現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

次々に仕事が・・・

2015-08-27 09:36:50 | 虚無僧日記

「けったマシーン」とは名古屋弁で「自転車」のこと。それに引っ掛けて

私の考えた新造語「けったたましい」「蹴った魂」。深い意味はありません。

ただ忙しいということ。

八月は、デイサービスなどへのボランティア演奏が8件。詩吟の伴奏、

お盆の行事や夏祭りでの演奏が3件。それに加えて、10月3日の

能楽堂公演に向けての準備に練習。なにせ「芸術参加公演」を

とりつけたのですから、それなりの企画にしなければ。そして・・・・

名古屋市で大道芸やストリートミュージシャンの登録制度を始める

とのことで、そのオーディションに参加。みごと「承認」を獲得。

これで、虚無僧も公然と、地下鉄伏見駅の構内や市の公園など、

指定された場所で尺八を吹くことができるようになります。

その2は、「ショート・ストーリーなごや」への応募。名古屋市内の

を舞台にした短編小説の募集。入賞すれば冊子になり、テレビ映像化も

される。「虚無僧」をPRするには絶好の機会。自分自身の体験を

小説仕立てにしてみた。締切日の前日になって、「まだ間に合う!」と、

一昼夜で書き上げ、ぎりぎりに提出しました。とにかく「あきらめない」。

「ショート・ストーリー」と「芸術祭参加公演」。どちらも大賞は30万円。

これで借金が返せるぅぅぅぅぅぅ。これ「獲らぬ狸の皮算用」。

 

10月15日には「愛知学院大学」で、19日からはモスクワの

チャイコフスキー音楽院での公演。そのプログラムつくり。

そして、FBとブログで、寝る暇なし。人生最後の踏ん張りです。


今日は何の日 白虎隊自刃の日

2015-08-23 16:59:19 | 虚無僧日記

今日(8月23日)は何の日。ネットで検索すと「白虎隊自刃の日」とある。

であるからして、ラジオやテレビでも、そのように放送される。

しかし これは旧暦なので、しかも、1868年は「閏月」もあったので、

8月23日は、新暦では10月10日頃。東北のことだから、氷雨降り

寒い日だったのだ。

テレビドラマなどでは、白虎隊も官軍と派手に斬り合いをしているが、

戸の口原の会津藩士の戦死者は わずか68名。戊辰戦争では、

刀槍を交えての白兵戦はほとんど行われていない。

私の直接の先祖「牧原源八郎」は、嫡男ではないから「石(ごく)つぶし」。

北会津村の名主「新田」家に寄宿し、村人に 読み書きソロバンを教え、

医術なども施していた。

「官軍、会津に迫る」との知らせに、槍をもって城に向かい、

叔父の「牧原奇平」について戸の口に向かった。「敢死隊」は

郷頭、肝煎、代官、支配役で編成されていたのだ。

だから、隊員は、鉄砲も持たない非侍である。槍と刀では 大砲、

鉄砲には太刀打ちできない。みな逃げ出し退却してしまったと思われる。

白虎隊の生き残り「飯沼貞吉」の証言でも、「一晩中砲声が鳴り響き、

世が明ければ、西軍は続々と街道を進軍してきた」とある。一戦もまじえず、

ひたすら山中を逃げまどっていたのだ。

「牧原源八郎」は、戸の口原で、左腕に鉄砲玉が当たって負傷した。

叔父の「奇平」は、強清水の陣営で、敵を防ぎきれなかった責任を

負って自刃した。「源八郎」は叔父を介錯して、左腕に被弾したまま、

城の南を廻って、北会津の新田家まで戻った。そこで手当てを受け、

一命を取り留めたのだ。その鉄砲玉は、60歳すぎてポロリと出てきた。

その「鉛玉」が当家の家宝になっている。

その時帯刀していた刀は、目貫にも柄頭にも「月の輪五本骨扇」の

家紋が打たれている。これは戦死した時、本人確認ができるようにと、

会津藩士は皆 柄の目貫は家紋をつけていた。

そして鍔は実践用に大丸の鉄鍔。また、鞘には金の粒を隠し入れる

ポケットも細工されていた。なんぞの時、金もいるからだ。

この日、本家の長「牧原一郎」も甲賀口の郭門を守れなかったことで

自刃。その弟が「牧原奇平」。その二人が自決。会津戦争では 一族で

8人が戦死か自刃して亡くなっている。

「源八郎」が 鉄砲傷を負い、城外の名主「新田家」に匿われたことで、

血脈が存続し、私がいる。





会津と長州の友好 その1

2015-08-22 23:10:05 | 会津藩のこと

NHK大河ドラマ『花燃ゆ』。先年『八重の桜』で会津側から維新を

取り上げたのに対して、バランス上、今度は長州となったものか。

仇同士の会津と長州に、最近雪解けムードが漂ってきたようだ。

両藩の友情を示す話がネットでも飛び交ってきた。

その1

禁門の変で長州藩の残党が西本願寺に逃げ込み、それを追って

会津藩兵が西本願寺に長州藩兵の引渡しを求めた。西本願寺は

これを拒否したため、怒った会津藩兵が西本願寺を焼き払おうとした。

この時、会津から西本願寺に修行にきていた「善順」という僧が間にはいって、

「窮鳥懐に入れば、漁師もこれを殺さず」と会津藩兵を説得し、

長州藩兵を救った。この中に品川弥二郎や山田顕義がいた。

僧「善順」は なかなかの 怪傑僧で、4年後の会津落城後にも、

会津と長州の仲をとりもつ大活躍をしているのだ。


会津と長州の友好 その2

2015-08-22 23:09:18 | 会津藩のこと

禁門の変で長州が京から追い落とされてから4年後の慶応4年
(= 明治元年)、形勢逆転。薩長土肥を中心とする西軍が会津を
攻めた。その時、長州の村田蔵六(改名して大村益次郎)は、
「仙台・米沢など周辺の藩を落とせば会津は降伏するであろう」
と、会津への直接攻撃は避けるよう進言していた。会津を
攻めるよう決めたのは、土佐の板垣退助と薩摩の伊地治正治
である。

一ヶ月の籠城戦の末、会津は降伏し、藩士は猪苗代に監禁された。
その中に漢学者として知られた秋月梯次郎もいた。その秋月に
思いがけなくも、越後口の参謀だった長州藩奥平謙輔から一通の
私信が届けられた。秋月梯次郎は、以前萩に旅行し、萩の藩校
明倫館で、長州藩士を前に漢学の講義を行ったことがあった。
このときの聴講生の一人が奥平だった。その講義に感激したと
いう奥平謙輔は、猪苗代に幽閉されている秋月の心中を慮り、
一書をしたためた。しかし西軍参謀とはいえ、私信を会津藩士に
届ける自由はなかったのであろう。さてどうしたものかと思って
いる矢先、河井善順の名が出た。禁門の変の際に長州兵を救った
僧であるという。

そこで、奥平は善順に手紙を託した。厳しい検問をどうすり抜けた
のか、善順は秋月に面会して奥平謙輔からの一書を手渡した。
この手紙に感動した秋月梯次郎は「奥平に会いたい」と、善順の
下僕に変装して謹慎所を抜け出し、新潟まで逃走するのである。
脱走は、見つかれば即死刑である。無事秋月は新潟で奥平に面談
できた。そして「会津の将来を担う少年の面倒を見てもらいたい」
と頼みこむ。
善順は再び猪苗代に戻り、藩の重役と諮り、山川健次郎と小川享の
2人の少年を従僕として連れ出した。他に2人が別行動で脱出
したが、この2人は捕らえられ斬首されている。山川健次郎が
厳しい検問を潜り抜けて新潟まで脱出できたのは、まこと善順の
大胆剛毅な性格と幸運だったのだ。

そして明治4年、山川健次郎は岩倉使節団に随行して海を渡る
のである。妹の捨松も同船していた。


会津と長州の友好 その3

2015-08-22 23:08:48 | 会津藩のこと

河合善順は、その後も東京に潜伏して、東京に戻っていた。
奥平謙輔に、山川健次郎の兄の山川浩(大蔵)を面会させたり、
長州藩士の前原一誠や大村益次郎と酒席をともにしたりして
親交を深め、窮乏する会津藩士とその家族のために、1,000円
もの救済金を引き出したり、藩主の助命嘆願と会津藩再興の
周旋を依頼したりしている。

前原一誠は松下村塾の「四天王の1人」として知られ、師の
松陰からもその誠実さを愛されていた。会津戦争においては
会津征討越後口参謀として若松入りをし、戦後処理にあたった。
この際、会津藩側の立会いを勤めた山川大蔵と知りあった。

前原は戊辰戦争の功により、維新政府でも木戸孝允に次ぐ
位置にあった。後に初代総理大臣になる伊藤博文など、この
時点では小僧っこだった。

山川大蔵らは、会津藩の再興を前原一誠に嘆願した。そして
明治2年、会津藩の再興が認められる。「会津は戦争に負けて
不毛の下北半島に追いやられた」というのは、実は“小説家の
感傷”ということが最近言われはじめた。たしかに、事実は、
「猪苗代か下北がどちらかを選べ」とされ、下北を選んだのは
広沢や山川ら会津藩の重臣だったのだ。

さて、会津藩としては、そのお礼に前原一誠に会津鶴ヶ城に
あったとされる『泰西王侯騎馬図』の半分を贈っている。
その前原一誠は、やがて木戸孝允と対立して、明治9年萩に
下野して不平士族とともに「萩の乱」を起こし、捕らえられて
処刑された。『泰西王侯騎馬図』はその後どう転々としたのか、
今神戸市立博物館(南蛮美術館)に飾られている。重要文化財。



私のメールは goo3360_february@mail.goo.ne.jp


ノルマンディの悲劇 女性は米兵のえじきに

2015-08-15 14:59:02 | 地球人類の問題

米映画 『ノルマンディ上陸作戦』。 アメリカ兵は フランスをドイツの支配から

開放するヒーローとして、かっこよく描かれていた。ところがところが、

この地方では「ドイツ兵を見たら男が隠れ、米兵を見たら女を隠さねば

ならなかった」という証言があからさまになった。

『What Soldiers Do: Sex and the American GI in World War II France

(兵士らは何をしたのか:第2次世界大戦中のフランスにおけるセックスと兵)』

 

米軍では当時「フランス人に対して優位に立つ手段として性欲、買春、レイプ」が

取り入れられていたという。

米兵たちは、ノルマンディーの人々から 「セックスに飢えた荒くれ者」と見られていた。

■「女性を隠せ」、街中いたるところで性行為

 米メディアは、ノルマンディーに上陸した米兵について、キスをする米兵と

若いフランス女性の写真を掲載するなど ロマンチックな視点で、解放者として

描いていた。

フランスは「売春宿」、口説き文句も紹介――米誌プロパガンダ

米誌「ライフ(Life)」は、フランスを「快楽主義者4000万人が住む巨大な売春宿」と表現した。

米軍機関紙「星条旗新聞(Stars and Stripes)」は、フランス女性を口説くためのフランス語

フレーズを連載。「きみ、とても可愛いね」「たばこをあげようか」「ご両親は今、家にいるの?」と

いった会話の糸口を紹介していた。

「GI(進駐軍)は どこでも 所かまわずセックスしていた」。

米兵たちは、女性を見れば既婚女性でさえ公然とセックスに誘い、公園、廃墟と

化した建物、墓地、線路の上など、街中いたるところが性行為の場となった。

全てが両者の合意のもとで行われたわけではなく、米兵によるレイプの報告も

数百件残されている。 

 

これには、「フランス人はセックス好き」という イメージもあった。事実そのようだが、

それで、フランスでは 特に 問題にしてこなかったのかも。

米兵は日本に進駐してきた時も、フランス同様、日本人女性を見ると、優しい言葉で

なれなれしく声をかけてきた。米兵と腕を組んで歩くパンパンの姿はいたるところで

見られた。レイプで殺された女性も 5,000人ほどいたようだが、敗戦国の悲しさ、

騒ぎたてることはなかった。


30年前、ソ連・ミグ25戦闘機 函館不時着の教訓

2015-08-11 18:32:41 | 虚無僧日記

今から40年前の1976年9月6日MiG-25戦闘機が突如、函館空港に

降り立った。ヴィクトル・ベレンコ中尉の亡命事件。すっかり忘れてい

ソ連(当時)からの侵入を やすやすと許してしまった 国防のお粗末さが

露呈したのだ。当時は、低空飛行で来れば、レーダーでは捉えられな

かったのだ。

問題はそれから。ソ連は最高軍事機密の「ミグ25戦闘機」の構造を

日米に知られてはまずいと、戦闘機の爆破を画策した。その情報は

アメリカ軍から伝えられたが。当時、官邸は何も指示命令を発しなかった。

どうして良いか対処法がわからなかった。

北海道の自衛隊は、官邸からの指令がないまま、高射砲、戦車、

戦闘機に実弾を込め、ソ連の襲撃に備えた。

このことは 「シビリアン・コントロール」に違反することとなる。

太平洋戦争は「軍部の独走」と云われているが、いざという時

何もできないのも 恐ろしいことだ。今、中国、北朝鮮からの攻撃の

不安が高まりつつある。自衛隊の能力は、40年前とは格段に

進歩したが、問題は指示命令系統の混乱だ。大丈夫かニッポン。

 

<おまけ> ソ連がひた隠しにしたかったミグ戦闘機の秘密とは?

機体は熱に強いチタン合金ではなく鉄板。電気系統は真空管。

最新鋭、最速と恐れられていたミグ21は、旧式でお粗末なもの

だったのだ。解体に当たったアメリカ人もびっくりしたとか。

ああ恥ずかしい。 


日野葦平の『麦と兵隊』は軍のプロパガンダだった

2015-08-11 16:52:08 | 太平洋戦争

 http://www.dailymotion.com/video/x135573

 2013年8月14日に放送されたNHKスペシャル『従軍作家たちの戦争』を

You-Tubeで観る。「火野葦平」。「日野葦兵」『麦と兵隊』は知っていたが、

出征中に「芥川賞」を受賞し、従軍作家として戦意高揚の旗頭となり、

戦後、それを悔いてか 自殺したとは知らなかった。

戦争中、菊池寛を筆頭に吉川英治ら主だった作家に林扶美子までが、

従軍作家として、戦争に加担していた。

火野葦平は、一度左傾化していたが、検挙されてから転向。軍のプロパガンダ。

宣伝小説を書くようになる。そして、『麦と兵隊』『土と兵隊』『花と兵隊』の

「兵隊3部作」はベストセラーとなり、映画化もされ、戦意高揚に貢献した。

 

しかし、戦後、戦争協力で戦犯に問われ、「国民の多くが飢えに苦しむ中、

兵隊もので、大儲けした」と揶揄され、深く反省していたもよう。

1960年、60年安保発効の5日後の1月24日、自宅の書斎で死去。

享年53。死因は心臓発作と言われていたが、13回忌に 遺族により

「睡眠薬自殺」だったことが公表された。 そうだったのか。合掌


「お盆」は日本の土俗信仰

2015-08-11 14:47:26 | 虚無僧日記

「お盆、、こぼん、どぼん、列島大移動が始まった。

ところで「お盆」って何?。仏教行事かと思っていたが、違うようだ。

ネットでは、「お釈迦様が説かれた『盂蘭盆経』に書かれているもので、

神通第一の目蓮(もくれん)尊者が、あの世に行って、亡くなった母親の

姿を探すと、母は餓鬼道に堕ちて逆さ吊りにされ、喉を枯らし飢えていた。

驚いて、お釈迦様に相談すると、「修行をしている僧、比丘たちのすべてに

食べ物を施せば、母親にもその施しの一端が口に入るだろう」と教えられた。

そこで、修行僧や比丘のすべてに布施を行うと、比丘たちは飲んだり

食べたり踊ったり大喜びをした。すると、その喜びが餓鬼道に堕ちている

者たちにも伝わり、母親の口にも入った」。

なんということだ。先祖供養に名を借りて、僧や比丘に施しをさせる方便

だったか。

釈迦は「神通力」や 「あの世」 を否定しているのだから、このようなことを説く

はずがない。「目連」もインド人の名前とは思えない。というわけで、

「盂蘭盆経」は「偽経」なのだそうだ。

それが判ったからといって、日本人は「お盆」の行事を止めることはしない。

そこが不思議の国のアリンス。日本人の魂の中に「祖先崇拝」は厳然として

ある。結局 「お盆」は「先祖崇拝」の土俗信仰だったのだ。それが仏教の

名を借りて行われるようになった。なんでもミックスしてしまう日本人の寛大さ。

また、四季の変化がはっきりと現れる中、お盆は「一大風物詩」なのだ。