現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

赤穂浪士と尺八

2022-12-06 18:52:58 | 尺八・一節切

12月14日は赤穂浪士討ち入りの日。

高輪泉岳寺の「記念館」に、「原惣右衛門の笛」が展示されている。「一節切(ひとよぎり)」だった。

すっかり褪色し、色つやの無い灰色で、完全に割れていた。

原惣右衛門は足軽頭だが、300石取りで、47士の中では、大石内蔵助(1500石)、片岡源五右衛門(350石)についで、第3位の高禄。刃傷事件の後、屋敷の引き払いを迅速に進め、その日のうちに早駕籠に乗って出立。赤穂に「浅野内匠頭切腹」のを告げた人物。

討ち入りの時の年齢は56歳と高齢。吉良邸の塀を乗越た際 足を挫き、泉岳寺へは駕籠に乗せられて行った。

その原惣右衛門と「一節切」を結びつけるような文献史料は見当たらない。

 


大高源吾」は俳人としても名が知られ、風流人だった。江戸に下った時は、虚無僧に変装していたという説もある。

その「大高源吾の尺八」というのが、「虚無僧研究会」会報『一音成仏』第7号に掲載されている。

紹介者は岩井省法氏。所有者は高松の水原明鏡氏。

原惣右衛門の尺八は江戸時代以前の「一節切」だったのに対し、こちらは2尺の藤巻き、黒光りする見事な尺八。

「元禄戌五年政重」の朱塗り銘と「尺八随一の名人」といわれた『春谷』の刻印がある貴重なもの。

これによって、元禄時代(1700年前後)には、すでに2尺もの長い尺八が在ったことがわかる。

「大高源吾の尺八」とされる由緒が明らかにされていないのが残念。


狂言『楽阿弥』は江戸時代の作か?

2022-06-14 19:12:37 | 尺八・一節切

狂言に『楽阿弥』というのがあります。

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「旅の僧が伊勢参りの途中、伊勢の別保村にさしかかると、
何本もの尺八がぶら下がっている松の木があった。村人に
その由来を尋ねると、その昔、楽阿弥という 尺八狂いの男がいて、
その霊を弔う松だという。ならばと、旅の僧は袖の下より
尺八を取り出して「自分も一曲手向けよう」と短尺八を吹く。

すると、それに合わせるかのように低い音が聞こえてくる。
それは楽阿弥の亡霊だった。しばし、短尺八と大尺八とで
合わせ吹く

「宇治の朗庵主の序(=偈)にも『両頭を切断してより後、
尺八寸中古今に通ず』とあるように、こうして幽明境を異に
する二人が心を通わせられるのも尺八の縁かと言って消えよう
とする。そこで旅の僧が、せめて最期を語らせたまえというと。

「さらば語りなん。楽阿弥は、時と所をかまわず門付けして
尺八を吹くものだから、村人に嫌われて布施ももらえない。
またそれを腹立ちまみれにあちこち行って悪態をつくもの
だから、尺八のように、縄でしばられ、矯められ、炙られ、
のこぎりでひかれ、殺されてしまった。冥土に行っても尺八
への妄執を断ち切れずにいる。この苦しみを救ってくれ」と
言い残して消えた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・メ

狂言だが、楽阿弥の霊が現れて、旅の僧に最期の様を語る
という「夢幻能」の形式になっています。

「1561年に京都の三好邸で演じられた」との記録があり、
狂言の中で最も古く「南北朝頃の作か」と言われています。


しかし、いろいろ疑問点があります。

「われらも持ちたる尺八を、袖の下より取り出だし」は、
1518年成立の『閑吟集』にある句です。

「宇治の朗庵主の頌にも『手づから両頭を切断してより後、
尺八寸中古今に通ず』」という台詞。これは「文明丁酉
(1477年)祥啓筆」と記載のある『朗庵像』に書かれている
頌=偈です。この『朗庵像』を 見知っていて作られたものと
思われます。

ところが、1511年頃編纂された『体源抄』に「一休の作」として
載っている偈では、「両頭を切断してより後、三千里外
知音絶ゆ」とあって「尺八寸中古今に通ず」はありません。

「尺八寸中」が「1尺8寸」と「尺八」を掛けたもので
「尺八が1尺8寸」ということを表しているとすると、
江戸時代に加補されたのではないかという説が浮上して
きます。

となると「文明丁酉(1477)年祥啓筆」という記載も
怪しくなってくるのです。『朗庵像』の頌=偈が、
江戸時代のものとなると、この『楽阿弥』の狂言も
江戸時代の作となります。

もうひとつ、「大尺八と小尺八を吹き合わせする」と
いうことは、室町時代に調子の違う2管の尺八で合奏が
できたのか。1オクターブ違うとなると、1尺1寸の
「一節切」と、その倍の「2尺2寸の尺八」が存在
していたことになります。

決定的なのは、「楽阿弥」がなぶり殺される情景を
「縄でしばり、矯(た)められ、炙(あぶ)られ、のこぎりで
ひかれ」と、尺八の製法を語っていることです。そこが
おかしく笑える「狂言」になっている所以(ゆえん)です。

今日の尺八は、根の方を下に使い、下部を縄でしばって
火にあぶり、若干反らせる“ためなおし”というのを
します。それから、のこぎりで切ります。

室町時代の「一節切」は真っ直ぐで、ためなおしの
必要はありません。今日のような根っ子を使った尺八の
製法が書かれているということは、『楽阿弥』は
江戸時代の作と考えられるのです。

もっとも、水上勉は『虚竹の笛』で、今日のと同様の
尺八が室町時代にも存在し、それは「一休」が創作した
かのような記述になっています。しかし、大徳寺の
芳春院と、酬恩庵一休寺に伝存する「一休の尺八」は
「一節切」です。

これも、私は一休より後世のものと思っています。
その理由は、江戸時代に「一節切」を復活させようと
した際、「尺八」の名にこだわって「1尺8分」に
なります。室町時代の「一節切」は1尺1寸~3寸は
あったようです。




尺八を吹いた殿様、宇土藩主・細川月翁

2022-04-24 02:14:51 | 尺八・一節切

熊本といえば「加藤清正」だが、1632年(寛永9年)清正の子・
「忠広」の時改易となり、豊前小倉城主だった細川忠利が
肥後54万石の領主として熊本城に入った。以後230年に
渡って、熊本は「細川氏」の領国だった。

1646年、細川忠興の四男「立孝」に、熊本市の南西に
突き出た宇土(うと)半島の地が与えられ「宇土藩3万石」が
できる。肥後細川家の分家(支藩)だ。

その「宇土藩」の6代目藩主「細川興文(おきのり)公」は
尺八が大好きでござった。「興文」は享保8年(1723)の生まれ。
延享2年(1745)、22歳で「宇土藩主」となり江戸に住む。
明和9年(1772)、48歳で隠居し宇土に帰り「月翁」と号す。
そして天明5年(1785)、62歳で没するまで、書画、篆刻、
俳句、茶道、などなどの趣味に生き、文化人として領民の
親しみと尊敬を集めていた。

その趣味の一つが「尺八」。藩主在任時から尺八を吹いて
いたと思えるが、表向きは公言できない。そして隠居してから、
堰を切ったように、二代黒沢琴古に師事し、国へ帰るまでの
わずか7カ月で、「琴古流本曲」18曲を習得し、尺八の
製管法までマスターした。そして「尺八譜」や「覚え書き」、
奏法や製管法について、琴古に送った質問状と琴古からの
「回答書」など貴重な史料を多く残した。

自ら製管した尺八の他、「琴古」や「古鏡」作の尺八3管が
伝来している。その他、30本余りの尺八についての詳細な
記録もある。

この「細川月翁公遺品」によって、江戸中期の虚無僧全盛期の
尺八が解明されるのである。内容は虚無僧研究会の小菅大徹師
によって『一音成仏』第20~25号に詳述されている。

「細川月翁公」は虚無僧本寺「一月寺」から「虚無僧本則
(免許状)」を得ているが、虚無僧尺八というよりは、
音楽として楽しんだようだ。1尺3寸管と2尺5寸管との
合奏なども行っている。このことは、狂言の『楽阿弥』で
長短2管の吹き合わせが、事実として行われていたことの
証明となる。

「月翁」は、尺八曲の作曲までしている。琴古流の
「鳳将雛(ほうしょうびな)」という曲は「細川月翁」の
作曲ではないかと云われている。殿様らしい、派手で雅
(みやび)な曲である。

尺八は、上は「宇土の殿様」から、下は“牢人者”、無頼の
輩まで幅広い層に愛されたのだ。


尺八を吹いた殿様 板倉重昌

2022-04-24 02:14:33 | 尺八・一節切

愛知県額田郡幸田町は、江戸時代は「深溝藩」と言った。

「深溝藩」 1万5000石の領主「板倉重昌」は、寛永15年(1637年)
島原の乱鎮圧の総大将として出陣したが、戦果を挙げられず。
江戸から新たに松平信綱が増援として送られたことを知ると、
功をあせって自ら突撃し、討死にしてしまった。

その「板倉内膳正重昌」は尺八の名手だった。
尾張徳川家の古事を綴った「昔咄」の中に、記述がある。

「寛永の頃、公家様(将軍家光)へ御三家普大名衆より
小姓踊りをしくみてあげられしことあり。 これを御国では
殿様踊りと言い表しぬ。 この唄は三味線なく、小鼓太鼓
ばかりの囃子なり。(中略)
江戸お屋敷にて毎日7ッ頃より稽古ありし。 板倉内膳正
(重昌)殿 御心安く出入られ、尺八上手なりしが、 右稽古の
時を見計らって参られ、尺八吹きて合わされしが いと面白かりし。
まもなく原城にて討ち死にあり」。 


江戸時代の初期1630年代に、大名も尺八を吹いていたことを
知る貴重な史料だ。それも、虚無僧尺八ではなく、中世の田楽などの
歌謡に伴奏として尺八を吹いていたことがわかる。

その尺八は、おそらく節が三つの「三節切(みよぎり)」
だったろう。



「尺八」の名称は「長さ1尺8寸から」の嘘

2022-04-19 10:35:16 | 尺八・一節切

「尺八の名称は、その長さが1尺8寸であることから」と、どの解説にも書いてある。中学の音楽の教科書にもそう書いてある。ネットで「尺八」を検索すると、すべてにそのように書いてある。判で押したように。そう、みなコピペしているからだ。

ちょっと詳しいのになると、

『旧唐書』列伝の「呂才伝」に「7世紀はじめ、唐の楽人である呂才が、筒音を十二律にあわせた縦笛を作った際、中国の標準音の黄鐘(D)が1尺8寸だったから “尺八”と名付けた」と。

ところがこれでは、法隆寺や正倉院に伝来した古代の尺八が、みな1尺3寸前後で不揃いであることの説明ができない。

そこで、唐代の「小尺」は8掛けで、現代の「1尺4寸」が「1尺8寸」だったと苦し紛れの詭弁を弄す。すると、

それでは「D=1尺8寸」を基準とするという説明と食い違ってしまう

誰も「原典」を確認していないのが問題。ネットで探して見つけた。

 



『舊(旧)唐書』とは、200巻からなる膨大な書物で、その中の「列伝」150巻には何百人もの人物が載っており、第29の中に「呂才」についての記述がありました。

『舊(旧)唐書』「列伝第二九 呂才傳」には

「能為尺八十二枚,尺八長短不同,各應律管,無不諧韻」とだけ書かれていました。

つまり、呂才は「長さの違う尺八を12本、それぞれ12律に合わせて作ったというのです。

呂才


どこにも、「1尺8寸を基準にして『尺八』と名付けた」とか呂才が『尺八』を始めて作った」とは書かれていません。

尺八は、以前からあったのを、長さ不ぞろいで、音程がメチャクチャだったので、「呂才が12の音律に合わせて12種類の尺八を作った」いうのです。

 


『古事類苑』とは

2021-06-11 23:08:05 | 尺八・一節切

『古事類苑』は、一千巻もの膨大な書物を集めたものです。
その 第262冊「楽舞部」の 第12が「尺八」です。

尺八の項に引用されている文献は次のとおり。
これだけのものを,よくも集めたものです.

「尺八の項の序」

倭名類聚抄・伊呂波字類抄・源氏物語六末摘花・教訓抄・續教訓抄・
唐六典・文獻通考・遊仙窟・和爾雅・日本風土記・?器年山紀聞・
本朝世事談綺・吉野拾遺・廣益俗説弁・羅山文集・『體源抄』・
東大寺獻物帳・信西入道古樂図・西大寺資財帳・看聞日記・龍鳴抄・
享祿本類聚三代格・令集解・舞曲口傳・古事談・續世継・續教訓抄・
梅花無蓋藏・雅遊漫録・人倫訓蒙圖彙・『虚鐸傳記』・和漢三才圖會・
普化宗雑記・雍州府志・萬寳全書・先進繍像玉石雑志・常山紀談・
雨夜燈・俗耳鼓吹・音樂栞・『糸竹初心集』・獨語・翁草・閑際筆記・
鹽尻・傍廂・嬉遊笑覧・閑田耕筆・書言字考節用書・一節切竹律談・
指田流一節切之傳・本朝世事談綺・一思庵之傳書・類聚名物考・
南畝莠言・一話一言・紙鳶・糸竹古今集・小竹笛音調學初傳・
尺八手員目録・竹の根分・一節切温古大全・一節切一家言・洞簫曲 

これを全部精査するのに、あと10年かかりそう。



家康も一節切に執着

2021-06-11 23:05:34 | 尺八・一節切

12/7 短歌会館で私の独演会。
オークションで入手した「一節切(ひとよぎり)」を
公開する。裏孔が二つある珍しい一節切。一つの孔は
祥啓画の「朗庵像」に描かれている「響孔」なのだ。
中国の明笛と同様、薄い膜を貼って、ビリビリと響かせ
るものだ。日本ではこれまで一本も確認されていない。
マスコミ各紙にニュースレリースを送ったが、まだ
どこも飛び付いてこないのは残念。

「家康愛用」と伝えられる「一節切まむち」が、
岡崎市の法蔵寺に秘蔵されている。

小田原北条氏が滅びた時、徳川家康は、北条氏綱の娘
香沼姫に「北条幻庵の一節切を渡せば、北条家を再興
させてもよい」と、手紙を送ったという。北条幻庵は
北条早雲の第3子で北条氏滅亡の前年まで生きた。
幻庵の作る一節切は鳴りも良く、「幻庵切り」として
都まで評判となっていた。それを家康が欲しがったの
である。
香沼姫は、これを拒絶し、その代わり「玉葉和歌集」を
送ったという。「玉葉集」は1312年に撰集された勅撰和歌集。
一節切が、北条氏再興を左右するほどの価値があったのだ。
今その一節切は小田原の山本良久氏によって、香沼姫の
墓とともに大切に維持保管されている。

沼津の耕雲寺には「武田信玄の一重切一対(2本)」が
秘蔵されている。みな公開したがらないので、世に知ら
れず、その価値が認められていないのは残念。





武田信玄と尺八

2021-06-11 23:05:17 | 尺八・一節切

沼津の【耕雲寺】に、「武田信玄の一節切尺八」が
寺宝として伝存している。

虚無僧研究会会誌『一音成仏』(第19号が 昭和60年)に
掲載されている。
書付には「武田信玄公御調法 一重切御笛 壱対」とあり、
藤巻きの、よく似た作りの「一節切」2管だ。

ただし「(石綱氏が)拝見させてもらったが、写真を撮った
ところ、住職がカンカンになって怒りだし、あわてて
逃げ出したが、門まで追っかけてきて、ネガを返せ、返せ
と迫られ、返却する約束で退散した」というようなことが
書かれているので、取り扱いはご注意。

寺としては非公開で、秘しているようで、ネットで検索
しても「耕雲寺幼稚園」ばかりで、尺八の記述は2件だけ
ヒットした。

寺伝では「耕雲寺は、大永年間(1520年頃)太岳和尚が開山。
北条氏との戦いで、武田信玄がこの地まで進軍した時に、
この寺で休憩をとり、そのお礼に太岳和尚に授けた」と言う。

北条との戦いで、武田信玄が沼津に来たのはいつだろうか。

1554年に相模の北条氏康が、駿河の今川領に侵攻する。
永禄3年(1560)今川義元は、桶狭間で討ち死にする。
永禄11年(1567)武田信玄の駿河侵攻が始まると、北条
方も駿河に攻め入り、興国寺城を奪取した。

「太岳和尚が存命だった」とするならば、この頃がリミットだ。

その後も武田と北条氏との対立は続き、元亀元年(1570)、
武田信玄は興国寺城に攻撃をかけたが失敗。

元亀3年(1572)10月3日、武田信玄は諏訪から伊那谷を
経て遠江に出、12月22日「三方ヶ原」で、家康を駆逐。
翌元亀4年(1573)1月、野田城を取り囲んだ。そこで
毎夜、野田城から聞こえてくる「一節切」の音に誘われて
城に近づき、銃撃を受けたという。

信玄は、よくよく尺八が好きだったのだ。


この時の鉄砲傷か、持病がさらに悪化したか、鳳来寺に
1ヵ月留まる。そこで亡くなったのであろう、武田軍は
信玄の喪を秘して撤退する。


尺八は長さに非ず

2021-04-27 10:34:57 | 尺八・一節切


「尺八はその長さが1尺8寸だから、尺八という」と誰もが信じている。

中学の音楽の教科書にもそう書いてある。

しかし、私は子供のころから疑問に感じていた。縦笛の名前をつけるのに、その長さを名前になんかするだろうか。常識的にありえない。

お琴は6尺あるから「ろくしゃく」。三絃は「よんしゃく」、琵琶は「さんじゃく」。横笛は「いっしゃく」なんて名をつけるだろうか?

 

古代の尺八は、1尺1~4寸で長さは不揃いである。1尺8寸の尺八は伝存していない。それなのに何故「1尺8寸」が名前になったのか。おかしい。

結論を言えば、尺八のような縦笛は中国の唐代より以前から存在していた。1万年も前のヨーロッパの遺跡からは動物や鷲の足の骨に孔を空けた笛が出土している。

脛の骨のことをラテン語で「Tuipaチュイパ」という。クラリネット等の縦笛はラテン語でTuipa

そこで、ローマからタクラマカンを経て中国に伝わった縦笛(Tuipa)が、中国では「チーパ」。それに「尺八」と漢字が当てられたわけで、それを日本人は1尺8寸の意味と勝手に思い込んだというのが私の考えである。

「ハンニャーハラミッダー」に「般若波羅蜜陀」と漢字を当てただけで、漢字の意味は無い。それと同じで、「尺八」は「チーパ」に漢字を当てただけで、長さの意味などないのだ。以下詳しく説明しよう。


『古事類苑』の尺八の項の「序」の誤り

2021-04-27 10:34:06 | 尺八・一節切

「尺八」の名称は「その長さが1尺8寸であることから」とする出所の一つが、どうやら『古事類苑』のようです。


『古事類苑』は、明治政府が 1896年(明治29年)から1914年(大正3年)にかけて、膨大な書物を収録編纂したもの。


その『古事類苑』の「樂舞部 三十三 尺八の項」の「序」で、誤った解説が書かれてしまったのだ。
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尺八ハ、シャクハチ、又サクハチノフエトモ稱ス、
蓋シ李唐ノ初メ、呂才ノ造ル所、其長サ唐ノ小尺
一尺八寸、今尺一尺四寸、因テ名ヲ得タリト云フ。

初メ呂才ノ之ヲ製スル器タル、凡十二枚、長短同ジカラズ、
蓋シ古律の黄鐘ハ九寸ニシテ、其音清高ニシテ、人聲ト
近カラズ、故ニ九寸ヲ倍シテ、一尺八寸ト爲シ、上生下生シテ、
以テ十二枚ヲ作リシナリ、

後世ノ尺八ハ、管ノ長サ今尺ノ一尺八寸ナルニ由リ、
亦此名アリ、節三ニシテ、孔ハ古ノ尺八ニ同ジ、

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

つまり、最初に作った尺八は唐の「小尺」の「1尺8寸」だったので「尺八」と名付けた。しかしその長さは、今の「1尺4寸」(42cm)であるという。法隆寺に伝存した尺八が約 42cm であることから、これが基準と考えたのかもしれない。

しかし、正倉院の8本の尺八は、34cm、38、43cmと不揃いであり、説明がつかない。「長短同じからず」なのだ。                                                         

「黄鐘(日本の壱越=Dの音)は九寸だが、これは甲高く人の聲に近くないので、その倍の1尺8寸を基準にして長短12本作った」と補足している。

メチャクチャな話だ。その前に「古代中国の小尺は、今の1尺4寸」と言っているだから、「小尺の9寸は、8掛けで                                                    27cm×0.8=21.6cm。これは壱越=Dではない。F#。
F#が基準とはとても考えられない。話が矛盾するのだ。

そもそも、この「序文」には出典が書かれていない。『古事類苑』の編者の勝手な推測なのだ。“へんじゃ”。
これが「定説」になってしまったとは“大変じゃ”。