二朗門下で「土曜会合奏団」の

エースとして9孔尺八を吹いていました。余談ですが、皆が牧原さんは堀井先生のお嬢さんと

結婚すると思っていました。それほど堀井先生に可愛がられていました。

(牧原コメント: よくご存知で。恐れ入りました。結婚していたら私は福沢諭吉の曾孫に?)

堀井小二朗と言っても、もう通じる人が少なくなって残念です。7孔尺八の普及は、

この人無くして有り得なかったと思います。実際に普及に一番功が有ったのは 宮田耕八朗ですが、

宮田さんも堀井先生の影響で7孔を採用したのですから。

民謡の方なら「十勝馬唄」は誰でも知ってるはずですが、この唄は堀井先生の作です。

また映画「二十四の瞳」で使われた尺八曲「瞳」もよく吹かれています。

この方の祖父は有名な福沢諭吉です。その縁で一時、諭吉が創業に関わった明治ゴムという会社に

勤めていました。この明治ゴムからは有名尺八家が、もう一人出ています。答えは中村明一さん。

 

(牧原:コメント それは知りませんでした。戦後は尺八一筋でしたが、戦前? 一時期

マックスファクターや明治生命等に勤めていたことがあると聞いていました。しかし、

明治生命の役員の某氏が慶応竹の会の創設に深く関わっていましたが、堀井氏は竹の会との

接点が無いことに、不思議に思っていました)。

 

再び、大橋鯛山氏のブログ つづけます。

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一方、杉沼さんは山口五郎門下で内弟子扱いを受けていたほどの古典の名手でした。それがどうも

古典も5孔も「吹くのが辛くなった」という事です。

つまり音楽的に必然が有って お二人とも9孔を吹いているわけで、「7孔9孔は邪道。

古典は5孔で吹かないと本物の尺八ではない」とノタマウおじさん、試しにこの二人の古典を

聴いてみなさいな。ピカピカの本物だから。古典でも日本屈指の人達ですよ。

 

(牧原:コメント 持ち上げていただいて、ありがとう!)


広告代理店の虚偽請求は当たり前だった!?

2016-10-12 21:56:37 | テレビ・映画・芸能人

大手広告代理店「電通」がトヨタなど100社以上のクライアントと

過剰請求で揉めていたことが明るみに出た。総額で2億3千万円以上の

過剰請求をしており、さらに架空請求まで 行なっていた。

悪質な問題にもかかわらず会見には社長は出席せず、電通は文書で

「複数の不適切業務が行われていた」と公表し、会見でこの点を追及されると、

「不適切という表現をしていますが、不正と読み替えていただいても結構です」

などとふてぶてしく応答したそうな。

私も保険会社の広報部に勤務していたので、事情はよく分かる。

広告代理店は、各社、各営業担当がテレビCMの枠を埋めるために血眼になって

各企業にお願いして回る。「〇〇という番組のテレビCM、30秒空いているので

定価1000万ですが、500万でどうですか」と。日時が明日に迫ってくると

「100万でいいですから、お願いします」と泣きついてくる。

30秒、絶対に空けるわけにいかない。それを見越して、クライアントもギ

リギリまで引っ張って、OKを出す。駆け引きだ。定価で買う(広告を出す)人はいない。

ところで、一つの枠について、何社もの広告代理店、何人かの営業マンが

各企業にお願いして回るので、同時に何社からも契約を取り付けてしまうことになる。

枠は一つだから、数社と契約成立させておいて、放映するのは一社だけとなる。

千代田生命のような ちっぽけな会社は、たまにしかCMを打てないから、はたして

ちゃんと放映されたかどうか、タイマーでビデオを撮って確認する。放映されると

大喜びだ。

だが、トヨタなど大手企業となると、一日に何回も、しかも各チャンネルで

全国ネットで放映されるから、とても全部は確認できない。それで不正が起きる。

代理店は、放映されずとも知らんふりしてきた。値段をダンピングした分

同時多数契約で穴埋めする。そんなことは当然とばかりに、業界の常識だったのだ。

ついでに、今回のオリンピックにまつわる電通の契約は天井知らず。なんで

あんなにかかるのか理解不能。とにかくアバウト。「獲れるとこからは盗る」が

広告代理店というもの。


過労死事件にコメントしてブログ炎上!?

2016-10-12 21:50:37 | 地球人類の問題

電通の新入社員だった高橋まつりさん(24)が 入社9ヶ月で自殺し、

三田労働基準監督署が労災認定していた。残業時間は105時間ほどだった。

この件について、武蔵野大学教授の長谷川秀夫氏が

「月当たり残業時間が100時間を越えたくらいで過労死するのは情けない」

とつぶやいて、ブログが炎上。袋叩きに遭っている。

大学までが謝罪文を公表し、長谷川教授は辞職に追い込まれかねない

状況のようだ。

はてさて、「私も同意見」。なんて云うと、このブログも炎上するか?

「私も会社で寝泊まりしていたし、残業時間は月150時間は超えていた」。

なんて書くと「社畜」とののしられる。今は家庭をも顧みず働くというのは

社会通念に反するようになった。

でも、仕事が好きで、寝食を忘れ、徹夜も厭わず働いて成功した人も多いはず。

 

高橋まつりさんの場合、「仕事がうまくいかず、上司からボロくそに云われ」、

それが自殺につながったようだ。でも、なにも死ぬことはない。

電通に入社したということは、学力、コミュニケーション力、クリエイティブな

能力はハイレベルだったはず。上司の期待も高かったろう。だがまだ入社一年目。

ベテランの上司からみればヒヨコ同然。期待に応えられなくて当然。

 

厚生労働省の「過労死白書」によると、1か月に80時間を超える残業がある企業は

全体の22.7%とのこと。私としては「意外に少ない」と思った。私の知る限りの

若者は みな深夜遅くまで働いている。朝帰りもしばしば。

その反面、夜6時になると、帰宅を急ぐサラリーマンで地下鉄は満員になる。

「こんな時間に帰れるなんて、工場労働者か公務員か。うらやましい」とも思う。

 

厚生労働省は、今後、2万人の労働者を対象に10年間、長時間労働と健康の関連について

追跡調査を行うとのこと。はて、長時間労働だけでは健康を害さないと私は思う。

健康被害は 仕事場でのストレスがあるかないかだ。


「薦僧」と「暮露」と「虚無僧」

2016-10-12 21:34:43 | 虚無僧って?

江戸時代初期まで「虚無僧」ではなく「薦僧」だった。
「薦僧」とは「薦筵(こもむしろ)」を背負って、諸国を
旅し、薦を敷いて山野に野宿する者という意味。

鎌倉から室町にかけて「暮露(ぼろ)」と呼ばれる職業が
あった。「ボロボロ」のボロ布をまとっているから「ぼろ」
と云われてきた。

「薦(こも)」も「薦筵(こもむしろ)」を背負っているの
だから、両者は同じ「乞食」のようなものと、今まで
考えていたが・・・・・。

「暮露(ぼろ)」は、尺八を吹かない。その代わり大きな
傘と扇子を持っている。衣装は「清楚な白の紙子に黒の袴」
であって、決してボロをまとった乞食ではない。
また「慕論字(ぼろんじ)」「梵字(ボンジ)」などとも
呼ばれていたことから、「ぼろ」では説明ができない。

どうやら「一字金輪の呪」「のうまく、さんまんだ、
ぼたなんボロン」を唱えて、布施をいただく仏道修行者で、
「ボロンボロン」と唱えるから「ボロ」と呼ばれたのでは?
と考えられるようになってきた。

これは「高野聖」や「放下(ほうげ)僧」と同じだ。
「放下僧」は「ササラ」を振りながら、「暮露」は
傘の長い柄を扇子で叩きながら、念仏や真言の呪を
節をつけて唱歌したのだ。

「薦僧(こもそう)」は尺八を吹くから、念仏は唱え
られない。念仏を唱える代わりに尺八の音で、
人々の心を慰める存在となったのであろう。

「薦僧」は、発生的には、「時衆(宗)」の歌舞音曲
から独立したのではないかと、私は考えている。