名古屋の南、伊勢湾に突き出た知多半島を旅していて、美浜で
ヒョンな碑を見つけた。「三吉の碑」というもの。
この美浜の船乗りだった「岩吉,久吉,音吉(乙吉)」の三人が
天保3年(1832)江戸に向かう途中,遠州灘で遭難し、
1年有余(14ヶ月)太平洋を漂流して、北アメリカに漂着した。
その後、英国人に買い取られて、ロンドンに連れて行かれる。
英国は、漂流民を送り届けるという口実で、日本に通商を
開かせようとした。そこで、商船モリソン号に、彼ら3人と
薩摩からの漂流民4人を乗せ、琉球経由で江戸湾浦賀に入る。
ところが、当時の幕府は「異国船打ち払い令」を敷いていた
ので、陸から砲撃し、撃退してしまった。「モリソン号事件」
である。
音吉たちにしてみれば、5年ぶりの祖国ニッポンだったが、
上陸を果たせなかった。
帰国をあきらめた「音吉」は 英国系の会社に勤め、シンガ
ポールでマレー系の妻と結婚し、3人の子持ちになる。
その後、日本を離れて30年後の文久二年(1862年)
「文久遣欧使節団」が、帰路シンガポールに立ち寄り、
使節団と会っている。その中に福沢諭吉もいた。
さて、美浜の「三吉の碑」だが、とんでもないことが書いてある。
「音吉は、福沢に 中国のアヘン戦争のことなど、いろいろ情報を
伝えたが、福沢の音吉を見る目は冷ややかだった。福沢に限らず
遣欧使節の士分の者からは、音吉は所詮 尾張の舟子という身分の
違う存在にすぎなかったようだ」
というもの。この碑は美浜のライオンズクラブが建てたものだが、
「春名徹著『にっぽん音吉漂流記』から引用」とある。
私は、『にっぽん音吉漂流記』を読んでいないが、これから
派生して、福沢諭吉について、このような文章も読んだ。
「音吉は福沢諭吉に英語を教えた一人だが、後世、福沢は
音吉のことをどこにも書き記していない。『士分の者が
船頭から英語を学んだことなど“恥”と思っていたのか。
自分は無視された』と音吉は恨みつらみを述べていた。
これは明らかにおかしい。福沢諭吉は音吉から英語を
学んではいない。
さらに次の文も
「どうも、福沢は水夫に対する侮蔑感情があったらしい。
『天は人の上に人を作らず』とは 彼のコトバだが、
口だけの男だったのかもしれない』と。
なんということだ。春名徹は、一応「東大文学部東洋史学科
卒」だが、ノンフェクション作家らしい。
音吉は、とうとう日本に帰れず、福沢諭吉に会った5年後の
1967年、シンガポールで亡くなっている。50歳だった。
明治維新の前年だ。福沢諭吉が、明治になって慶応義塾の
創始者として、啓蒙家として、有名人物になったことなど、
「音吉」は天国で知るわけで、会った時は、使節の随員の
一人で下級武士だった福沢諭吉のことを そのように思う
はずがない。もし、日記に留めていたとすると、福沢諭吉
ではなく、遣欧使節の殿様連中のことだろう。福沢ら
下級武士にとっても、この“お殿様”たち、大変な珍道中を
やらかしてくれているのだ。
福沢諭吉は「音吉」に会ったことを『西航記』にきちんと
書き記している。
「旅館にて日本の漂流人音吉なるものに遇えり。音吉は
尾州蔦(知多)郡小野村の舟子にして、天保三年同舟子
十七人と漂流して、北亜米利加の西岸カリホルニーに着し、
其後英に行き、英国の戸籍に属して上海に住し、新嘉坡
(シンガポール)の土人を娶り三子を生めり。近頃 病に
罹りて、摂生の為十日前本港に来り、偶(たまた)ま
日本使節の来るを聞き来訪せり。(略)」と。
「福沢が音吉を蔑視した」というような表現はみられない。
むしろ、遣欧使節は、半年にも及ぶヨーロッパ旅行で
莫大な情報を得て帰国の途中だ。そんな最後にシンガポール
での出来事は些細なことだったであろう。それでも福沢諭吉は
「音吉」のことを書き記した。福沢諭吉は、漂流民「音吉」の
存在を知らせた功労者であろう。
「音吉が福沢諭吉を憎んでいた」というのは、いったい
何を根拠にしているのだろう。音吉が会った時の印象を
日記にでも書いていたのだろうか。その「音吉の日記」は
どのような経緯で春名氏の手に渡ったのだろうか。
これは「春名徹」氏の恣意的な悪意に基づく創作としか
思えない。音吉は、円満な徳福家だったという。
「福沢諭吉を恨みながら死んでいった」などというのは、
「音吉」さんに対しても失礼なことではないか。
「音吉」さんと「諭吉」さん。あの世で再会を喜びあった
ことだろう。
福沢諭吉の『学問のススメ』の冒頭「天ハ人ノ上ニ人ヲ
造ラズ、人ノ下ニ人ヲ造ラズ」という一節はあまりにも
有名。だが、ここだけが一人歩きして「福沢諭吉は
「人の上下差別なく、四民平等を説いた」と言われている。
慶応の教授でもそう言っている人がいる。
だが、私は『学問のススメ』を 小学5年の時 読んで、
ずっと疑問を抱いてきた。これに続く文章は、
「・・・・・と云ヘリ。サレドモ 今広ク コノ人間世界ヲ見渡スニ、
賢き人アリ、愚かなる人アリ、貧シキモアリ、富メルモアリ、
貴人モアリ、下人モアリテ、ソノ有様 雲ト泥トノ相違アルニ
似タルハ何ゾヤ」
となっている。つまり、「天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ、人ノ下ニ
人ヲ造ラズ」というのは、『アメリカ合衆国の独立宣言』からの
引用で、福沢諭吉は「かの国では、そのように言われているが、
されども、今広くこの人間世界を見渡すと、賢い人もいれば、
愚かな人もいる。貧乏な人もいれば、金持もいる。身分の高い
人もいれば、下人もいる」と、差があることを認めているのである。
そして、「その差は何か?。それは“学ぶと学ばざるとに
由ってできるものなのだ”」と。だから『学問のススメ』
なのだ。「出世したければ、金持ちになりたければ、ただ学問を
修めて、物事をよく見極める知恵と判断力を身につけよ。
無学なる者は貧人となり 下人となるのだ」と決め付けているのだ。
それなのに、どうして「福沢諭吉は四民平等を説いた」と
世論は固まっているのか。まさにこれは「常識の嘘」なのだ。
世はまさに「世間虚仮(こけ)=真実でないこと」。
「偽作、偽称、偽証、偽装、偽書、偽造、偽善」と
並べたててみて 気が付いた。「偽」の後にくる字は
なぜか「さしすせそ」の「サ行」が多い。
ま、日本では「偽作」は『古事記』『日本書紀』の昔から。
「記紀」よりも以前に「歴史書」があったとして、創られた
書に『先代旧事本紀』がある。そして、昭和初期に出てきた
『竹内文書』、さらに戦後出てきたのが『東日流(つがる)
外三郡誌』。いずれも、とても一人で創作したとは思えぬ、
膨大な量の書。
その『東日流外三郡誌』を偽作したとされる「和田喜八郎」なる
人物は、ものすごい知識欲で、何でもかんでも日本の古代史に
取り込んでしまう稀代の妄想家だった。彼が創作した4万点にも
およぶ史料?の中には、「福沢諭吉の書簡」というのもあった。
その中身は、『学問のすすめ』の冒頭の一説「天は人の上に
人を造らず、人の下に人を造らず」という万民平等の思想は、
日本の古代にあったもので、「和田家に伝えられた文書の中から
福沢諭吉が借用したもの」とする証文。
明治5、6 年の日付で、大阪から出された手紙だった。
その頃、福沢諭吉は東京在住であったこと、また漢字カタカナ
交じりの書簡文などは無いこと、その他署名に「士族」の
肩書きをつけ、わざわざ花押を添えるなど、まったく福沢諭吉
らしくないものだった。
こうしたことから、和田喜八郎なる人物の創作、偽作説が
徐々に明白にされていったのである。それにしても、よくも
まあ、空想をめぐらすものと驚嘆する。
そういえば、2000年には、旧石器の捏造事件があったっけ。
松下幸之助の「松下電器」でさえ、「まねした電器」などと
言われていた時代があった。今の中国を笑えぬ。
○○高校の入試で「福沢諭吉の出身地はどこか」という問題が
出たそうな。ちょっと知っていれば「九州、大分県、中津市」だ。
ちょっと待て。実は、父福沢百助は、大阪の中津藩の蔵屋敷に
勤めていたので、諭吉は、「天保5年(1835年)大坂・堂島浜
(現・大阪市福島区)にあった中津藩の蔵屋敷」で生まれている。
だから「生まれは大坂(現大阪)」。「出身」とは、生まれた
土地か?所属する藩なのか。なまじ知識があると、悩んでしまう。
だから「試験」は嫌いだ。
生まれたのは大阪だが、翌年父が亡くなり、1歳の時には
中津に帰っている。だから「育ち」は中津。そして19歳で、
中津を飛び出し、長崎、大阪、そして江戸へと移る。幕末に
アメリカやヨーロッパにまで行っている。
幕末最後の身分は「幕臣」。つまり中津藩士ではなく、
徳川の旗本でござった。だから、薩長閥の明治政府には
出仕しなかったのだ。「ニ君に仕えず」である。
その点が「勝海舟」と大違い。福沢諭吉は勝海舟を軽蔑していたそうな。
中津に行けば、今も「福沢諭吉の生家」が残されており、
中津の観光地となっている。
一昨年、虚無僧で中津へ行ってきた。日豊本線の
「中津」の駅構内も「福沢諭吉」の「独立自尊」ほか
扁額がかかげてあって、福沢諭吉一色。
「中津名物は福沢諭吉も食べた鳥のから揚げ」だそうだ。
知らなかった。今 チェーン店で全国展開している。
駅前は区画整理され、広い道に まばらなビル。こういう
町は虚無僧は苦手。歩けど歩けど人影がない。閑散として
いる。福沢諭吉の生家がある周辺が旧武家屋敷の面影を
残す。そこで一軒一軒「門付け」をしてみた。
福沢諭吉の「独立自尊」が染み渡っている町だ。物乞い
などは、人にあるまじき行為か。冷ややかに蔑(さげす)む目。
でもでも・・・・。 諭吉のおっかさんは、乞食の娘も家に招き入れ、
風呂にいれてやったり、虱をとってやったりしたではないか。
「あわれな虚無僧におめぐみを」。
いや、実はちっとも哀れでない。慶応出て、好きで虚無僧
やっとるんじゃ。悪いか!と、心に気合をいれたら、
やっと一軒、けげんな顔をしながら、ご喜捨いただいた。
ちょっと恥ずかしかったです。
以前、料亭の「大森」で食事をした時のこと。
数年ぶりだったが、女将さんは、私のことを覚えていて
くれ、特別な部屋に案内してくれた。その部屋には、なんと
『独立自尊』と書かれた「福沢諭吉先生」の額が飾られて
いた。私が慶応卒と知っての 女将さんのはからいに感動。
私が「福沢諭吉」の「三十一谷人」の落款を確認していると、
女将さんが言うには、「これは『老子』の言葉から
とったそうですね」と。「??」それは知らなかった。
『福澤全集緒言』には「 三十一を一字にすれば『世』の
字にして、谷人の人を人偏にして左右に並ぶれば『俗』の
字と為るが故に、則ち『世俗』の意を寓したるもの」と
あるのは知っていた。
「老子」を紐解いてみれば、「三十輻(ふく)一轂(こく)を
共にす」というのがあった。車輪は、中心の「轂(こく、
こしき)」と、輪との間をつなぐ三十本の「輻(や)」から
成る。「輻(や)」はすべて、中心の「轂(こく)」に集まって、
車輪を支える。どれも「用ある物」で「無用のものは何も
無い」という比喩だそうだ。
ふーむ、言われてみれば、「福沢諭吉」は語らなかった
けれど、「無用の用」と いうような含みをもって
「世俗」と掛けたのかとも思えてきた。
女将さんの才知、博学には脱帽。しばらく女将さんと
談笑しながらの料理の味もまた格別でした。
「福沢諭吉」は、みずから「無信心」を公言して憚らなかったが、
宗教を否定したわけではなかった。
『時事新報』(1897年9月4日)の社説「宗教は茶の如し」において、
「宗教は社会の安寧維持のために必要であり、仏教と耶蘇教の相違は、
経世上の眼から見れば緑茶と紅茶の違いぐらいである」と述べ、
「その味を解せしむるを経世上の必要と認めて大に望みを属する
ものなり」としている。
意外にも、明治4年、まだキリシタン禁制の頃、イギリスから
宣教師たちを迎え、子供たちの家庭教師にしたりして、彼らの
庇護者となっていた。それも宣教師たちを通じて西洋の文化を
知る手立てであったとも思える。
仏教についても、宗教の意義は認めるが、現実の仏教界の有り様に
ついては疑いをもっていた。
浄土真宗の信徒として、法事などはきちんと行っており、
戒名は「大観院独立自尊居士」と受けてはいたが、
墓石には「福沢諭吉墓、妻阿錦の墓」と本名を刻んでいる。
墓石について次のように遺言している。
「墓石を大きくするといふことはつまらぬことである。
人間の家といふもの は、栄枯盛衰ちっとも当てにならぬもので、
子孫が貧乏したり、跡絶えになったりすれば、墓荒らしになり、
墓石はひっくり返り、見るも哀れであるが、 さうなると、
大きな墓石ほど見苦しくも哀れにもなる。母の墓石は此の通り
小さいが、何も費用を吝むのではない。以上の理由からわざと
斯うしてゐる。私の墓石も母に準ずるやうに」と。
「福沢諭吉」先生のお墓は、今は、麻布の「善福寺」にあります。
「善福寺」は、都内では浅草寺に次ぐ古刹で、幕末にはアメリカ公使館が
置かれ、ハリスが滞在したという由緒ある寺です。
福沢諭吉は、明治34年(1901)2月3日、66歳で亡くなりました。
葬儀はここ「善福寺」で盛大に行われました。「三田から善福寺まで
2キロの道を、全塾生をはじめ1万5千人の会葬者が徒歩で棺に従った」
そうです。
ところが、当時「東京市内」では土葬は禁じられていた」ため、
「善福寺」には埋葬できず、遺体は当時まだ市外だった上大崎の
「常光寺」に埋葬されたのです。「常光寺」は 福沢諭吉自身が
散歩の折に気にいられて、そこに埋葬するよう決めていたそうです。
私の在学中は、こちらでしたので、毎年2月3日には、目黒駅から
歩いて、墓参りに詣でていました。
しかし、福沢家は「浄土真宗(西本願寺派)」なのに、「常光寺」は
「浄土宗」。宗旨が違うために、昭和52年、福沢家の意向で、
善福寺に改葬されたのです。その時、福沢諭吉の遺体はミイラ化
していたので、荼毘にふして埋葬されたとのことです。
宗教には無頓着な福沢諭吉でしたので、「真宗」であろうが
なかろうが、勝手に菩提寺を決めたのも福沢先生らしいことです。
さて、墓石については、さほど大きいものではないですが、
妻の「錦」さんの話が伝えられています。「先代(諭吉)は、
墓は大きくするなと遺言されていたのに、塾の方たちで、勝手に
大きなものを作り、大変困った。先代の言うことには一度も
さからったことがないのに、これでは申し訳ない」と。
今日中国上海から5人の方が、尺八体験にみえた。
最近は物見遊山だけでなく、スキーや忍者など体験するツアーが流行りとか。
ツアーコンダクターが 尺八・箏など和楽器の体験ツアーを企画して
6人の申込があったという。女性3人、男性2人。
最初、敦煌壁画の尺八を吹く図や正倉院御物の尺八の写真などを見せて
「尺八は今から1300年ほど前、中国から伝来。日本で長年の間に変化。
現代、日本ではサッパリだが、世界で注目。中国でも上海に尺八の店ができ、
尺八が毎年1000本売れているほどのブームになっている」など説明。
それから尺八を手にとっての体験。
内女性の一人がいきなり初めから音を出した。続いて他の二人の女性も。
わずか10分で「ハロ(C,D)ハロ、ハロ-」ぐらいはできるようになった。
もうこれからは日本より中国に市場を広げた方がよいか。
しかし、私にはもう先が無い。
(以前書いたものの再掲です)
読売新聞 一昨年の8/18 に「外国人 迷惑ですか?」の記事。
日本をこよなく愛して日本に帰化したドナルドキーン氏の切なる声。
「日本に帰化する人は毎年1万人ほど。ところが
「日本人になりたいという願いをかなえた人を
日本社会は祝ってくれない。歓迎してくれない」。
看護師や介護師不足を補うため、インドネシアや
フィリピンから候補者を受け入れているが、
国家試験のハードルは高く、多くの人が失意の
うちに帰国している。
“日本好き” になったはずの人を “日本嫌い”に
してはいないだろうか」と。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
その「ドナルド・キーン」氏が先日亡くなられた。96歳。
「自分は「日本の古典、文化、伝統に強く惹かれ、
深く愛しているが、日本人は全く無関心。日本人は
自国の文化について、外国人と語ることもできない」と。
まさにその通り。虚無僧で立っていると、外国人と日本人の
組み合わせがよく通る。外国人が、私を見て「あれは 何か?」と
隣りの日本人に訊く。すると「虚無僧」について
答えられる日本人はまずいない。彼ら(日本人)の反応は、
しばし黙って「???Le's go! (行きましょう)」。無視、無視。
以前、地歌の「夕顔」を聞いたアメリカ人が、クレームをつけた。
「あなたは『源氏物語』を読んでいるか」と。源氏物語の「夕顔の巻」 を読んでいればもっと儚い思いが伝わってくるべきだ」というのだ。
たしかに「源氏物語」を原文で全巻読んだことのある日本人は何人いるだろう。