宮崎東明の『偶感其の一』、私の一番好きな詩だ。
恩は報いをもとむること無くして自ら喜びと為し
徳は名を求めずして 常に陰に在り
日日忘るる勿れ 謙譲の事
妄心去るべし 亦争心
恩は見返りを期待するものではなく、徳は売名の
ためにするのではない。謙譲の美徳を忘れず、
不誠実や人と争そう心を捨て去るべし。
「謙譲の美徳」も死語となった感がある。
『偶感其の二』は
事起これば 其の源は人に在りと為す
知るべし 総て是れ吾が身より出ずと
すべからく能く反省して 真実を悟らば
世界の喧争 忽ち因を去るべし
他人と争い事が起きると、相手を責めがちであるが、
すべてわが身から出たものと反省し、真実を悟れば、
世界の紛争もたちまち原因を取り去って解決するで
あろう。
宮崎東明は、明治22年河内に生まれ、明治、大正、
昭和と生き、医業の傍ら漢詩をよくし、昭和44年
82歳で亡くなった。明治人の気骨と気概を持ち、
清貧、無塵無俗の心に生きた人であった。範としたい。
「朝起会」に何十年と通っている人は、みな
“クソ”がつくくらい生真面目でお人よしだ。
倫理も道徳も乱れた今日、「少しでも社会の
浄化」をと、普及に努めている。
10年ほど前のことだが、「すばらしい、感動した!」と
入会してきて、会員から金を借りてドロンする“悪”もいた。
最近は浄化されて、変な人は入ってこなくなった。
「朝起会」では「現金の貸し借りは厳禁」。「貸し
たら あげたと思え」と教えている。「施した善は
忘れ、受けた恩は忘れず」であり、「何事も自分の
せい、貸した自分が悪い」と 悟るしかない。
調子よく、優しい笑顔で近づいてきて、話も巧み、
そういう人こそ、ご用心、ご用心。
一休さんの歌
「世の中は 乗り合い舟の仮住まい
善し悪しともに 名所旧跡と悟るべし」
『なぜゴッホは貧乏で、ピカソは金持ちだったのか?』の著者
「山口揚平」と、『僕らの時代のライフデザイン』の著者
「米田智彦」の対談。
「好き」で生計を立て、自由に生きる新しいライフスタイル。
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お金がなくても 信用だけで生きていける人が結構たくさんいる。
モノとモノを直接交換することで、豊かさとかハッピー、生きがい
などを感じられるんですよね。
何かをあげて何かをもらう。それをまた、誰かにあげる。
それが延々と続いていくんです。
旅行も体験型ツーリズムに変わっているじゃないですか。
面白い人に会って、田舎の農家でおにぎりをもらえるか
どうかっていうのが 旅の醍醐味になっているでしょう?
「お金」以外のコミュニケーションツール、たとえば「助けて」と
声に出す勇気を持つにはどうすればいいかとか、人と打ち解けるには
どう微笑めばいいかとか、感謝の気持ちをどう伝えるかとか、
仕事だけでなく、人生を楽しむために、ちゃんと
コミュニケーションできる力が不可欠になっているんです。
そういう知識や技術を学べるカリキュラムみたいなものや、
本が 近い将来 出てくるような。
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それって私の生きかたそのものではないですか。
虚無僧の私は、財布も時計も無し。無一文でも、
いろいろな方に世話になり、衣食住に全く困らない。
好きな尺八吹いて、豊かな人生を送っています。
雑誌の取材で、行きつけの店で食事をいただいて
「お代は結構です」と言われ、その記者がビックリ
していました。
着物を作っていただいても「お代は結構」。
そしていろいろなモノをいただきます。今 家に
ある物、テーブル、椅子、布団、服、尺八、箏、
三味線まで、みなタダでいただいたものです。
そのようにしてもらえるのは、私の持って生まれた
“人徳”。子供の頃からそうでした。周りの方が、
私にそのように“したくなる”。していただくには、
また、私が それなりのことを周囲の方に施している
からでしょう。
先祖、親から受け継いだ“徳”。それを食いつぶさない
ように、いっそうの磨きをかけることです。それが
虚無僧の修行です。
虚無僧の生き様が、「新しいライフスタイル」とは。
なんか光明が見えてきました。
「幸せをつかむ100の法則」という本がベスト
セラーだそうだ。その中に、「人を恨んだり、憎ん
だりするのは仕方ないが、すぐ心を切り替え、
相手を許せた時、恨みや憎しみを捨てられた時、
天はまた一つご褒美をくれる」ということが書
いてある。同感である。
今日、こんな場面を目撃した。トラックと乗用車が
接触しそうになった。あわやの所で事故にはなら
なかったが、トラックは怒りを露わに乗用車に接近
して脅しをかけている。しかし、信号で止まった時、
トラックの運転手は降りてきて怒鳴るかと思いきや、
走り去っていった。気を静めて、心を切り替えたのだ
ろう。こちらも良い気分になった。
それにしても、乗用車の若者は窓を開けてちょっと
謝ればいいのに、平然としている。内心怯えていた
のかもしれないが、ちょっとした挨拶ができない。
コミュニケーションがとれない人がふえてきた。
落語の『花見酒』
「酒がなくて なんの花見かな」。花見には酒はつきもの。
そこで「酒を売りに行けば売れるだろう」と考えた二人。
元手の金はないから、酒屋に行って、酒を一樽と 釣銭用にと
10賎を借りた。
さて、樽を担いで向島に向かった二人。途中で酒が飲みたく
なった。まず兄貴分が、先ほどの借りた10賎で一杯。
今度は弟分が、兄貴よりもらった一銭で一杯。そうやって
交互に一杯、また一杯と・・・・。 とうとう樽は空に。さて
「売り上げは」と勘定してみると、10賎だけ。
酒屋に「酒代」の支払いをせねばならない。借金だけが
残ったという話。
どうも「古典落語」は、アホ丸出し。教養も知恵もない
マヌケの話で、くだらないと思っていた私。
でも この話。「そんなアホな」とバカにしていられない
ことに気づいた。
バブルの頃の「土地ころがし」は、まさにこの「花見酒」と
同じではなかったか。銀行から借金して土地を買う。
転売して、また買って、売って。土地が同業者の間を
行ったりきたり。株もそうだった。その挙句、地価も
株価も暴落して、気が付いたら、金は無い。悪夢だった。
いや、詩吟や琵琶、邦楽界も、まさに「花見酒」ではないか。
会を催せば、同業者が「ご祝儀」を持ってきてくださる。
今度、その方が会を開けば、「御祝儀」を持っていく。
差し引きゼロ。
つまり、仲間内で「ご祝儀」をやりとり(交換)して
いるだけ。一般客がチケットを買って聴きに(見にきて)
くれない限り、業界としては外貨は稼げない。
そんな努力を怠っているかぎり「花見酒」である。
中日新聞 4/23 「発言」欄。読者の投稿。
「鈴木さやか」さん(28)。教員。
4月から2年生の担任に。
「こどもたちのかわいらしさと、はじけん
ばかりの元気良さのおかげで、てんやわんや。
教員になった時、心に決めた抱負がある。
それは“一日一爆笑”。こどもたちとのやりとりで、
一日何度も笑い、時には地面に転がって、腹を
抱えて笑いあう」
というような内容。すばらしい。笑いが絶えない
教室。こどもたちもさぞかし、学校に行くのが
楽しく、登校拒否などにはならないでしょう。
もうお一人。「山岡淳子」さん(40)。こちらは
母親の立場で
「自分の娘は、小学校三年間、一日も休まず、
親としてありがたく思う。(しかし、皆勤賞は
無し)。自分の小学校時代は、皆勤賞が欲しい
ばっかりに、多少無理をしてでも学校に行ったもの
だが、今は、咳がひどいと、インフルエンザを
周囲に撒き散らす恐れがあるからと、登校を止められる。
皆勤賞は学校からいただけなくとも、親として
子供の頑張りをしっかりと認めてあげたい」と。
こちらも、学校に苦言を呈するのではなく、学校の
対応を受け入れた上での冷静な声。すばらしい。
昨今は、モンスターペアレントに学校の先生も
たじたじ。(私も 学校の前を通って、何度が
目撃している)。全国で 5,000人もの教職員が
休職中とか。
学校改革は“家庭から”ですかな。
横山勝也氏の祖父も父も尺八家だった。氏は3代目だが、
福田蘭童と海童道祖という全く相反する強烈な個性の2人に
師事した。
「邦楽ジャーナル」1998.12月号と1999.1月号に、横山氏
が、2人の師について、述べている。
「福田蘭童は西洋音楽に傾倒して、フルート的な奏法を
追及していたから、ムラ息などは大嫌いだった。片や
海童道は精神的哲理を重んじ、前衛的な奏法を追究して
いたから、2人は尺八界の両極にあった。
しかし、福田蘭童師も、その生き方、従来の尺八奏法に
こだわらない自由な吹奏は、普化禅師の教えに通じる。
そして、海童道師も奇行が多く、ご自身“普化禅師の再来”
を意識していたのではないか」と。
「福田蘭童と海童道の2人の師。その目指す方向は全く
相反していたが、共に“普化禅師の生き様”に同じだった
のでは」と、横山氏は喝破している。
私の師堀井小二朗も福田蘭童と親しく、尺八を洋楽器の
ように改造し、フルートに追いつけ追い越せの方向を歩いた。
私は堀井小二朗師の9孔尺八を継承した手前、横山氏に
直接師事することはなかったが、海童は究極の憧れであり、
横山氏のレクチャーコンサートや研修会などで、道曲を
学んだのである。
そういえば、S38年だったか、TVドラマの『そろりと参ろう』は、
福田蘭童の原作監修だが、その内容は海童道に師事した
横山勝也の修行時代に重なるのだった。
全く相反するように見えるものが、実は大本で同根という
ことに興味を覚える。
海童道に直接会った人はほとんどいない。全く謎の存在だった。
私が海童道を知ったのは、NHK・FMで放送されたのを聞いてだ。
その時すでにレコードが出、そのレコードがテレビ、ラジオ
で使われ始めていた。「イレブンPM」という深夜の多少エッチ
な番組で、ストリップダンサーが裸でくねくね身をくねらせて
踊るバックに『産安』が流れたりしていた。
私が始めて海童道を見たのは、テレビでたまたま見たロックの
コンサートだった。信濃川の河川敷で3万人の若者を集めて
行われたロックの祭典。まだモノクロのフィルム映像だった。
ロックの強烈なビートに酔いしれる会場が、突然静まった。
太い孟宗竹を抱えて登場した海童道祖が、その竹に息を入れた
瞬間だった。今まで聞いたことのない竹の響きに3万人の
聴衆が息を呑み、固まったのだ。
一息で3万人を黙らせる。それこそ神のごとき業だった。
以来、私は海童道のとりこになったが、以来、海童道祖は、
公共の場には決して姿を現さなくなった。住所を調べても
一向にわからない。後で知ったのだが、なんと私の家から
歩いてもいける所に住んでいたのだった。灯台元暗しで
あった。
これも縁がなかったのだろう。もし家を訪ねたとしても、
まず会ってはいただけない。毎日毎日、日参して、本当に
習いたい!、一生続けるという意思を示さなければ、弟子には
してもらえないとのこと。結局、海童道の弟子は横山勝也氏
一人しかいないのだ。私など到底ダメだったろう。
とにかく奇行が多い。学生三曲で「海童道を聴く会」を開催し、
チケットは完売したが、当日、海童道は現れなかった。ドタ
キャンだ。そんな話は他でもたくさんある。フランスのTV局が
招聘したが、法竹(尺八)は一曲も吹かず、おならを自由自在に
鳴らしてみせただけ。おかげでそのディレクターがクビになった
とか。これぞまさに普化の再来なのだ。
横山勝也氏の師である海童道祖は、私にとって究極の憧れだ。
昭和40年頃、NHK・FMで『産安』『息観』を聞いて、身震いを
覚えた。
「産むが安しと書いて『産安(さんあん)』。安産の祈りの曲と
云われています」という男性アナウンサーの解説も覚えている。
しかし、明暗流の系譜に『産安』や『息観』『手向』といった
曲は存在しない。「博多一朝軒の普門」という触れ込みだが、
「博多一朝軒の当主の娘磯一光さんは、不快の色を顔に出して
『あの人は一朝軒には何の関わりもありまっせん』と言って
おられた」と、虚無僧研究会機関誌『一音成仏』第3号(S57年)
に片田一徹氏が書いている。
そんなこんなで、どうも尺八界、明暗関係者からも“いんちき”
呼ばわれしていたようだ。そんな尺八界と絶縁して、海童道祖は
「尺八に非ず、法器だ」といい、普化の禅、古典本曲の真髄を、
前衛的超絶技巧で表現した。それは棒術で鍛えられた体と、
精神力で、他の尺八家には到底真似できない苦行の末の孤高の
世界であり、尺八界以外の人たちに支持され、「禅の音楽」と
して世界に広まっていった。
海童道の道曲は、本当に虚無僧が吹いた古典本曲なのか? と
問われれば“No!”だろう。彼ほどの天才は過去には存在し得な
かった。だから海童道の法竹は前衛・現代音楽なのだが、それが、
現代人が求める“精神世界”“メディテーション”“禅の心”に
マッチしたものとして受け入れられているのだ。
ところで、『邦楽ジャーナル』1999年3月号で、横山氏はこんな
ことを述べている。
「先生(海童道)の曲は、どんどん変化していった。全く別の曲かと
思えるほど変わっていった。僕(横山)は“昔の方が良かった”と
思うこともあって、抵抗もあった」と。そして横山氏は「伝統という
ものは自分の勝手で安易に変えてはいけないと思っている」と。
これは私にとっては意外だった。海童道祖の道曲を劇場用、
観賞用に高めたのが横山勝也氏だと思っていたからである。
海童道の中で、昨日と今日、10年前と今日、別の曲かと思えるほど
変化を遂げていったとは知らなかった。そして海童道の道曲は横山
勝也とその門下生によって、ようやく今日、一般尺八家の間でも もて
はやされるようになった。ここまでなるのに50年。
わが師堀井小二朗は、いみじくも言っていた。「真の芸術家は50年
先を生きている。そして音楽の賞味期限は100年だ」と。
今や海外では大人気。外国人尺八家が教祖と仰ぐ「海童道宗祖」が、
昭和35年頃、本を出版していました。
『神変者罷り通る』という題。「東海出版」刊とありますから、名古屋の
出版社でしょうか。名古屋市の鶴舞図書館にありました。
驚くような内容です。
先代の市川猿之助、市川中車、市川段四郎といった歌舞伎役者や
山田五十鈴、香川京子等、当代一流の芸能人、大女優と親交があり、
「普化宗管長」の肩書で皇宮警察本部の講師も務めていたとのこと。
何の講師かはわかりませんが、皇宮警察署長の肝いりで、皇居内で
毎月一回、天下の名人、大会社の社長、斯界のおえら方が集って
「名人遊行会」が行われ、その常連メンバーになっていた。
皇宮警察署長からの指示で、海童が名古屋や大阪に出向いた時は
愛知県警や大阪府警のトップが駅まで出迎えるという扱いを受けていた。
ところが、そうした一流人と会う時、海童は わざとボロボロの
着物を着、それにゴミ箱からゴミをかき集めて着物に塗りたくって
乞食の格好で出向き、皆を驚かすという無法ぶり。
まさに普化か一休だ。
ところで「普化宗」などは仏教界の正史、法流では存在しないから
まったくのインチキ。尺八を「尺八に非ず法竹」といい、それを
吹くことを「吹定」というなどと、言葉でまやかし、人を煙に巻く。
まさに海童はペテン師。しかしそれがまかり通る。みな騙される。
今では外国人までが騙されている。その思考とパワーには驚かされる。