現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

岐阜にとっては侵略者「信長」

2023-01-26 22:17:17 | 戦国武将と城

岐阜が今、キムタク信長で盛り上がっている。

「レジェンド&バタフライ」とは、なんか時代劇ならぬタイトル。

いよいよ本日封切り。

 

しかし、これは以前に書いた記事です。

1/27 中日新聞『世談(よだん)』に「編集委員・竹村純一郎」の
記名で、こんなコラムが載った。

「JR岐阜駅前に 金ピカの小田信長像が建てられた。
地元経済界有志が出資し、細江市長の主導で建てられた
ようだ。だが、織田信長は岐阜にとっては侵略者だ。
絶対君主として君臨し、逆らう者を抹殺する。比叡山
延暦寺、一向一揆、多くの人が理不尽に殺された。
そんな権力者が郷土の誇りとは。(中略)
そんなご仁に、永禄10年(1567)以来、450年近く
たっても、岐阜人はひれ伏さなくちゃならないのかな」
という内容。


なるほど、なるほど、愛知の人にとっては、信長は
「清洲の人」だ。岐阜のイメージは薄い。近年、
岐阜城と周辺の遺跡調査で、「楽市楽座」で沸いたで
あろう往時の町並の一部が明らかにされつつある。

信長はここに一大都市を造ろうとしたのだが、やがて
岐阜から安土に移った。岐阜は歴代の城主が相次いで
不業の死を遂げている。信長もしかり。「柳が瀬」の
地盤沈下は最たるもの。虚無僧で廻っても、お布施は零。
なにか暗い影がつきまとう。


同様に、熊本の話題。一昨年だったか、新幹線が熊本まで
延びるということで、「西郷(隆盛)ドン」の等身大の
人形が 熊本駅にドンと置かれた。製作したのは福岡の
広告代理店。熊本の人は反発した。「西郷」は 西南戦争で、
熊本城を攻めにきたのだ。熊本城はよくもちこたえ、
西郷軍は敗北した。熊本にとっては西郷は敵でござる。
しかも その人形、着物の襟合わせが「左前」。“けった
くそ悪い”と、すぐ取り払われたとか。熊本県人の“気位”を
示した。熊本城は“難攻不落”だった。


難攻不落ではなかった「岐阜城」

2023-01-26 22:11:22 | 戦国武将と城

岐阜市内だけでなく、遠く名古屋からも望める金華山。
標高329m。その山頂に天守閣がそびえる「岐阜城」。
山頂まで登るのに、30~40分。コースによっては
1時間ほどかかる。正に「城塞堅固・難攻不落」の山城。
と言いたいところですが、斎藤利藤から9人も城主が
変わり、うち6人が攻められ、討ち死に、自害、敗走
しているのだそうだ。私も3回ほど登ったが、なんか
暗い陰がつきまとう気がする。

1.「斎藤利藤」:母違いの弟「利国」と争い敗れる。
2.「斎藤利茂」:斎藤利藤の養子。斎藤利安に破れ、城を追われた。(落城1回目)
3.「斎藤道三」:嫡男「義龍」に討たれる。享年63。
4.「斎藤義龍」:急死。享年35。
5.「斎藤龍興」:斎藤義龍の嫡男。竹中重治らに城を奪われる。
        後、返還されるが、織田信長によって再び落城。    
        刀禰坂の戦いで戦死。享年26。         (落城2,3回目)
6.「安藤守就」:斎藤龍興の家臣。半年間 稲葉山城を占拠したが、
        本能寺の変で自害。享年80。

7.「織田信長」:斎藤道三の娘婿。京都本能寺で自害。享年49。
8.「織田信忠」:織田信長の嫡男。本能寺の変で討死。享年26。
9.「斎藤利堯」:織田信忠の家臣。織田信孝に破れ降伏。     (落城4回目)
10.「織田信孝」:織田信長の三男。尾張知多郡内海で自害。享年26。(落城5,6回目)
11.「池田元助」:池田恒興の嫡男。小牧・長久手で 父子共に討死。享年26。
12.「豊臣秀勝」:豊臣秀吉の姉の子。総大将として朝鮮に出陣したが、巨済島にて病死。享年23。
13.「織田秀信」:織田信忠の嫡男。高野山に追放された年に死亡。享年26。(落城7回目)



秀吉の出自 2

2023-01-15 21:18:43 | 戦国武将と城

服部英雄の『河原ノ者・非人・秀吉』(山川出版)は、
秀吉の出自について書かれた史料を網羅しています。
それには「後奈良天皇の御落胤」説は出てきません。

これによると「秀吉の出生地」は諸説あって「中中村
(現中村中町)」説も怪しいようです。「秀吉誕生地」と
される「常泉寺」は「上中村」にあります。

さて、本書によれば、どうやら「秀吉は清洲で生まれ、
母の再婚により中村に移り住むことになったが、養父と
折り合いが悪く、秀吉は家を飛び出し、ストリート・
チルドレン(乞食)になった」と。

当時、信長の城は清洲であって、秀吉の叔父や周辺の
者は、清洲の「乞食村(非人村)」に関係している者が
多いといいます。秀吉の出自は、乞食(薦=こも)で
あった。

現名古屋市の中村区は、当時は畑ばかりの土地でした
から、秀吉の育ちは「中村」で「農民の子」となります。

秀吉が小田原北条攻めに向かう途中、中村を通った時、
供をしていた小早川隆景に語ったという話に、「自分は
この中村で育ち、わやく(無茶・非道)なることをして
遠江に落行し・・・・」と。

「生まれ」ではなく「育った」と語っています。

秀吉は、矢作川の河原(橋?)で薦を被って寝ていた
ところを 盗賊の頭だった蜂須賀小六に拾われた話は
有名で、乞食同然の生活だったのは明らかです。

この「小早川隆景」に語った話は「中村の農民には
年貢を免除してやろう」。そしてまた「仁王という
わっぱがいて、いじめられた。あの遺恨は忘れられない。
まだ生きていたら、捕らえて斬り殺してやろう」と、
かなり具体的な内容になっており、信頼できます。

服部英雄の『河原ノ者・非人・秀吉』では、戦には
荷駄の輸送、馬、馬具、牛皮製品は必需で、散所民
(無戸籍)、非人、穢多の役割は重要だった。彼等の
協力なくしては戦はできなかった。秀吉の親類、縁者、
仲間にはそのような民が多いと結論づけています。

河原ノ者・非人・秀吉 | 服部 英雄 |本 | 通販 | Amazon

 

 


秀吉の出自 秀吉は後奈良天皇の御落胤????

2023-01-15 21:09:45 | 戦国武将と城

私が今住んでいる所は「中村区中村中町」。秀吉は
「中村ナカ」で生まれたというのが通説になっています。
まさに、私の住んでいる所は、秀吉の生まれた土地
のはずですが・・・・。

ここから1kmほど北の「上中村」に、「秀吉誕生の地」
「豊太閤産湯の井戸」を掲げる「常泉寺」があります。
秀吉亡き後、加藤清正によって建てられたとのこと。
山号は「太閤山」です。

その寺の案内パンフレットに、驚くことが書いてありました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

太閤のご母堂「大政所」は、藤原保通の娘。「保通」は
朝廷に仕え、後柏原天皇の重鎮でしたが、永正10年(1513)
失脚して 一時、尾張国中村に隠居。この時娘「仲(後の
大政所)」が生まれる。後許されて京都に戻り、娘の仲は
容姿端麗な娘に成長し、後奈良天皇に寵愛されて懐妊。
周囲の姫たちの嫉妬を恐れ、名古屋に逃れ、筑阿弥の
家に寄寓し、男児を産む。これ即ち後の「豊太閤」。
そして、筑阿弥との間にも「秀長、旭姫」をもうける。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

じゃん!。つまり秀吉は、なんと「後奈良天皇の御落胤」
とうことらしい。(「一休さん」の話しと似ている)

そのような話、聞いたことがない。出典も明らかにして
いない。ネットで見ると「関白に任ぜられた時に書かれた
『関白任官記』に「母親(大政所)の父は萩の中納言で
あり、大政所が宮仕えをした後に生まれた」とあり、
「出自を由緒正しくするために書かれた」とされる。
明らかに、系図詐称です。

一般的には「秀吉の母親は、尾張国愛知郡御器所村に
生まれた」とされる。「御器所(ごきそ)」は私が以前
住んでいた所です。私も「御器所」から「中村」に
引越してきました。

誰が読んでも“嘘”とバレる話を堂々と、寺伝に
掲げるのは、さすが「日蓮宗」の寺。ごリッパ。

旅探 たびたん】常泉寺

常泉寺(秀吉公産湯の井戸) | 【公式】愛知県の観光サイトAichi Now


徳川元康は桶狭間で死んだ?!

2023-01-09 08:51:04 | 戦国武将と城

2023年1月8日 いよいよNHK大河「どうする家康」が始まりましたね。

期待はしていなかった。ちょっとがっかり。馬に乗って走るシーンなど

50年前のテレビドラマよりひどい。作り物の馬であることがバレバレ。

前々日、山岡荘八原作の映画「徳川家康」をTVで観た。

こちらは、幼少の頃から利発な立派な殿様。それと真逆。

今回のドラマは「弱虫、泣き虫、どうしようもない家康」。

築山御前(瀬名=有村架純)との関係も、相思相愛のラブラブ。

山岡荘八版では、竹千代(元康)は、妹の亀姫に横恋慕していたが、

今川義元の命で姉の鶴姫(瀬名)を押し付けられる。

姉さん女房で、とかく今川の威を傘に、元康に強圧的。

だから、後に殺される事になる。

今回、有村架純とラブラブでは、殺すに至る理由付けはいかがになるのか。 

大河ドラマ「どうする家康」、新春スタートに向けて着々 メインビジュアルや番組サイトが登場 – 美術展ナビ

さて、第1回は早くも桶狭間の戦い。義元が討たれて、逃げ惑う元康。

これについては、さもありなんと私は思っている。というのは、

私は、家康は桶狭間で討ち死にに、家臣たちは替え玉を立てて、岡崎に

帰り、今川との独立を勝ち取ったという説に興味がある。

以下は以前に書いたものの転載です。

家康暗殺説

明治35年 村岡素一郎が『史疑・徳川家康事跡』を世に出して「徳川家康 替玉説」を唱えた。

家康の伝記には不可解なところが多い。

まず、三河松平郷の出でありながら、「徳川」に改姓し、松平本家の「太郎左衛門家」は、

江戸時代を通じて、わずか五百石と冷遇されていたこと。

第二に、正室の「築山殿」と長男の「信康」を、あっさりと殺害してしまったことなどである。

その謎に、初めてメスをいれた書である。

村岡説は、「松平」氏は本来、三河松平郷の豪族で「藤原」」姓であったのに、

家康が「先祖は 新田一族の世良田某で、「源」姓であると系図を作り変えたことに

疑問を投げかけ、家康は、流れ者の願人坊主「世良田二郎三郎元信」で、

桶狭間のどさくさで「松平元康」を討ち、元康にすり代わったというもの。

「願人坊主」とは、物乞いをする有髪の僧を指す。(これは虚無僧と同じ)

「世良田元信」は駿府生まれの駿府育ち。永禄3年、「桶狭間の戦い」の直前、

元信は、駿府に人質としてきていた岡崎の松平元康の子「竹千代(後の松平信康)」を

誘拐して逃走した。

そして 桶狭間で義元が信長に討たれると、混乱に乗じて浜松城を落とし、

織田信長と通じて、岡崎の松平元康を暗殺する。

「元信」の切り札は「元康」の子「竹千代(信康)」を擁していたことだった。

村岡説では、家康の祖父「松平清康」が家臣の阿部弥七郎に暗殺された「守山崩れ」は、

実は「元康の死」を「清康の死」としてカムフラージュして語らせたもの。

「先祖が徳川郷から流れてきて松平の養子になった」という系図は、

先祖ではなく「家康」本人の話。

そして、「松平元康」の正室「築山殿」とその子「信康」は、邪魔な存在だから殺してしまった。

ま、「荒唐無稽」な創作話だが、これを受けて、何人家の作家が「家康替え玉説」を

唱えている。矢切止夫の「桶狭間で元康は殺され、重臣たちが非人の中から容姿の似た人物を

元康に仕立てて、岡崎に戻った」とするのが、すっきり納得がゆく。

どうする家康 - Twitter Search / Twitter

大河では、一人逃亡して浜辺をさまよっている元康を本多平八郎が捕らえて連れ戻す。

「平八郎が捕らえたのは、本物ではなく偽物の元康だった」とすれば、「家康討ち死に説」となる。

 

「家康」の出自が「願人坊主」ということに私は注目する。

願人坊主 - Wikipedia

虚無僧が「神君家康公のお墨付」を頂いていると主張し、それが徳川200年の間、通用してきた。

幕府もそれが「偽書」とわかっていながら黙認してきた。

現代なら「公文書偽造」で即刻逮捕。江戸時代なら死罪は免れない。

それがまかり通ってきたのはと、家康の出自が「願人坊主」であったことに

関係しているのではないかと思えるのである。

 


山崎の合戦で明智光秀を破ったのは秀吉ではなかった

2020-10-12 09:37:12 | 戦国武将と城

『キリシタン教会と本能寺の変』慶応義塾大学文学部教授 浅見雅一著 角川新書 

浅見一教授は1962年生まれ、慶応義塾大学文学部卒、専門はキリシタン史。

私の後輩。素晴らしい研究を成し遂げてくれた。

ルイス・フロイスを始め、当時日本に来ていた宣教師達が本国ポルトガル

に送った書簡を解明。外国人が織田信長、明智光秀、そして本能寺の変をどのように見ていたかがわかる同時代の一等史料だから大変興味深い。

明智光秀がなぜ主君信長を討ったのか。怨恨説などさまざまあるが、どれも、それで主君を討つ理由としては決定打ではない。光秀は本城の坂本も、長年苦心して治めた丹波亀山も召し上げられ、四国攻めに向かうよう命じられる。その信長の真意は「明智光秀の誅殺と明智家の滅亡」にあったのではないか。信長が光秀を誅殺しようとした理由は「徳川家康を謀殺せよとの命令に光秀が反意したからではないか」。

これについては、明智光秀の子孫で私の慶応高校の級友である明智憲三郎君が書いている。

甲斐の武田家を滅ぼして信長としては、もう三河の徳川家康は用済となった。むしろ目障りな存在である。信長としては家康を誅殺して三河・遠近も自分の支配地にしたいと企み、家康が京都に来た折に、光秀に殺せと命じた。光秀はそれに反対したため、信長の怒りをかった。そして光秀は家康に信長の真意を漏らしたため、家康は命拾いした。そのことで、家康は明智光秀に大変な恩を感じた。

それが、本能寺で信長を討った斎藤利三の子利宗を旗本に召し抱え、その妹春日局を登用した理由につながる。

日光東照宮は二荒山だったのを家光は「日光」と改めた。「明智向守秀」だ。陽明門の両端は金剛力士像ではなく、武人。それも明智の桔梗の紋。

という次第。

浅見雅一も、「単なる怨恨ではなく、光秀が信長から誅殺されようとしていた。明智家の滅亡」という危機に直面して、「やられる前に殺らねば」という窮状にあったのではと書いている。

さて、宣教師たちの報告では、光秀は本能寺の変のあと、安土城にはいり、信長が収集した金銀財宝のすべてを身分の上下にかかわらず分け与えた。内裏や公家、寺社にも莫大な金を献上し、すぐ京へ引き返したとある。

そして最期。一般には、秀吉が大返しで飛んで帰り、山崎で明智光秀を討ったことになっているが、宣教師の報告では、

秀吉軍は疲れきって休息しており、高山右近が光秀軍と偶然に山崎で遭遇し、光秀軍を破った。その後も光秀の本城坂本を攻めたのは高山右近であると書いている。高山右近と光秀が不仲であったことも書簡から伺い知れる。これには驚き

 


沼津興国寺城は北条早雲の城に非ず

2020-02-05 05:44:07 | 戦国武将と城

沼津には、北条早雲が最初に築いたという「興国寺城」がある。
「興国寺城は北条早雲が最初に築いた城」と、どの書にも書いてある。

定説になっているが、私はこの説には疑問を呈したい。

「最初に築いた城」の名になぜ「興国寺」と「寺」がつくのか?

「興国寺城」がはっきり文献に現れるのは、天文18年(1549)。
「今川義元が、興国寺の地に城を築くため、寺の敷地田畑を
とりあげ、他に代替地を与えて、真如寺と改めさせた」と
いう記録である。(「高白斎記」) つまり、1549年まで、
ここは 城ではなく興国寺という寺だったのである。
そして、今川の城として築かれたのだ。

その今川義元が、永禄3年(1560)桶狭間で討ち死にすると、
永禄11年(1567)武田信玄が駿河に侵攻してくる。そこで
北条氏康は北条氏邦に命じて、興国寺城を奪取させた。

その後も武田と北条氏との対立は続き、元亀元年(1570)、
武田勢は、興国寺城に攻撃をかけたが、城を守る垪和(はが)
親子はよく戦って、これを撃退している。

元亀3年(1572)10月3日、武田信玄は諏訪から伊那郡を
経て遠江に出、「三方ヶ原」で家康を破り、野田城を落と
したが、そこで寿命が尽きた。

信玄亡き後、武田勝頼は、信玄の遺訓に反して、駿河に
侵攻し、興国寺城も武田氏の持ち城となっている。

「興国寺城」が、後北条氏の祖、伊勢新九郎(北条早雲)の
最初の城ならば、北条氏は守り抜くであろうが、簡単に
手放しているのだ。

「興国寺城」が「北条早雲の最初の城」とする説は、江戸
時代、北条家が滅びた後に言われ出したことである。


二人の幻庵

2019-05-09 19:54:53 | 戦国武将と城

ネットで「毛利輝元が、関が原の後隠居し、「幻庵宗瑞」と号した
と知ってビックリ。

「幻庵」といえば、北条早雲の第三子で、北条五代にわたって生きた                                       「北条幻庵」。

「宗瑞」は、北条早雲の法号。「宗」の字は大徳寺派の名。
北条早雲の菩提寺「早雲寺」の開基は大徳寺から招いている。

毛利元就がなぜ、北条早雲の「宗瑞」と、その子の北条幻庵の号を
付けたのか。偶然ではないような気がする。ちなみに生歿年は

北条早雲宗瑞 1432 -  1519年歿
北条長綱幻庵 1500年頃?-1589
毛利幻庵宗瑞 1553 -  1625  

毛利輝元にとって北条早雲は 100年も前の人。北条幻庵は
半世紀ほど前。接点はないようだ。

大徳寺で調べてみると、大徳寺の塔頭(たっちゅう=子院)のひとつ
黄梅院が毛利氏の菩提寺となっていた。黄梅院は、信長の父信秀が
開基。信長は最初ここで密葬された。秀吉の死後、小早川隆景が
改築し、毛利家の菩提寺となった。しかし、織田信秀・小早川隆景・
毛利元就・蒲生氏郷の墓はあるが、輝元の墓は無い。

秀吉の小田原北条攻めの際、毛利輝元は京都の守護に当たって
いたから、直接は戦いには参加していない。

はてさて、毛利輝元と北条氏の秘密の接点、どなたかご存知の方
教えてたもれ、と以前書いたところ、お二人から回答いただいた。

一人は「全く関係ありません。単なる偶然の一致」。もう一人は

「関ケ原で領地を減封され、徳川への恨みから、北条氏に思いを寄せたのでは」と。



北条の忍者「風魔」とは?

2016-04-24 23:37:08 | 戦国武将と城

中日新聞夕刊に連載されていた『水軍遥かなり』。
熊野水軍の「九鬼守隆」が、秀吉の小田原北条攻めには、
他の水軍と先を争い、伊豆半島に出動します。敵は
「風魔一族」。全く得たいの知れない忍者集団。

この北条氏お抱えの「乱破(らっぱ=忍者)」「風魔」に
ついては大衆娯楽小説ではよく登場してくるのですが、
実態はほとんど不明です。

『北条五代記』によれば、五代目の「風魔小太郎」は、
「身の丈七尺二寸(2m16cm)、筋骨荒々しく むらこぶあり、
眼口は広く逆さに裂け、黒ひげをたくわえ、牙四つ外に現れ、
頭は福禄寿に似て鼻高し」と。どうやら日本人ではなく、
紅毛人(スペインかイギリスの海賊)ではなかったかとも
想像されます。

北条家が滅亡すると、風魔は 江戸近辺を荒らし回る
盗賊となり、「小太郎」は、1603年、幕府に捕えられ
処刑されました。

「風魔」は 仲間内の連絡に「尺八」を使っていた
という説もあります。「一節切」とはまた違う
短くて太いもので「忍流尺八」と呼ばれていたとも。

『野ぼうの城』で有名になった北条方の行田の城は
「忍城」でした。北条氏の滅亡で失業した「風魔」
一族が虚無僧となったのではないかと、私は考えて
います。虚無僧が“隠密”と言われるのは、元は
「風魔」だったからではないでしょうか。

忍者は「乱破(らっぱ)」とか「素破(すっぱ)」とも
呼ばれていました。「乱波(らっぱ)」と「喇叭
(ラッパ)」。「素破(すっぱ)」と「「尺八(チーパ)」
なんか関連ありそな 無いような気がしております。






「上杉謙信」は女だった!

2013-04-10 09:42:22 | 戦国武将と城
「上杉謙信が女性だった」と主張したのは「八切止夫」。
「家康は二人いた」「信長殺しは光秀でない」など、
いくつかの「意外史・裏返史」を発表して、多くの
ファンをひき付けています。私もその一人。

「八切止夫」氏によれば、「謙信が女だった」というのは
江戸時代から噂されていたようです。

謙信は「生涯不犯」。一人も妻を娶っておらず、
女性を近づけたこともなく、子供もありません。

「謙信女性説の論拠」

(1)「当代記(松平忠明著)」に「謙信の死因を“大虫”と
書かれてある。
大虫とは「赤味噌」のことで月経の隠語。転じて「癪」
「女性のヒステリー」「更年期障害」、または、腹部の
痛みから「子宮癌」ではなかったかと推測される。

また謙信は、毎月10日前後に腹痛と称して休んでいる。
これは“月のもの”か。

(2)上杉神社所蔵の謙信が着たという「紅地雪持柳繍襟
辻ヶ花染胴服」は、赤で女物の着物。

「謙信」は身長5尺二寸(156cm)と小柄だったのに、
後世に描かれた肖像画や歴史物の記述では、ことさらに
「大柄だった」と説明し、虚偽がある。

(3)スペインのフェリペ2世に宛てた書簡の中で、「会津の
上杉景勝が“伯母”の上杉謙信が発掘した佐渡の金を
隠し持っている」と書かれている。

ほか,戦国武将に似つかわしくなく謙信は源氏物語を読み、
上京した際には時の関白に和歌懐紙と「三智抄」という
和歌集を所望。謙信自信も優れた恋歌を詠み、周りを
驚かせた。

ま、これらの史料は、歴史家によってすべて反証され、
「女性説」は否定されていますがね・・・・

『風林火山』 (NHKテレビ・大河ドラマ)で 上杉謙信役を
GACKTOが演じていました。「女性説」を意識してか
なまめかしかったですな。