現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

尺八「鶴の巣籠り」

2021-10-31 19:39:31 | 虚無僧日記

虚無僧の古典本曲「鶴の巣籠」をアレンジしたみました。

 

尺八重奏『鶴』 Turu

説明

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鶴の巣籠り ひらの のりこ 編曲 NORIKO HIRANO

ひらののりこプロデュースCD ASIAN MODERNより http://www.sinfonia.or.jp/~manfan/hiran...

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傷だらけの人生

2021-10-30 21:28:26 | 虚無僧日記

1963年 鶴田浩二主演の『人生劇場 飛車角』が大ヒットし「任侠映画ブーム」が始まる。なぜか映画界は やくざ(暴力団)を賛美礼賛してきた。裏でつながっていたか。




古い奴だとお思いでしょうが、古い奴こそ新しいものを欲しがるもんでございます」の名セリフは、私も随分と使わせてもらった。

曰く「尺八なんぞというと、古い奴だとお思いでしょうが古い奴こそ新しいものを欲しがるもんでございます
そして、その時々の「流行り歌」を尺八で吹いてみせた。


「でも、どこに新しい仕事がございましょう。今の世の中、コロナコロナで 右も左も真っ暗闇じゃござんせんか」


何から何まで 真っ暗闇よ
筋の通らぬ ことばかり
右を向いても 左を見ても
コロナコロナの せめぎあい
どこに男の 夢がある

付くな離れろと 鬼ごっこが罷(まか)り通る世の中でございます。
(かか)る 罹らぬは もともと自分が決めるもの
……こんなことを申し上げる私もやっぱり古い人間でござんしょうかねえ。


なんだかんだとお説教じみたことを申して参りましたが、
そういう私も 日陰育ちのひねくれ者、
コロナ禍に背中を向けて歩く、馬鹿な人間でございます。

まっぴらご免と 大手を振って
歩きたいけど 歩けない
いやだ いやです コロナ菌
日陰育ちの 泣きどころ
暗すぎます おいらには


「放浪について」 瀬戸内寂聴

2021-10-30 21:24:21 | 虚無僧日記

 

瀬戸内寂聴」さん

「放浪について。孤独の相に生まれて・・」

放浪について』という随筆を1969年(昭和44)、49歳の時、『群像』5月号に書いているそうな。
「70年安保」で世の中騒然としていた頃だ。大学もバリケード封鎖されていて授業など無かったから、私も虚無僧で北陸を廻ったりしていた。

その頃「瀬戸内寂聴」さんは、執筆に追われ、眠る閑も無いほど多忙を極めていたという。そして「放浪」への憧れはとみに強くなっていき この翌年 出家している。

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「私には家はあっても家族はなく、私の袖を引き止める肉親もいない。心に繋(つな)がる断ち難い煩悩の絆はあっても、その絆の強さゆえに、放浪への憧れも、日々強力になりまさる。
恩愛の情の薄いものが、肉親や愛欲を捨てやすいのではない。
人恋しさの物狂おしさのゆえに、放浪の旅に出たいのではないか。

行方も定めぬ無目的の終わりのない旅。風に背を押されひたすらに歩く。その旅に終わりがあるとすれば、地図にもない野原の芒(すすき)の中で、ひっそりと
野ざらしになっていることだろう。

この随筆の終わりに私(寂聴)は書いている。
芸術家は本来、放浪の性を持つべきではないか。芸術家が一つの家庭にしばりつけられ、一人の妻やその女の生んだ子どもたちの恩愛にしがみつかれていていいものだろうか。安穏で平和な家庭と芸術の女神は性が合わないはずだ』

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芸術家は放浪の性を持つべき』。なんと私の自己弁護に後押ししてくれることよ。私も子供の頃から放浪癖があった。家族にも知られず、ひっそりと野に朽ち果てるのを美学としている。しかし、まだ死ねない。「瀬戸内寂聴」の如き残す名も実績もない。まだまだやるべきことがある。
「日暮れて道遠し」。

「瀬戸内寂聴」さん、今年93歳。

「生きて帰れぬ放浪の旅には一向に出発しそうにもない」と。


「絶望名言」 NHKラジオ深夜便

2021-10-30 21:17:02 | 虚無僧日記

頭木弘樹の「絶望名言」。

頭木さんは大学3年の時に難病の潰瘍性大腸炎を発症し13年間闘病生活を送っているという。

その著書『絶望名人カフカの人生論』(飛鳥新社・新潮社で文庫化)が静かなブームになっているという。

「琴の宮城道雄」について

「宮城道雄」の画像検索結果


土方歳三の愛刀 「のさだ兼定」

2021-10-26 08:43:42 | 虚無僧日記

関市にある「岐阜県博物館」「関鍛冶伝承館」で、 4月27日(金)~                                6月24日(日)まで、「兼定 刀都・関の名工」展と、「美濃の名工・                                兼元」展を開催中。

私もかつて「兼元」を180万円で買ったが、鑑定結果偽物とのこと。                                  15万で売ってしまった。大損!。カタナ買ったが 痛カッタナ。                                  

新撰組副長「土方歳三」の愛刀は「兼定(かねさだ)」。

「燃えよ剣」(司馬遼太郎)では、「池田屋事変で、
土方が二尺八寸(刃渡り84cm)の和泉守兼定(之定)を
振るった」とあり、多くの書が「土方の愛刀は 関の孫六                                         とも称された兼定」と書いているが 間違い。

「の定・兼定」は、室町時代の関(岐阜県)の刀工。二代目が
「和泉守兼定」を名乗り、銘の「兼」の字の上部が「之」と
見えることから「の定」と通称される。孫六は兄弟弟子。
兼定の4代目から、会津に移住し、幕末まで 11代続いた。

土方歳三は、京都守護職(会津藩主)松平容保から
「11代和泉守兼元」を拝領されたとされる。

つまり、古刀(室町時代)の「2代兼定」ではなく、幕末の
新新刀「11代、和泉守兼定」である。

近藤勇が池田屋事変の後、故郷の佐藤彦五郎に送った手紙に                                       「2尺8寸の兼定」と書かれてあったそうな、幕末にそんな
長い刀があったとは信じがたい。江戸幕府が「刀は2尺3寸」
を「定寸」と決めていたはず。


日野の「土方歳三記念館」に展示されている刀は「2尺3寸」。
これは鳥羽伏見で敗れて会津に移った時、容保から拝領された                                  「12代兼定」らしい。会津から函館まで逃れ、最期を覚悟した
土方歳三が、遺品として佐藤彦五郎に送ったものとのこと。                                  2尺2尺8寸の「11代兼元」はどうしたのかな?。


新選組斉藤一

2021-10-18 21:26:28 | 会津藩のこと
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新選組ファンの間で根強い人気があるのが、函館まで戦い続け戦死した「土方歳三」、天才剣士と呼ばれ労咳で若くして散った「沖田総司」、この二人に負けないほどの人気があるのが「斉藤一」です。

「斉藤一」は謎が多い人物です。 出身が明石藩(現在の兵庫県)と言われています。

 

「斉藤一」の剣術の腕前は、「沖田総司」(天然理心流)、「永倉新八」(神道無念流)に並ぶほどの凄腕。 「斉藤一」の剣術の流派は、「無外流」「一刀流」「太子流」かと、諸説ありますが、「無外流」が最有力説のようです。

「斉藤一」は「突き技」の達人と言われ、明治維新後は、警視庁の警察官として就職していました。 西郷隆盛ら旧薩摩藩の士族が起した「西南戦争」に鎮圧で出動した「警視庁抜刀隊」の中に「藤田五郎」と改名していた”斉藤一”がいました。

後年は警視庁を退職して、女子高等師範学校の職員となり、その最期は衣服を着替えさせて身支度を整え、床の間に正座したままの姿で亡くなりました。

映画「壬生義士伝」では”佐藤浩市”、大河ドラマでは”オダギリジョー”が、「斉藤一」の役を熱演されました。

「斉藤一」(藤田五郎)の墓は、福島県会津若松市の「阿弥陀寺」にあります。 生前から「斉藤一」は阿弥陀寺に多くの寄進を行なっていました。 この阿弥陀寺には、戊辰戦争の「会津の戦い」で戦死した会津藩士の墓所があり、新選組隊士として共に戦った会津藩士の菩提を弔うためと思います。

平成十六年の九月に「斉藤一」の菩提寺阿弥陀寺に於いて、第一回「斉藤一忌」が開催され、「斉藤一」の墓前にて「無外流居合兵道」の奉納演武が行なわれました。

生前の「斉藤一」は、無口で物静かな剣客、晩年は孫や身内の子供たちに剣術を教えていたそうです。


新選組斉藤一会津に眠る

2021-10-18 21:10:48 | 会津藩のこと
4人、立っている人の画像のようです
 
 
『新撰組斎藤一(53歳当時)家族写真』
この写真が撮影された明治30年は日清戦争の直後で、斎藤は東京高等師範学校で撃剣師範を務め、若者たちを鍛えていた頃。斎藤の剣技は衰えることなく、その竹刀には誰ひとり触れることすらできなかったといわれる。そういわれてみると、くつろいだ家族写真ながらも、幾多の死線をくぐり抜けてきた剣士の鋭い眼光を感じる。 
(軍服姿の長男・勉と着物姿の次男)
『妻 時尾について』
高木時尾は会津藩大目付・高木小十郎の長女として生まれた。母の藤田克子は大変な美人であったらしい。長じて時尾は会津藩主・松平容保の姉・照姫付きの祐筆となる。
斉藤と時尾さんの結婚の仲人は、会津藩主松平容保公、同じく会津藩家老だった佐川官兵衛と山川浩、倉沢平治右衛門が下仲人を務めています。
じつは斎藤一にとって時尾は2人目の妻。はじめ斎藤は、篠田やそという女性と結婚したらしい。やそはあの悲劇の自刃をとげた白虎隊士・篠田儀三郎の遠縁にあたる女性とのことだが、ふたりの間に子どもはなく、数年で別れてしまった理由もよくわからない(なお、最近では、斎藤一は篠田やそさんではなく、時尾さんが初婚だという説もあるらしい)
 
 

壬生義士伝

2021-10-16 08:59:29 | テレビ・映画・芸能人

浅田次郎原作『壬生義士伝』

中井貴一で映画化されたが、新選組の衣が赤と黒なのには幻滅。なんで赤黒にする必要があるのかとぶっきれ。浅葱(あさぎ=薄い青みがかった鼠色)には意味があるのです。浅葱は士分でない者を示す色です。新選組は正規の会津藩士ではなく、浪人、農民の身分でした。中井貴一も今ひとつ、強そうに見えない。

これに対して渡辺謙主演の2002年のテレビ東京「お正月時代劇」10時間ドラマは、感動! テレビで見、再放送を見、ビデオに撮って見、そしてYouTubeでも見、何度見ても泣けました。

妻子を養うために、南部盛岡藩を脱藩して「新選組」にはいり、金になることは何でもやり、「守銭奴」や「出稼ぎ浪人」などと呼ばれた「吉村貫一郎」の義理と愛を貫く姿を描いた作品。

コメントも「時代劇で これほど泣いたこと無いくらい大泣きしたというのが大半。私も、テレビで観た時は、新選組にこんな隊士がいたのかと感動にうち震えたが、その後、浅田次郎のフィクション(創作)と知って、興ざめ。


そもそも「吉村貫一郎」は実在したのか?
鳥羽伏見で戦死した隊士の中に、南部盛岡出身で「嘉村(よしむら?)権太郎」と
いう名があるが、事跡は不明。全く無名の隊士だった。
そして、箱館での戦死者名簿の中に「久慈藤右衛門 南部藩脱走士がおり、二人を「親子」として、話を創作したようだ。

吉村貫一郎の幼馴染で家老の「大野次郎右衛門」も実在していない。
小説では、「奥羽越列藩同盟」側に付くよう藩論を仕向け、官軍側についた隣国秋田に攻め入り、敗戦後、その責任をとらされて斬首となる。

その人物は、大野次郎右衛門ではなく「楢山佐渡」という家老。

ですから私が一番泣けたのは、吉村貫一郎ではなく、上司の大野次郎右衛門役の「内藤剛志」さん。


「お役目」と「幼馴染の人情」の狭間に苦悩する。母親(岸田今日子)との別れ、貫一郎の倅「嘉一郎」とのやりとりの場面で、もう泣が止まらなかった。「内藤剛志」が、言葉数少なく、顔の表情だけで、こんなに名演技をするとは知らなかった。

ラストは貫一郎の子「嘉一郎」が脱藩して函館戦争で戦死するシーン。なぜ、父の願いに反して死を選んだのか。その真意に涙が止まらない。さすが小説家浅田次郎。


南部藩家老 楢山佐渡

2021-10-16 08:59:06 | テレビ・映画・芸能人

『壬生義士伝』で吉村貫一郎の上司「大野次郎右衛門」のモデルは南部藩家老「楢山佐渡」のようだ。

「楢山佐渡」は、藩主の縁戚にあたり、代々家老職。22歳で家老となり、後、主席家老となった。

以下は「北条四郎のホームページ~幕末南部藩を率いた悲劇の武将 楢山佐渡」より。

慶応4年(1868)正月の「鳥羽伏見の戦い」後、南部藩に、朝廷より召集令状が来、楢山佐渡と他2名が京都に上った。そこで楢山佐渡が見たものは・・・・・。
 
京都市中は、西洋式の軍服を着込んだ西国の藩兵が肩で風切って歩いている。花街は、そんな連中であふれ、頽廃そのものであった。

楢山佐渡は西郷隆盛と会談した。西郷とその部下達は車座になって「すきやき」を食っていた。西郷の、ラフな姿に、紋付袴に裃(かみしも)の楢山は面食らう。楢山の血は逆流した。こいつらは侍ではない。

そして、帰藩して「楢山」は 各々方に説いた。

「薩長は勤皇どころか、姑息なやり口で天下を奪い取った反逆者にほかならない。会津・庄内両藩を討伐せよという勅はそもそも偽勅である!天子様が幼いことにつけこみ、薩長は自らの私の恨みを晴らさんがため、勅命を捏造しておるのだ。我らは武士である。もののふである以上、卑怯な輩を討ち、君側を清めねばならぬ。無実の者を陥れ、朝廷をないがしろにする者共にひれ伏すとなれば、もはや武士ではない。拙者は義の為に戦い、死ぬ道を選ぶ。」
 
藩を「奥羽越列藩同盟」側に導き、秋田大館に攻め入ったが、戦後は敗戦の責を負い、明治2年6月23日、盛岡・報恩寺で刎首された。享年39。

辞世は「花は咲く 柳はもゆる 春の夜に
      うつらぬものは 武士(もののふ)の道」


まさに、『壬生義士伝』の「大野次郎右衛門」。

でも、それならなんで、吉村貫一郎を死に追いやったのかね。小説の矛盾。ボロが出たね。