現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

邦楽の普及は、まず幼稚園、小学校から

2013-09-30 11:47:36 | 虚無僧日記
昨日、「学校開拓」について書きましたら、
「老婆心ながら」とご忠告があり、即、消させて
いただきしました。私も内心ヒヤヒヤしながら
書いたのですが、早速、ライバル会社の営業マンから
「教えてほしい」と問い合わせもありました。

要は、セールスで成功する秘訣は「他社と競合しない
独占市場」を築くことです。

「セールスは断りから始まる」とよく言いますが、
私は異論があります。何事も、断られたらおしまい
です。学校に出入り許可をいただくにも、断られたら、
二度と入れません。断られない方法。それが10年
かけて培ってきたノウハウです。

さて、学校に出入りさせてもらう最終目的は、邦楽器の
普及です。小中学校での邦楽の演奏は各団体が、やっては
いるのですが、それを組織的に スポンサーをつけて
できるようにしたいという目論見です。

学校からもスポンサー企業からも“断られない”よう、
外郭を固めつつあるところです。

非礼な振る舞いには

2013-09-28 20:12:53 | 地球人類の問題
昨日は四日市、今日は犬山、明日は大阪。旅から旅の
浮き草稼業。車の中で3時間ほど寝ては、早朝4時
から6時「朝起会」へ。そんな毎日でブログ書けず
すみません。

「朝起会」を主催している(社)実践倫理宏正会の
会誌『倫風』から、目に止まった記事を掲載させて
いただきます。

慶応の同期、「りんぼう」こと「林望(はやし のぞむ)」氏が
毎号寄稿しています。10月号「礼にあらざれば」から

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プラットフォームでのこと。電車が入ってくると、
小学生の男の子が、並んでいた列の前に割り込んで、
われ先に電車に乗ろうとした。その時、一番前に
並んでいた中年の男性が、「こらァッ!」と叫ぶが
早いか、いきなりその子を張り飛ばした。すると
後から来た母親が「何をするんですか!」と、男と
口論になった。

このやりとりを見て、私(林望)は『論語』の一説を
思いだした。

「子曰く、礼に非ざれば視るなかれ、礼に非ざれば
聴くなかれ、例に非ざれば言うなかれ、礼に非ざれば
動くなかれ」

「仁」というものは、己の恣(ほしい)ままに行動するの
ではなく、やりたいこと、言いたいことを ぐっと
抑えること。

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はて、名古屋では、子供でも“割り込み”は珍しい。
もし“割り込む”としたら中国人だろう。

「ショッピングで万引きしたり、痰を吐き捨てたり、
ゴミをポイ捨てする中国人観光客に注意したら、乱闘
騒ぎになった」という記事があった。

さて、そうした礼を失したふるまいに、怒りを顕わに
してはならない、という。視て見ぬ振りをしろと
孔子はいう。

たしかに、そういう人たちには何を言っても無駄だ。
だからといって、黙って見過ごせない場合もある。
その時は、どう対処すべきか。少なくとも、感情的に
怒鳴ったり、手を挙げたりは、礼を失する行為。
非礼や暴力からは何も生まれない。手でさえぎり、
静かに諭すべきであると。

求められるのは、そうした時のコミュニケーション力。
そこが知りたい。



越前武生(たけふ)に行ってきました

2013-09-23 19:39:49 | 虚無僧日記
9/23 彼岸。一絃琴の眞道さんの伴奏で、越前市
武生(たけふ)の○○寺の法要に招かれて行ってきました。

越前は仏教国。お寺が多い。福井の人は「裏表がない、
純朴素直」。1時間の法要後の演奏でしたが、誰一人
帰らず、真剣に聴いていただけ、尺八もノリノリで
気分よく吹けました。

武生は、私が18歳の時、小浜から敦賀を経て虚無僧で
廻った町。北陸は信仰心の強い土地柄。当時、喜捨は
5円が相場だったのに、50円玉でくださる家も多く、
500円で木賃宿に素泊まりできたのでした。

あれから50年、商店街は残ってはいたのですが、祭日
だからでしょうか、全部シャッターがしまっていました。


パソコン回復!

2013-09-21 21:16:20 | Weblog
半年ほど前、パソコン内の起動のソフトを消してしまって、
インターネットに接続ができなくなり、一珍くんに頼んで、
別ルートで開けるようにしてもらった。

それで「お気に入り」に登録したサイトがすべて
見れなくなっていた。それが、今日なにげなく、
前の方法でクリックしてみたら、なんと接続できた。

これで「お気に入り」情報も見れるようになった。
一体何だったのか?、わけわからんです。まずは
めでたし、めでたし。

西郷四郎の実母は「三留やす」?

2013-09-21 18:46:38 | 「八重の桜」
「池月 映」氏から、またまた貴重なご意見をいただきました。


『会津会会報』第114号(平成20年)所収、「小池明」氏の
「西郷頼母・きみと依田勉三」に、次の一文があります。

「西郷頼母と20年連れ添った「伊与田きみ」さんは、明治23年、
「頼母」と離別した。明治19年に横浜で二人並んで写真を
撮ってから4年後。「きみ」44歳。「頼母」が 霊山の神主に
なった年。ちょうど訪ねてきた養子の「四郎」が別れた理由を
問いただしたが、「頼母」は黙して語らなかったと。

それについて、「池月 映」氏は

「三留」という姓は藩士の中にはなく、四郎の故郷「津川町」の
電話帳に14軒ある。
これはあくまでも仮説ですが、四郎の実の母は「三留やす」では
なかったか。

(私注: 国家老だった「頼母」が 津川に赴いた時に関係したか、
あるいは、会津で側女だった「三留やす」が一子を産み、会津
戦争の時、「四郎」を連れて津川に疎開し、「四郎」を志田家に
預けた?)。


頼母が霊山の宮司になった時、頼母は「きみ」と離婚して「三留やす」を
迎える。それで、四郎が訪ねてきて、霊山で50日間滞在して、
実父母と暮らした。

「三留やす」が 四郎の実母であればつじつまがあう。


津川の「西郷四郎資料館」に「頼母」が一人で立っている写真がある。
これは東照宮の『大日光』という会報に「小森家から提供された」と
ある。どういうわけか この写真は「西郷頼母研究家」の間でも
知られていない。

頼母は日光で7年間、「晃山叢書」という歴史編纂事業をやって
学者の功績を残したことも明らかになった。頼母は学者であって、
武術の達人ではないでしょう。


「会津武家屋敷」は「西郷邸」

2013-09-21 18:04:12 | 「八重の桜」
会津東山温泉の入り口手前に「武家屋敷」があります。
昭和50年に、観光目的で再建されたもので、会津観光の
スポットになっており、また、『八重の桜』をはじめ、
時代劇の撮影によく使われています。

ここは、1700石の家老「西郷頼母」邸を再現したはず
なのですが今回のツアーで、ガイドさんが「ちがいます」と、
言下に否定され、私はびっくり。

堀田節夫の『西郷頼母』にも書かれていました。

「会津武家屋敷」は、江戸時代の「西郷邸」のスケッチを
元に建築されたのですが、どうしてか「西郷頼母」の名は
表には出ていないようです。と

屋根瓦には「西郷家」の「九曜の紋」。藩主が西郷邸を訪ねた
“お成り”の場面、妻子眷属21人の自刃の様相を再現した
人形まで飾ってあるのに、「西郷頼母」の名を出すことを
はばかるとは。

それほど、会津では「西郷頼母」は 嫌われ者でした。
そんな「西郷頼母」に 近年 光が当てられてきているのです。

『白虎隊』では「里見浩太郎」、『八重の桜』では「西田敏行」が
好演して、人気を得ました。


「なよたけの」句の解説

2013-09-21 17:30:04 | 「八重の桜」
西郷頼母の妻「千重子」の辞世

「なよたけの 風にまかする身ながらも、
  たわまぬ節のありとこそ聞け」

は、会津人なら誰でも知っている句ですが、
これについて、堀田節夫氏が『西郷頼母』の中で
詳細に解説しています。

「なよ竹」なる語は『万葉集』に出てくる枕詞。

柿本人麻呂が吉備津采女の死を悲しんで詠んだ歌。

現代語訳をカンタンに書きますと

「なよなよとした竹のような妹は、なにを思ってか
露のように儚(はかな)く、霧のように失せてしまった。
その知らせを聞いた自分でも悔しいのに、手枕かわし、
身に添えて寝たであろう夫たる人は、さびしく思って
寝ていることだろう、悔しく思って恋しがっている
ことであろう」

という内容。

「千重子」は、この『万葉集』の柿本人麻呂の歌を
知っていて、その「反歌」として上記の歌を詠んだ
のです。教養の高さに唖然とします。

「なよたけ」の句は、「なよなよと風に揺らぐ竹の
ような女の身ですが、竹にも たわまぬ節があるのです」と、
武士の妻の貞節を詠んだ歌とされます。

しかし「疾風に翻弄されるわが夫にも 武士(ふし)の
意地があろう」という意味も込められているのでは、
とみるのは うがった見方でしょうか。

頼母は、「なよたけ」の句に寄せて、次の歌を詠んでいました。

「疾(と)き風に たわまず折れし なよ竹の
  この石ふみに よるよしもかな」  

頼母にとっては、“妻は 風にたわまず 折れてしまった”
のでした。その妻の墓石に「寄るすべもない」と、頼母の
悲痛な嘆きが聞こえてくるのです。



「なよたけの碑」

2013-09-21 16:51:21 | 「八重の桜」
会津若松の東南、青木村の山腹に竜宮城のような門が見えます。
会津戦争にも焼かれず残った「善龍寺」の山門。その寺の
境内に「奈與竹(なよたけ)の碑」があります。3mほどの
堂々とした石碑で、揮毫は「飯沼貞雄」。自刃した白虎隊士
のうち、ただ一人蘇生し、生き残った人。西郷頼母の妻
「千重子」の甥にあたります。

この石碑は、昭和3年に建てられたもの。西郷邸で自刃して
果てた21人の骨を埋葬した墓は、少し離れた所にあります。
小さな墓石に、ただ「二十一人墓」と彫られているのみでした。

善龍寺は「保科(西郷)家」の菩提寺で、西郷頼母の墓も
あります。「頼母」の墓には、「保科八握髯(やっかひげ)
翁墓」と並んで「室飯沼千恵子位」と彫られています。
妻の姓を「飯沼」と旧姓で書いているのも珍しいことです。

長い間、「奈與竹」の碑の前では8月23日、盛大に墓前祭が
行われてきましたが、「頼母」の墓は、苔むしてお参りする
人も稀でした。「妻子は立派に命を全うしたのに、夫たる
頼母は、逃げまわって生き恥をさらした」というのが長年の
評価でした。


「奈與竹の碑」とは、西郷頼母の妻「千重子」の辞世
「なよたけの 風にまかする身ながらも、たわまぬ節の
ありとこそ聞け」に由来するものです。


西郷頼母と西郷隆盛の接点

2013-09-21 16:50:17 | 「八重の桜」
先日の会津旅行で「堀田節夫著『西郷頼母』歴史春秋社」を
買い求めてきました。堀田氏は「西郷頼母研究会」の代表
ですので、「西郷頼母」の真実を正しくとらえている方
でしょう。

西郷頼母の「保科姓」を継いだ「保科近一」や、甥の
「和田晋」。霊山神社で頼母に仕えた「堀江覚治」ら、
頼母を直接知る人たちの証言が綴られていて、頼母の
実像が明らかにされています。

そして この書では、「西郷頼母と大東流合気術の関係」を
示すものや、「西郷四郎が実子ではないか」というような
もろもろの“噂”には、全く触れていません。

会津藩家老の「西郷頼母」と 薩摩の「西郷隆盛」。
共に、室町時代の菊池氏を遠祖とする。「たのも」に
「たかもり」。名前まで似ている。但し「隆盛」は
実は父親の名前と取り違えられたもので、本名は
「吉之助」。そして「頼母」の長男の名は「吉十郎」。
これも似ています。そこで、二人は親交があったのでは
ないかと噂されています。


「西郷頼母」が鶴ヶ城を逐われたのも、実は、越後口に
いた「西郷隆盛」と会って、密かに会津戦争の終結を
図っていたからなどという話まで創られていますが、
その確証はありません。


堀田節夫の『西郷頼母』では、「西郷吉之助(隆盛)」と
親交があったとされる史料を3点挙げています。

①明治3年2月、西郷頼母は館林藩での幽閉を解かれる。
共に函館で捕えられ古河藩に幽閉されていた弟の「山田陽次郎」も
解放されるが、弟「陽次郎」は、その年の12月「雲井龍雄事件」に
関連して捕えられる。「雲井龍雄」は米沢藩の人。薩長閥の
新政府に抗議して、蜂起しようとして捕えられ 斬罪となった。

弟の逮捕で、西郷頼母も雲井龍雄との関係を疑われる。その時、
西郷隆盛に救済を依頼したらしく、「西郷隆盛」からの返書が
昭和53年公開された。「申し遣わされた件(ご依頼の件)
ご安心ください。しかし 首謀者の処分は天命と あきらめるより
仕方ありません」という内容。以前 NHKで「会津戦争の首謀者
として切腹させられた萱野権兵衛長修の助命嘆願か」と解説
されていたが、萱野権兵衛の切腹は、明治2年で すでに
過ぎており、全くの誤報。この手紙は、明治3年のことなので、
「雲井龍雄」の事件に関わった弟「陽次郎」と自身の助命を
「西郷隆盛」に依頼したのではないかと推察される。しかし、
弟「陽次郎」は 獄舎で拷問に遭ったか、病死する。

②明治3~4年頃、「西郷吉之助」から「西郷頼母」宛て
20両が贈られたことを示す 熨斗紙が 存在している。

これは私の推測だが、「頼母」一家が伊豆に移住する資金
として送られたのではないだろうか。

③そして 明治10年、西南戦争。「西郷頼母」は「都々古別
神社」の神官を務めていたが、「西郷隆盛に組した疑いで解任
された」と、頼母自身『栖雲記』に書き記している。



西郷頼母の子「吉十郎」は「隆盛」に預けられたのか?

2013-09-21 16:32:33 | 「八重の桜」
西郷頼母の長子「吉十郎」は、「函館戦争後、西郷隆盛に預けられ、
アメリカに留学し、西南戦争にも加わっていた。頼母は、吉十郎を
支援するための物資を送ったが、荷物は政府軍に差し押さえられ、
「西郷隆盛に通じている」という嫌疑をかけられた など、
尾ひれがついて書かれているが、これについては 確証は無い。

「吉十郎」は、箱(函)館の「沢辺家」に預けられた。
堀田節夫著『西郷頼母』によれば、

「吉十郎」は箱館で、ギリシャ正教の神父となっていた「沢辺琢磨」に
預けられたという。「沢辺琢磨」は、なんと「坂本龍馬」の従弟の
「山本数馬」。NHK大河ドラマ『坂本龍馬』でも登場していた。
拾った時計を質屋に売ったことがバレて、江戸払いとなった人物。
その後、箱館に逃れて、「神明宮宮司・沢辺梯之助」の婿養子
となり「沢辺琢磨」と改名していた。新島七五三太(新島襄)が
米国へ密航する時手助けをした人物としても知られる。

「吉十郎」はその沢辺家に預けられていたという。明治4年には
西郷頼母とともに伊豆に移り住んだようなので、西南戦争に
従軍していたかは疑わしい。

坂本龍馬の従弟「山本数馬」。『八重の桜』の山本八重の兄は
「山本覚馬」。ついでに福沢諭吉が長崎で師事した砲術家は
「山本物次郎」。「覚馬」同様、盲目だった。ややこしかぁ。