現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

金戒光明寺

2018-08-27 14:21:44 | 会津藩のこと

もう10数年前のこと。京都駅でタクシーに乗り、
「黒谷へ」と告げたら、「お客さん“通”ですね。
会津藩関係の方ですか?」と聞かれた。
そうなのだ。NHKで香取慎吾の『新撰組』を
やるまでは、「黒谷の金戒光明寺」は観光地から
はずれていた。京都御所から丸太町通りを東へ、
平安神宮の北側にある大きな寺院だ。

幕末、会津藩が京都守護職を引き受け、ここが
藩士1,000名の駐留地となった。蛤御門の変、
そして鳥羽伏見の戦死者352柱の墓がある。
私としては「黒谷の本陣」としてしか興味が
無かったのだが、ここは法然上人が初めて
草庵を結び、念仏行を広めた所だった。


ところが、会津藩士は藩祖保科政之以来、徳川
家康が東照宮に神として祀られたことに倣って、
全員神道なのだ。私の先祖の墓も「牧原宗仲
彦神霊」と刻まれている。というわけで、浄土宗
の寺地内にはあっても、ここだけ別地なのだ。
しかし、光明寺で管理していただくために、
なにがしかの「供養料」を納めている。
その出資者の銘板に私の父や叔父の名前も
あった。

そしてまた、塔頭のひとつに、近世箏曲の始祖
八橋検校の墓所「八橋寺」がある。京都銘菓の
「八つ橋」は、橋ではなく「琴」をイメージした
ものとか。近くに修験道(山伏)の聖護院もある
から「聖護院八つ橋」となったそうな。

さらに、熊谷次郎直実、春日の局、山中鹿之助、
山崎闇斎の墓もここにあると知った。山崎闇斎も
会津藩の御用儒学者だった。


会津藩祖保科正之は神式で祀られた

2018-08-27 14:20:33 | 会津藩のこと

 会津藩祖「保科正之」は、二代将軍「秀忠」がお女中「お静の方」に

生ませた子である。御台所「お江」から命を狙われ、信州高遠の保科家に

預けられて育てられた。三代将軍となった「家光」もまた、「お江」から

疎まれていた。そこで「お江」がこの世を去った後、「正之」と「家光」は

兄弟の対面をし、以後、「正之」は「家光」の片腕となって江戸幕府の

組織固めに取り組む。「保科正之」は「朱子学」と「卜部神道」を信奉し、

そのため、仏教を排斥する。

北の守りとして「会津23万石」の太守に任ぜられた時、会津の郭内に

あった仏教寺院をすべて郭外に移転させ、自らは磐梯山麓に

「土津(はにつ)神霊」として、神道で祀られている。この時、重臣の間で

神式で祭るか、仏式にするかでもめた。「家康は東照大権現」として

祀られたが、二代将軍「秀忠」も三代「家光」も実は仏式だった。

ただし「家光」の廟は日光東照宮に隣接する輪王寺にもある。

保科正之は、島原の乱後、キリシタン禁制を徹底するため、国民の

すべてを仏教寺院の檀家制度の中に籍を置くよう命じた人である。

それなのに、正之は仏式ではなく、神道で、そして会津藩士は皆、

藩祖にならって仏教から神道に改宗させられた。

会津藩士は大方会津盆地の東に連なる小田山、大窪山、青木山の

山麓に神道で葬られている。当家も先祖代々「神道」である。

 


津川・長門両氏は 私の遠戚?

2018-08-26 03:43:13 | わが家のこと

長門裕之氏についで、朝丘雪路さん、津川雅彦氏も亡くなられた。

先祖を辿れば、「人間みな兄弟」。

叔母が「津川雅之とは遠い親戚だ」と言っていた。
「曾祖母の弟の孫が、津川雅之の母の前夫の娘と結婚して
いる」という。

もう わけわからない遠いつながりだ。

津川雅彦、長門裕之の母親「マキノ智子」は、「日本映画の
父といわれた 牧野省三の四女で、妻子ある月形龍之介と
不倫に発展。駆け落ちをした挙句、一女を儲けている」
とのこと。

その女性が 曾祖母の弟の孫「T」と結婚した。
「マキノ智子」は、その後「澤村國太郎」と結婚。長門裕之・
津川雅彦の兄弟を生んでいる。

というわけで、津川雅彦・長門裕之と 私は「血」は
つながらないが、「T」氏の妻の葬式には、津川・長門
両氏は「異父兄弟」ということで 参列していたそうな。

なお「T」氏の妹は「犬養毅」の息子と結婚している
そうな。



池月映『合気の創始者武田惣角』

2018-08-26 03:23:01 | わが家のこと

以前に書いたものを再掲です。重複しますが、武田惣角と当家の関係について

 

池月映著『合気の創始者武田惣角』によると「武田惣角」は

大東流合気術の中興の祖、「合気」の造語者とも
言われる武術家ですが、その生涯は謎に包まれ、
小説家によるフィクション(創り話)が一人歩きして
います。池月映氏は福島県郡山市在住の作家で、
「武田惣角」の関係者を取材して、その実像を
解明してきました。会津出身でありながら、
士族ではなかったため、会津では全く無視された
存在でした。

その中で、「武田惣角」に剣術を教えた 士族の
「佐藤忠孝」という人の妻が「牧原一郎」の五女
「ヤオ」。墓も確認されています。
「佐藤忠孝」は「武田惣角」の隣人で、その妹が
「惣角」の妻となっていますから、「牧原ヤオ」は
「惣角」の義姉となります。

私と血はつながりませんが、「武田惣角」が遠戚に
あたるとは、驚き桃の木。にわかに「合気道」に
関心を持ちました。

ロシアでも合気道は盛んです。前回、モスクワに
行った時、「ヤポンスキー(日本人)、ストロング
(強い)」と、試合を挑まれました。ロシア人は
“おそロシア”。中学時代、柔道部だった私ですが、
ヒグマのようなロシア人相手では歯がたちません。




合気道の祖「武田惣角」とその弟子「植芝盛平」

2018-08-26 03:08:55 | わが家のこと

池月英氏から「武田惣角」について、ご教示いただき、
合気道について関心が でてきた。

「武田惣角」は「大東流合気柔術」の開祖として、
「大東流」のホームページにいろいろ書かれて
いるが、その伝承について池月英氏は、いくつか
誤りを指摘されている。


「武田惣角」は会津の生まれ、剣、棒、半弓、杖、
手裏剣など武芸十八般に熟達し、槍は宝蔵院の
印可、剣については小野派一刀流の免許皆伝。

全国各流の道場を巡って技を練磨するとともに、
九州の鵜戸明神、日光の二荒山、出羽の羽黒山などに
参籠祈願し、心身鍛練を続け、その敵無しの剣は、
「会津の小天狗」と恐れられた。身長150センチに
満たない小男だったが、眼光は鋭く、その技は
入神の域に達し、 人の過去現在未来を 会う前から
察知していたという。

だが、会津人で彼を知る人は少ない。武田惣角は会津藩士と                                    自称しているが、実は相撲取で武士ではなかった。                                        詐称しているためか、会津には戻っていない。                                          それで会津では知られていない。

合気道を創始した「植芝盛平」は「武田惣角」の門人。

「You-Tube」には、その「植芝盛平」の映像が
いくつかアップされている。「植芝」も5尺(150cm) に
満たない小男で、巨体を、いともカンタンに投げ飛ばす。
ほとんど、体に触れないうちに倒される。「気」の
すごさは圧巻だ。

映像のほとんどが、英語版で、海外からのアップだ。
今や「合気道」「柔道」「尺八」は、日本人から離れ、
外国人の ものとなったか。


武田惣角と易

2018-08-26 03:07:46 | わが家のこと

またまた、池月英氏から、コメント欄に貴重な情報が
寄せられたので転記させていただきます。

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武田惣角は陰陽五行の易、医術、気合術、霊術の足止め術を
会得しております。
隣りの塩川村に、呪い治療と易を無料奉仕した易師「万之丞」がおり、
彼に学び、気を自在に操り、柔術に導入して「合気」を会得した
ことになります。

会津の修験は、ほとんどが天台宗本山派ですが、易師は真言宗
成田山新勝寺で、湯殿山修験を修行してますから、私の真言
密教説は正しかった。秘伝9月号で発表したら、最近の古書市場
アマゾンで「合気の発見」は定価の5倍になりました。

隠されていた重要人物は、隣りの佐藤忠孝(妻やお)と、
忠孝と親しい柔術家長尾清、易師万之丞でした。

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この「佐藤忠孝」の妻「やお」が「牧原」から嫁いだ人とのこと。
子孫がおられるなら、会ってみたい。叔母の嫁ぎ先も「佐藤」
なので、同族ではないかという気がするのだ。


「武田 惣角」とは

2018-08-26 02:00:22 | わが家のこと

「武田 惣角」について、Wiki-pediaに載っていました。

安政6年(1859) 生まれで、昭和18年(1943年)青森で
亡くなっている。84歳。

武術家で宮相撲の力士でもあった会津藩士・武田惣吉の次男として、
福島県河沼郡会津坂下町で生まれた。幼少か ら相撲、柔術、剣術
(小野派一刀流、鏡新明智流)、槍術(宝蔵院流)などを学んだ。

(注:「会津藩士」というのは誤り。相撲取は武士ではない)

父「武田惣吉」は 、宮相撲の力士だった。
四股名は白糸。剣術、槍術、棒術、柔術の達人でもあり、戊辰戦争
には 250名を預かる力士隊の隊長として参加している。

なななんと。私の先祖「牧原奇平」は、戊辰戦争時、62歳だったが、
西軍が母成峠を越えて猪苗代に迫るの急報に、僧侶や力士を引きつれて
戸の口原に向かった。会津藩兵は 越後や日光方面に出払っていて、
城下には、老人子供しか残っていなかったのだ。この時、白虎隊も
共に出陣している。そして防戦空しく、牧原奇平は強清水で自刃。
白虎隊は飯盛山まで退いて自刃した。

牧原奇平と武田惣吉は、この時共に戦っていたのだ。「惣吉」の子
「惣角」は、この時まだ9歳。

明治10年 西南戦争の時、「武田惣角」19歳。「西郷隆盛」軍に参加
しようとして、九州に向かったが、検問厳しく、西郷軍に合流 叶わず、
西南戦争後は九州を皮切りに各地で武者修行したという。

会津藩家老「西郷頼母」も薩摩の「西郷隆盛」と親交があったらしく、
「西郷隆盛」との関係を疑われている。

作家「司馬遼太郎」や「中村彰彦」氏によって、「西南戦争では、
旧会津藩士が大挙 警察隊に応募し、“戊辰の復讐”と、西郷隆盛軍に
向かっていった」かのごとく書きたてられているが、会津人でも
「西郷隆盛」を慕う人はいたのだ。意外な事実だ。


「武田惣角」は、明治21年(1888年)会津坂下町に戻り、佐藤忠孝の妹と結婚し、
佐藤忠孝の妹と結婚し、長男と長女をもうけた。
(この佐藤忠孝の妻が「牧原一郎の娘 やお」)。

明治31年(1898年)、霊山神社の宮司をしていた元会津藩家老「西郷頼母」より
「剣術を捨て、合気柔術を世に広めよ」と諭され、剣術の修行を止めて、
大東流合気柔術の修行をしたという。

その後、惣角は全国行脚して大東流合気柔術の技法を教授し、数多くの門弟を育てた。

大正元年(1912年)頃、惣角は北海道で再婚し、以後、北海道を本拠地とする。
そして、太平洋戦争中の昭和18年(1943年)青森県で客死した。享年84。

「武田惣角」を扱った作品

津本陽 『鬼の冠』(新潮文庫)
今野敏 『惣角流浪』(集英社文庫)
今野敏 『山嵐』(集英社文庫)
池月映 『会津の武田惣角 ヤマト流合気柔術三代記』(本の森)
安彦良和 『王道の狗』
松田隆智 『拳児』
夢枕獏 『東天の獅子』(双葉社)


「牧原やお」は「武田惣角」の義姉?

2018-08-26 01:04:27 | わが家のこと

会津藩家老の西郷頼母(たのも)は、会津藩のお家芸
「お式内」の伝承者であり、それを会津のお抱え力士の
家に生まれた「武田惣角」に、「大東流柔術」として
伝えたという。

この「武田惣角」について研究されている「池月英」と
いう方から、私のブログに、情報が送られてきた。

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「明治9年の新戸籍に、士族「佐藤忠孝」の妻「やお」。
牧原一郎の娘(勘太輔の妹)で、会津坂下町中町に住んでいた。

「佐藤忠孝」は、会津藩士(御供番百石)で、会津戦争後、                                     会津坂下(ばんげ)御池田村の「武田惣角」の貸家に住んでいた。
そして「忠孝」は、力士の「武田惣角」に剣術を教え、坂下の
渋谷道場に一緒に通っ仲で、佐藤忠孝の妹「コン」は
「武田惣角」の妻になった。

「佐藤忠孝」は、坂下(ばんげ)で、小学校の教師をしており、
「(牧原)やお」との間に、三男六女が生まれた。

「やお」は、明治40年3月14日死去(50歳)霊号「八尾姫」
青津村亀ヶ森の墓地に葬られたが、その後、隣の青木村に移転し、
正徳寺に佐藤家の墓があり、「やお」の墓碑銘もある。
 
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つまり、「武田惣角」の妻の兄が「佐藤忠孝」で、「忠孝」の
妻が「牧原やお」。血はつながらないが、「牧原やお」は、
合気道の始祖「武田惣角」の「義姉」ということになる。

そして武田惣角に武術を教えたのは「牧原やお」の夫佐藤忠孝。

佐藤忠孝も牧原一郎も殿さまの「供廻り(SP=護衛兵)だったのだ。


「名古屋叢書」法制編 夜は尺八吹くべからず

2018-08-13 08:13:40 | 虚無僧日記

NHK BS『鳴門秘帖』 オンデマンドで10回通してました。

オープニングで虚無僧姿の法月玄之丞が尺八を吹きながら登場。

早速ダメ出し。虚無僧行脚は「日の出から日没まで」と決められていて、

さらに、虚無僧でなくとも、夜尺八を吹くのは禁止されていました。

その曲が、ピピピーとやかましい。虚無僧が吹く本曲は、もっと心静かに

心の底に響くように吹いてほしいもの。深夜に高い音で細かいフレーズで

吹かれては、まったく迷惑。

着物も柄物でなく、無地の浅葱(あさぎ)か、無紋の黒、または白で

あってほしかった。あれではただの遊び人。

「名古屋叢書」第三巻 法制編(2)

p.517 「口上の覚」 元文5年(1740)

「近年、町人共尺八を吹き、このあいだは、別して、夜に

吹き歩き、不行跡之儀もこれある由 相聞こゆ。

就中(なかんづく) 、本則(虚無僧の証明書)を

所持せしめ候由にて 薦僧に罷りなる修行と申しなし

慰みに歩き、強儀なる者も之れ有る由、相聞く。

町人不都合の所行。不埒の至りに候。

これ以後、修行(門付け)に出で候儀は勿論、

夜中共に堅く 尺八吹き歩き申す間じく候。

もし、違背の者 之れ有るにおいては、相改めさせ、

吟味の上、急度(きっと) 申し付くべきこと。

右の趣、御役所より仰せ渡され候間、庄屋、町代・

組頭、承知致し、町内洩らさずように入念に

申し渡され候 以上 

(元文5年=1740) 9月18日 花井八郎左衛門

      町中町代衆    

                        長者町印

                     

 

 


こうの史代 『 この世界の片隅に 』

2018-08-06 14:56:22 | 太平洋戦争

こうの史代の漫画『この世界の片隅に』は、戦争、原爆を
今までにない視点で描き、「文化庁メディア芸術祭の
マンガ部門・優秀賞」を受賞した。驚きである。

広島から20kmほど南の軍港町、呉に住む主人公すずと
家族、周囲の人々の、日常の生活を克明に描き、ストー
リーはゆっくりと進行していく。そして、やがて呉には
空爆が、広島には原爆が投下されるが、悲惨な情景や
エキセントリックな描写は無く、淡々と日常を描きながら、
主人公の心が崩れて行く内面をえぐり出しているのだ。

NHK「ラジオ深夜便」で、こうの史代はこう語っていた。

毎日のように図書館に通い、当時の雑誌や新聞を漁り、
各地の「昭和記念館」に出向いて、当時の日常生活が
どのようなものだったのか。町の風景、家の中の様子、
看板、電信柱のポスター、日々の事件など、徹底的に
資料を集めた。食べものが無くなって、どんなものを
食べていたのか、それと同じものを作って食べてみて、
味や口当たりを体感した」と。その努力があらばこその
彼女の漫画は徹底したリアリズムなのだ。

我々庶民は“世界の片隅”に、たくましく生きている。
そして“世界の片隅”では、今も戦争が起きている。
それを知らされても、対岸の火事ほどにも思っていない。
いつの日か、その火の粉が降りかかってくることに 気
づこうともしない。
そして気づいた時は、もう取り返しのつかない事態に
陥っている。それが「原爆」だったのだ。そうした描き
方で、恐ろしさをより強く、深く感じるのだ。