現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

「丸栄百貨店」は「村野藤吾」の設計

2018-06-30 19:50:24 | 村野藤吾

名古屋市中区栄の一等地に建つ「丸栄百貨店」が今日で閉店する。

連日、新聞記事でも書かれているが、この建物の設計は「村野藤吾」。

サミットが行われた志摩観光ホテルも「村野藤吾」。彼の設計に

なる建物は、必ず「村野藤吾」と設計者の名前が紹介される。

外壁のタイルの大壁画、ガラス窓の組み合わせ、階段の手すり、

そして東郷青児の絵が描かれたエレベーターに「村野 色」を感じる。

入口脇の壁には「昭和28年 日本建築学会賞 建築 村野藤吾」と

大きく書かれている。「村野藤吾」の建築は、どこも「村野藤吾」の

設計であることを誇らしげに表記しているのだ。

「名古屋の4M」とは「松阪屋、三越、名鉄、丸栄」のデパート。

丸栄本館は 昭和28年(1953)、戦後の復興を象徴する建物として

「村野藤吾」に設計を委嘱して建てられた。外壁いっぱいにタイルで

模様が描かれ、エスカレーターは名古屋初のものとして、注目された。

大阪と有楽町の「そごう」、東京「高島屋」も「村野藤吾」の設計だが、

デパートで「建築学会賞」を受賞しているのは「丸栄」だけとのこと。

昭和28年の建築だから、なんとなく古めかしく、「おばあちゃんの

百貨店」というイメージがあって、若者の呼び込みはイマイチだった。


ネットでみつけたサイトに、こんな感想が書かれていた。

「昭和28年に完成したもので、竣工して60年近くに
 なります。 デザイン的な古さはあるかもしれませんが、
 建築としてそれを感じさせないオーラがあります」と。


              


名古屋都ホテルも「村野藤吾」だった。

2018-06-30 19:40:29 | 村野藤吾

名古屋には「村野藤吾」の作品が少ない。それゆえ、
「村野藤吾」の名を知る人も少ないのはザンネン。

代表建築は「名古屋都ホテル」だったが、2000年
(平成12年)3月に営業を終了し、取り壊されてしまった。

開業は、高度成長期の走り、新幹線が開通する前年の
1963年(昭和38年)。

私は平成5年に名古屋に来た。グリーンのタイルの外壁、
アルミ枠の窓、縦横の接点にすべてアールをつけた
ディテールで、ひと目で「村野藤吾」の作品とわかった。

翌年に知り合った「鈴花」が、ここで結婚式を行ったと
聞いて、縁を感じた。それからよく ここで “お茶”した。

バブルがはじけて経済が低迷する中、駅前にはツインタワー
ビルに「ホテル・アソシエ」がはいり、その他、次々と
ホテルが林立して、都ホテルは閉鎖に追い込まれた。
取り壊された時は、まさに「断腸の思い」だった。

名古屋駅からホテルに通じる地下道は「みやこ地下街」と
名づけられ、その名称は今でも残っている。「みやこ
地下街」を通るたびに 「都ホテル」の面影を忍ぶ。


建築家「村野藤吾」

2018-06-30 10:46:26 | 村野藤吾

私が心酔敬愛する人物は「チャップリン」と「村野藤吾」。
二人に共通するのは「ヒューマニズム」。でありながら
「孤高の人」だったことだ。

チャップリンも映画の製作に当たって「シナリオ」が
無かった。ワンシーンを撮るのに何万回も撮り直しを
させた。妥協を許さない飽くなき執念は常軌を逸して
いた。映画の完成に締め切り日がなかった。

「村野藤吾」もそうだ。建築は無から有を生む。限られた
制約のある敷地を見ながら、構想を練る。白い紙に4Bの
鉛筆が走る。その線はやがて真っ黒になる。何本も重ねて
書かれた線から1本の線をたぐり寄せて形ができていく。

村野藤吾はアール(曲線)に特にこだわった。階段は螺旋
階段だ。フリーハンドで描かれた階段の図を、スタッフが
形にしていかなければならない。気にいらないと、何度
でも書き直し、造り直しを命じられた。

ホテルの建設にあたっては、各部屋ごとの調度品、机、
椅子、カーテン、レストランで使われる食器類の柄まで、
なにからなにまで、自分でデザインしなければ気が済まな
かった。これでは、工期までに 間に合うのか、関係者は
いつもハラハラドキドキさせられた。竣工式の日に階段が
まだできていなかったという話もある。

村野藤吾は「建築家」という枠に留まらない、すべての
芸術を超越した天才だった。


「村野藤吾の椅子」にコメントをいただいた方へ

2014-10-30 14:54:47 | 村野藤吾

2012年2月11日の記事「村野藤吾の椅子」について

一ヶ月前、コメントが寄せられていました。私は一ヶ月

パソコンを封鎖していたので、気づきませんでした。

コメントを寄せられた方。下記へ連絡ください。

 goo3360_february@mail.goo.ne.jp.

該当ブログの再掲です。尚「村野藤吾」に関心のある方は

カテゴリーを立てていますので、まとめて一読ください。

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「建築をやるなら、まず椅子の設計をやりなさい」と
村野藤吾は云う。「住まいでも職場でも、人が長時間
留まるのは 椅子の上。快適さを感じるのは椅子の
良し悪しだ」と。

村野藤吾は、各役員室、応接室、会議室、大会議室、
食堂や喫茶室の椅子まで、全部自身でデザインされた。

大会議室の椅子など、肘掛や脚の部分がアールを描き、
実に繊細。今にも折れそうに か細い。すぐ壊れや
しないかと誰もが心配した。

村野藤吾はいう「繊細で華奢(きゃしゃ)なものこそ、
大切に扱われ、長持ちするのだ」と。

なるほど、小学校の椅子など頑丈に作られているが、
扱いも乱暴になり、すぐ壊される。すぐ壊れそうな
ものは、丁寧に大事に扱おうとする心が働くものだ。

大会議室の椅子は、平成5年まで30年使われていた。
私が名古屋に転勤になる直前、さすが、ニスも剥げ、
布の部分もほつれが目だってきたので、全部廃棄し
取り替えられることとなった。

新しい椅子は、村野の設計した会議室にはそぐわない 
がっしりした色気もないものだった。

村野藤吾のデザインした椅子が廃棄処分されると知って、
私は2脚もらい受けた。それが今2脚、私の部屋に
鎮座ましましている。村野藤吾の遺品だ。

村野藤吾の意匠が次々と壊され、無くなっていくのを
私は断腸の思いで見聞きし、千代田生命と決別したので
ある。


二律背反の課題を解決

2012-08-30 21:50:45 | 村野藤吾
建築家「村野藤吾」のすごさは、不可能を可能にしてしまう
“神の手”にあります。「千代田生命」ビルの建設にあたって
相反する命題がいくつかありました。

① まず、千代田生命としては、「近代的な高層ビル」を
望んでいましたが、ここは住宅専用区域で「高層ビルは
建てられませんでした。そこで「村野先生」が考えたのは、
高低差のある敷地ということで、坂の上の方に正面玄関を
もっていき、そこから上に地上4階。そして坂の下を地下
として2フロアーを設け、6階建てとしたのです。

それだけでなく、同じ外観で屋上に3フロァーを「塔屋」
として乗せました。それで、9階建てに見えるのですが、
上の3フロアーは、なんと、エレベーターの機械室や
貯水タンクが置かれた塔屋、下の2フロアーは地階なのです。

②次なる課題は「オフィスビルなので、窓を広くとり
陽光を多く取り入れたい。しかし、近隣の住宅街に
そぐわない“ガラスの壁”は作りりたくない」という
ものでした。当時、「丹下健三」が有楽町の旧都庁ビルを
てがけ、鉄骨とガラスだけの外観で「これぞ近代建築」
と絶賛されていました。村野藤吾は「ガラス張りの
外観は、光を跳ね返し、また地震などでガラスが崩落
する危険がある」と反対でした。

そこで千代田生命ビルは、外観は鉄とガラスなのですが、
全フロアーにバルコニーを巡らし、その外を3600本もの
柱で覆い隠すことにしたのです。

しかし、この柱(ルーバー)をコンクリートで造った
のでは、やがて亀裂が生じ醜くなる。「村野先生」は
「これをアルミの鋳物で造ったらどうか」と考えました。

ところが、当時の「アルミ業界」は「とんでもない
無理 無理」と二の足を踏みました。そこで引き受けた
のが「久保田鉄鋼」でした。アルミの本職でない業界
だからこそ、自由な発想でこの大事業を成し遂げたのです。

全館をアルミのルーバーで覆うという初めての経験
ですから、厚さは何mmにすれば、全館の総重量は
いくらになるか、耐久度はどのくらいもつのか、
すべて未経験でした。また、アルミでは常識的には
キラキラ金属面が光り輝くものですが、それを
「村野先生」は、鋳型に砂を敷いて、表面をザラザラ
にしたのです。また特殊加工で「利休鼠(ネズミ)」の
色に仕上げました。

さて、アルミのパーツですから、そのままでは
薄っぺらい金属板で覆われた、中が空洞の柱です。
人間の目というのは、中が空洞か(張りぼてか)
芯があるか判るものです。そこで「村野先生」は
その中に「砂を入れよ」と指示しました。

当時、砂は海岸から採掘され塩分を含んでいましたから、
担当者は「塩分でアルミや鉄の部分が腐食する」と
反対したのですが、「村野先生」は「それなら、砂を
煮沸して塩分を取ればいい」と命じました。

とにかく、一般常識で施工担当者が「反対」すると、
「村野先生」は全部、それをクリアーさせる天才的な
人でした。驚くような話は まだまだたくさんあります。
「高層ビルのようにも、低層ビルのようにも見える」
「地下3階に、巨大なボイラーをどうやって入れたか」
「トイレのドアは なぜ45度の半開状態で止まるか」
など、「千代田ビルの7不思議」。その謎解きは実に
面白いものです。

なんでも細く繊細好みの先生ですから、「喫茶室の
軒ひさしの厚さを15cm」と指定します。施工者は
「それでは、天上を支えきれない」と反対します。
すると先生は「君は何のために給料もらってるのか、
頭を使え」と叱ったといいます。仕事とはそういう
ものだと私も感じ入ったものでした。

旧「千代田生命本社ビル」

2012-08-29 15:12:26 | 村野藤吾
現在の「目黒区役所」は、元「千代田生命の本社ビル」でした。

それまで、千代田生命の旧本社ビルは京橋にあり、
大正12年の竣工でしたから、老朽化していました。
関東大震災にも太平洋戦争の空襲にも崩れずに
残ったビルで、そうあの「デビ夫人」も中学を卒業して
「給仕=庶務Ⅱ」として働いていた“由緒ある?”
ビルでした。

当時の千代田生命の社長は、海外の保険会社を視察して、
「これからの時代は 本社ビルは 都心にある必要はなく、
郊外の広々とした敷地に建てるのがよい」との判断で、
目黒の住宅街に移転することを決めたのでした。

ここには 戦前からアメリカンスクールがあったのです。
ジュディ・オングもここに通っていたとか。

私の記憶では、昭和30年前後、駒沢通りは、スクール
バスや生徒を送迎する外車でよく渋滞していました。
「スクールバスは追い抜いてはいけない」とのことで、
日本の車はノロノロと後を着いて走っていました。
子供心に「敗戦国の惨めさ」と思っていましたが、
後に、グアムやハワイでも「追い越し禁止」と知り
ました。

さて、その渋滞を解消するために、アメリカン・
スクールは、立川への移転を計画しており、
タイミングよく、その跡地を千代田生命が買った
のです。

そして、その建築設計を「村野藤吾」に依頼したの
でした。「村野藤吾」は、日比谷の「日本生命ビル」
(日生劇場)を完成させ、注目を浴びていました。
それで(千代田も・・・)と「村野先生」にお願いに
あがった後、日生の担当者に挨拶に行ったら、
「大変なことになりますよ」と脅かされたそうです。

そう、当初予算は40億でしたが、最終的に5割増しの
60億に跳ね上がり、担当役員は大蔵省への説明に
四苦八苦したという、実に“大変な”ビルなのです。

新しいものも古く、古いものも新しく

2012-02-15 10:15:57 | 村野藤吾
JR西日本のポスターに、「唐長(からちょう)」の娘、
千田愛子さんが起用されている。「唐長」は江戸時代から続く
京唐紙(版画で染めた襖紙)の老舗。千田愛子さんはモデル
ではないが、凜とした美しさで、人目を引く。

「唐長」は江戸時代から伝わる襖の柄(がら)の版木を
600枚も保有している。さて そこで また「村野藤吾」の
逸話。

千代田生命の和室の襖紙を選ぶために、村野氏は自ら
「唐長」に足を運んだ。そして一枚一枚丹念にサンプルを
見、すべて却下。そして、傷が入って、使われていない
版木を見つけて「これを」と注文。刷り上ったものには、
当然「傷」がはいる。それをあえて新築の千代田生命の
和室に使っているのだ。

そして、私が「大正の間」と呼んでいる狭い和室の照明が
また いわくつき。「山際電気」で さんざん物色して
気にいらず、先生は、宝塚の自邸から わざわざ電灯の
笠を持ってこられ、取り付けさせた。新築の和室に
中古の照明。大正時代の庶民の家にあったような電灯の
笠だが、これまたシンプルで風情のあるものだ。

古い伝統に基づく和室を “斬新”に見せる一方、
こうして、「新しいもの」を「古く」もみせる。
まさに「美の魔術師」だ。




村野藤吾の和室「きれいさび」

2012-02-14 23:36:40 | 村野藤吾
井上靖が「千代田生命」を評して「きれい寂び」と
表現している。

「きれい寂び」は 千利休によって磨かれた美だ。
千代田生命の外観は、まさに「利休鼠(ねずみ)」色。
晴れの日は陽光に照らされて輝き、雨に煙るグレイも
また美しい。

そして地下に築かれた和室。
「そこには、華やかさもあれば翳りもある。喜びも
あれば悲しみも、時には絶望感さえある」と。

さすが井上靖の表現は見事。
「ヒューマニズムの建築家」と言われながらも、村野の
建築は、人を寄せ付けない凛々しさがある。特に和室は
外から見るだけで、中に入るのを躊躇(ためら)わせる。

千代田生命在籍中、この和室に自由に出入りしたのは
私ぐらいだ。ここでは食事もできない緊張感があった。

「竹の間」の床柱。完成後、村の先生はその太さが、
気に召さなかった。「も少し細いのと取り替えるように」と。
これまた「云うは易く、行うは難し」。床柱を取り替える
だけでは済まない。天上も床の間の松の一枚板も、
網代も壁土も全部造り直しなのだ。

まさに、村野先生の建築に携わる者たちは、終始
「絶望感」との戦いだったのではないだろうか。




仕事の神様「村野藤吾」

2012-02-14 21:55:59 | 村野藤吾
「村野藤吾」の美意識、仕事への執念、生き様に、私は
深く感銘受け、「村野信奉者」の一人となった。

村野藤吾は、93歳で まだ「新高輪ホテル」の茶室、
「宝ヶ池プリンスホテル」「横浜プリンスホテル」
「都ホテル大阪」他数件の建設に携わっていた。
それだけでも驚異だ。

亡くなる前日、村野藤吾は宝塚の自邸におり、「新高輪
プリンスホテル」内の「茶寮 惠庵」について、送られて
きた図面を見て、「違うじゃないか」と激怒。すぐ、
飛行機の手配をさせ、東京に向かおうとした。その時、
興奮していて靴下も履けなかった。そこで頭に血が上った
のか、そのまま帰らぬ人となってしまったという。

1本の線も、1cmも妥協を許さない。新高輪の巨大な
岩などは、自ら鞍馬の山に登って、気にいった岩を
指差し「あれを」と。 “云うは易い”が、部下に
とっては、地権者との交渉、買付から切り出しまで、
大変な作業だ。

「興銀ビル」の赤い花崗岩などは、アメリカまで行って、
飛行機の窓からロッキー山脈を見下ろして、「あの岩を
そっくり東京へ運びなさい」と部下に指示したという。
千代田生命のエントランスホールの真っ白い大理石は
ユーゴスラビア産だ。まだ共産圏で国交も無い時代の
ことだ。あのような「真っ白」の大理石はもう入手でき
ないという。

村野にとって「不可能」は無いのだ。しぶる部下に
「君は、何のために金をもらっているのかね」と皮肉を
言ったそうな。

こんな人が上司だったら恐ろしい。今の人なら ストレスで
ノイローゼ、鬱病 続出だろう。だが「村野先生だから」
「神様だから」みな素直に従った。そんな“神様”の
ように崇められる建築家が 今の世にいるだろうか。
まさに“不世出”の「建築の神様」だった。

村野藤吾「日生と千代田」

2012-02-14 21:02:30 | 村野藤吾
「日生劇場」ビルは、日本生命が創業70周年を記念して
1959年(昭和34年)に着工、1963年(昭和38年) に竣工した。

このビルは、地下5階、地上8階建で、日本生命東京本店
としての「事務用」部分と、「劇場」部分という 全く
機能を異にするものが、一つの建物に二分して存在する。
構造的にも建築的な芸術の点からいっても、統一と調和を
与えることは、そう簡単な問題ではない。

劇場に来られる客と、仕事に向かう社員とでは、服装も
心づもりも異なる。そこで、1階部分を開放するという
ことにした。当時の日本では、商業的な採算性重視で、
一階を公共の場として開放するということは、前例に
乏しかった。「それを実現してくれたのは、ひとえに
社長(弘世氏)の理解と「生保会社」の特別な使命の賜物で
あった」。と村野氏は述べている。

このように、2つの相反する命題を、見事に解決する
ことが、村野藤吾の真骨頂だった。

「劇場」に窓は必要としないので、ガラスの窓は極力
少なくし、外壁を花崗岩で覆って、建物に重厚な風格を
与えた。

「日生劇場」は「演劇」用のホールなので、 音の拡散を
考えて、天井も壁も曲面の多いものにし、30分の1の模型を
作って、音の響きをテストし、何度も造りかえられた。

かくして、深海か宇宙を思わせる うねりの多い曲面に、
「アコヤ貝」が無数に嵌められ、来場者の目を見張らせる
劇場となったのである。

「日生劇場」は、「劇団四季」とタイアップして、小学生の
子供たちを多く招待してきた。多くの人が、子供の頃に、
この劇場で演劇を観、「日生」という名を心に刻んだ。
そのPR効果は果てしない。

「螺旋階段」は村野の真髄を現すものだが、細く繊細な
デザインは子供達が多く来場する際、危険ということで、
後日、ゴツイものに造りかえられてしまった。


千代田生命が「新本社ビル」を村野藤吾に依頼したのは
昭和35年だから、まさに「日生ビル」の建設のさ中で
あった。村野藤吾は、同時進行で千代田生命の建設にも
意欲を燃やしたのである。

日生ビルが、有楽町という商業地域の中の狭い空間に
建てられたのに対し、千代田は東京郊外の 3,000坪の
敷地に自由に設計できるのだ。

そして 千代田生命ビルは 日生から2年遅れて、昭和
40年に竣工した。こちらは、日生とは対照的に、直線的で
ガラスをふんだんに使ったオフィスビルとなった。

実は 村野藤吾は 千代田生命ビルにも日生と同じように
「劇場」を造ることを考えていた。それは、正面玄関前の
築山の下であった。地下部分だ。しかし余りにも予算を
オーバーするということで断念させられた。

だが、その試みは「新高輪プリンスホテル」で完成されて
いる。