12月14日は赤穂浪士討ち入りの日。
高輪泉岳寺の「記念館」に、「原惣右衛門の笛」が展示されている。「一節切(ひとよぎり)」だった。
すっかり褪色し、色つやの無い灰色で、完全に割れていた。
原惣右衛門は足軽頭だが、300石取りで、47士の中では、大石内蔵助(1500石)、片岡源五右衛門(350石)についで、第3位の高禄。刃傷事件の後、屋敷の引き払いを迅速に進め、その日のうちに早駕籠に乗って出立。赤穂に「浅野内匠頭切腹」の報を告げた人物。
討ち入りの時の年齢は56歳と高齢。吉良邸の塀を乗越えた際 足を挫き、泉岳寺へは駕籠に乗せられて行った。
その原惣右衛門と「一節切」を結びつけるような文献史料は見当たらない。
「大高源吾」は俳人としても名が知られ、風流人だった。江戸に下った時は、虚無僧に変装していたという説もある。
その「大高源吾の尺八」というのが、「虚無僧研究会」の会報『一音成仏』第7号に掲載されている。
紹介者は岩井省法氏。所有者は高松の水原明鏡氏。
原惣右衛門の尺八は江戸時代以前の「一節切」だったのに対し、こちらは2尺の藤巻き、黒光りする見事な尺八。
「元禄戌五年政重」の朱塗り銘と「尺八随一の名人」といわれた『春谷』の刻印がある貴重なもの。
これによって、元禄時代(1700年前後)には、すでに2尺もの長い尺八が在ったことがわかる。
「大高源吾の尺八」とされる由緒が明らかにされていないのが残念。