現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

単調だから「転調」?

2011-04-30 04:45:19 | 虚無僧日記
4/24 のブログで、筝曲『六段の調べ』は、「ミファラシド」の
5音だけでなく、「ソ」も「レ」も出てくるので、結局
「ドレミファソラシド」の「7音階」だと書いたら、筝曲家の
「宴の桜」さんから、「他の調に 転調しているのだから、
5音階です」と御教示いただいた。(以下、その内容)

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『六段の調べ』は、ミファラシドの「平調子」。5音音階で
出来ています。
「押手」で1音や半音上げているのは、「押手」によって、
同じ陰旋法の「雲井調子」「中空調子」に転調しているんです。

「七の糸」を「弱押し」して半音上げ、「九の糸」を「強押し」で
一音上げる事で、あるフレーズだけ「雲井調子」にし、完全5度
移調しています。

「六」と「斗(11番目の糸)」の「弱押し(半音上げ)」の箇所は
「中空(なかぞら)調子」です。

したがって、六段の調べは、「陰の5音音階」で構成されて
います。「7音音階」ではありません。

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なるほど、そういう見方があったか。「雲井調子」にすると
「二・七の糸」を「C音」にして「ミファラシド」と並ぶ。

「中空(なかぞら)調子」だと、「三・八の糸」を「D音」に
して「ミファラシド」と並ぶ。

たしかに、熟練の筝曲家は、詩吟の伴奏の時に、13本の柱(じ)
全部を変えなくとも、4本の柱(じ)を変えるだけで、素早く
他のキィに転調している。

では『六段』は、「平調子」だけでは単調だから「雲井」や
「中空」に「転調」していたということか?

「斗オ十九、十九八九 七、八、九オ、十九オ 五五十為斗 十」
のフレーズは「ソミド、ミドシド ラ、シ、レ、ミレミミミラファ ミ」と
聞こえるのだが、はて?

『4段目』の「五、四オ、四オ、五四三、四三二」は「ミ、レ、レ、
ミドシ、ド、シ、ラ」ではないのだろうか。

地唄の「手事物」で、三絃の調子も変え、一部分を転調している
のはわかるが、『六段』のような、頻繁に「押し」になったり
戻ったりのフレーズが「転調」とは思わなかった。

「平調子」とは?

2011-04-30 04:25:48 | 虚無僧日記
「お箏(こと)」は、曲を弾く前に、あらかじめ「調弦」といって
琴柱(ことじ)の位置を調整して、その曲に使われる基本の音を
セッテイする。

絃が13本で2オクターブ半の音域を得るために、とりあえず、
5本で「5音階」を決めておく。その配列によって、「平調子、
雲井調子、本雲井調子、半雲井調子、片雲井調子、中空調子、
岩戸調子、曙調子、乃木調子、楽調子、花雲調子」と、いろいろ
ある。調子が変われば、使う音階が違うので、曲調もガラリと
変わる。現代曲では「ドレミファソラシド」に並べたり、♯、♭を
多用したり、ますますバラエティに富む。

さて、その基本型が「平(ひら)調子」。「ミファラシド」の
5音にとる。だが、初めから終わりまで「5音」だけでは
たいくつしてしまう。そこで『六段』でも「四、六、九、為
(12番目の絃)」の糸を「弱押し」して半音上げたり、「強押し」して
一音上げて、結局「ドレミファソラシド」の7音が使われる。

ネットでいろいろ検索してみたが、どれも『六段』は「平調子」、
「ミファラシドの5音階」としか 書いていない。

「宴の桜」さんから「雲井」「中空」に転調しているので、
「陰の5音階」とご教示いただいた。

そこで、「八橋検校」の時代に転調という概念があったのか、
ネットで見てもよく判らない。あったような無かったような。

地唄の「手事(てごと)物」で、中散しや後唄など、三味線の
調絃も変えて、転調するのは、盛んに行われるが、『六段』の
ように、曲のフレーズの途中で、目まぐるしく「雲井」「平」
「中空」と転調するという高度な理論が、八橋検校の時代に
あったのだろうか。

「雲井調子」とは?

2011-04-30 04:10:44 | 虚無僧日記
八橋検校は「ミファラシド」と半音を含む「平調子」を考案したとされる。
では「雲井」「中空(なかぞら)」などの調絃法も、八橋は考案したのだ
ろうか。

八橋検校は、それまでの筑紫流の筝曲を、雅楽調べの「呂旋」から、
半音を含む「平調子」に変えたとされる。

八橋検校(1614~1685)作曲とされる、箏の「組歌」の中に、唯一
「平調子」でない「雲井の曲」というのがある。そして、この曲だけが
「筑紫箏」に無く、八橋検校によるオリジナル曲だ。

「雲井」という曲名は、第六歌の冒頭の歌詞「雲井に響く鳴神の」に
拠るものとされ、「雲井調子」というのは、「この曲の調絃法から
名づけられた」と考えられる。しかし、「第六歌」は八橋の時代には無く、
後世のものという説もある。

「雲井の曲」の調絃は「本雲井調子」というもので、一の絃を「D」に
とれば、「D G A♭C D E♭ G A♭ C D G A♭」と並ぶ。
これは、尺八で吹くと「ロ ツ レ チ ハ ロ ツ レ チ 」で『六段』の
旋律を吹く場合の使用音なのだ。『六段』は尺八では「本雲井調子」で
吹いていることになる。

尺八の古典本曲は、大抵この「本雲井調子」だ。ところが『雲井獅子』
という曲は「C C♯ F G A♭」という、尺八曲の中では特殊な音を
使う。但し、これも「C」から「ミファラシド」となっているにすぎない。
つまり、「D E♭ G A♭ C」を全体に1音下げて吹いているだけだが、
これを、尺八では「雲井調子」と呼んでいる。

だから、もう訳がわからん。そもそも、邦楽独自で作られてきたものに
「西洋の音楽理論」を当てはめるのが、間違っているのかも。






名古屋市も被災者受け入れ 

2011-04-29 11:58:08 | 虚無僧日記
今朝の「朝起会」で、S市会議員の話。「行政が手助け
できることは1割ぐらいでしかない。あとは、地域の
皆さんお互いの助け合いです。日頃からこのような
集まりの輪(和)を大切にしてください」と。

ほんとだ。同じマンションに住んでいても、名前も知ら
ない。顔を合わせても、挨拶もしない人が 増えてきた。

そう思いながら 帰宅したら、マンションの一階に
見慣れぬご夫婦。そこへ、階下の女性が降りてきて
見送っていた。10年住んでいて、ほとんど言葉を
交わしたことがない。

思い切って 声をかけてみたら、なんと「妹さん夫婦で、
岩手の釜石で被災し、家も何もかも流され、名古屋の
市営住宅に入居することに なった」とのこと。

その方も「秋田」の出身と聞いて、同じ東北人とわかり、
急に 打ち解けあうことができた。

「断捨離」で、不要な物は だいぶ捨ててしまったが、
それでもまだ、机や本箱、座布団、茶碗類が 捨てられずに
残っている。この際、「要るものがあったら 使って
ください」と申し出てみた。

「震災で何か役に立ちたい」と思いながら 何もできないで
いる中、使ってもらえれば うれしい。震災が起きて、
こうして 近所の方とも 話ができるようになれたことは、
私にとっては、ありがたいことだ。

藤田東湖の死

2011-04-28 12:06:55 | 虚無僧日記
私の先祖が書き残した日記では、地震や水害、火事などの災害、
火の玉などの怪奇現象などが、結構の頻度で書かれている。

その「日記」には、「安政2年(1855)の江戸大地震では 死者
10万4,000人」となっているが、実際は「4,000~1万4,000人」ぐらい
だったようだ。風聞が誇大に流れていたとも受け止められる。

また「水戸藩の藤田東湖が、牢獄で獄死した」という記述がある。
これは 解せない。

藤田東湖は、水戸斉昭の懐刀だったが、弘化元年(1844年)
斉昭が謹慎処分を受けた時、共に失脚し、江戸屋敷に幽閉されて
いた。しかし、嘉永3年(1850年)には 水戸に戻ることを
許され、同5年(1852年)には処分を解かれ、翌嘉永6年(1853年)
ペリーが浦賀に来航し、徳川斉昭が海防参与として幕政に参画
すると、藤田東湖も江戸藩邸に召し出され、幕府海岸防禦御用掛
として再び斉昭を補佐することになる。安政元年(1854年)には
側用人に復帰している。

翌 安政2年(1855)、安政の大地震の際、母を救おうとして、
落下してきた梁(鴨居)の下敷きとなって圧死した。享年50。
藤田東湖の「自分の命に代えて 母を守った」という美談は、
最近、新聞、雑誌などで よく取り上げられている。

というわけで、東湖が幽閉されていたのは 10年も前の話だった。
何ゆえ「獄死」という噂が流されたのは 不可解である。

この9年後の元治元年(1864年)藤田東湖の遺児「藤田小四郎」が
武田耕雲斎らとともに「水戸天狗党の乱」を起こし、越前敦賀で
捕えられ刑死している。

安政2年、会津藩でも、上屋敷、中屋敷が倒壊した。さらに、
江戸湾に築かれた「第二台場」の警備にもあたっていて、お台場の
建物も崩れ、出火して、中に居た人たち 50人が 脱出できずに
焼け死んだ。大砲が邪魔して出れなくなり、火災で死ぬよりはと
中で 切腹して果てた者もいたという。



「安政の地震」を予言した高島嘉右衛門とは

2011-04-28 11:32:32 | 地球人類の問題
安政2年(1855)の江戸大地震では、大地が鳴動したり、地下水が
湧きだしたり、光の玉が天空を飛んだり などの予兆現象が見られた
という。

ペリーの来航など、政情不安もあって、易の卦を立てた人物がいた。
材木商の 高島 嘉右衛門。卦で「震災、火災」を見立てた彼は、
材木を大量に買い付け、その1月後に「江戸大地震」が起こり、
大儲けをした。

明治の世となっても、彼は「卦」で占い、鉄道事業・旅館経営
などで成功した。そして、政財界の人とも交流ができ、よく
「卦」を頼まれた。伊藤博文の「死」も予言したという。

彼の占いの的中率は抜群であったため、「易聖」とまで言われたが、
彼自身は「占い」で金銭を得ることはしなかった。

「その名も『うらなひ』と云ふが故に、決して金銀等の謝礼を
受けず、神易を以て神明に通信するを本分の職務とするときは、
人の信用浅からざるべし。」
まさに「占い」は「売らない」人だったのだ。

だが、彼の「占い」があまりにも有名となり、「易占」といえば
「高島」となって、今日「易高嶋」「高島易断」と、彼の名を
かたった団体がいくつかあるが、いずれも高嶋嘉右衛門とは
関係ないそうだ。

そういえば、毎年「高島易断の運勢暦」が 贈られてくるので、
信用していたが、詐欺事件で問題を起こしていたっけ。

「占」を金儲けにすれば「人の信用失うべし」だ。


安政大地震と老中阿部正弘

2011-04-28 09:10:47 | 虚無僧日記
ペリーが来たのが嘉永6年(1653)。「たった四はいで夜も眠れず」
天地ひっくり返る騒ぎで、政情不安。そこで「安泰な政治を願って」と
翌年「安政」と改元された。ところが ところが、「安政」とは名ばかり、
「安政」年間は「安政の大地震」に「安政の大獄」と大変な時代だった。

それを取り仕切ったのが、老中「阿部正弘」。25才で「老中」に
なったのだからすごい。内憂外患の国難の中、彼の政治家としての
評価は、まっぷたつに分かれている。

「ペリーの要求にも のらりくらり、時間稼ぎで、決断を後回しに
した。列藩諸侯に広く意見を求めたため、かえって百家争鳴。
尊皇攘夷の過激派を台頭させ、徳川幕府の滅亡を早めた」というのが
大方の評価だ。

だが、あの時代、水戸の徳川斉昭を筆頭に、幕閣の要人も列藩諸侯も、
草莽の士もおしなべて「攘夷、攘夷」一辺倒だった。世論が「攘夷」に
沸く中、「外国と戦っても、とても勝ち目がない」という冷静な判断に
基づき、戦いを避けることに粉骨砕身した その見識と信念は評価すべき
ものがある。水戸の斉昭を懐柔するための、あの手この手、水面下の
裏取引など、なかなかのものだ。


平成の未曾有の大震災。復興に向けて、日本人の心はひとつに
なりかけているのに、民主党だけが仲間割れして、足の引っ張り
合いをしている。孤立化する「あら菅首相」。安政の「阿部正弘」と
比較して見てしまう。総理が「阿部真三」だったら、同姓で、
もっと面白いかったかも?。


註:「あら環」=アラフォーが40歳前後に対して、「アラかん」は
  「還暦(60歳)前後」。菅直人君を「空き菅」とも人は言う。




大震災で 芽生えた倫理力を消さぬように

2011-04-27 12:44:16 | 虚無僧日記
『倫風』誌 1月号で「上広会長」は、今回の震災を
予言していたかのような発言をされていた。曰く

「どんな災難も 明日は我が身にならない保証はないのです。
私達個人の力ではどうしようもないと思われることでも、
一人ひとりの力を結集することで、事態を好転できることも
あるのです。たとえ天変地異であっても、備えあれば憂いも
少ないというものです。備えを万全にすること。そして
直面してしまった事態に対しては、勇気をもって精一杯
前向きに対応し、真摯に努力するだけです」。

そして、3月11日、上広会長は、新幹線に乗って名古屋に
向かう途中、地震があり、8時間かかって、夜10時半、
名古屋に到着された。そして 会長は 何事も無かったかの
ような顔で降りて来られた。そして翌日の「東海地区大会」は、
予定通り行われた。

大会でも「震災」のことには一言も触れなかった上広会長
だったが、『倫風』6月号で、次のように書かれている。

「今回の震災で、誰もが 倫理力を覚醒させられ、忘れかけて
いた“無私”と“利他”の行為が発露された。しかし、時が
経つに連れ、一人ひとりを輝かせていた“倫理力”も、また
再び 自分の利得だけを思う欲望に覆い隠されることを、私は
恐れる」と。

便乗値上げ、義援金詐欺、買いだめに走る行為を「まことに
哀しく、みじめで醜いもの」と。

先代会長は、広島で原爆に遭われ、それを「現実大肯定」と
受け止め、ガレキの中で「倫理」の普及に努められた。
それを思うと、起こってしまった昨日のことに憂えず、
「次は東南海地震か」などと、明日のことに惑わされず、
今日一日、精一杯生き切ることだ。

同じことを「瀬戸内寂聴」も語っていた。「どんな悲しみも
長くは続かない。一週間 4、6時中涙を流し続けることは
できない」と。

それと同じことを 私も「一休語り」で言ってきた。「何事も
気にしない、気にしない、平気、平気」と。だが、今、私が
それを言うと、非難を浴びそうだ。それを言えるだけの
「器づくり」が必要か。

朋有り遠方より来る

2011-04-24 08:21:05 | 虚無僧日記
4/23 今日は遠方から4人の来客。春日井市、東海市、
豊橋、そして広島から。「朋あり 遠方より来る、
また楽しからずや」だ。

「朋」は「志を同じくする友」。それぞれ尺八を持って
みえたのだが、4人とも流派も違えば、吹きたい曲、
志向する目標も違う。それに臨機応変、合わす私。

都山流のK氏は、音色、音量すばらしい。それだけに
お箏の「ひき色」「後押し」「ユリ」「突き」といった
装飾音が 吹き消されてしまう。邦楽は、音と音との間の
音に命がある。それを活かすためには、尺八も引くことが
大切と教える。

N氏は、山川直春の「現代尺八」だから、「装飾音」を
一切そぎ落としたストレートな吹き方だ。楽譜通りで
味気ない。それで 上手に聞かせるには、音質、息づかい、
音量変化など、相当の訓練が必要となる。素人なりに 
上手に聞かせようとするなら、都山や琴古流の「飾り手」も
必要であることを教える。

豊橋からのG氏は、逆に 純粋の「琴古流」で「地唄物」が
好きだ。持参の曲は『けしの花』。「琴古」の手が強調
され過ぎて、うるさくて 曲にならない。「スリ手」などの
装飾部分を いかに抑えて スマートに 吹くかを教える。

最後に、初めてのお客さん。若いのに「海童道(わだづみどう)」
の前衛哲理に心酔している方だ。私の「洋楽スタイル」の
尺八とは対極にいる。が、私も「海童道」は究極の目標だ。
結局、尺八は吹かず、「虚無僧の現代における存在意義」に
ついて、5時間も熱く語り合った。

宋代の「琴」が17億円で落札

2011-04-24 03:05:07 | 虚無僧日記
中国で、「琴」が高値で落札されたというニュース。

http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2010&d=1206&f=business_1206_092.shtml

北京市で行われたオークションで、宋・徽宗の御物で、
清・乾隆帝の「松石間意」の銘がある「琴(きん)」が、
1億3664万元(約17億140万円)で落札された。

また、江蘇省蘇州市で行われたオークションでは、
明代の琴「無底古琴」が 5800万元(約7億2200万円)
で落札された。

これまでのオークションでの楽器の最高額は、2006年、
ニューヨークで、ストラスバリウスのバイオリン「ハンメル」が
354万ドル(約4億円)だったので、それを大幅に超えた。


《解説》

「琴(きん)」は孔子や李白なども愛した、由緒ある楽器。
日本の「お琴(おこと)」とは異なり 弦は 7本。琴柱(ことじ)は
無く、左手で弦を押さえることなどで、音程を作る。

日本ではそれほど知られていないが、世界的には「中国を代表する楽器」と
認識されており、世界遺産にも登録された。漢詩などに登場する「琴」は、
「こと」ではなく「きん」を指す。

上流階級に愛された楽器であるため、中国大陸では文化大革命期に
「批判の対象」となった。台湾や香港、海外華僑などの間では
一貫して重視されており、古い名器が高額で取り引きされていた。

中国大陸でも1980年代ごろから再評価されることになり、琴を求める
裕福な人が増えたことで、価格が跳ね上がった。1980年代には 中国では
数万円で取り引きされていたが、現在では 1000万円でも入手が困難という。