映画『悪人』。カメラ・ワークがすばらしい。
久石譲の音楽もいいが、車が走るシーンなどで
無音になる場面が何箇所かあった。あの“間”が
またいい。
被害者の父親が殺害現場に行くシーンで、雨が
降っているのに陽が差しているのは興冷め。晴れ
の日にホースで雨を降らせて撮っているからだ。
光を遮って撮るくらいできるだろうにと思う。
あり得ないのは、佳乃が生保レディで、会社の寮?
に同僚と一緒に入っているということ。生保の
外務員のために社宅を用意している会社は無い。
ま、小説の虚構か。
ラストの灯台の映像がすばらしい。ところで、
何箇所か灯台を訪れたことがあるが、どこも
しっかり施錠されていて、絶対入れないように
なっている。どうやって入りこんだんだろう。
ま、その気になれば、窓を破ってでも入れるか。
12月30日(金)深夜1:59 -4:25 中京テレビで、映画『悪人』を観る。
芥川賞作家・吉田修一のベストセラー小説を、妻夫木聡と深津絵里の主演で映画化したミステリードラマ。
ふとしたことから殺人者となってしまった不器用な青年と、そんな男と孤独の中で出会い、許されぬ恋に溺れた女が繰り広げる逃避行の顛末を、事件を取り巻く人々の人間模様とともに綴る。
モントリオール映画祭で深津絵里が主演女優賞を獲得したという映画だ。
タイトルからの先入観で、初めは、金髪でだらしない格好の今時の若者の
「祐一」を、「こいつが悪人か」と決め付けて見ていた。
でも、これもまた今時の若い女 「佳乃」 を殺すに至った経緯を知れば、「どっちが悪い」と思えてくる。
最初に佳乃を車外に突き落とした大学生の圭吾も、今時の若者で許せない。
純朴な一市民だった被害者の父親(柄本明)も、圭吾に殺意を見せる。こうして誰しもが “悪人”になりうる
ことを、見せつけてくれた。
私自身も、切れやすい性格だったから、過去一度や二度はそんな場面に出会ったことはある。
その都度、親に降りかかる多大な迷惑を思って、思い留まった。
映画でも、祖母の樹木稀林がマズゴミの格好の餌食にされる。この映画で泣けたのは、バスの運転手が
マスコミの連中を一喝して追い払い、「あんたが悪いんじゃない、しっかりしろよ」と励ます。
そしてその後、去って行くバスに向かって樹木稀林が深々と頭を下げる。
あのシーンだった。さすが樹木稀林、後ろ姿だけで泣かせる。「主演女優賞」なら樹木稀林にあげたいくらいだ。
出会い系サイト、過疎化、悪徳商法、介護問題、育児放棄など、さまざまな社会問題をからめ、現代社会の
閉塞感に苛まれる若者の孤独を描いてくれた。
映画とは、現実離れした虚構の世界を描くものと思っていたが、ごく身近にいつでも起こりうる課題に、ぞっとさせられる映画だった。
「真剣に命をかけて守りたい人がいるか」という、柄本明のセリフが、この映画のテーマ(主題)だったか。
映画『悪人』は、いろいろ考えさせられた。
樹木稀林が、入院中の夫の介護に家を出ると、
マスコミの容赦ない攻撃にさらされる。バスに
乗ろうとしても入り口まで詰め寄られる。
その時、バスの運転手が一喝する。「バスの
中で取材は困る!」と、すごい迫力に、さしもの
マズゴミもたじろぐ。「バスの運転手にも迷惑を
かけた」と気まずい思いをしながらも気丈にふる
まう樹木稀林。そしてバスを降りた時、運転士手が
声をかける。「ばぁさん、あんたは悪くないんだから、
しっかりしろよ」と。
走り去るバスに樹木稀林が深々と頭を下げる。
あのシーンが泣けた。あの運転手の言葉「あんたは
悪くない」は、樹木稀林にではなく、このストーリー
の登場人物すべてに投げかけられた言葉のようだ。
「あんたは悪くない」がこの『映画』のテーマだったか
と気づかせてくれるほどインパクトがあった。チョっと
しか登場しない運転手までが、存在感のあるすごい
役者を起用していたわけだ。
「西郷隆盛」の「隆盛」は、実は父親の名前だった。
本名は「西郷吉兵衛隆永」だそうだ。
幼名は小吉、通称は吉之介、善兵衛、吉兵衛、吉之助と順次変え、
元服時には隆永(たかなが)、のちに武雄。それが、明治になって
位階を授けられる際に、役人が 誤って父親の名前「隆盛」で
届けたため、それ以後は 父の名を名乗るようになったという。
さらに、西郷三助・菊池源吾・大島三右衛門、大島吉之助などの
変名も名乗ったことがあった。
「坂本 龍馬」も通称で、諱(いみな)は直陰(なおかげ)、または
直柔(なおなり)。変名は「才谷梅太郎」「西郷伊三郎」「高坂龍次郎」
「大浜涛次郎」。「取巻の抜六(とりまきのぬけろく)」なんて
いうのもある。「西郷伊三郎」が「坂本龍馬」とは、誰も判るまい。
「木戸 孝允」と「桂 小五郎」が 同一人物であることはよく
知られている。「徳川家康」も、「(幼名)竹千代」から「松平元信」、
「元康、家康 、 徳川家康」と変えている。
さて、かくいう私も、親がつけてくれた名前は「伸一郎」。
以前は「牧原龍生」と名乗っていたこともあった。「牧(ボク)
原(はら)龍(たつ)生(ぜい)」。つまり「僕、腹立つぜい」。
「若気のいたり」で、因習的閉鎖的な邦楽界に牙を向けていた。
今は「腹を立てず」と誓って、「龍生」をやめ「一路」と
改めた。
かつて邦楽評論家に「藤田伶朗」という人がいた。これは
尺八の音名の「レーロー」を「竹号」にしたもの。一人で
「邦楽雑誌」を編集出版しており、「小山宗介(おやまそうかい)」
「有賀泰寧(ありがたいねぇ)」など、いろいろな名前で、
いくつも記事を載せていた。みな一人の人物だったのだ。
ペンネームにもそんなユーモアがほしいですね。
浅田次郎原作『壬生義士伝』
中井貴一で映画化されたが、新選組の衣が赤と黒なのには幻滅。なんで赤黒にする必要があるのかとぶっきれ。浅葱(あさぎ=薄い青みがかった鼠色)には意味があるのです。浅葱は士分でない者を示す色です。新選組は正規の会津藩士ではなく、浪人、農民の身分でした。中井貴一も今ひとつ、強そうに見えない。
これに対して渡辺謙主演の2002年のテレビ東京「お正月時代劇」10時間ドラマは、感動! テレビで見、再放送を見、ビデオに撮って見、そしてYouTubeでも見、何度見ても泣けました。
妻子を養うために、南部盛岡藩を脱藩して「新選組」にはいり、金になることは何でもやり、「守銭奴」や「出稼ぎ浪人」などと呼ばれた「吉村貫一郎」の義理と愛を貫く姿を描いた作品。
コメントも「時代劇で これほど泣いたこと無いくらい大泣きした」というのが大半。私も、テレビで観た時は、新選組にこんな隊士がいたのかと感動にうち震えたが、その後、浅田次郎のフィクション(創作)と知って、興ざめ。
そもそも「吉村貫一郎」は実在したのか?
鳥羽伏見で戦死した隊士の中に、南部盛岡出身で「嘉村(よしむら?)権太郎」と
いう名があるが、事跡は不明。全く無名の隊士だった。
そして、箱館での戦死者名簿の中に「久慈藤右衛門 南部藩脱走士」がおり、二人を「親子」として、話を創作したようだ。
吉村貫一郎の幼馴染で家老の「大野次郎右衛門」も実在していない。
小説では、「奥羽越列藩同盟」側に付くよう藩論を仕向け、官軍側についた隣国秋田に攻め入り、敗戦後、その責任をとらされて斬首となる。
その人物は、大野次郎右衛門ではなく「楢山佐渡」という家老。
ですから私が一番泣けたのは、吉村貫一郎ではなく、上司の大野次郎右衛門役の「内藤剛志」さん。
「お役目」と「幼馴染の人情」の狭間に苦悩する。母親(岸田今日子)との別れ、貫一郎の倅「嘉一郎」とのやりとりの場面で、もう泣が止まらなかった。「内藤剛志」が、言葉数少なく、顔の表情だけで、こんなに名演技をするとは知らなかった。
ラストは貫一郎の子「嘉一郎」が脱藩して函館戦争で戦死するシーン。なぜ、父の願いに反して死を選んだのか。その真意に涙が止まらない。さすが小説家浅田次郎。
『壬生義士伝』で吉村貫一郎の上司「大野次郎右衛門」のモデルは南部藩家老「楢山佐渡」のようだ。
「楢山佐渡」は、藩主の縁戚にあたり、代々家老職。22歳で家老となり、後、主席家老となった。
以下は「北条四郎のホームページ~幕末南部藩を率いた悲劇の武将 楢山佐渡」より。
慶応4年(1868)正月の「鳥羽伏見の戦い」後、南部藩に、朝廷より召集令状が来、楢山佐渡と他2名が京都に上った。そこで楢山佐渡が見たものは・・・・・。
京都市中は、西洋式の軍服を着込んだ西国の藩兵が肩で風切って歩いている。花街は、そんな連中であふれ、頽廃そのものであった。
楢山佐渡は西郷隆盛と会談した。西郷とその部下達は車座になって「すきやき」を食っていた。西郷の、ラフな姿に、紋付袴に裃(かみしも)の楢山は面食らう。楢山の血は逆流した。こいつらは侍ではない。
そして、帰藩して「楢山」は 各々方に説いた。
「薩長は勤皇どころか、姑息なやり口で天下を奪い取った反逆者にほかならない。会津・庄内両藩を討伐せよという勅はそもそも偽勅である!天子様が幼いことにつけこみ、薩長は自らの私の恨みを晴らさんがため、勅命を捏造しておるのだ。我らは武士である。もののふである以上、卑怯な輩を討ち、君側を清めねばならぬ。無実の者を陥れ、朝廷をないがしろにする者共にひれ伏すとなれば、もはや武士ではない。拙者は義の為に戦い、死ぬ道を選ぶ。」
藩を「奥羽越列藩同盟」側に導き、秋田大館に攻め入ったが、戦後は敗戦の責を負い、明治2年6月23日、盛岡・報恩寺で刎首された。享年39。
辞世は「花は咲く 柳はもゆる 春の夜に
うつらぬものは 武士(もののふ)の道」
まさに、『壬生義士伝』の「大野次郎右衛門」。
でも、それならなんで、吉村貫一郎を死に追いやったのかね。小説の矛盾。ボロが出たね。
昨日「右翼の街宣車」から流れてくる曲に、思わず 車を止めて聞き入った。『新撰組の歌』だ。なつかしい。
ネットで検索していたら「右翼の街宣車でよく流れている曲、『葵の花に吹く~』、あれはなんという曲ですか」という質問もあった。私の他にも、惹きつけられる人がいるのだ。「葵の花に吹く時代の嵐」この冒頭の歌詞を聞いただけで新選組の運命を語っている。涙がでる。
『新撰組の歌』 作詞:牧房雄 作曲:小川隆
一、葵の花に吹く時代の嵐 乱れてさわぐ京の空
「誠」の旗に集いつつ 誓う剣は雲を切る
二、茨を踏み越えて大儀の二文字に 憂いてすすむ道一つ
今宵も加茂の水荒れて夢は破れる 小夜千鳥
三、砲筒に草は燃え 三百年の武運は空し鳥羽伏見
夜明けを前に 散りまどう壬生のつわもの 何処へゆく
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
これはテレビ時代劇『新撰組始末記』の主題歌だった。歌は 三橋美智也だったか。
キー局:KRテレビ(現、TBS)
放送期間:1961年10月17日~62年12月25日
放送日:毎週火曜日21:30~22:00
キャスト:中村竹弥(近藤勇)、戸浦六宏(土方歳三)、
1961年は昭和36年。まだテレビも白黒の時代。私は中学生。
中村竹弥が近藤勇役で、父と共に毎週火曜日、テレビの前に釘付けになって観た。
それまでは、新撰組といえば『鞍馬天狗』の敵役。悪役だった。それが、初めて「近藤勇」に光が当てられたのだ。
「菊は栄ゆく、葵は枯れる」芥川隆行の名調子のナレーションもまだ耳に残る。
「土方歳三」といえば「栗塚旭」。一番のはまり役だった。
栗塚旭は、1965年の『新撰組血風録』と、1970年の『燃えよ剣』で「土方歳三」役をやり、すっかり「土方」のイメージが定着してしまった。そして、局長の近藤勇より、「土方」の方が主役を奪ってしまったのだ。
鬼の副長「土方歳三」を演じた「栗塚旭」氏であるから、素顔もニヒルで怖い人、厳しい人かと思ったが、実は正反対。
ネアカでよく笑い、すごく謙虚な方だ。当時はまだ29歳、劇団の下っぱ団員で、ナヨナヨしていて、決断力もない青年だったそうな。
それが「土方」役に抜擢されて、監督から「笑うな、動くな、しゃべるな」と言われ、役づくりに必死だったとのこと。
全く意外。その後『暴れん坊将軍』などにも出演していたようだが、
「土方歳三」のイメージが強烈すぎて、他では人気が出なかったようだ。
40年も過ぎて、まだ多くの人の心に記憶されている。これはすごい
ことだ。
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渋沢栄一がこれまでドラマにならなかったのは好色家だったからか。
栄一は花柳界では5本の指に入る遊び人だったという。また妾も抱えた。
明治6年3月に撮られた写真には、妻と妾が一緒に映っている。
当時の栄一は妻妾同居生活を送っていた。
栄一には20人の子がいたとされるが、一説には50人だという話もあり、
多くは妾の子ということになる。
栄一は68歳のときにも妾との間に子を成しいる。
渋沢は酒もたばこも飲まず、唯一の道楽が女だったらしい
昭和の大歌手「美空ひばり」
1989年6月24日午前0時28分、特発性間質性肺炎の症状悪化による呼吸不全の併発により死去。52歳だった。
だがそこに至るには数々の病気との戦いや、荒れた私生活があったという。
ひばり44歳の1981年、実母・喜美枝は転移性脳腫瘍で、68歳で他界。
ひばりの2人の実弟、かとう哲也(1983年)と香山武彦(1986年)も42歳の若さで後を追う。
今の世としては、皆短命だ。
肉親の死で精神的にも落ち込んだひばりは、1987年4月に極度の体調不良で緊急入院。重度の慢性肝炎、特発性大腿骨頭壊死症と診断され3ヶ月半芸能生活を休止する。
47歳、1985年5月、ひばりの「誕生日記念ゴルフコンペ」のプレー中に原因不明の腰痛を訴える。
49歳、公演先の福岡市で極度の体調不良に陥り緊急入院。重度の慢性肝炎(肝硬変)と両側特発性大腿骨頭壊死症と診断され、入院療養。明治座の公演中止となる。
退院後も肝機能は回復せず、大腿骨頭壊死の治癒も捗々しくなく、病状は一進一退。
50歳の1988(昭和63)年4月、東京ドームでの復帰公演。痩せ衰えた体をかろうじて支え、脚の激痛に耐えながらも全39曲を熱唱。体調は悪化していたものの、ドーム公演後の10か月間、13カ所の全国公演、テレビ番組収録などに精力的に挑む。
51歳、1988年12月25日、26日は帝国ホテルで生涯最後のクリスマスディナーショー。
年が明け、1989年1月7日に昭和天皇が崩御し、元号が「昭和」から「平成」へ移り変わった日、ひばりは「平成の我 新海に流れつき 命の歌よ 穏やかに」と短歌を詠む。「明日の自分は、今日の自分に勝ちます」――。
3日後の1月11日、『川の流れのように』のシングルをリリース。だが、特発性間質性肺炎はかなり進行し、ひばりを苦しめる。
2月6日の福岡サンパレス公演で、持病の肝硬変の悪化によるチアノーゼ状態になるが、コンサートを強行。1100人の観衆を前に全20曲を熱唱。
翌2月7日、北九州市小倉にある九州厚生年金会館での公演が、生涯最後のステージになる。
会場の楽屋では、酸素吸入器と医師が控える。肝硬変が急変すれば、食道静脈瘤が破裂し、吐血寸前の病態に追い込まれる。以後、横浜アリーナのこけら落とし公演に執念を燃やすが、自宅療養を余儀なくされる。
だが、3月21日にラジオのニッポン放送の『美空ひばり感動この一曲』と題する10時間ロングランの特集番組に自宅から生出演。番組終盤に生涯最後のコメントを残す。
「ひばりに引退は有りません。ずっと歌い続けて、いつの間にかいなくなるのよ」