さてさて、静岡から富士山の西側、身延を通って甲州までの
旅もまた ワクワクでした。江戸時代、甲州乙黒(現・山梨県
中央市下河東)には、虚無僧寺の「明暗寺」がありました。
「明暗寺」というのは、京都と越後と甲斐の三か所にあった
のです。
その「明暗寺」のことは別に記すとして、「先祖探しの旅」、
今回は「武川牧原」です。
国道20号線に「牧原」という交差点があります。その辺り
「北杜市武川町牧原」が当家の発祥地ではないかと思って
武田一族の中に「牧原姓」がありました。武川衆の一員として、
信玄に従って三河に進出。信玄が野田城で鉄砲玉に当たり、
蓬莱寺で3ヵ月の療養の末、病死すると、その跡を継いだ
勝頼は長篠の合戦で大敗します。その後、武川衆は武田を
見限って徳川に帰属しました。
当家の先祖も、三河松平郷に一時、潜んだのでしょうか。
「くらがり渓谷」の手前に「牧原」のバス停がありました。
その後、「桜井松平家の忠頼」に仕官し、忠頼が若死にして
お家断絶すると、浜松の水野重仲に仕官、そして紀州新宮へ
移封。さらに会津保科松平家と転籍し、命脈を保ってきました。
会津藩ですので、幕末は「蝦夷・樺太、網走、房総、三浦の
警備」、「京都守護職」、そして「鳥羽伏見」から、日光、
尾瀬、白河に転戦、函館戦争にも加わり、下北半島の斗南
(現むつ市)移住。さらには「西南戦争」で、大分、熊本と
各地に足跡を留めているのです。このうち「利尻・礼文・
樺太」だけがまだ行っていません。
旅もまた ワクワクでした。江戸時代、甲州乙黒(現・山梨県
中央市下河東)には、虚無僧寺の「明暗寺」がありました。
「明暗寺」というのは、京都と越後と甲斐の三か所にあった
のです。
その「明暗寺」のことは別に記すとして、「先祖探しの旅」、
今回は「武川牧原」です。
国道20号線に「牧原」という交差点があります。その辺り
「北杜市武川町牧原」が当家の発祥地ではないかと思って
武田一族の中に「牧原姓」がありました。武川衆の一員として、
信玄に従って三河に進出。信玄が野田城で鉄砲玉に当たり、
蓬莱寺で3ヵ月の療養の末、病死すると、その跡を継いだ
勝頼は長篠の合戦で大敗します。その後、武川衆は武田を
見限って徳川に帰属しました。
当家の先祖も、三河松平郷に一時、潜んだのでしょうか。
「くらがり渓谷」の手前に「牧原」のバス停がありました。
その後、「桜井松平家の忠頼」に仕官し、忠頼が若死にして
お家断絶すると、浜松の水野重仲に仕官、そして紀州新宮へ
移封。さらに会津保科松平家と転籍し、命脈を保ってきました。
会津藩ですので、幕末は「蝦夷・樺太、網走、房総、三浦の
警備」、「京都守護職」、そして「鳥羽伏見」から、日光、
尾瀬、白河に転戦、函館戦争にも加わり、下北半島の斗南
(現むつ市)移住。さらには「西南戦争」で、大分、熊本と
各地に足跡を留めているのです。このうち「利尻・礼文・
樺太」だけがまだ行っていません。