現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

「五木の子守歌・花嫁人形・黒田節・荒城の月」をアップしました

2019-04-27 20:01:37 | 虚無僧日記

https://youtu.be/A3uIOO86-UI?t=7

ピアノの平野則子(ひらののりこ)さんが絶妙なアドリブで

フォローしてくれました。楽譜無しのほとんど即興演奏です。


堀井小二朗作曲「瞳」をアップしました

2019-04-21 19:48:10 | 虚無僧日記

堀井小二朗の代表作「瞳」

木下恵介監督の名画「二十四の瞳」の海外コンクール出品用に

特別吹きこまれました。戦後、大石先生が教職に復帰して

教え子の墓に詣でるシーンのバックに流れました。

涙を誘う場面です。

堀井小二朗 遺愛の 1尺4寸管で吹いてます。

昭和30年当時 1尺4寸管などありませんでしたから、

堀井小二朗師が 帚の柄を切って 作った三節切の尺八です。

聞いてください。

https://youtu.be/2R62osb_xCI


「下がり葉」をYouTubeにアップしました 

2019-04-21 19:30:49 | 虚無僧日記

 虚無僧本曲の「下がり葉」。私の一番好きな曲です。

虚無僧の門付けで吹くには1尺8寸では高いので、2尺管で吹いてます。

錦風流の代表曲で、コミ吹きが特徴です。

「下がり葉」の意味ですが、横山勝也師は「冬、雪の重みに耐える笹の葉、

松の小枝をイメージしてください」と語ってました。

青森、津軽藩士が冬の雪の中、これを吹いた。腹筋を使ってのコミ吹きでは

からだが熱くなってきます。

ところが、実は「一節切」や「能管」の曲に「さが゛りは」があるとか。

獅子物(連獅子、鏡獅子など)で 獅子が登場する時に吹かれるとか。

また祇園祭りで 山車が登場する時に吹かれるとも。

そして、虚無僧の古い流派に「サカリ派」というのがありました。

 

https://youtu.be/rHySeDNlRSg


私の「手向」をYoutubeにアップしました。

2019-04-18 23:18:44 | 虚無僧日記
熊君が私のCDをYoutubeにアップしてくれました。
「稲熊典無 尺八奏者」のサイトか「牧原一路」の動画で
検索してください。
 
 
「手向(たむけ)」2尺4寸(A管)私の葬儀用に吹きこみましたので、
2回くり返してつないであります。
 
https://youtu.be/tKmzmzxI7pQ
 

能楽堂公演「雪おんな」

2019-04-16 16:06:09 | 虚無僧日記

能楽堂公演「雪おんな」

関西吟詩の大会で日本一となった沢田千鶴香の詩吟と語りは圧巻でした。

箏の林鈴花が 直前にくも膜下出血で倒れたため、私が急きょ 私が

箏の代役を勤めました。尺八と筝の伴奏、一人二役です。

https://youtu.be/UnOECpZrW0k 1/3

https://youtu.be/xNYvidpFhJk 2/3

https://youtu.be/SUXo4I3Yr54 3/3

 

全35分 シナリオ、企画、構成 林鈴花

吟と語り 沢田房詠(千鶴香)

箏と尺八 牧原一路 他

 

 


虚無僧と若者路上ライブ

2019-04-09 23:29:13 | 虚無僧日記

21歳の稲熊君。大学にはいってからクラブで尺八を覚え3年。

昨年秋、都山流準師範に主席で合格した。

もうなんでも吹く。琴古流や明暗本曲も習いたいと

私のところへ来た。一通り教え、山本邦山作曲の「竹」や

ネプチューンの「青風」なども教えたところ、

「ぜひ路上ライブをやって、ツイッターで拡散してもらいましょう」と。

4月6日土曜日、名古屋駅の南、笹島の交差点で実行。

なんと私は虚無僧スタイル、彼はスーツにネクタイ。

私71歳、彼21歳。歳の差50歳。

このアンバランスが注目の的。私一人では、どうも不審がられて

みな素通りしてしまうが、彼の方が一目を引き。

若い人が立ち止まり、スマホで撮っとくれる。

台湾からの旅行者(女性)がしばらく立ち止まって聞いてくれた。

なんと、台湾で尺八を習っているという。台湾には

尺八協会の会員だけで1000人もいるとのこと。名古屋より多い。

そしてまた「一路さんですね、ブログ見てますよ」と声をかけて

くださる方も。私も少しは顔が売れてきたかな。

 

 

Youtubeで見てください。

https://youtu.be/CGZDH2dSymg

 

都山流楽会名古屋支部の師範クラスは300人いる
という。1年に1人が1人、会員を増やせば300人。
10年で3,000人になるのだが、この10年で、どんどん
減少傾向にあるとか。顔ぶれをみても高齢者が多い。
年寄りの中に若い女性が数人。20年後に生き残って
いるのは、この女性だけか。

琴古流はほとんど形(なり)を潜めている。100人いる
だろうか。名古屋には、この他、竹保流と西園流、
そしてわが吸江流がある。いずれも20年後には絶滅
危惧種だ。


 


虚無僧 芭蕉とは?

2019-04-09 22:47:57 | 虚無僧日記

芭蕉といえば「松尾芭蕉」。あの芭蕉が「虚無僧」だった?。
いや、別人らしい。

仙台に「芭蕉の辻」という地名がある。松尾芭蕉も『奥の細道』を
旅し、仙台に赴いている。芭蕉は幕府の隠密で、伊達藩の動向を
探るために仙台に行ったという説もある。

ところがところが、仙台の「芭蕉の辻」は、松尾芭蕉が
仙台に行く前からあった。なんと「芭蕉という名の虚無僧が
いて、伊達政宗のためにスパイ活動をしていて、その功に
よって、この四辻の地を与えられ、その地を「芭蕉辻」と
呼ばれたとのこと。

幕府隠密「松尾芭蕉」が通った所が、伊達家お抱えの隠密
虚無僧「芭蕉」が住んでいた場所とは、松尾芭蕉もどう思った
ことか。

虚無僧の「芭蕉」については『虚無僧の謎』(岡田富士雄)に
載っていた。通称は「六左衛門」。「閑斎」と号した。もとは
長州の人で虎渓の推挙で 伊達忠宗に召し仕えた。名取市増田に
「不退軒」を建て住す。「不退軒」はその後「布袋軒」となる。
「伊達忠宗」は正宗の子で、1639~2代藩主。芭蕉が仙台に
着いたのは 1689年。丁度 半世紀後。

「虚無僧が藩のお抱え隠密だった」とする話は、『虚無僧の謎』
に数件載っているが、越後村上藩の明暗寺看主「文仲」が、大坂
夏の陣で家康の危機を救ったなどというのは、すべて虚言。後世
の作話なのだ。「芭蕉の辻」も「芭蕉の木が植えられていたから」
という説もある。そちらが正しいか。ざんねん


福沢諭吉と生命保険

2019-04-08 19:19:25 | 社会問題

生命保険の制度を日本に初めて紹介したのは福沢諭吉。
福沢諭吉は慶応3 (1867) 年欧米を視察し、翌慶応4年
(1868) 『西洋旅案内』を出版した。この年はもう明治元年
となる。

この『西洋案内』の下巻に「災害請合いの事」として
損害保険のことが詳しく書かれている。そして「生涯
請合いの事」としては2ページ。  

「組合を立て、人の生涯、達者の内に年々何ほどかの
金を取りて、もしその人病気を煩い、渡世の出来ざる
ようになれば、死ぬまでの手当てを年々組合より払い
戻し、また約束次第にて、死後の妻子を養うこともあり」

「病気で働けなくなったら、死ぬまで」というのだから
『所得保障保険』か。「死後の妻子を養う」というのが
「生命保険」だ。

また「老年に及んで不幸にして妻子を失い、死後の心掛け
なき様になりし者は、それまで払いし金を自分生涯の内に
取り返し、安楽に命を終えることもあり」という。

『養老保険』の満期金か『年金』のようだ。

これだけの記述を読んで、13年後に「共済五百名社」を
設立したのが安田善次郎。これが安田生命の前身となった。
明治13年には、まだ「生命保険」という言葉は無かった。
 


千代田生命って?

2019-04-08 19:18:01 | 社会問題

千代田生命は、第一生命に遅れること1年半後の
明治37年(1904) 門野幾之進によって創業された。
「相互会社」としては、第一に次ぐ2番目の会社。

門野幾之進は、鳥羽藩の家老の家に生まれ、14歳で
慶応義塾に学び、16歳で教鞭をとり、以来31年、
福沢諭吉の後をついで塾頭にまでなった。しかし
「英語の成績が60点以下の者は落第」という校則を
作ったことで、塾生の反発を招き、塾を退いた。

長年教職にあったが、福沢諭吉が説いた生命保険
の理論を実業に生かすべく保険会社を設立した。
それが千代田火災と千代田生命。48歳の時だ。

時代は丁度、日露戦争が勃発した年。国は、富国
強兵のために八幡製鉄や造船業などの基幹産業を
起こす金が必要だった。

契約者から預けられた掛け金は、そうした基幹産業
に貸付けられ、国威高揚の一翼を担う役割があった。

「人生50年」、平均寿命50歳の時代、もう現役を
退いて隠居の身となってもよい年回りだったが、
門野幾之進は、生損保会社を立ち上げ、みずから
全国を行脚して、生命保険の普及に努めた。
 
全国に散らばる慶応義塾のOBを訪ねて廻ったのだ。
まだ清水トンネルも開通していなかったから、
新潟に行くには、草鞋を履いて三国峠を越えたという。

塾出身者はたいてい地方では名家であり、それなりに
事業で成功していたから、行く先々で教え子たちの歓迎
を受け、代理店を引き受けてくれた。

だから、わずか1年で契約は1万件を越え、先発の
第一生命を追い抜いた。千代田生命は戦前まで、日生、
第一、明治と肩を並べる大手生保だったのだ。

というわけで、千代田生命は「慶応閥」で「三田生命」
と揶揄されたほどだった。経営破たんに陥ったのも
「お坊ちゃん経営」だったとも。