北朝鮮問題から紀州のドンファン田崎氏のニュースにまで
顔を出す「デヴィ夫人」に私は少なからず関心がある。
実は彼女は、中学を卒業して千代田生命に務めていた。
1940年(昭和15)の生まれですから、今年御年78歳。
父親は大工、弟が一人。戦争中は福島県浪江町に疎開していた。
昭和30年、中学を卒業すると150倍の難関を突破して
千代田生命本社に入社。当時千代田生命は大手生保5社にはいり、
勤務時間は午後4時まで、その後 定時制高校に通わせてもらえる
という好条件、女性の花形職場でした。
ところが、16歳の時父親が亡くなり、母と弟を養うために退社。
高校も中退して赤坂の高級クラブ「コパカバーナ」で働く。
なんと16歳でです。今ならアウト!
1959年(昭和34)19歳。インドネシアの開発援助のため
「東日貿易の秘書」という名目で、スカルノ大統領に接近、
愛人となる。高級コールガールという言葉が生まれた。
これには昭和のフィクサー児玉誉士夫が関わっていたとも。
半ば国策として送り込まれた。
インドネシアは、第二次大戦終戦後、オランダからの独立を勝ち取るための
内戦が続き、混乱を極めていた。復興のためには日本からの援助が
必要であり、また日本の商社も石油やゴムの輸入にインドネシアとの
外交を重要視していた。
1962年(昭和37)22歳。スカルノと正式に結婚。といっても
第3夫人。マスコミは好奇の目で騒ぎたて、マスコミの執拗な取材に
母親が憔悴して亡くなり、同時に弟も、全財産をだまし取られ
ガス自殺という悲劇に見舞われる。
デヴィ夫人へのスカルノの愛情はハンパでなく、毎日のように
ラブレターをもらったとのこと。今ならスマホでメールだが、
当時は、スカルノは会議中でもメモ書きして、執事に手渡し
デヴィ夫人に届けさせた。
そんな至福の時は長くは続かず、3年後の1965年(昭和40)
右派軍人のクーデターでスカルノ大統領が失脚。
デヴィ夫人は日本への亡命を求めるが、政府は政治上の理由で拒否。
日本の企業、財閥も手の平を返して、彼女を救わなかった。
国策で送り込まれたのに、最期は国家に裏切られたカタチとなる
亡命を受け入れてくれたのが、難民に寛容だったフランス。
25歳でフランスに渡り、持ち前に美貌と才覚で、フランスの
社交界を渡り歩き、1991年51歳でにアメリカに移住。
翌年、コロラド州のスキーリゾート地で、フィリピン大統領の
孫娘と喧嘩し、シャンパングラスで顔を殴打。傷害罪で逮捕され
禁固60日の実刑を受けている。
とにかく、インドネシア語の辞書も会話スクールも無かった時代に
短期間でインドネシア語を修得。英語、フランス語も堪能という才女。
日本に度々帰国。たちまちマスコミの注目の的となる。
当時のデヴィ夫人が、「日本に来て驚いたのは、平均寿命が80才超、
私はもう一度人生をやり直せると決意した」と語っているのを
私はテレビで目にした。
スカルノの失脚理由は、中国や北朝鮮との友好関係を築こうとし、
共産化が危惧されたからであった。インドネシア時代に親交を
結んだ縁で北朝鮮にもパイプを持っている。
波乱の人生をものともせず、超グローバルな人なのである。