現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

「殺すつもりだった」

2014-02-25 21:30:43 | 虚無僧日記
歩道に車突っ込み13人負傷 運転の男逮捕「わざと」(朝日新聞) - goo ニュース


2月23日、名古屋駅の南、笹島の交差点で、歩道に
乗用車が突っ込み、通行人を次々とはねた事件。

あの場所、私は毎日通っている。車がぶつかった木は、
時々、虚無僧で立っている場所でござる。

犯人は、西区栄生(さこう)の「大野木亮太」(30歳)。
私の家のすぐ近く。毎日通る。

「あの人が?信じられない!」「まじめな子だったのに」
「きちんと挨拶する人だった」と犯人を知る人の声。

そんな声を聞くたびに「私のことだ」と思ってしまう。
またまた名古屋。こんなニュースが流れるたびに
母は「おまえでは ないかとドキッとする」と電話を
かけてくる。

ほんとに、やりかねない私なのです。

「今の世の中、右を向いても左を見ても、腹の立つことばかり。
どこに男の夢がある。そういう私も日陰育ちのひねくれ者、
お天道(てんと)様に背中を向けて歩く馬鹿な人間でございます」

イヨッ!大好き、鶴田浩二『傷だらけの人生』。
(「天才バカボン」のパパの愛唱歌だったそうです)。

「犯人の気持ちがわかる」なんて思うのは私だけでしょうか。

そして、こうした事件があるたびに「私でなくて良かった」と
肝と頭を冷やす私です。





フィギア・スケート 疑惑の金メダル

2014-02-21 20:51:40 | 虚無僧日記
まさかのソトニコワ金 海外メディアからも疑念の声(聯合ニュース) - goo ニュース

テレビも無い生活の私。関東甲信越が“恐ろしいほどの大雪”で
大変なことになっているとは、facebookで、伊那のKさんや
御殿場のWさんの写真を見てようやく理解できました。

もひとつ、ソチのオリンピックもネットだけでは、やはり
臨場感が伝わりませんな。結果だけみて、あれこれ想像を
めぐらせておりやす。

さて、注目の女子フィギア・スケート。「金は、ロシアの
新鋭アデリナ・ソトニコワ」。“まさか”の金と騒がれて
おるようです。

SP、フリーともに完璧な演技をした韓国の「キム・ヨナ」を
上回る得点が理解できないと、疑惑の声。「主催地ロシア贔屓の
採点」というものです。

当のキム・ヨナは「ノーミスで終えたことに満足」、採点結果に
ついては「思い通りにできるものではないので、受け入れなければ
ならない。私より周囲の人たちが怒っている」と、冷静さを
保っていた。成長したものだ。

前回は、キム・ヨナの高得点に、さんざん疑問の声が上がって
ましたな。審査員の買収が明らかになったのでしたっけ。

それより、こちらの「漫画」による解説で、「審査員は素人」
ということを知りびっくり。スポーツ音痴の私、どうも、
結果が釈然としないスポーツって、やっぱり好きになれません。


「覚心」のもうひとつの寺「妙光寺」

2014-02-21 13:58:56 | 虚無僧日記
「法燈国師覚心」といえば、紀州由良の興国寺の開山ですが、
なんと京都にも「覚心」が開いた寺があります。

京都市右京区鳴滝にある臨済宗建仁寺派の寺「妙光寺」。
こちらのサイトに「法燈国師覚心」のことが、実に
詳細に書かれていました。

「妙光寺」は 弘安8年(1285)に「覚心(1207~98)」に
よって開創された寺とされていますが、実は「覚心」は
ここには長く留まっていません。

弘安4年(1281)亀山上皇は 覚心を都に招いて 禅について
尋ねた。そのときの覚心の回答に感心した上皇は、禅寺を建て、
覚心を開山第一祖としようとしたが、覚心は謝絶し、夜 密かに
抜け出して、紀州の西方寺に帰ってしまったのです。

弘安8年(1285)覚心79歳の時、内大臣「花山院師継(1222~81)」が
北山に妙光禅寺を建て、覚心を開山として迎えたいと
要請した。

しかし無本覚心は 西方寺に留まったままで 京都に来なかった。
「前年に天皇のお心に背いて 西方寺に帰ってきてしまったので
あり、花山院のために上京したのでは、礼を失する」という
道理である。

妙光寺としては「衣鉢を師に返し、塔院を破却しよう」とまで
憤ったが、そんな心情を察して、覚心は突如上洛し、妙光寺に
参じ、また宮中に参内して天皇に謁見し、西方寺に帰った。

その後、覚心の弟子、高山慈照、東海竺源、孤峰覚明、無住思賢の
4人が 妙光寺の住持となっている。


1333年、後醍醐天皇が、鎌倉に叛旗を翻し蜂起した時、三種の
神器とともに妙光寺に行幸している。以後、花山院は南朝方として
仕える。

覚心の弟子(二代目)「孤峰覚明」は、貞和年間(1345~50)の
初めに 妙光寺の住持となった。都の僧俗は争って拝謁し、
足利尊氏(1305~58)・直義(1306~52)兄弟も参禅した。

尊氏・直義兄弟は、後鳥羽院の古廟を改めて寺院とし、
孤峰覚明を開山第一祖にしようと、再三要請したが、
孤峰覚明は拒絶して、夜 ひそかに遁走した。

紀州由良の「西方寺」が「興国寺」と改称するのは、
1340~1346の南朝「興国」年間に、孤峰覚明が南朝二代目の
「後村上天皇」の帰依を受けて、南朝の元号である「興国」を
拝命したからである。

このような経緯で「興国寺」は二代目の「孤峰覚明」以来
南朝方となった。



「味噌神社」に祀られているのは

2014-02-21 09:23:06 | 虚無僧日記
長野市にある「長野県味噌工業協同組合連合会」の敷地内に、
「味噌神社」というのが建てられたそうな。岡谷市の南信支所(研究所)
の敷地内にも「味噌神社」が置かたとか。

神社なのに、そこに祀られているのは・・・・・?。「放燈国師覚心」。
「覚心」といえば、紀州由良の興国寺の開山。それがなぜ長野に?

実は、「覚心」は、鎌倉時代、信州神林(現長野県松本市)の出身。
中国(宋)に渡り、浙江省杭州の「径山寺」や鎮江府の「金山寺」で
禅を学び、ついでに味噌の製法も学んで、日本に伝えた。つまり
「径山寺(金山寺)味噌)」を日本に伝えた人というわけ。

覚心は、承元元年(1207年)に生まれ、永仁6年(1298年)に91才で
亡くなった。「味噌」は健康に良いという証(あかし)ですか。

嘉禎元年(1235年)、奈良東大寺で得度・受戒し、高野山で真言密教を学び、
臨済宗栄西の法嗣である退耕行勇、曹洞宗の道元にも学んだ後、宝治3年
(1249年)に宋へ渡った。そこで無門慧開に学び、「無門関」を日本に
持ち帰った。

そして、紀州(和歌山県)由良町の「西方寺(後の興国寺)」開山と
なった。そして、故郷の信州に行き、母を由良へ連れて帰っています。

歿後、亀山上皇からは「法燈禅師」、後醍醐天皇からは「法燈円明国師」と、
師号をおくり名された。

史実に残る「覚心」の功績は「無門関」と「味噌」を日本に持ち帰った
ことですが、そこに虚無僧が便乗して「座禅と読経の代わりに尺八を吹く
普化宗(ふけしゅう)」も、日本にもたらしたとして、虚無僧たちは
「法燈国師覚心」を「日本普化宗の開祖」に祀り上げています。

それを示す、正規の史料は全くないので真偽のほどは不明なのです。

虚無僧寺は寺にあらず。

2014-02-20 10:56:34 | 虚無僧って?
虚無僧は本来、牢人者の生計(たつき)を得る手段。
「物乞い」だが、元は武士だからプライドもあって
「乞食」とは一線を画して「門付け(かどづけ)」と
言った。

仏教思想の中に、貧しい人、困っている人に施しをすると
「徳積み」になるというのがある。乞食や托鉢僧、虚無僧、
巡礼者に布施をすれば、心が明るくなる。乞食や托鉢僧、
虚無僧は「徳積み」をさせてもらう対象として存在する
価値があった。

ちなみに、江戸時代初期まで「浪人」は「牢人」と
書いた。特に「牢屋」につながれた犯罪人ではない。
だが、「牢人」とあるので 誤解をしたのか、ネットでは
「虚無僧は武士で罪を犯した人。虚無僧になれば罪が
許された」などと説明したものがあるが、とんでもない。
そんな決まりも実例もない。

『徒然草』に「ぼろ(暮露)」を「世を捨てたるに似て
我執深く、仏道を願ふに似て闘諍を事とす」と喝破されて
いるように、「仏道修行」は方便。

ところが、不思議なことに、日本人は「破戒僧」を
容認する風潮がある。「破戒僧」といえば「一休」。
「一休とんち話」は、仏教批判の庶民の心の反映だ。
弁慶が 法体でありながら、薙刀を振るって人を殺す
のにも拍手喝采を送る。

『徒然草』でも、「ボロ」は「放逸・無慙の有様なれども、
死を軽くして、少しもなづまざるかたのいさぎよく覚えて」
と、二人のボロが争って、殺しあったことにも賛辞を
送っている。

であるから、「乱暴狼藉者の虚無僧」でも 江戸時代は
容認されてきた。


「虚無僧寺」とは言っても、正式の認可を得た寺でない。
多くは無頼の輩の溜り場。正規の僧ではないから、葬式も
執り行えず、墓地も無い。そこで「虚無僧」も亡き後は
近隣のしかるべき寺に葬ってもらわねばならない。

現在、「虚無僧研究会」を引き受けていただいている
新宿の「法身寺」は、そうした寺で、墓地内に虚無僧の
墓があるというご縁。虚無僧寺ではなく、れっきとした
臨済宗のお寺。

京都の「明暗寺」は、江戸時代の初め、牢人狩りで
出頭した虚無僧に、京都所司代が情けをかけ、「妙法院」の
裏山に、わずか45坪の土地を借りてくれ、建てられた。
「妙法院」の敷地内だから、当初は「妙安寺」だった。

それが、幕府の「キリシタン改め」にからんで、法統を
明らかにする必要に迫られた。

「妙法院」は、天台宗の名刹。虚無僧寺の元締めにはなって
くれそうにない。そこで、京都から離れた紀州由良の興国寺に
本山の引き受けをお願いした。

京都明暗寺から興国寺に「末寺証文」を提出したのは、1703年
(元禄16)。江戸時代も半世紀過ぎた頃。赤穂浪士事件の後。
興国寺は、当初無視していたが、明暗寺側から「看主は、興国寺で
得度受戒を受けること」と「毎年上納金を納める」との条件提示で
2年後の1705(宝永二)年に了承した。

ところが、これには、臨済宗の大本山「京都の妙心寺」が
異を唱えた。「明暗寺が興国寺の末寺になったらしいが、
こちらの末寺帳には載っていない。どういうことなのか」と
詰問している。これには「何か関係があったようだが、史料は
焼失して不明」と答えている。

その後、明暗寺は、毎年の上納金も納めず、看主が得度受戒を
受けるということもせず、つまり約束を守らず、「本寺末寺」の
関係は自然解消している。

ずいぶんいい加減なことですが、江戸時代というのはそういう
時代だったのでしょう。寛大、寛容の精神ですな。


そうそう、名古屋名物「鍋焼きうどん」の店「山本屋」は、
どこの支店も「山本屋本店」と掲げている。チェーン店だが、
全部本店。

名古屋栄にある「三越」は「三越本店」とうたっている。
「三越」の本店は、東京の「日本橋店」のはず。これは、
三越に吸収される前の「オリエンタル中村」当時、名東区の
星が丘店に対して、栄を「本店」と呼んでいた名残り。
東京から来た人は「名古屋が三越の発祥の地かと」勘違いする。

老舗のお菓子屋など、「元祖」とか「本舗」などという呼称を
使っているが、誰もその真偽は問わず。そんな寛容さが日本の
ファジー(あいまいさ)な文化と思って、許されたし。

虚無僧はモンク?

2014-02-20 05:50:05 | 虚無僧日記
外国人に「虚無僧って何ですか?」と問われて、「モンク」と
答えたら、怪訝な顔をされた。意味が通じなかったみたい。

「MONK」で検索してみたら、フランス映画で「MONK-
破戒僧」というのが一番に出てきた。これはヤバイ。でも
当たっているかも。

言語の意味は、一般には「修道士=俗生活を捨てて修道院
(monastery) に生活する男子の修道者」。その語源は
ギリシャ語「一人で暮らす人」ですって。なるほど。

「モンクで文句あっか!?」

さらに「日英対訳」では、「僧侶;法師;御寺様;桑門;
僧徒;僧;御房;出家;和尚;御僧;お尚;円顱;寺方;
坊;御坊;緑髪;坊主;坊さん;経読;削回し;和尚さん;
味噌すり坊主;坊様;お坊さん;釈氏;和上;御坊さん;
沙門;削り回し;御寺;僧都;仏家;お寺さま;一笠一杖;
僧家;お寺;釈家;釈門;お寺様;修道士;和尚様;緇衣;
経読み」と、まぁ日本語は 同類異語が多すぎる。

鑑真は「和上」、弁慶は「荒法師」、一休は「和尚」、
親鸞は「上人」、日蓮は「聖人」。「削りまわし」とは
なんじゃらほい。「釈超空」は「折口信夫」の号だが、
「釈由美子」はタレント。ややこしい。


この他、名古屋では「おっす」さん(様)と呼んでいる。
虚無僧の私でも度々「おっすさん(様)」と呼ばれる。
「オッス!」「オス(雄)」ですか。





中国の「代作 偽作」問題

2014-02-18 14:01:06 | 虚無僧日記
「佐村河内」事件に関連して、「代作」で検索したら
「中国の代作問題」が検出されました。

「長江日報」の記事

2009年にインターネットを利用して、外国から英語論文を
購入した中国人は最低でも4700人。多く見積もって 
1万4000人以上に達したとみられる。

購入した「代作論文」は 主に 海外の学術会議・学術誌で
発表されており、科学論文で国際的に権威がある米SCIでは、
中国人名義による代作論文が年間 100篇掲載されている。

「代作、偽装天国の中国。学術道徳を確立する上で、
中国には大きな欠陥が存在する」と論じている。

でも、中国を笑うなかれ。日本でも、度々「代作」や
「盗作」論文が出てます。“目くそ 鼻くそを笑う”か。

そうそう、「一休 作」とされるもののほとんどが、
後世の作、贋作である。尺八の『紫恋慕』という曲も
「一休作」と伝えられるが、誰も信じてはいない。

そういえば、「経典」は全部代作、贋作でした。お釈迦様は
一字一句も書き残していない。釈迦の名を借りて、後世の人が
書いた“贋作、代作”です。





葛飾応為【三曲合奏図】見てきました

2014-02-18 12:38:57 | 虚無僧日記
先日、日経新聞 1/31の 文化欄「日本美術に聴く音楽」を
見て知った ボストン美術館所蔵「葛飾応為」の浮世絵『三曲合奏図』。

にゃ にゃんと、今、名古屋のボストン美術館で公開中とのこと。
知りませんでした。あわてて見てきましたよ。

「名古屋ボストン美術館」は、アメリカ・ボストン美術館の
所蔵品を借り受けて展示する施設として、1999年(平成11)
名古屋の財界人によって設立された。しかし大赤字で、
存続も危ぶまれている状態。だから広報宣伝も行き届かない?。

「葛飾北斎」の代表作「赤富士」「波間の富士」をメインに
役者絵、美人画、花鳥画、風景画など かなりの数が、ボストン
から里帰り。こんなに、海外に流失しているのかと嘆息する。

そして「北斎」展の最後、出口近くにありました【三曲演奏図】。
他が版画なのに対して、これだけは掛け軸に表装してある肉筆画。
北斎の美人画とは画風も異なり圧巻!。


ジャン!なんと「胡弓が四弦」。ネットで調べたら、普通は
「三味線」と同じく「三弦」だが、江戸時代中期に江戸で
「藤植検校」が「藤植流」を創始し「四弦の胡弓を使用した」と。

絵は、かなりデフォルメされていて、胡弓は後ろにねじられ、
弓は弦からはずれている。つまり弦に触れていないから
音は出ないはずだが、胡弓の奏法の特徴をよくとらえている。

さて、筝の柱(じ)の位置に注目。箏の弾き手は 後ろ向きなので、
箏の両端が描かれているだけだが、五、六、七あたりの柱(じ)が
両端に描かれているのだ。左手の押し手が柱(じ)の右(内側)に
きている。ありえない?

締め方がゆるいと、一つの柱では音程が上がらない時、龍尾の方に
もうひとつ小柱(こじ)を置くことはある。

「応為」は西洋絵画の手法も取り入れ、リアルに描いているの
だから、こうすることもあったのだろうか。


前回 2/3 のブログ再掲 「日経新聞」の記事

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「葛飾応為」は「葛飾北斎」の娘。「三曲」とは、地歌三味線、
筝、胡弓の三種の楽器による合奏のこと。その演奏の様を
描いたものだが、「見るからにただ事ではない」と評論。

三味線を弾く女性は、まるでロックのギタリストが高音を
響かせる時のキメのポーズ。背を向けて箏を弾く女性の
細い長い指のアクロバティックな動き。胡弓を弾く町娘の
思い切り首をひねらせるパフォーマンス。

三人の美人は、皆 まるで舞い踊っているかのような曲線的な
動きをみせ、それぞれが持つ楽器の幾何学的なムーブメントと
融けあっている。構図、色彩、描線、すべてがひとつになって
全体として音楽的な画面をつくっているのである。

ここから聞こえるのは、女性バンドによるロックであってもいい。
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私が注目するのは、三絃、箏、胡弓を弾く姿。
現代では、「三味線の棹は45度」とか、「背筋は伸ばして」など、
姿勢も注意される。こんなポーズで演奏すれば、師匠から叱られる。

ところが、最近 でてきた若い女性の邦楽バンド「結(Yui)」などは
まさに200年前のこの「三曲合奏図」そのもの。
私はこれでいいと思っている。

「村岡実」の訃報 ようやく新聞に

2014-02-11 12:56:02 | 虚無僧日記
昨日、2月10日「山本邦山」氏が亡くなり、中日新聞の夕刊で
掲載されました。その翌日(11日)、中日新聞の朝刊に
「村岡実」氏の訃報が、おそまきながら漸く載りました。

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「1月2日、多臓器不全のため死去、90歳。宮崎県出身。
葬儀は近親者のみで行った。喪主は妻「知恵子」さん。
ラジオ番組「永六輔の誰かとどこかで」のオープニング曲
「遠くへいきたい」の演奏で知られる。他に美空ひばりさんの
「柔」や北島三郎さんの「与作」などの歌に伴奏者として
参加した。
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誰かさんが、新聞社に頼み込んだのでしょう。一ヶ月以上経っての
訃報掲載は珍しいですね。他の訃報記事と同列に掲載でした。

ちなみに「山本邦山」氏の記事は3段でした。

山本邦山氏逝去 76歳

2014-02-10 21:20:57 | 虚無僧日記
人間国宝の山本邦山氏死去=尺八奏者、76歳(時事通信) - goo ニュース



都山流の大御所「山本邦山」氏が10日亡くなられたとのこと。
本名「山本泰正」とは、初めて知りました。私の尺八の友
豊橋の「M氏」と同名ではないですか。

昨日、尺八仲間が集まって「山本邦山」氏の話が出ました。
「いくつぐらいだろうか」とも。76歳。私より10歳上でしたか。

昭和39年、横山勝也、青木静夫(現・鈴慕)とともに「尺八三本会」を
結成した時は26歳だったのですね。以来、尺八界に革新をもたらし、
大きく尺八界をリードしてきました。

横山氏も、青木氏も、父親が尺八家でしたが、山本氏も、父親の跡を
継いで「二代目邦山」を襲名したとは知りませんでした。21歳で
二代目を継いだことになります。

横山氏も亡くなられ、またまた巨星落つ。ご冥福をお祈りします。


【思い出話】

昭和45年頃でしたか、山本邦山氏作曲の『竹』を習いたくて、
邦山師宅を訪問しました。しかし、私の『竹』の譜面に「多孔で
吹くべからず」と書かれてしまい、それでチョン。